は が き 通 信 Number.49---P2
POST CARD CORRESPONDENCE 1998.1.25

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天井走行ホイストをつけました


受傷後(C5、6番脱臼骨折)腕にすこしばかり力が残っていたので、ベッドの上の天井裏の梁から公園の鉄棒を逆さにつるしたよう形で、鉄パイプを取り付けて、さらしの布を輪にしてぶら下げ、それに手首を通してぶら下がり、上体を引き上げ脚とお尻のほうを妻に提げてもらって車椅子とベッドの間を移動してきました。
受傷後30年、できるだけ機器に頼らず残された機能をすこしでも活用して自力で頑張ってきましたが、寄る年波には勝てず体力の衰えを感じるようになり、また、介護してくれる妻がもし腰でも痛めると、わが人生の二巻目の終わりになるので(一巻目は頸損になった時に終了)思い切ってホイストを取り付けることにしました。
12月17日ベッドの上に2.5mのレールを付けて1日で工事完了。スリング(吊り具)を上体からお尻の下まで掛けて吊れば安定するのでしょうが、それを付けるのが面倒なので脇の下にベルト(手製)をかけて吊り上げ、上体が浮いたところでちょっとだけ家内に脚を提げてもらって移動しています。おかげで移動がたいへん楽になりました。また、腰のあたりにベルトを回して吊りあげ体を反らして腰痛防止に利用しています。
ホイストを選択するにあたって2社から見積もりをとりA社120万、B社60万円と同じような性能で倍の開きがあるのに驚きました。もちろんB社の製品に決め、運良く今年から始まった市の高齢者、障害者住宅改造補助事業の実施期間中だったので15万円の給付を受けることができ(今までは貸し付け)天井裏補強の大工賃6万を加えて51万円の費用でバッテリー付き天井走行ホイストが設置できました。

広島県 HT: tutiya@hiroshima-cdas.or.jp



ご存じ?心身障害者扶養共済制度


障害を持っている人を扶養している保護者の人が毎月一定額の掛金を払い込み、保護者が死亡したときに、残された心身に障害をもっている人の生活を助けるために終身にわたり毎月一定額が支給されます。

  • 対象者

    次の要件のすべてに該当する方です。⇒身障者手帳1〜3級を所持している人の扶養者であること。年齢が65歳未満であること。民間の生命保険に加入できない病気や障害のないこと。

  • ※ 毎月の掛金

    1口当たりの掛金の月額は次のとおり。

    加入時の年齢 掛金月額
    35歳未満 3,500円
    35歳以上 40歳未満 4,500円
    40歳以上 45歳未満 6,000円
    45歳以上 50歳未満 7,400円
    50歳以上 55歳未満 8,900円
    55歳以上 60歳未満 10,800円
    60歳以上 65歳未満 13,300円

    以前に加入されている方も平成10年4月以降は上記の額に引き上げられます。

  • 支給額             

    1口加入の場合、月額 20,000円を終身にわたって支給。2口まで加入できます(途中で追加できます)。
    なお、身障者手帳1〜2級の方は特別加算金月額10,000円が追加されます。支給月額1口の場合3万円、2口の場合5万円。        

  • 掛金について

    加入(口数追加)期間が20年以上に達し、かつ加入者(保護者)の年齢が65歳(各年度の4/1において)を超えたときは、その後最初に来る制度加入月以後の掛金は免除になります。

    経済的理由により掛金を納付することが困難と認められる場合には掛金1口めについては、申請に基づき減免が受けられます。毎月の所得税法上の小規模企業共済等掛金控除の対象となります。
  • 障害者が加入者より先に亡くなった場合
  • 脱会または口数取消しをした場合

    いずれの場合も戻りはわずかですので、掛け捨て保険のようなものとご理解ください(返還金1万円〜5万円、加入20年以上で10万円)。

  • 問合せ先

    県庁保健福祉部更生課、地方振興局健康福祉部、各社会福祉事務所などへお願いします。

岡山県 HF: heki@okym.enjoy.ne.jp



「火傷はオソロシー!」の巻


11月に油断大敵の火傷をしてしまいました。自宅のジャグジーバスでです。今年になってから取り付け、それ以来浴槽に自分1人で浸かるようになりました。シャワーの温度には気をつけていましたが、まさか浴槽内で火傷をするとは……。夢にも思わず。全自動を解除しなかったため、どうも足元にあるお湯の注ぎ口が原因のようです(今までならなかったのがラッキーだったのかも)。

お風呂上がりにベッドで足の指を拭いていたら、右の小指の皮がズボッとズルむけちゃったのです。よく見るとナント爪もない! ヒェ〜!! そのうちあれヨあれヨと言う間に、中に黄色い液体のたまった水ぶくれが両足の指に“ボコボコ”と出現!

しかし、ここまできてもまったく火傷をしたなどとは思わなかったのです。なぜかと言うと、去年の冬も左足の指に同じモノができたから。今回もちょうどホルモン剤を使っている時で、何かそれと関係があるのカナ〜などとも考えました。去年は寒さによる血行の悪さと、靴の長時間の圧迫による凍傷(?)だったと思います。その時も近所のお医者さんにかかり、時間はかかったけれどもらった軟膏を塗り乾燥させることで何とか治せたので、今回は両足で前回よりひどかったのですが楽観していました。

でも、水泡をつぶして消毒して様子を見ているうちに、中の黄色い液体は、3〜4時間くらいで靴下がビショビショになるほど後から後からたまって出てくる。熱は出るワ、右足はももまでむくんでくるワで、運悪く連休にぶつかってしまい、地元の救急医療センターの外科に仕方なく行きました。

そうしたところ、診てくれた若い医師が「右足はバイ菌が入って化膿していて(蜂穿織炎)、表面的な治療をしただけではもう手遅れで治らない。入院することになるかもしれない。お風呂はだめ、足を高くして横になり、安静にしていたほうがいい」と言うではありませんか。もうあせりましたヨ。連休の3日間、抗生物質の点滴と包帯を換えに救急医療センターに通い、連休明けに地元の病院にするか迷ったのですが(3人の先生が3人とも違うことを言うので)、やはり脊髄損傷の患者を多く診ている神奈リハ病院の主治医がいい!ということで、万が一のため入院準備をして診てもらいに行きました。
先生は足を見るなり、
「何だ、火傷したのか」
「エッ、火傷?!」
バカみたいですが、そこでやっとお風呂で火傷をしたことに気づいたのです。ひとまず原因がわかってホッ。熱やむくみは火傷がひどいから出たみたいです。

「これからのシーズン、多いんだよ。ストーブとかも気をつけないと。足でまだよかったよ。股間だったらオシッコ出なくなっちゃったりするんだゾ」

ヤァ〜ッ、コワッ! 入院準備をして来たと言ったら、先生は大笑い。でも、ホント笑い話になってヨカッタです。一時はどうなることかと思いました。

いただいたクロマイ−Pという軟膏がよく効いて、それから1週間でほとんど浸出液も出なくなり、むくみも引いてきて皮膚の色も乾いて落ち着いてきました。お風呂もOK。抗生物質の処方もなし。右足が特にグシャグシャで足の甲は紫色、くるぶしがなくなるほどむくんで、見るのもワーッという感じだったのがうそみたいです。先生がおっしゃっていたのですが、私のように火傷をして水泡ができた時は、まずはつぶしてジャガイモじゃないけれど皮をきれいにむいて、とにかく赤むけの一番ひどい状態にする(感覚がないとはいえかなり勇気がいりますが……。そうしないと中の浸出液が止まらないそうです。素人はコレができないんだよとおっしゃってました)。そして消毒と軟膏とガーゼ交換。私は朝晩2回しています。やはり軟膏は素人判断ではなく、専門医で処方してもらうのがいいと思います。

それにしても、救急医療センターの医師には脅かされました(バカヤロー!)。いくらマヒしているとはいえ、化膿しているのと火傷の見分けぐらい外科医ならつけろと言いたいです。2度と行きません。その他にもムッとするようなことを言われ、脊髄損傷患者への認識、知識のなさが目立ちます。だから、病気をしたりして一般病院にかかるのって不安なんですよね。

と言うことで、改めて感覚のなさの恐ろしさを痛感しました。私の体験が皆さんの参考にもなればと思います。お風呂上がり、寒い時期に長時間靴をはいた後などに(すぐとは限らず数時間後だったりします)、中に黄色い液体のたまった水泡ができたら要注意! 特に低温火傷はこわいです。冬はカイロ、電気毛布等は気をつけましょう。お風呂も40度以上の熱めのお風呂は避けるか、短時間で出たほうがいいです。ちなみに私は2分弱の44度ぐらいのジャグジーで、右足のひどい指で皮膚の白い部分の組織まで露出してしまいました。元通りになるのカナ〜? どっちみち当分治らないと思うので靴もはけません。感覚はないけれど、何となくうずくんですよね。感覚があったら悲鳴モンですね。

神奈川県 HS



サッカーWカップアジア地区最終予選を応援した日


今からちょうど4年前ワールドカップ世界大会出場を目指し、三浦カズ選手、中山、ラモス選手の活躍したイラン戦を建二と一緒に応援した思い出深いWカップアジア予選でした。
このイラン戦は、最後の3分間のロスタイムにイランにゴールを決められ2:2の引き分けとなり、得点の差で日本は負けてしまった。日本は勝てると思っていたまさかの信じられない負けでした。夢中で応援していた建二は、何か変なロスタイムだったと、納得のいかない顔をし、涙を浮かべ残念がっていました。グラウンドでは、日本選手の悲痛な姿がブラウン管を通し伝わってきました。やっとここまで苦しい戦いをしてきたのに! なんとも悔しい最後でした。

この日から4年、今年もKの大好きだった三浦カズ選手、中山選手を中心にWカップアジア地区最終予選B組として、本大会フランス行きの切符を目指し9月7日、第2予選第1戦ウズベキスタン戦が国立競技場で行われました。私は、カズ選手の所属するハットトリックの事務所へ応援のFAXを試合の日に向けて送りました。どうしても勝ってほしい、そんな思いで無き建二と心を1つにし、応援しました。日本は、前半からスピードのある攻撃をし、カズ選手のPKで先制後、中田、城、両選手のゴールで6:3とウズベキスタンに勝ちました。キーパー川口選手のすばやいキャッチに思わず拍手する私でした。

応援FAX 「オフィスハットトリック関根様。アジア最終予選一家で応援しています。三浦カズ選手他、選手の皆さま頑張ってくだい」
9月12日、第2予選。UAE戦に向けてFAXを送りました。
「頑張れ日本、最後まであきらめずに頑張ろう! UAE戦も家族で応援しています」

UAE戦、見た目にも強そうな相手です。ドキ、ドキ、ハラ、ハラする試合の進み。両国とも前半、後半得点なく0:0で引き分けてしまった。キーパーの川口選手の活躍が素晴らしい。

9月28日、韓国戦の日(国立競技場にて)

応援FAX「韓国戦、家族で応援しています、最後まで頑張ってください」
午後2時からいよいよ日本対韓国が始まりました。今日の試合も、ドキ、ドキ、ハラ、ハラさせられる観戦でした。前半0:0で折り返し、後半22分山口選手がゴールを決め、貴重な得点を先取し、嬉しい一瞬、国立競技場5万6千の応援サポーターによる歓喜の大合唱「翼を下さい」が始まり、大きな、大きな、日の丸の旗が踊る何とも素晴らしい一瞬でした。「翼を下さい」、中学1年、建二も歌った思い出の曲でした。しかし残り39分、42分に韓国にシュートされ2:1と逆転負けをしてしまった。本当に無念に終わった試合でした。最後の5分、10分を大切に頑張ってほしかった。

10月4日、カザフスタン戦の日

応援FAX「第4戦カザフスタン戦、最後の5分、あきらめないで最後まで大切に頑張りましょう。家族で応援しています」
今日は負けられない試合、夕方6時試合が始まった。前半22分秋田選手のヘディングが決まり1点先制、1:0で前半折り返し、後半ロスタイムに入ったとき、スバレフ選手のシュートが決まり1:1と引き分けてしまった。フランス行きがあぶない! もう絶対に負けられない日本!

10月11日、ウズベキスタン戦の日(この試合は、浜松懇親会へ出向き観戦していない)

応援FAX「最後まであきらめずに頑張ろう。必ず奇跡は起こる」

10月26日、UAE戦の日

応援FAX「この試合も最後まであきらめずに頑張ろう。奇跡は起こる」

夕方7時、UAE戦が始まった。今日は勝ってほしい! ドキ、ドキしながらの観戦でした緒戦ロペス選手のゴールが決まり、応援サポーターによる歓喜の大合唱が響き、大きな日の丸の旗、ドラエモンの大きな旗も踊り素晴らしい一瞬でした。ところが後5分またも1点ゴールされ1:1と引き分けてしまった。本当に残念。2位でのフランス行きは、より遠くかすんでしまった。残りの試合で奇跡を起こそう!

11月1日、いよいよソウル五輪スタジアムの戦いの日。

応援FAX「最後まであきらめないで全力を尽くそう! フランスへ行く奇跡を起こそう!」

応援FAXは、試合当日午後1時、直前に送りました。この小さな応援が少しでも選手に届くように祈る気持ちで……。午後3時、いよいよ日本対韓国戦が始まった。韓国へ渡った応援サポーターは15,000人、ソウル五輪スタジアムも青の色で埋め尽くされ異常ともいえる熱気が漂っている中試合は進んでいる。この韓国戦に勝たなければフランスへの道はない、追い込まれた戦いとなった。
前半30分、私は、チャンネルを合わせることができない、この戦いが恐ろしい。でも何か気になる……。前半30分恐る恐るチャンネルを合わせると、2:0で日本が先制しているのです。やっと安心して応援することができました。名波、ロペス選手のゴールが決まり前半を折り返し、後半はキーパー川口選手の活躍により、絶対韓国には得点させたくない! このまま後半を終わりたいという気迫が伝わってくる。だんだん最終時間、ロスタイムが迫ってくる。ここを大切に、注意して、と念じ後2分、ロスタイムの流れを見守る内にホイッスルが鳴り、とうとう日本は2:0で逃げ切り自力で韓国に勝てました。ソウルでの日韓戦は1984年以来2度めの勝利となりました。15,000人の応援サポーターも選手と一体となりフランスへの夢をつなぐことができました。本当に応援できて良かった、サッカーに熱いものを感じた1日でした。

11月8日、第3代表カザフスタン戦の日。

応援FAX「今日のカザフスタン戦、全力を尽くし、奇跡を起こそう」

あと1戦と迫ったカザフスタン戦の日、国立競技場の応援サポーター56,000人が応援する中、前半中山、高木選手がゴールを決め、3得点をあげた、後半井原、中田選手により2点追加、5:1と勝利を決めた日、今日も勝利と嬉しい応援ができました。

11月16日、第3代表 マレーシア(ジョホールバル)にてイラン対日本の戦いの日。

応援FAX「最後の一戦です。全力を尽くし最後まであきらめないで頑張ろう。そしてフランスへ行こう」

午後10時、4年前、引き分けて負けたイラン戦が始まった。建二と一緒に応援し忘れることのできない同じイランとの戦いです。今は、亡き建二のためにも勝ってほしい。そんな願いをこめて試合を見守り応援しました。きっと天国の建二も胸をときめかせ応援しているでしょう。前半中山選手の見事なゴールで1点を決め、1:0で折り返し、後半戦すぐイランに2点をゴールされ、2:2の同点となった。一瞬不安な予感のする私でした。残り時間15分にもう1点ほしい、しかし日本の得点が入らない、とうとう延長戦に持ち込まれ、最初に1点入れたほうが勝ちとなる。早く決めてほしい……。延長後半13分、その時、素早い岡野選手の劇的ゴールが決まった。素晴らしいゴールで3:2と日本が勝ちました。とうとう奇跡は起きました。自力でフランス行きの切符を手にします。天国の建二もきっと喜び感激しているでしょう。

最後の最後まであきらめずに頑張ることの大切さ、体力、気力ともに鍛えられたアジア第3代表決定戦でした。
岡田監督の言葉「今日は必ず勝つ、どうしてもフランスへ行きたい」
強い信念の元に勝利を得ることができたと思います。出場選手の皆様、すばらしい試合をありがとうございました。

埼玉県 HS



うめ吉さんの1997年


うめ吉です。1997年を振り返ってみると、自分とってはターニング・ポイントとなるようなことがたくさんありました。
1981年に頸髄損傷になり人生の方向が大きく変わり、1989年に生涯の仕事として不動産業を選択、障害者情報クラブの設立もこの年でしたので、自分には8年毎に転機が訪れるのかなあと勝手に感傷に浸っています。
まず、不動産業は実務6年めにしてやっと前向きな仕事ができるようになってきました。

障害者情報クラブでは、10月に作業所ILセンター設立、障害者生活支援事業の作業部会への参加、11月に障害者自立生活フォーラムin宝塚の開催、12月にアテンダント養成講座の開始など、今までの活動から何歩も踏み込んだ事業をスタートさせました。また、会員向けのメーリングリストや街づくり・交通環境の情報収集のためのアクセス関西メーリングリスト(Access-Kansai@butaman.ne.jp)をインターネット上に設置、情報収集に勉めました。

一方で、大学院生のころ開設を要望し続けて1988年に開講した関西学院大学の障害者問題論の非常勤講師として招かれたり、ダスキンのホームヘルパー2級養成講座の講師、被災地障害者センター長期セミナーの講師に招かれるなど、今までの活動が社会的に認知されつつあることを肌で実感するできごともありました。

また、頸髄損傷者関係の活動に関しては、1月に重度四肢麻痺者メーリングリスト(SQuadsML@butaman.ne.jp)の開設、頸損連全国総会大阪大会、カナダのBC州から人工呼吸器の管理責任者アイリーン・ハンリー氏を浜松に招いた「はがき通信」懇談会などへ参加し、情報交換ができました。人工呼吸器を付けた高位頸損者のことを真剣に考えざるを得なかった1年でした。

さて、個人的に一番興味のある街づくりと交通環境の分野では第2回障害者政策研究全国集会の街づくり分科会スタッフを中心に結成した「バリアフリー社会を実現する会」の世話人となり、研究会を開催するのと平行して、兵庫県ならびに兵庫県福祉の街づくり工学研究所と3者で学習会を2ヶ月に1度のペースで開催してきました。さらに、宝塚市中筋JR南土地区画整理事業にともなって結成された「宝塚市中筋JR南街づくり委員会」の委員にもなりました。

その他、プロップ・ステーションやT-Net、NMC、Simなにわ、ハートランドなどでも皆さんにお世話になりました。
そんな中、個人的に一番嬉しかったのは、震災で中断していた地元八王子神社の秋祭りを再開できたことや、前振りではじめて開催した夏祭りが成功したことです。
1998年は、宝塚市障害者生活支援事業が始まる年、区画整理事業が佳境に入る年で、活動の中心はそちらになると思いますが、ご協力よろしくお願いいたします。

宝塚市 MS: sakaue@butaman.ne.jp



広島が盛り上がっています


今年も残りわずかとなりました。皆さまいかがお過ごしでしょうか。浜松での刺激を受けて、広島でも頸損の会を発足しようと、トドのおっちゃん(Sさん)、Hさん、Oさんらと共に連絡を取り合い、広島の仲間に声をかけ、12月14日忘年会をかねて第2回広島頸損の会(仮称)を開きました。新聞の紙面に大きく載せていただいたためか予想を上回る人たちの出席となりました。

私たちにとっては、初めての大きな会となったので進行に不備がありましたが、皆さまに協力していただき、あっという間に時間が過ぎてしまいました。
広島にも意欲的で素敵な頸損者がたくさんいることをアピールできたのではと思います。まだまだ小さな集まりですが、私たちが外に出ることで福祉がずいぶん遅れている広島を少しずつでも変えられたらもっと皆が外に出やすい社会になるのではと思っています。寒い時期にもかかわらず思い切って出席していただいた皆さまにこの場を借りてお礼を申し上げます。

会の準備のため、疲労が重なり入院されたHさん、次回はあまり負担をかけません、早く元気になってくださいネ。
会を運営していく上に知識が乏しく未熟な私たちに情報、アドバイス等があれば教えていただきたいと思います。

「はがき通信」によりこんな素敵な出会いができて本当に感謝しています。今年も「はがき通信」によって、楽しい1年が送れました。来年もよろしくお願いいたします。
最後にSは元気に通学しています、アイリーン先生にお会いでき、より前向きに生活できるようになりました。これからもマイペースでやっていくだろうと思います。うるさい母親はもっと距離をおいて見守ってやろうと思っています。また、来年皆様にお会いできる日を楽しみにしています。

広島市 SK母



新年あけましておめでとうございます


昨年は私にとって初めての本になる『障害者の文学』(明石書店、3,800円、初版1,500部)を出版することができました。これも多くの方々のお力添えのおかげと感謝しております。どのような批評も甘んじて受けるつもりでおりますので、どうぞ遠慮のないご意見をお聞かせください。
一方、年末には15年ものあいだ私の朝夕の散歩の先導をしてくれた愛犬チビが亡くなりました。チビのことは小説や短歌などにたくさん書いてきましたが、「ならび歩く犬の頭にわたくしの麦わら帽が陰をつくりやる」という昨夏のうたが、いわば絶筆となってしまいました。栄枯盛衰、会者定離が世の常とはいえ、起伏の激しい1年でした。

今年は佐賀新聞「リレー随想くわるてっと」の1年間の連載(月1回)などが予定されていますので、ますます責任が重なってゆく感じです。
多難な時代が予感されますが、皆さまのご健康とご多幸をお祈りいたします。
1998年 元旦
瞼をもつらぬいて春雷のくる

佐賀県 TN



「ワーキング・クォーズ」関係者各位


1997年も暮れていこうとしています。今年もお世話になりました。1997年は、みなさまにとってどのような年でしたでしょうか。

重度四肢まひ者の就労問題研究会の活動は、

①会報『ワーキング・クォーズ』の企画、編集、発行

②"WORKING QUADS" home pageの制作提供

③国際ネットワーク活動(国際的な情報交換活動、英語プレゼンテーション作成など)

が中心です。
1997年3月29日、「重度四肢まひ者の知的生産活動を支援するデータベース」に関する丸紅基金社会福祉助成事業完了報告書と、支出報告書を提出しました。
1997年8月27日〜29日、第12回リハ工学カンファレンス佐世保に参加しました。"WORKING QUADS" homepageでは、そのことについて、HMさん、HKさん、TMさんが書いてくれています。
 1997年9月24日〜27日、アジア太平洋障害者の十年・ソウル障害者国際会議があり、参加しました。『WORKING QUADS』編集者のIさん、『WORKING QUADS』執筆者のGさん、Sさんと一緒になり、ソウルのロッテホテルで編集会議を行いました。

"WORKING QUADS" ホームページは、介助を必要とする重度四肢まひ者のハイテクを活用した知的生産活動を支援することを目的としています。ご覧いただければ幸いです。
最近のトピックスでは、TFさんの「新しい自立生活についてのHSさんとの『一問一答』」、MIさんの「私の電動車いす、カナダ製インヴァケアーのアクション・ストームアロー」、向坊さんの「トイレの悩み」、HFさんの「私と仕事」、MSさんの「あいかわらず自営業(自由業?)です」、などがとても人気があります。ぜひ、ご覧ください。
インターネット上のホームページは、設備をお持ちでなくても、インターネット・カフェなどからでも見ることができます。お時間があるときにでも、見ていただけると幸いです。
HOME"WORKING QUADS" homepage" をこれからもよろしくお願いします。
ご意見、ご感想、ご助言などをいただけると幸いです。敬具。1997年12月24日




カンボジアの現地で


気の向くまま、電動車イスの100日間のアジア周遊の旅に出ました。フィリピンからマレー半島、インドシナ半島、インド、そしてネパールのヒマラヤ目指して生命の源泉を訪ねます。正月はカンボジアで迎え、車イスはついにキリングフィールド(殺戮の地)で行き止まりました。行けども行けども川と湖沼のこの国で思いのほか象や人々は豊かな装いです。

しかし、ポルポト派の時代に国民の3分の1が処刑され、現在の人工は930万人、時として狂ってしまう歴史を織りなす糸は人の実際の証です。この原っぱでも2万人の人が棍棒で殺されそのうち2千人は子供であったのです。あちこち大穴が掘り起こされ、その1つ1つが5mの深さで5人ずつの遺体が発掘されています。そしてまだ発掘されていない43個の穴。
何たる狂気、凄惨であろうか、積み上げられた9,000個の頭蓋骨すべてがこちらを向いて何かを訴えている表情です。

昨日と同じように今日も小鳥の群が語らい蝶が舞っている同じ場所で次々と打ち倒されていったこれらの人々の阿鼻叫喚が、午後の涼しい風に乗って聞こえてきます。車イスが思わず踏んづけた白いものはあごの骨でした。


まだ大地に埋まったままの人骨や衣服はすべて収納するのが難しいほど無数なのか。背筋を寒くして読経しながらも、その声は嗚咽に変わりいっこうに進まない。くやしさ、残念、あわれ、この涙の中に希望の滴はあるのだろうか、人は同じ狂気を繰り返す、そして自分がまたその例外ではあり得ないでしょう。

肩を落として逃げるように立ち去ろうとする私の背にまたもや村人の声。
「ちょっと、そっちは危ないよ! 地雷がまだ埋まっているからね」

北九州市 向坊 BXE06432@niftyserve.or.jp



夢運び人さんより資料提供


①切断脊髄接合手術 米の青年埼玉医大で 日米が共同、世界初

アメリカンフットボールの試合中にセキ髄を切断、手足が完全にマヒした米ニューヨーク州ロチェスター市のラルフ・モンテマロさん(29)のセキ髄機能回復手術が15日埼玉医科大(埼玉県毛呂山町)で、日米合同スタッフにより15時間がかりで行われた。セキ髄に末しょう神経を移植し、胃の腸間膜の一部の大網(だいもう)膜で覆い、移植した神経の活性化を促すという手術で、世界初の試み。中枢神経系を構成するセキ髄が切断されると、機能回復は不可能とされているだけに、手術の結果が注目されている。
モンテマロさんは10年前、試合中に転倒して首の骨を折り、セキ髄を切断、セキ髄機能がマヒした。執刀したのは、「自家末しょう神経移植法」の考案者の一人で前ジョージタウン大脳神経外科教授のカール・シー・ケイオー医師と、「日本脊(せき)髄外科研究会」元会長で埼玉医科大脳神経外科の長島親男主任教授。ケイオー医師からの依頼で共同手術が決まり、今月8日、同大に入院した。
手術は、ケイオー医師が切断されたセキ髄の両端を切除した後、双方の切除面にモンテマロさんの腹部から取った十数本の末梢神経を移植してつなぎ、神経を覆っている細胞を乳液状にしたもので接着。この後、長島教授がモンテマロさんの大網膜を接合部分に移植した。これで血液が供給され神経の活性化を促進し、大幅な機能回復が期待できるという。


②地上50センチのカメラマン

http://www.sakitama.or.jp/tajima/HOME

田島隆宏さん。埼玉県深谷市在住。41歳。生後20日目で脳性小児麻痺となり、四肢が不自由に。しかし20歳のとき特別に開発された愛車バッファロー号を得て、意欲的に昆虫の写真撮影を開始。埼玉県民ギャラリーで個展開催の実績を持つ。


彼が写真の道に入るきっかけとなったのは、20歳を目前にしたある日友人の個展会場で見た写真作品に感動したのが始まりだった。自分も人に感動を与える写真を撮りたい。しかし彼は両手両足が使えなかった。


カメラを操作するための悪戦苦闘が始まった。バッファロー号にカメラを固定する。シャッターも、レリーズを使えば舌で押せる。モータードライブを装着すればフィルムの巻き上げも大丈夫だ。問題はピントだった。いろいろ悩み、試行錯誤したすえに彼はフォーカスリングにがっちりと固定したスポークを取り付けた。船のハンドルのように出っ張った5本のスポークでフォーカスリングを回転できるようにした。こうして彼は口にくわえた割り箸を使い、自在にピントを合わせることが出来るようになった。ベッドの高さである地上50㎝から彼は写真を取り始めた。


③不自由な体で日本一の石段に挑戦

静岡県清水市袖師町、無職神川孝二さん(68)が10日、熊本県中央町の日本一の石段(3333段)に挑み、約10時間かけて、登り切った。
神川さんは15年前、作業事故でケイツイを損傷し、両手足が不自由になり、松葉杖が手放せない。しかし、「成せば成る」を信条に富士山や石鎚山(愛媛県)の石段を登った。11月にはオーストラリアへ大正琴の演奏旅行に行く。
この日は午前6時半から登り始め、休憩を取りながら午後4時15分に頂上に。「訪豪へ向けて自信になりました」と元気いっぱいだった。 ('97.10.11 読売)




SEさんのお母様より


前略御免下さいませ。いつも「はがき通信」ありがとうございます。
息子は、10月31日に36歳の短い生涯を終わらせてしまいました。
平成5年10月3日、社会人ラグビーで頸損をして四肢マヒとなり、1年間は熱や体調の不全で苦しみましたが、その後は、身体は動かなくても元気でリハビリに頑張っていましたのに、今年の10月の中旬に急に体調をくずして、とうとう私どもの所へ帰らない人になってしまいました。
「はがき通信」がとても楽しみで、自分も退院したらパソコンを勉強して、原稿を送りたいと申していましたのに……。とても残念でございます。いろいろとありがとうございました。いろいろと勇気づけられたり、教えられたり……。心より御礼申し上げます。
同封のお金、気持ちだけですが……用紙代の足しにして下さいませ。
ほんとうにありがとうございました。10月26日 

鹿児島県 SEの母YE



ひとくちインフォメーション


『頸髄損傷』松井和子著
(医学書院)定価2,884円
浜松医大の松井先生が『頸髄損傷』という本を出版されました。
(医学書院、定価2,884円)

この本はわれわれ頸損にとってたいへん有益な本ですが、頸損の家族や医療・福祉関係従事者にとっても有益だと思います。

カナダ、ブリティッシュ・コロンビア州の先進的・組織的な取組も紹介されています。逆に言えば、なぜカナダでできて日本でできないのか、これは私たち日本人に与えられた宿題であると思います。

一人でも多くの人に読んでいただきたいと思います。

(TH記『ワーキング・クォーズ』ホームページより)

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