はがき通信ホームページへもどる No.94 2005.7.25.
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 国体出場を目指して 

残存機能C8レベル、受傷16年目、登山中の転落事故、電動・手動車イス併用、年齢ヒミツ

 タイトルがカッコよすぎるなぁ。(^^; 6月に入ってだいぶ蒸し暑くなり、昨日梅雨入りした。案の定、このところ身体が痛い!(特に排便日は最悪)でも、ちゃんと水泳は続けている。来月に県大会が迫った。この「はがき通信」が発行される頃は、結果がわかっている。もっと泳いで筋トレもして体力をつけたかったが、体調を痛みで計る毎日は疲れ、まぁとにかくマイペースでできるだけのことをして大会には臨みたいと思っている。7月には、大会が開催される神奈リハ病院のプールで2回くらい外来リハで指導が受けられそう。大会前に、開催されるプールで泳げるのは大きい。少しでも水の感触をつかめたらと思う(水深が浅いか深いかでも違うので)。
 平成10年に出場した、かながわゆめ大会(国体)のときのレーサー(競技用三輪車イス)もそうだったが、練習は自己流。あのときもまったくの初心者でよく乗れるようになったと思ったが、今回もよく泳げるようになったものだ(「自分を自分でほめてあげたい」ってほどのことでもないけれど)。陸上より水泳のほうがずっと緊張する。だって、“溺れる”という可能性があるから。今は、500〜600㍍泳いでいる。クッタクッタ。泳いだ後のアルコールの回りも早いこと! この前、いつもよりちょっとだけ飲みすぎて気分が悪くなってしまった。ハハ。
 それでも、まだそれだけ泳げる体力があるということだけがささやかな自信。タイムも縮んできているし、上達していることは確かだろう。先日、2本だけだが、ようやく目標としていたタイムを出すことができた。コンスタントに出せればよいのだが、それは無理。大会当日の体調にもよるので、後は「一発勝負!」というところ(本番には強いほうなので)。
 しっかし、利用している地元の温水プールの施設(市営)には問題がある。職員の人とは「こんにちは」と挨拶するほど顔なじみになったが、まず、障害者用の更衣室が男女わかれていない。水曜日に他の車イスの男性が利用していることが多く、一緒にぶつかってしまうとどちらかが待たなければならない。もっとひどいのは、シャワー室とロッカーの前に何と階段があること。まったく歩行ができない障害者が利用するなんて、設計の段階で頭になんかなかったのだろう。もうひとつ。プールに入水用のシャワーチェアーは、自走式にしてもらいたい。事前に介助者が男性なのだが、障害者用の更衣室を利用してよいか聞いた(障害者用の更衣室があるのは知っていたので)のだが、「館長に聞いてください」という返事。ったく……! 電話をする電話代がもったいないので、こういうときは直接行ってしまうに限る。なんなく利用できたが、車イスで利用する人が私以外にも前にいたことが大きいと思う。
 レーサーの練習のとき、隣接するグラウンドを利用するとき(もちろん市営)には、「車イスでの利用の前例がない。車イスで利用するとグラウンドが傷む」ときたもんだ。スパイクのほうがよっぽど傷むだろうが! 私は市民じゃないのか! 推薦したのはそもそも市だろうが! それも管理事務所が2階にあり、付き添いの友達に行ってもらったのだがなかなか帰って来ず、理由を聞いて大激怒!! ブチ切れた。その日は所長がいないとかで“特別”に利用できたが、帰ってからすぐに市長宛てメールをした。私がゆめ大会出場後、管理事務所の1階のところに呼び出し用のブザーと車イス用のトイレがグラウンドに作られた。今では、車イスの競技会も開催されるようになった。こんなささやかな、普通のことでも車イスで“前例”を作ることは難しいことが多い。
 あ〜、もう一度国体に出場できるといいなぁ。
  
編集委員:瀬出井 弘美


 夢の「リオのカーニバル」を見て来ました(後編) 


 会場はそれぞれのチームがこの日のために作曲した歌を音量いっぱいに流します。ドラムの音やシンセサイザーの音、歌声などで、耳元で話をしなくては聞こえません。最初のほうは大声で話してのどが痛くなりましたが、後からは慣れて普通の話し方で聞こえるようになりました。リオはちょうど、雨季でしたので「雨具の用意をすること」と旅行連絡に書いてありましたが、その予告のとおり、突然スコールが来ました。用意していた雨合羽を着ましたが10分ほどで通過して、その夜はそれ一回で雨は終わりました。



 ●スコールの後、後方がパレード



 3チーム目、4チーム目と感動してみたパレードも、どんな派手なチームが通過しても感動が少なくなってき始めました。せっかくパレードを見るのを目的に来たので最後まで見る意気込みでしたが、6番目のチームの途中で会場を後にしました。その頃は午前4時頃だったと思います。



 ●新聞に写っていたチームの山車です(良くは分かりませんが多分このチームが今年の優勝かもしれません)



 パレードの感想としては、さすがに世界一のカーニバルと思いました。派手さで博多どんたくの50倍、規模で100倍と実感しました。
 翌日ホテルでリオのカーニバルを中継していた(4日間ぶっ続けで中継しています)のを見ましたが、車イスで10人くらい着飾ってパレードに参加しているのを見ました。

[サンバ学校の歴史]
 エスコーラ・デ・サンバ(サンバ学校)は、リオデジャネイロの貧民街で生まれた組織で、当時はカーニバル期間中に自分達の稼ぎで衣装を作り、自由にパレードを楽しんでいた人達です。
 リオのカーニバルはポルトガルの上流階級の舞踏会とカトリックの宗教行事が合体されたと云われます。
 19世紀初めに、ブラジルの東北地方バイーア州でお祭りの時に、頭にターバンを巻き、レース衣装にサンダル履きで街頭を行列するブロッコと呼ばれるグループが生まれました。今でもブロッコはリオの街に300程あり、このブロッコが組織化されたのがエスコーラ・デ・サンバで、上級階級の仮装舞踏会とまったく縁のない、貧民達のカーニバルはスラム街の広場で始まりました。
 各人が勝手に作曲し、勝手に歌いながら、楽器を叩き踊っているのが、1930年頃のカーニバルであったようです。1932年に新聞社「ムンド・エスポルチーボ」が主催してサンバの曲のコンクールが開催され、これがエスコーラ同士の競い合いの始まりと云われています。1934年にブラジルはジエツーリオ・ヴァルガース大統領による民衆向けの政治と相まって、エスコーラ・デ・サンバのコンクールはさらに組織的なものになりました。1935年には政府観光局が主催者になり、パレードは統一された筋書きをテーマとし、そのテーマはブラジルの国民性を持ったものでなくてはならない、という規則が出来ました。
 1952年にエスコーラ・デ・サンバはグループに区分されパレード行進をする事となり、現在ではエスコーラの階級はAグループとBグループに分けられており、それぞれ14団体が所属しています。そして毎年開催されるパレードコンテストの順位でAの最下位チームとBの優勝チームが入れ替わる方式がとられています。

[パレードの採点基準]
 次の10項目ごと10点満点で集計され、合計点が最も多いチームが優勝となります。
①打楽器の演奏
②打楽器と歌と踊りのバランス
③踊り
④テーマ曲の歌詞とメロディー
⑤衣装 
⑥パレード・テーマの筋書き
⑦パレードを先導するエスコーラ役員
⑧山車と装飾
⑨メストレ・サーラとポルタ・パンディラの踊りと調和
⑩パレード全体の調和
(パンフレットから抜粋)


 次の日は飛行機で2時間くらい離れたイグアスと言うところに行きました、この土地はブラジルで一番西にあたり、アルゼンチンとパラグアイの3国に接する国境の街で、世界3大のひとつに数えられる「イグアスの滝」を見ることになりました。川の合流地点で3カ国を一度に見渡せるところに行きましたが、足元が悪く50㍍進むのに大汗をかきました(当日の最高温度は35度)。さすがに滝は雄大で見渡す限り大小の滝があり、日本国全部の滝を集めてもあんなにはならないだろうと思いました。翌日は世界最大のダム(イタイプーダム)を見物しました。ダムの長さが8㎞もあり、水をせき止めたことにより、上流120㎞まで湖が広がり、琵琶湖の2倍の水量があるということでした。発電能力は世界一でパラグアイとブラジルで共同建設しました。ダムの半分地点が国境になっていました。



 ●イグアスの滝(ブラジル側の滝つぼに下りる)


 以上のように8泊8日の大忙しのブラジル旅行をしたわけですが、機内泊4日(時差の関係もあり)の強行軍でしたが、夢の実現と言うことで、一応満足の旅でした。



 ●イタイプーダム(後方の放水管は直径15m有り、これ一個ずつがタービンを回す、約25本有る)


[車イス者として感じたことは]
1、カテーテルの予備は必ず準備しておくこと・・・私はブラジルについたその日、リオの空港のトイレにカテーテルセットを忘れてしまいました
2、外国では隙を見せない・・・障害者でも優しい目では見ません、隙があったら持ち物を盗られるそうです
3、機内の裸足は注意・・・長い機内、裸足でいると足元が熱くなり低温火傷になりかねない
4、常に紙おむつをする・・・トイレが何時できるかわかりません、クッションも兼ね旅行中はなるべく着用
5、同行者には力のある人を・・・どこかでは必ず、おんぶや抱え込んでもらう必要があります、自分を抱えきれる力のある人を、
6、トイレの違いに注意・・・水を出すボタンの場所、手洗いの高さ、汚さ、有料など

 以上のような「リオのカーニバル見物記」ですが皆さんがんばって夢の海外旅行を実現しましょう。しかし、疲れました帰りも35時間かかりましたから。
福岡県:M・I E-mail: masaisa@beige.plala.or.jp
 「西日本車椅子ダンスの会『アミーゴス』」
 http://www9.ocn.ne.jp/~amigos/index.html


 今年もウィン少年合唱団コンサートに行くことができました 


 「通信」の皆さま、梅雨の季節をいかがお過ごしでしょうか。異常気象とも思われるような連日30度をこす真夏のような暑さが続いております。おかげさまで主人も私も元気で過ごす毎日です。春には2度も熱を出したりと大変な思いをしましたが、5月になり気温やお天気も安定し暖かくなり、主人はすっかり元気になり、5月7日には、入間市民会館で行われたウィン少年合唱団コンサートへ今年もタクシーに乗り(約30分)、行くことができました。心配されましたお天気も朝からよいお天気に恵まれ汗ばむほどの暖かさでした。会場へ向かうタクシーの窓からは美しく晴れた青い空に、まだ雪化粧をした富士山がくっきりと美しい姿を見せていました。主人も私も久しぶりのドライブを楽しむことができました。今日はpm3時の開演でしたが1時間も早く会場に着きました。広い庭園で記念の写真を撮ったり、食堂でサンドイッチを食べたり、コーヒーを飲んだり久しぶりの外食を楽しむことができました。いよいよpm3時開演の時間をむかえました。車イス席は前から9番目の席と大変良い席でした。
 今日はAプログラムです。1曲目はパーセル作曲「サバの人々は来たる」この曲はソプラノ独唱から始まる美しい曲です。いつ聴いても素晴らしく、私の大好きな曲です。その他にもアルプス地方の民謡数曲は、一人の少年の弾くハーモニカ(アコーディオンと同じような形をした楽器でヨーデルなどを歌うときの伴奏に使う)による美しく楽しいヨーデルを楽しみました。また、映画サウンドオブミュージックの中で歌われた「ドレミの歌」、「一人ぼっちの羊飼い」など懐かしい歌の数々に心から楽しむことができました。アンコール曲として、洋太鼓(ブラスバンドなどで使う)に合わせ、会場の手拍子も一緒に楽しく荘厳に演奏されたシトラウスの「ラデツキー行進曲」はいつまでも心に残る演奏となりました。この太鼓も少年の手により元気に力強く演奏されました。それからもう一曲、日本古謡「サクラ、サクラ」、「ふるさと」など上手な日本語で歌い上げ、心に残る思い出のコンサートとなりました。主人も静かに楽しんでくれました。
 今回のコンサートでもう一つ主人を喜ばせることがありました。コンサートも終わり、合唱団側からのファンサービスということで少年たちが会場から外へ出て、1時間あまりも写真を撮ったり、サイン会のようなことをして下さいました。主人は、ウィン少年合唱団の少年と一緒に写真を撮らせていただきました。このようなことは、今までに一度もなかった出来事です。主人は、最高の笑顔で「サンキュウ」といえました。「かわいく、しっかりした良い子」だと大満足でした。2005年5月7日、ウィン少年合唱団のコンサートは、忘れることのできない日となりました。また、来年も元気で、主人も一緒にウィン少年合唱団コンサートへ行くことができますようにと願っています。
 「通信」の皆さま、お暑さの折り、くれぐれもお身体に気を付け、いっそうのご健康をお祈り申し上げます。

埼玉県:S


 詩集「ごはんとみそ汁」販売のお知らせ 


 私は熊本に住む、藤本猛夫(28歳)という、進行性筋ジストロフィー症患者です。一般的に身体障害者という分類になるでしょうか。小中高を養護学校に通い、今現在も熊本再春荘病院で療養生活を送っております。このたび長年書きためてきた詩を、「ごはんとみそ汁」というタイトルで、詩集をつくり自費出版いたしました。
 病気と向き合いながら生きるということ、そして死と隣り合わせの世界で多くの人々との出会いで感じた思いを、また捉えようもない感情を綴ったものです。少しでも私を、また障害者という枠を越えて、皆さんと堂々と向き合って生きていけるよう、心の架け橋となればと思っております。1冊税込み1000円で熊本地域の限定書店、または県内県外問わず、日本全国郵送販売も大歓迎です。1冊から大口注文を、郵便振り込みにて販売しております。
 逆に障害者として生きてきたことを糧に、普通に生きている素晴らしさ、人生の素晴らしさを私たちの目線からお伝えできたら嬉しく思います。「障害があるから悲しいのじゃない。障害があることで生きられない社会が悲しいのです。」そう自分に言い聞かせています。掲載している詩を一つ紹介させていただきます。

あとどれだけ...。

「あと半分しか残ってない」
でも
「まだ半分も残っている」

いつの頃から
きつい思いをしている自分より
楽に生きてる自分を愛していた

失うことから
新しさを見つけた時
少しだけ強くなれた

「あとどれだけ」と
残りを数え上げるより
「まだこれだけ」と
あるものを楽しもう

そしていつの間にか
自分のことが「好き」
そう素直に思える気持ちが
少しずつ膨らんで弾けた

 詩を書くようになったきっかけは、中学時代の国語の授業で、積極的に取り入れられたことである。そして熊本のTV局主催のポエムコンクールで、最優秀賞を取ったことが始まりです。障害があっても、健常者の中で対等に生きていける、そんな自信を持ったことだと思います。
 ぜひご検討の上、よろしくお願い申し上げます。詳しいお問い合わせは、下記のところまでお気軽にご連絡ください。
 メールでのご注文、郵送お申し込みは、住所、氏名、電話番号、数量を明記の上、下記アドレスまでお願いします。ご連絡お待ちしております。

プロフィール/熊本県八代市北原町で生まれる。病名、ウールリッヒ型先天性筋ジストロフィー。2歳の頃、熊本大学医学部附属病院で筋肉を摘出し検査をした結果、筋ジストロフィー症と診断される。幼少時代は祖父母、両親、姉という家族に囲まれ、何不自由なく自宅で過ごした。昭和58年3月15日、小学校入学を期に、養護学校が併設されている、国立療養所再春荘病院筋ジス1病棟(現、独立行政法人国立病院機構 熊本再春荘病院)に入院。同時期、熊本県立黒石原養護学校に小学部へ入学。同校中学部を卒業後、義務教育を終えてその後どうするかと考えたとき、まだ熊本県立黒石原養護学校に高等部が設立されておらず、湧心館高校の通信教育を受けることに決めた。その2年後、県立黒石原養護学校に高等部が設立を期に転入。在学中18歳の秋、音楽活動のスタートをきる。筋ジス病棟のくぬぎ文化祭でバンド「ミラクルボーイズ」を結成。20歳で高等部卒業後、病院で療養生活を続け患者自治会活動、パソコンでの印刷活動、筋ジス協会熊本県支部の活動に、バンド活動、講演活動、創作活動に勤しんでいる。そして、現在に至っている。

 藤本 猛夫
 〒861-1196 熊本県菊池郡西合志町須屋2659
 独立行政法人国立病院機構 熊本再春荘病院内療育指導室
 TEL: 096-242-1000(内線8318 平日8:30〜17:00のみ)
 市野児童指導員まで
 http://www.pippala.net/shop/takeo/4/poem.html
 E-mail: takeo1976@fk.enjoy.ne.jp
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