はがき通信ホームページへもどる No.77 2002.9.25.
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道徳的な抵抗感と言葉あそび第9弾 


 世界初のクローン人間が誕生しそうだというニュースを聞いて、数年前に書いた原稿を思い出した。ご参考までに記しておこう。

 《いやあ、最近これほどたまげたことはありません。慶応大医学部(吉村泰典教授)研究班の発表によると、「この30年間に男性の精子数が一割減っている」といいます。おそらく環境ホルモンのせいだろうと言われていますよね。いやいや、私がたまげたのはそのことじゃなくて、彼らはどうやってそれを調べたかという解説記事のほうです。つまり「AID」(非配偶者間人工授精)の25000例のうち6000人の統計によるものと。

 AIDとは夫の生殖能力に問題がある場合、夫以外の男性の精液を妻の子宮に注入する方法で、慶応大では1949年に初めて実施して以来、すでに11000人が産まれているというのです。「夫以外の男性」とはどういう人たちかというと、主に18〜25歳の同大医学部学生だと。私はここのところに心底たまげたのです。

 そういう人工授精があることは知っていましたし、アメリカの代理妻などと比べればよほどおとなしい方法で、抵抗感や違和感も少なかったのですが、それもやむにやまれぬ場合だけせいぜい数百例くらいのものだろうと思っていたのです。それが一万人以上も産まれていたとは! 

 慶応大だけでこの数字ですから他の大学や病院を合わせるとどれくらいになるか見当もつきません。一万人以上産まれているということは精液を提供した学生も(のべ)一万人以上いるということで、私はここのところがどうしても釈然としません。

 彼らには道徳的な抵抗感というものはないのでしょうか。自分たちのように優秀な人間の子孫が増えるのは言祝ぐべきことだとでも思っているのでしょうか。その子どもたちが成長して(大きな子はもう50才!)自分の出自を知らされた時いったいどういう気持ちがするか、それを考えたなら、もう少し辞退者が出て10000人以上という数字にはなりにくいと思うのですがねえ・・・》(「WORKING QUADS」ニュースレター、1998年)

 今度のクローン人間も不妊の女性のために研究されてきたものという。夫の体細胞から核が抜き取られて、妻の卵子に植えこまれるのなら、まだ抵抗はすくないだろうが、これもそのうちより優秀な男性の体細胞が求められがちになることは目に見えている。誰も障害者の体細胞などわざわざ求めようとはしないだろう。

 そうなると、問題は先のAIDとなんら変わりない。



 言葉あそび集 

暴走族半島、暴走族はいず半島、出歯亀のデジカメ、ジリノフスキーは恐ろしや、二階からメグ・ライアン、相当の担当者、桑田投手と村田捕手のバッテリー切れ、甲斐性なしのつぶて、いかつい電動のうどんで一回、料亭に花、準備満タン、困ったの切れ上がった女、やまりんのやりまん、いいかげんむねを開きなさい、瓜言葉に貝言葉、カツラにかぶれる、成長かぶとむし、保育園にほぼ間に合う、労働者になれてメーデーたい、電動車いすから落ちて徒歩歩ともいかず、印旛沼の娘、W杯チケットをケチっとる、ナースキャップ廃止はむぼうだ、新聞社に勤める啄木は社会の木鐸、難事件が鯖県警、南米で車をこすった梨花、破廉恥がバレンチノ、W杯フランス戦は時短でいく、裏地ー見るロシヤ人、いなごをバッタバッタと切り切りす、中田?否もっと凄い、社会の窓を閉め忘れる確率は10%、武器っちょな商人、証券会社のかぶ組織、辺境なナショナリスト、賄賂の疑いで思いは知事に乱れる、ロナウドの擦過傷、うずら高く積み上げる、べッカムとロナウドが抱き合ってワールドカップル誕生!、藤井郁也は知恵ツカーズ、夕張あたりで威張りメロン、ノミ行為をシラミつぶしに摘発するだに、イカ大学の多胡教授、しいていえば布団がいい、長野の蝉はミンイミンイと鳴く、生えてくるけはい薬、不倫旅行でつみつくり温泉、葬儀の総指揮をとる、毛根に根性がない、もの書きの性、厚化粧によるコスメチック・バイオレンス、メロンを食む、肉づきのいい要さんを傷める、梅雨で行楽地は人出不足、禍根を残さぬようテーブルを囲んで、大切にして下さいのう、元ムネムネ会員も寝たふりをしておネムの会、盗作の世界に耽溺する、猛暑う星野監督、やどろくのどぶろく、?え絶景、たんまりでニンマリ、シャリぐらいでケツはまくれーん、売女理知がある、命あってのものだね、キューリ夫人とナスビ夫人、浪速の花火師あっちゃこっちゃ、大通りのヘップバーン、墨滴にはいい感じ、ひと涼みしてくーらー、佐賀市さがして涙の波だ、グライダーはかっくういい、あんまりうまくて三度行っちまった、ホームページを開く堰く、野良猫の風土、お盆に子煩悩な漫才師、独語をつぶやく、変化球の進化、脂肪率が高い、ブランド米がブレンド米、ムネオ議員の自宅収賄、謎ぞな、軽いイルカ。(つづく)


 「バリアフリーゆかたProject Since 2001」2002年の取り組み 

 ◇取り組みにあたってのきっかけ

  〜障害を持つ私の目線から〜 

 私は障害を持ってからは、生活のさまざまな場面での工夫が必要となりました。その理由は簡単、自分にとって使いにくいからです。特におしゃれの面では苦労します。既成品では脱ぎ着が難しかったり、ボタンやファスナーが難しかったり・・・・・・。それでも自分の好みのデザインと着やすさを考えて探して購入していますが、いざ家へ帰って着てみると、ショーウィンドウのディスプレイと(鏡の中の自分では)イメージが違っていてがっかりすることも少なくありません。また、着心地が悪かったり・・・・・・。それはきっと、立っている人を対象にデザインされた服だからだと思います。車いすを使う人は少数であり、デザインの対象となりにくいからでしょう。



 ◇誰がバリアフリーゆかたを作るのか

ゆかた 車いすに乗ったまま着られる「バリアフリーゆかた」製作にあたっては参加した障害者が、自分の障害の特徴や不自由な点(立つことができないから立って着る一枚モノのゆかたは着られないこと、拘縮があり手や足が曲がらないこと、伸びないということなど)を伝えることが重要であると位置づけ取り組みました。一般的には、ゆかたを作る=縫製と思われがちですが、バリアフリーゆかた作りにおいては、障害者も和裁の専門家(縫製サポーター)も作り手なのです。

 参加した障害者のメンバーが、①好みのスタイル(デザイン)で作る ②着やすいものを作るために、自分の障害の特徴や不自由な点(立つことができないから立って着る一枚モノのゆかたは着られないこと、拘縮があり手や足が曲がらないこと、伸びないということなど)を伝えない限り、ゆかた作りがスタートしないのです。


 ◇目からウロコが落ちたわ!

 新聞で縫製サポーターを募集していることを知り、自分の得意分野で協力したいと参加してくださったKさんと共同作業をすすめていく中で、Kさんから驚きの発言。「30年間和裁をしてきたけれど、自分の作ったゆかたや着物が、車いすに乗っている人にとって、こんなに着にくかったなんて思ってもいなかった。羽織るだけなので、着やすいと思い込んでいた・・・・・・目からウロコが落ちた感じだわ!」

 また、同じく縫製サポーターのTさんは「母が脳梗塞で倒れて車いすを使っているから、何となくイメージができ、アイデアも浮かぶけど、母のことがなかったら、きっと分からなかった」とおっしゃっていました。

 縫い手に障害者の気持ちや、どんな障害で、何をするのが難しいのかを伝えなければ良いものはできません。共同作業をすすめ、コミュニケーションが深まるにつれて、障害当事者は自分の障害を率直に語りはじめました。そして、「ココをこうしてほしい」という障害者の声に対して、縫い手の縫製サポーターも真摯に耳を傾けました。今まで一度も障害者と接したことのなかった人たちが「ゆかた」を通して障害とは何かを考え、理解しようとしたとき、持ち前の和裁の技術が大きく羽ばたいたのです。立てない、手が伸ばせない、足が痛い・・・・・・「だったら、こうしたら楽よ」「こうしたほうがおしゃれよ」というふうに、どんどんアイデアが生まれてきました。

 ふりかえってみれば、障害者の参加が少なく、当事者の生の声が聞けない製作段階のはじめのうちは、いろいろな障害を想像してサンプル作りをすすめました。しかし、後になって、それらのものを、実際、障害者に試着してもらうと、着心地が悪かったり、脱ぎ着に不具合があったり・・・・・・ほとんどが手直しを要しました。 


 ◇“おはしょり”って、なに???

 障害者側にも知識不足が多々ありました。自分の身体のことは自分が一番よく分かっており、何が不自由なのかも明確なのですが、それを専門家へ伝えるためには、和裁や縫製の知識(専門性)が必要だったのです。伝統的に継承されてきた日本の文化である「ゆかた」には、“おはしょり”や“おくみ”“身八つ口”といった独特の表現があるのですが、今まで作ることはもちろん、着ることもなかった障害者にとっては、初めて聞く専門用語ばかり。どこをどうしてもらいたいのか、伝えたくても伝えられないもどかしさがありました。

 私自身、障害を持つ前は、毎年夏になればゆかたを着ていたとは言え、縫製サポーターのKさんやTさんに教えてもらって、はじめて、ゆかたの本来あるべき姿や美しく映る着方、ゆかたの機能、部分部分の名称を知った次第です。

 障害を持った私は、「もう着ることができないだろうと、諦めていたものが着られるようになった」だけで満足していましたが、KさんやTさんに「ゆかたはゆかたらしく、美しく着こなしてほしい!」と言われて、はっとしました。障害を持つ前の私は着られればいいのではなく、かわいく着こなし、みんなに見てほしい、そう思っていたことに気付きました。それは障害を持っても同じはずなのです。


 ◇言わなきゃ伝わらない!

 両者が協調し、分かり合う、共に考えることで本当に作りたいものができるのです。一度にうまくいくことのほうが少なく、「やってもらう」という立場・気持ちがあると、なかなか言いにくいこともありますが、障害を伝える=モノ作りに主体的に参加、それが一番重要であることを繰り返し伝えていきました。縫製サポーターのみなさんにも、その意識が浸透し、ゆかた参加者が互いに相手を尊重しあう雰囲気が形成されました。その結果、着やすさや着心地、自分のイメージ通りの仕上がりか・・・・・・など、少しでも違っていたら手を入れて、直してもらうことが当たり前となり、逆にそうしなければ、本当に着やすくて欲しいものは手に入らないのだと実感しました。専門家が着る人の身体の状況やその人自身を知ることにより、専門性がより有効に活かせるのではないでしょうか。


 バリアフリーゆかた

「バリアフリーゆかた」ツーピース型基本パターンの紹介

〈全体図〉既製品を上下二部式にリフォームしています。手提げ袋は、リフォーム時の余り布で作成。この型の場合、基本的には、腰位置から二部に切り離して作っています。


〈上半身部分〉

袖丈は短くしてあります。長いと車いすのタイヤに巻き込んで破れたり、汚れるからです。前身ごろは、ヒモが使用されていますが、マジックテープ式のものもあります。各自の障害の特徴や、脱ぎ着を全て自分で行うのか(orサポートしてもらうのか)により、選択して決めています。

 身八ツ口(わきの下の開き)に、交差させるようにヒモを通して、身体の周りに巻いて留めます(マジックテープ式の場合は、ありません)。着崩れしないので、とてもよいです。この上に帯を巻くので、見えることはありません。


〈下半身部分〉

(前・写真左)イメージとしては、ロングスカートです。身ごろの重なりは、リフォーム時に、はじめから作ってあります。ゆかたをより美しく、そしてゆかたらしく着るため(見せるため)のアイディアです。(後・写真右)スリットを深く入れています。着るときは(穿くとき)、頭からかぶります。車いすを利用する人は、お尻の下を通さなくても(お尻を上げることが難しくても)、下半身を両サイドから包み込む形で簡単に着ることが可能です。

 腰まわりのつくりは、前部分は、芯など入っておらず、ゆかた生地のみで作られており柔らかく仕上げています(車いすに常時座った状態なので、痛くないように)。後部分は、ゴムが入っており、伸び縮みします。

ミカリン mikarin@c-able.ne.jp www.c-able.ne.jp/~daisuke/contents.htm




 新しい命が誕生しました 

 残暑お見舞い申し上げます。

 「通信」の皆さまお元気でお過ごしでしょうか。今年の夏は大変な暑さで埼玉県では最高気温が38℃にもなる暑さでした。主人は体温調整があまり良くできず室内温度が上昇すると体温も上がり、建二の状態と似ています。クーラーを一日中かけ、扇風機2台を回し室内温度に気を配った夏でした。今年は、お陰様で元気に風邪も引くことなく、肺炎にもならずに夏を過ごすことができました。私も暑い暑いと言いながらも元気に励まされました。いつも皆さまに励まされている私です。一日一日が何事もなく元気に過ごせることを常に願っている私です。

 「はがき通信№74」でご紹介いただきました『我が家の太陽・建ちゃん』(文芸社より全国出版)は、皆さまの暖かいご好意により建二はもう一度皆さまのお手元へと届き、きっと喜んでいることと思います。「命を大切に毎日を一生懸命生きることがどのように大切か」多くの方に伝えたく全国出版いたしました。どうぞ今後ともよろしくお願い申し上げます。

 8月17日長女めぐみに4人めの新しい命が誕生しました。3180㌘の男の子でした。母子ともにたいへん元気で心から喜んでおります。8月22日無事に退院いたしました。主人はたいへん喜び可愛い可愛いと目を細めています。

 私は、小学1年生(男)幼稚園(男)1歳3ヶ月の(女の子)を3人預かり、主人の介護とともに大騒ぎの夏でした。今はやっと子どもたちも皆帰り家の中はやっと静かになり一息ついています。

 子どもたちが騒ぐと2匹の猫たちもゆっくりできず餌も食べなくなってしまいました。でも今はやっと餌も食べるようになり落ち着きました。主人と私は、とうとう4人の孫に囲まれたお祖父ちゃん、お祖母ちゃんになってしまいました。これからはまた、主人の介護と赤ちゃんの世話でますます忙しくなってしまいます(赤ちゃんを預け出掛けたりするので)。いつまでも元気で頑張らなければと思います。きっと楽しいこと、嬉しいこともたくさんにあることと思います。これからも「通信」の皆さまと頑張っていきたいと思います。

 2匹の猫も1歳となり可愛くとてもお利口な猫となりました。2匹とも体重は3キロです。

 ではまだまだ暑い日も続きます。皆さまお身体を大切にお過ごし下さいますように。

HS



 立った!そして今ついに歩いた(その3) 

 昨年1月「はがき通信№67」に紹介された森さん(以下敬称略)のリハビリ記録から、早1年半が過ぎました。その中から私はそれこそ最重度C損の5人の方を選び在宅リハを行い、今では皆さんが立ちに挑戦していることは何回も紹介していますのでここでは触れません。先月号の「頸損の頑張り屋」さんもそのお一人です。その5人が今では52人(8月現在)にもなっています。

 特に梅雨と猛暑のない北海道の6〜8月にはこれらの方々が一気に来樽してきましたが、そのごく一部の方たちの実例を今回もまた紹介いたします。



[新潟22歳男性] 原因、海の飛び込み失敗。受傷平成13、レベルC5〜6、平成14/5来樽。

 連絡が来たのは受傷9ヶ月と比較的早期で、父親のメールです。「まったく動かないわが子を見て何もして上げられない情けない親です」この青年もまた名のあるリハセンに入院していましたが、ここでも40分の間に関節と筋肉の揉み解しだけであり、何より驚いたのは日に3度にわたる多量の薬剤と浣腸でのベッド排便でした。

 そのため、排便後は極端な体力消耗と気力の減退が著しかったのです。100の設問をもらい「これは動く」と確信しました。それは何故か。比較的早期、その若さ、スポーツで鍛えぬいた運動感覚、必ず立ってみせる、とのもの凄い意欲等です。

 しかし強制排便は何としても止めさせなければならず、ゴールデンウィークを利用して在宅リハスケジュールを組みました。腹式呼吸による腹圧強化と120秒の息止めの厳命です。予想通り4日後みごとに127秒を達成しました。こうなったらいよいよ便座排便です。崩れ落ちる身体を両脇からしっかりガードし、息止めによる腹筋と座位重力を利用し、ついに自然排便をなしとげたのです。感動のあまり親子でトイレで泣いたといいます。その写真が添付されてきましたが、なんとも言えない実にいい顔をして便座に座り笑っていました。

 両親はすぐ退院を告げたところ唖然としていたといいます。しかしこの青年の訓練では今まで私が経験したことのない困難が伴いました。なんと身長は192㎝であり、取り揃えている訓練用椅子その他のリハ用具では間に合わず、またトランスのたびに総掛かりとなったからです。1週間の訓練で両腕・両脚共に完全に意思が伴った動きを取り戻し、さらに腰のほんのわずかな支えで見事に立ったのです。起立性低血圧を完全に克服していないため、半分失神しながらも立ち続ける根性の青年で「もう一度、もう一度」と何回も挑戦し「今日はこれまで」と私が言うと、床に顔を伏せ、悔し泣きをしていました。帰る当日、両親と青年は止めどもなく泪を流し続けていましたが、受傷2年後の来年7月には職場復帰がかなうでしょう。なぜなら帰ってから40日後の在宅訓練ビデオが送られてきました。「これがあの青年?」とわが目を疑う姿をそこに見たからです。そのビデオの撮影年月日は平成14・7・8日であり、奇しくも受傷1年後のその日でした。



[東京36歳男性]原因、マンション7階から転落。受傷平成12年、レベルC4〜5、平成14/5来樽。

 この高さからの転落は確実に即死でしたが、運良く1階に張り出していた玄関フードにバウンドして命だけは取り留めたものの「完全麻痺」です。2年間に高名な病院に実に4回も転院しましたが、ほとんどリハらしいことはやってもらえず終日ベッド上でした。1週間の帰る当日「立たせて下さい」と懇願します。私から見てとうてい立てるだけの状態ではありません。事故を何より恐れたからです。しかし今立たなければもう2度と立つことはないでしょう。それは旅費とホテル代などの出費のほかに、リハを行なうのが嫁いだお姉さんだけであり、再度の来樽に時間も取れないからです。私は迷いました。膝抜けと身体の崩れに全神経を集中してベッドをそろそろ上げ、ついに見事に立ち上がったのです。

 足首を抑えていたお姉さんから悲鳴が洩れはじめ、それを懸命に堪えていましたがついに耐え切れず床にひれ伏し泣き崩れてしまいました。夜遅く帰京してからのメールです。「この私が立てたなんて・・・立たせてくれて本当に有難うございました」それだけでした。泣きながらメールを打っている彼の姿が私にははっきり見えます。やがてこの青年は遠からず必ず立ち上がることでしょう。

 それは「立てた」という計り知れない自信からです。手が動き、足が動いたということよりもはるかに衝撃的な感動と喜びに本人は奮い立つからです。



[神戸29歳男性]原因、交通事故。受傷平成6年、レベルT12、平成14/6来樽。

 小樽に来る方の90%は最重度のC損ですが、この青年は珍しく胸髄です。しかし手が自由に利く分、立たせ歩かせるにはこのT損は非常な困難が伴います。それは全ての運動を手で代行する「癖」がつき、どうしてもなおすことはできないからであり、しかも受傷8年を経過しています。何より設問回答を見て絶句しました。何と大腿の太さは37㎝であり、これは健常人のフクラハギ以下で筋肉の巻きつきがいっさいない骨そのものです。よほどお断りしようかと思いました。ではなぜ引き受けたか。青年は2回転院し、いくら下肢を、と頼んでもいっさい取り合ってくれず絶望して受傷半年後にアメリカに行き、留学しながら6年間もジムトレに通っていたのです。私が猛烈に興味を持ったのは6年間も訓練をしながらなぜこの細さなのか。なぜ立つこともできなかったのか。この2つでした。今回、小樽に来るための帰国であり、しかも割り込みのため私には3日間しか時間はありません。

 一見「これが人間の足?」とわが目を疑いました。両脚はもとより、腹部、腰部、さらに臀筋までもがズルリと削げ落ち、まるで下肢全体が板でした。そこでどのような訓練をやっていたか見せてもらったのです。それを見てはっきり納得しました。これでは何年やっても筋肉が付くどころか、下肢機能改善は望むべくもありません。なぜならT・L損特有の全ての運動を両腕で行い、下肢にはみごとと言っていいほど運動の伝達が遮断されていたからです。手を「殺す」ことができないからです。

 そこで森のところにあるステンパイプでの立上げ、油圧式のアップシート、ダンベル負荷での床運動、捻り、回転など、まず何よりも手を縛り付けて徹底的に上肢を殺す訓練をしたのです。そうすると今まで8年間も使われることがなかった下肢筋肉が気味の悪いほどブルブル震えて蠕動(ぜんどう)し、それを見てお母さんは「あーっ」と声を上げてビデオに収めていました。最終日、青年は「なんとしても立ちたい!」と言います。この細さでは重大な事故が懸念されます。椅子に足を縛り付け、さらに利く手を両膝にしっかり置いて支点という力点を確保しながら徐々に、そしてゆっくりみごとに椅子から立ち上がりました。来年帰国する時は下肢にはガッシリした筋肉が巻き付き、最低でも松葉で小樽に来ることは間違いありません。



[東京30歳男性]原因、バイク。受傷平成12年、レベルC5、平成14/7来樽。

 青年は人生において幸せの絶頂でした。1流の自動車メーカーに就職し、新婚3ヶ月で、新居の設計図もでき上がっていました。彼の趣味はバイクでしたが母親は終始反対し続けていたのです。

 その日も山梨にツーリングに出かけましたが、急カーブの死角に停めてあった車を避けきれず観光バスに激突したのです。その事故は凄まじく、意識を失い運転姿勢そのままにバスにめり込んでいたと言います。山奥のため救急車の到着に2時間を要し、その間なんとフルフェースヘルメットを誰かが外したのです。頭蓋と顔面を完璧に保護するこのヘルメットはまず脱げない構造になっています。重篤な頸髄損傷の疑いのある事故者に対し、誰か一人でも常識を持った者がいなかったのかと呆れを通り越し寒気がします。案の定、搬送された病院では手におえず、翌日、高度医療病院で手術です。医師に「良くて一生車イスです。それもできるかどうかですが」と告げられた時、ほとんどの母親は立つことができず廊下に崩れ落ちています。

 しかし青年の母親はじつに立派でした。まず自分がしっかりしなければと精神道場に通ったのです。そこで悟ったもの。それは「息子を私が必ず助ける。絶対立たせて見せる!」との揺るぎのない強い決意でした。その手紙です。「あの家族は自分たちの現状をいつまでも受け入れることのできない馬鹿者だと障害者の仲間、医師、そして世間からもさんざん言われ続けました。しかし努力さえしたら必ず奇蹟はおき、立ち、歩く息子の姿を見ることは絶対私にとって諦める訳にはいかないのです。そんな時、森さんを知りました」じつにもの静かな、そして強い意志が青年の目に宿っていました。

 そうしてこの青年もまた動き出しました。それは明らかに意思の伴った動きであり動作でした。母親はつぎつぎと動く様に涙を堪えていましたが、さすがに冷蔵庫を背にしてみごとに立ち上がったとき、その肩をしっかり押さえながらわが子の肩に顔を埋め、嗚咽を堪えていました。幸せの絶頂から悲嘆のどん底まで叩き落とされながら、愚痴と泪をいっさい母親に見せなかった青年の立つための強い決意が私を圧倒します。

 母親は2ヶ月の入院期間中、いつも身体を清潔にし、ことさら顔をきれいにして帰りました。しかし翌朝になると決まって耳垢が溜まっていたと言います。それが2ヶ月毎日でした。青年は皆が寝静まった後、毎日泣いていたのです。手で拭うことのできない泪は頬を伝い耳に溜まり乾いていたのです。それを初めて知った母親はあまりの残酷さに「いっそこの子と」何度も自殺を考えています。その母親のわが子を助けるとの凄まじい母性がついに青年を立たせたのです。



[東京21歳男性]原因、バイク。受傷平成12年。レベルC5。平成14/7来樽。

 18歳の青春真っ盛りの事故で全身麻痺となりました。ウィンカーを付けず急右折した車に激突です。この少年と、前に紹介した30歳の青年は原因・レベルとも全く同じであり、さらに同じ国リハに入院していて常に母親同士が励まし合い、しかもその考え方があまりに似ていることに驚きます。

 周りの若者は全員諦めていました。しかし2人の母親は決して諦めず「今に必ず動く!」との強い信念を持っていたのです。その手紙です。「医学的には確かに全身麻痺でしょうが、人間の身体はそれだけではなく、まず本人と私たちが必ず動く!治してみせるという精神力と思っていました。何の根拠もあるわけではございません。私たち親子は今までただの一度も諦めたことはなかったのです」この少年は1年半の間に転院は1回だけという極めて珍しいケースです。母親は入院期間中、カーテンの陰に隠れ揉み続け関節と筋肉の柔軟に務めていました。そのため、小樽に来た時はじつに良好な四肢を保っていたのです。

 初日、訓練用の椅子にさえ座れず、両親がしっかり両肩を押さえていました。これは長い間の車イス生活のためです。背もたれを倒し、両脚はペダルで持ち上がり、しかも除圧のためのロホクッションでは中心点が常に定まらず、おまけに胸ベルト固定では、何年経っても椅子座位は保つことはできません。

 まず何をさておいても車イスから離脱させて椅子生活に戻すことが私の信念であり、リハの原点です。いわゆる体幹機能を植え付けることから始めます。訓練開始3日後、完璧な椅子座位保持ができました。身体の中心点が定まったのです。若さと受傷年月の浅さ、そして何より立つことに全力を傾ける精神の集中力にはしばしば驚嘆させられます。意思の通った手足の動きに母親は悲鳴を上げ、父親は克明にビデオに記録します。この若者もみごとに冷蔵庫を背にして立ちました。

 それも失神しながらです。失神しながら立った青年は今まで4人います。起立性低血圧を完全に克服していないからであり、普通失神すると一気に身体は崩れ落ちますが4人が4人とも蒼白を通り越し、真っ白になりながらも立ち続けました。気力で立っているからです。「気をしっかり持ちなさい! ホラ! 今あなたは立ってるのよ! 鏡をしっかり見なさい!」お母さんの絶叫が飛びます。しかし顔を上げることはできません。全筋力を振り絞るその立ちは青年の壮絶な執念です。脊髄を損傷し、瞬時に動きを奪われた時から、これらの若者が立つことにいかに凄絶な執念を燃やしていたか。これを全国多々ある国リハ・リハセンの医師それに携わるPT・OTの何人が彼等の血を吐くような呻きを分かっているでしょう。それどころか執拗に立ち歩くことを諦めさせます。

 帰京する最後にサインペンをしっかり手に縛り付け、自分の名を書かせました。それは利き手こそが今まで何千回何万回も書いた動きを脳が記憶していることを試すためです。みごとにカタカナそして漢字で書き上げたのです。

 この親子は着いた初日から何をさておいても森の両親の仏前に深くぬかずき、合掌しました。厳しいリハが終わり、青年を真中に親子3人は長い間、頭を下げ瞑目してホテルに帰ります。私にはその胸中が分かるのです。「このご両親が森照子さんという人を世に送り出してくれた。そして森さんを知った私たちは今、このリハルームにいる」わが子を立たせてくれた両親に感謝し、報告するその真摯な姿に私と森、アシスの美子はいつも感動の泪が突き上げて来るのです。帰京した夜遅くのメールです。「身体は右近さんに、心は森さんに動かしてもらいました。ボクは生まれ変わりました」私は「彼を必ず歩かせる!」と泪が溢れます。

 右近 清:Ukon@aioros.ocn.ne.jp

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