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東腎協運動を明日に托して(2)(1991年発行あゆみ東腎協の20年より)
組織の基礎づくりを

活動の拠点が出来る

 第2回総会(1974年3月31日)前に亡くなった寺田修治に替って会長になったのは虎の門病院の石坂一男だった。最初に取り組んだことは、会員の実態を調査して1974年11月29日、10463人の署名を集め、都議会への第2回請願を行った。活動が活発になっていったが、財政難に陥った。そのため、石坂を中心にして顧問の小川忠光、泉山智威らが精力的に会社回りをした。が、協力してくれたのは2社だけで都議会請願署名のカンパ金をもとにやっと黒字決算にできたありさまでだった。11月1日、全腎協が事務所を開設し、東腎協も同居させてもらった。それまで、堀江、一ノ清ら個人宅に事務局を置いていたが、活動の拠点が出来たことは大きかった。

この年度は

  • 心身障害者の医療費助成
  • 心身障害者の福祉手当の支給
  • 3歳児検尿の実施
  • 傷害年金の廃疾認定日の短縮
  • 悪性高血圧(悪性腎硬化症)の医療費公費負担
  • 身体障害者の雇用促進法の適用
等が実現し、PR用ポスターを作成するなど飛躍的な運動の前進をかちとった。

 会員は7〜800人とまだ少なく、石坂は、繰り返し未組織の会員の拡大と、一部役員に負担がかかっている点を第3回総会で指摘しました。

 石坂は、東腎協発足以来、一応順調な歩みによって組織の拡大、健全財政の確立、事務局体制の整備等、初期の運動の基礎を築いた。その一方で、所属する虎の門病院腎友会でも中心的な役員として活躍した。

 透析生活も安定し、仕事も順調に忙しくなった1976年4月18日、第4回総会で会長を宝生和男にバトンタッチした。その後は、1980年8月に亡くなるまでビジネスマンとして活躍した。

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最終更新日:2001年5月1日
作成:S.Tokura