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東腎協運動を明日に托して(3) (1991年発行あゆみ東腎協の20年より)
飛躍的な発展をめざして

トンタ君

 宝生和男はニ-レ友の会の会員であった。ニーレ友の会は、1970年2月、日大病院(板橋)に入院していた腎臓病患者で結成された患者会で、全腎協の結成に当たって果たした役割は大きかった。

 全腎協初代会長・大西晴幸、同事務局長・笠原英夫もニーレ友の会の会員だった。宝生和男が患者運動に参加した動機をニーレ友の会が発行した機関紙「みちしるべ」第37号(1976年5月発行)にこう書いている。

 <途中省略・・・トンタ君という22歳の青年が急に腎不全になって、人工腎臓にかけなければ生命がおぼつかないような状態になりました。そこに両親が呼ばれまして、まず医療費が払えるかということになりました。驚いた両親が八方駆けずり回ったのですが、1回5万円かかり、週2回として、22歳の若さで永久に使っていくとすれば、どれだけの費用がかかるかを考えるとどうにもならない数字でした。どうしたらいいんだとマゴマドしているうちに、とうとう亡くなってしまいました。そのトンタ君にとりすがって、年老いた両親が大変申し訳ない、親に力がないばかりにおまえの命を助けることができなかったと、泣き伏していました。

 私たちがそういう光景を見ていまして、気の毒だという反面、非常に嫌気がさしてきてしまいました。そういう現実を見ていながら、そこに病院、機械がありながら、金がないというばかりに見過ごしてしまいました。私たちは何故、この問題を真剣に考えなかったのだろう。自分たちにも本当に責任があるのではないかと感じたと同時に、今、自分たちがその問題を見過ごしていたならば、必ず、その順番というものは自分のところに来るだろう。

 これは、もう考えなくては大変だというのが、そもそもこの会(ニーレ友の会)を始める動機であったわけです。そして、たとえ弱い立場の私たち患者であっても、一本の細い糸であってもそれが集まれば、ヒモになるだろうし、ヒモをよじればロープにもなるだろう。>

 宝生和男のこの決意は、死ぬまで貫き通された。なるべく多くの会員から意見を聞くために親睦会や代表者会議を開き、運動に反映していった。会員の悩みを率直に出してもらおうと努力した。

会員拡大

 全腎協の飛躍的な発展とともに東腎協も会員数の増加、活動内容ともにみるべきものが多かった。1976年4月からはパートの事務局員として森アヤ子を採用して、事務の効率化をはかった。

 1978年、宝生は会員拡大に力を注ぎ、患者会数を11、会員数を1293人増やした。7月、8月の暑い中、同じニーレ友の会の草間とともに病院1つひとつ透析のない火、木曜日に回った。門前払いされる病院もあったが、宝生は以前酒問屋に勤めていたこともあり「こんなことは酒の注文を取るのに比べるば楽なものだよ」と落胆することもなかった。

宝生急逝

 1985年4月に行われた東腎協第13回総会で全腎協に間借りしていた事務所を独立させ事務局体制を強化させ、また会費を値上げし財政的にも基盤を安定させる方針が決定された。

 方針を宝生が提案したのだが、涙ながらの訴えをしたのが印象に残った。その矢先、5月9日、自宅付近で交通事故で入院、5月22日、心不全で急逝してしまった。

 宝生は、全腎協の幹事、副会長を歴任、9年間東腎協の先頭に立って人工腎臓の増設や腎臓移植の普及のために運動を進めた。宝生の死は役員、多くの会員が惜しんだ。

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最終更新日:2001年5月1日
作成:S.Tokura