はがき通信ホームページへもどる No.124 2010.8.25.
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も く じ
ballごあいさつ 編集委員:藤田 忠
ball人工呼吸器を使いながら飛行機に乗る 新潟県:T.H.
ball気管切開し人工呼吸器ユーザに 福岡県:K.M.
ball怠惰な棚ぼた人生〜人間、こんなことでイイのかい?!〜〈後編〉 東京都:M.N.
ball総合せき損センター「排痰介助訓練システム」 総合せき損センター
<特集!「はがき通信」懇親会in沖縄2010(その2)>
☆沖縄レポート 広島県:Y.O.
☆沖縄へ行ってきました! 神奈川県:F.H.
☆「印象が変わった!」沖縄の食と街 広報委員:麸澤 孝
☆沖縄初のフライト 広島県:K.T.
ball沖縄懇親会のお礼とイラン渡航報告 細谷
ballけい損者の人工呼吸とNPPV(非侵襲的陽圧換気療法)〈後編〉 編集顧問:松井 和子
ball『臥龍窟日乗』 —テーブルチェック— 千葉県:臥龍
ballハワイに行ってきました 山梨県:H.N.


ごあいさつ


 前号に玉ねぎおやじさんから、入院中はヘルパー派遣がされないので「日常介護を断たれる不便さに参る」というご投稿がありました。私も付き添いがほとんど付かない状態で入院中に同じ経験をしました。
 長い入院中にお世話になった院内スタッフの方々には、ものすごくお忙しそうでも思いやりがありとても感謝しておりますし、医療的な看護(看病)はぬかりがなかったのですが、どうしても慣れたヘルパーが一定時間滞在するのとは違い、看護が終われば急ぎ足で次の部屋や業務へとなりますし、30人弱の看護師がローテーションで入れ替わり訪れるため、体位交換一つとっても利用者(患者)の細かな好みをいちいち憶えてもらえるはずもありません。
 病気に関してはすぐにコールして呼ぶところでも、常にスタッフが猫の手も借りたいくらい忙しすぎて手が回らないなかで、体位交換の10分後に微妙な位置で、どうも居心地が悪いと気付いても、わずかにずらすことでは、なかなかコールして呼びづらく躊躇(ちゅうちょ)しますし、テレビのチャンネルを変えるだけでコールして呼ぶわけにもいきません。また、必要なときにコールがうまく取れなくて呼べなかったこと等々不便なことが数え上げればまだあります。そんななかで、おおよそ何時に看護師が来るのか分かるようになったら、次に何を頼むのか常に考えていてそのときに優先度が高い2〜4つを頼むのが精一杯でした。
 全国的に入院中のヘルパー派遣は、主に意思疎通が難しい脳性マヒ者等を対象(言語障害のない全身性障害者も対象のところもある)に地域生活支援事業での「コミュニケーション支援事業」として、障害当事者が交渉して必要性を認められた何カ所かの市区町村で実施しているようです。気になる方は「入院時コミュニケーション支援事業」で検索されて下さい。区分○以上は全国一律に申請すると、入院中でも医療行為以外の介助をしていただけるヘルパーが派遣されれば、どんなに不便なく心安らかに入院生活を送れるかと思います。

編集委員:藤田 忠



 人工呼吸器を使いながら飛行機に乗る 

53歳、C4、頸損歴18年目、施設14年目、人工呼吸器、電動車イス使用

 「はがき通信」懇親会in沖縄になんとか参加できたことは前号(「はがき通信」123号)で報告しましたが、今回の旅行のもう一つの目的は飛行機利用でした。これについては、電動車イスのバッテリーにシールドタイプが必要と知って、3年前にそれまでのウェットタイプのバッテリーが寿命になって交換する時に、飛行機利用を想定してバッテリーはシールドタイプにしていたのですが、飛行機内はギャッチアップしている必要があるので、私の場合人工呼吸器を持ちこむというもう一つの課題がありました。
 ANAのホームページを見て障害者の窓口に電話打診したのは、昨年の12月中旬でした。人工呼吸器のことを言ってもそれほどネガティブではありません=呼吸器を使用して飛行機を利用した先達のおかげ。むしろ電動車イスが(最寄り空港の)新潟—那覇ラインの小さい飛行機に積めるかどうか(高さ制限=85cm)と、新潟空港に空港内用リクライニング車イスがないのがネックです。しからば、新幹線を利用して羽田経由で行けばいい=3月の新潟は雪が心配だけど羽田ならその心配もいらない。
 実は、この時点で行ける確率は5分5分と考えていました。(1)果たして施設は反対しないか?(2)ドクターは診断書(呼吸器使用者の飛行機利用に必要)を書いてくれるか?(3)その他見えていない障壁はないか?……(1)(2)の問題が出たら年数がかかっても交渉を始めるしかないし、(3)をあぶりだすにも今回をいい機会にさせてもらおうか?……そして、12月下旬の懇親会への参加申し込みに際して後押しをしてくれたのは、瀬出井さんの故中島虎彦さんの文章「頸髄損傷は会場までたどりつくことそのものに大きな意義がある。」の紹介(「はがき通信」120号)でした。
 施設は、ドクターの診断書を条件に許可してくれました。ドクターは最初ネガティブな意見でしたが、最終的には診断書を発行してくれました。これらにおいては以前の外泊許可問題(「はがき通信」92、101号)において、県の福祉サービス運営適正化委員会にまで相談を持ち込んだ私の姿勢等を斟酌(しんしゃく)したのかもしれません。また、これまでの実績の一歩一歩を評価してくれたのかもしれません。
 思いがけず?了解を得て、私に失敗は許されません。当初、私は呼吸器の外部バッテリーを購入すれば、それで行って来られるだろうと考えていました。通常私が呼吸器を使うのは就寝時とギャッチアップ時だけなので、呼吸器利用は飛行機内だけでいいはずです。取扱説明書等によれば、呼吸器の内部バッテリーは30分で外部バッテリーと合わせて4時間は使えそうで、それらのフル充電には人工呼吸器そのものから24時間かかるそうです。行きに飛行中3時間だけ呼吸器を使って、旅行第2日の昼は12時間をバッテリー2時間分の充電に呼吸器を使い、帰りに飛行中3時間だけ呼吸器を使おうというプランです。式にすると「4時間−3時間+2時間−3時間=余裕0」
 警告はANAから来ました。曰(いわ)く「外部バッテリーは離発着時には使わないでください。」そうすると内部バッテリーの30分しかないので、離発着を15分×2とすると全く余裕がありません。「離発着=ベルトを締めてくださいのランプがついてから消えるまで」とすると、ちょっと気流が乱れただけでその時間は延びてしまう可能性は大です。この時点で手動呼吸器=アンビューを購入することにしました。
 次に、人工呼吸器で本当に外部バッテリーを充電できるかを確かめておかなければなりません。ところが、どうしてもそれが確認できません。業者さんに来てもらったのは旅行前日でした。結局、人口呼吸器についている外部バッテリーの充電量を示す計器がおかしいらしいとのこと。旅行には、業者さんが持ってきてくれた充電器も持っていくことになりました。外部バッテリーも充電器も自分では確認していない不安=ダメの確率は小さいだろうし、もしダメでも内部バッテリーとアンビューで対応しようと腹をくくりました。
 旅行第1日目、朝7時半に施設を出発して、新幹線〜JR〜京浜急行を利用して羽田空港に着いたのはフライト2時間前でした。しかし、ANAからは1時間前にと言われ、また空港内用リクライニング車イスが空くまで待ってもらう可能性がありますと言われていたので、空港内で昼食をとってジャスト1時間前にANAのカウンターに行きました。(これが敗因の1=初めてなら特に早くチェックインした方がよかった。)それから、チェックインに思いの外、時間がかかり、(敗因の2=ANAとの事前の折衝は私一人で行なっていたのに、チェックインカウンターが狭そうで手続きを私の付き添いの人だけにやってもらったことは返って時間をロスしたかもしれません。)さらに電動車イスのバッテリーの配線をはずすのに時間がかかり、(敗因の3=Iさんの記事(「はがき通信」107号)で電動車イスのバッテリーはずしはあり得るということで、その方法を私の付き添いの人にシュミレーションまでしてもらっていたのに、空港係員がはずしてくれようとしてかえって時間をロスしてしまいました。)さらに検査において、荷物が多い(呼吸器、充電器等)分異常に時間がかかります。結局、ゲートに着いたのはほとんどフライト時間でした。
 ここでまたトラブル=ゲートの係りの人が私にリクライニングできる席が必要ですかって聞くので、できたらその方がいいという意味でYESと答えたら、すでに飛行機に乗っていたお客に席替えの交渉を一生懸命してくれたらしいのです。しかし、その便は運悪く満席=交渉に20分もかかったようです。(敗因の4=事前にはリクライニングは後ろの人に断って行なってくださいということで座席が決まっていたつもりなのですが、普通席をリクライニングすることが一般的でないようで、後ろに座席のない席とかに限られるようです。また、座席1列4人分が私と付き添いの人2人だけだったのは、ANAの配慮だったのでしょう。)
 やっとゲートを通って飛行機の入り口で機内用のリクライニングの効かない車イスに乗り換えて、座席での呼吸器のセッティングを待つこと10分ほど。(ギャッチアップしたままの10分は通常なら起立性低血圧+呼吸量不足による酸欠でアウトなのですが、いざとなったら車イスから下してもらって床に寝かせてもらおうと腹をくくって、深呼吸を一生懸命して10分を待つことができました。)後で聞けば、呼吸器を積んでいったキャリーカートに吸引器と備品と他の機器を入れるために合わせて積んでいったカゴが大きくて座席の間を通れず、飛行機入り口でカゴをはずさなければならないというトラブルがあったとか(敗因の5=旅行から帰ってANAのホームページを見てみたら、カゴは機内持ち込みの大きさ規格をオーバーしていました。キャリーカートが規格オーバーでも座席まで呼吸器を運んだら係員に渡せばOKと聞いていたので、カゴもそれで大丈夫だろうと一人合点してしまっていました。)都合30分遅れで飛行機はゲートを離れました。そうです=あの日、あの便を遅らせてジャンボ機の500人余りにご迷惑をおかけした原因の源は私にあったのです。
 帰りは同じ失敗はおかせないということで、旅行2日目に早めにホテルに戻ってANAに電話して上の敗因を率直に述べ、帰路の対策案も申し上げました。ANAでも対策を検討してくれて、最終的に明日は大丈夫そうと確認をとるのに3時間ほどもかかりました。特に座席については、荷物も多いので3席1列を2人で利用するということで1席分の追加を希望し、運よく満席ではなかったようで割安で了解してもらいました。
 旅行3日目の帰路は、那覇空港のANAカウンターにフライト2時間以上前に着きました。空港内用のリクライニング車イスに早々に移り、ANAの事務室の一室に案内されて、電動車イスのバッテリー配線をはずして早々に持って行きました。検査室にも早くに入り、ここでキャリーカートから呼吸器はじめ種々のものをバラバラに空港のカートと係員で持っていってくれます。ゲートも他の人より第一番目に通り、座席での呼吸器のセッティングを待って、そして係員3人で私を抱えて飛行機の入り口から座席まで運んでくれました。つまり機内用の小さい車イスは使わずに済みました。
 その後、他の乗客が搭乗するのを、余裕を持って待っておりました。後ろの座席には結局誰も座らず、満席でないのでANAが配慮してくれたものと思われます。誰にも断ることなく、離発着時以外はリクライニングすることができました。帰路については、気流が悪くて出発が30分遅れて到着〜帰りの新幹線に乗り遅れ、施設帰着が予定を2時間も遅れるというハプニングもありましたが、何とか無事に帰ってくることができました。ANAの方々をはじめ、皆さんに感謝いたしております。この経験を明暗ともに教訓として、次の目標は海外ということになるのでしょうか???(2010年5月19日記)

新潟県:T.H.


 3A+Aのページ
 http://www.h4.dion.ne.jp/~the-36th/



 気管切開し人工呼吸器ユーザに 

40代男性、筋ジストロフィ

 数年前、「はがき通信」懇親会に参加した頃と比べると体の状態が大きく変わりました。2007年8月に誤嚥(ごえん)性肺炎を発症して入院、翌日にタンが喉(のど)に詰まり心肺停止状態になりました。医療スタッフの処置で心肺停止状態を脱することはできましたが、あと少し対応が遅ければどうなっていたか分かりません。その後、気管切開し人工呼吸器を使うことになりました。
 回復し退院したのは2009年6月のことでした。完全には人工呼吸器から離脱できず、主に就寝時のみ人工呼吸器を使っています。就寝時以外の時間はスピーチバルブを使うことで会話が可能です。会話ができないころはコミュニケーションに苦労しました。また、タンの吸引が1日10数回必要です。外出時には吸引器を持ち歩き、吸引ができそうな落ち着いた場所や医務室を探すように気を付けています。
 便秘にも注意するようになりました。現在は漢方薬の大黄甘草湯(だいおうかんぞうとう)を毎日飲むことで快便です。3〜4日毎に下剤を飲む方法では便が固くて出血します。
 生活環境も大きく変わりました。退院と同時に1人暮らしを始めました。1日24時間の公的支援(23時間はヘルパー、1時間は訪問看護師)を受けています。入院して気管切開・体力低下・失業などを経験しましたが、1人暮らしを始めることができた点はよかったと思います。今は会社員時代が終わり、新しい生活が始まったと感じています。
 「はがき通信」を通じて色んな障害者の状況を見たり聞いたりしていたためか、精神的ダメージは受けなかったように思います。その点、皆さんには感謝しています。自分も多少なりとも情報発信して人の役に立ちたいと思います。

福岡県:K.M.



 怠惰な棚ぼた人生〜人間、こんなことでイイのかい?!〜〈後編〉 


 ◇成り行きまかせの復職活動
 しかしその後、職場の総務の人間が見舞いに来たり、組合の幹部まで見舞いに来て、後から知ったことではあるが、「ありゃダメだ。あの指も動かぬ障害では、何もできない」という結論に至ったようであった。そうする内に今度は、組合にも復職の支援をするよう組合機関誌に掲載する要請文を書くよう「指令」が来た。何も分からぬまま当時の私は、先の電動タイプライターで文書を作り、組合に送った。職場の同期の友人や同じ部署の同僚が、いつまでも腰を上げない組合に業を煮やし、組合に働きかけるために動いてくれたことは、やはり後から知ったことである。本当に有難いことである。
 そうする内に、入院生活も3年近くと長期に及び、そろそろリハビリテーションも病院としては新たに行うことがないということになり、国立の訓練施設に移ることとなった。
 こうして移った施設では、当時最重度と言われた頸損の入所者が増え、それまでの職業訓練に適わず、退所後の就職率が減る一方であった。そこに入って来たのが、曲がりなりにも復職の話の出ていた私であった。そんな私が頸損者の就職の道を模索していた指導課の指導員(SW)の目に留まったのは、言うまでもない。「是非やろう!」ということになり、その指導員が最初の働きかけをしてくれた上司と連絡を取り、つぎつぎと作戦を立ててくれた。外泊をして直接職場に顔を出して本人から訴え掛ける。復職判断の第1の関門となる職場の健康管理医に面会の予約を取り、理解を求める。復職後の仕事内容を上司に依頼してリストにしてもらう。SWはその要所要所で出張をして、私に同行してくれた。訓練施設もそうした特別な私の事情に全面協力してくれた。それまで施設内で電動車イスは使用しないことが原則であったが、復職すれば電動車イスを使わざるを得ないことから、たまたま施設に寄贈されていた1台限りのスズキの電動車イスに乗ることを訓練ということで許された。さらに、福祉への電動車イスの申請作業にもただちに入ってくれた。こうした願ってもない人物とタイミングに巡り会えたことも大きな棚ぼただった。
 そして休職期限が切れて自然退職となる3カ月前の正月、「押しかけ」「試行勤務」をすべく施設を長期外泊。期限の切られた復職活動を優先し、本来施設で行うべきADL訓練を犠牲にする最終判断だった。こうして正月明けに再び職場を訪れ、「試行勤務」が始まった。もちろん傷病で休職中の者に「試行」とは言え勤務と同じことをさせる訳には行かないと(それは復職機運を高めないための理屈だろうが)、総務からは許可は得られなかった。時間切れの退職を待つ姿勢だった。そこで、「元の職場の仲間にも会いたいので、ときどき職場に顔を出すことは構わないか」と質問したところ、それは構わないと言う。そこで私は、翌日から復職の認められるまでの3カ月間、フル勤務と同じ条件で毎日「ときどき」職場に通うこととなった。「通勤」は、上にも書いたが、たまたま職場が実家から歩いても40〜50分という場所にあったため、当時大学生だった弟が朝夕車で送迎してくれた。
 車は普通の乗用車だったため電動車イスは乗せられず、自宅で乗る時には手動車イスを後席の助手席側に車と直角に付けて、まず両足を後席のシートの上に乗せてもらう。こうすることで、お尻は車イスに乗ったままで車と直角に長座位の形となる。次に上体を前に倒して頭を車内に入れ、前屈状態となる。後席には予(あらかじ)め滑りのいいシート(触るとクシャクシャと音を立てる、多分ポリエチレンの薄いシート)を敷いてあるので、後席の運転席側に回った弟が私の両足首を持って、勢い良く私を車に引きずり込んだ。
 この乗車方法では、「勢い良く」というところがミソで、お尻は車イスと車のシートの間の15cmほどの隙間(すきま)を飛び越えるようにして車内に飛び込むことになる。手動車イスは自宅に置いてゆき、職場には電動車イスを置きっ放しにしておいて(帰宅後は職場で充電)、それを使った。降車は乗車と全く逆の手順で行う。
 乗車中は後席のシートに足を伸ばしたままで、ベンチシートに横向きに乗っていた。ブレーキを掛けた時に転げ落ちないよう、右手はシートの後ろに掛け、後席助手席側のドアを背もたれ代わりにして座ることになるが、10分程度の乗車なので問題はなかった。
 このころ、直属の上司は最初に復職の声を掛けてくれた人とはすでに替わっていたが、その新しい上司はたまたま私が就職した最初に私の指導係となった人で、前任者の意向をそのまま引き継いでくれた。「試行勤務」の仕事として用意されていたのは、そのころ障害者が手始めに行うことの多かった海外技術文献の翻訳・要約作業であった。元来英語が苦手の私には少し大変で能率も悪かったが、毎日毎日、辞書と首っぴきで翻訳作業を行い、要約したものは、病院時代にOT訓練で使っていたのと同じ機種の電動和文タイプライターが用意してあり、それで出力を行った。
 こうして復職期限の3月下旬まで休むことなく「押しかけ」「試行勤務」を続けた。この間には総務部長が見に来たり、健康管理医の面接があったりしたが、そのたびに私は「元の職場の皆さんの顔を見に来ています」とトボけていた。健康管理医はかなり時間を取って話して行ったが、当時、世間では近付いていた国際障害者年の話題がときどきテレビでも取り上げられていたこともあって、「思考機能には障害がないのにもったいない」「自分の息子も同年代で、今博士課程に行っている」などと、ほかの人間よりは好意的に感じた。ただ、肝心の直属の上司のさらに上の人間は、ときどき様子を見に来ては、いろいろと私にはできそうもないことを質問して帰って行った。それには、できることは実演をして見せ、直接できないことは、代替手段としてどう工夫しているかをいちいち説明して、その場をしのいだ。
 毎日「押しかけ」ていることは多くに知れ渡ることにはなったが、幸い職場への入構禁止という強硬措置は取られずに済んでいた。しかし、復職期限が刻々と近付いてもまったく音沙汰はなく、このままでは自然退職かと思い始めた期限切れの数日前になって「4月1日復職辞令」との内示が伝えられた。どうやら、誰も「悪者」になるのを嫌い、健康管理医に「身体機能が復職に適わず」の診断を出すよう依頼し、判断を押しつけようとしたが、思い通りの診断が得られなかったということのようであった。

 ◇鳴かず飛ばずの30年
 以上のような経緯で、その後30年に及ぶ障害者としての勤務生活が始まった。復職に当たっては、「職員は職務に専念しているのであるから、私個人の都合による身の回りの手伝いはいっさい行わせない」との条件が、辞令交付の前に、口頭とは言え総務部長の口から伝えられた。このため、食堂はセルフサービスであることと通路が狭いことから利用できず、毎日弁当となった。それでも、所属部署のある建物入口には段差部分に鉄板を置いてスロープとしてくれたし、トイレはそのころ車イスで使えるものは職場内に1カ所もなかったため、同一フロアのトイレのみ入口ドアを開放としてもらい、水栓はレバー式に交換してもらった。玄関ドアはノブなしの重い開きドアだったが、何とか自分で開けられた。部屋入口の開きドアはノブ付きだったため、これも開放としてもらった。エレベータの高いボタンは折り畳み傘の柄の部分のみを残し、先に指サックを付けて滑り止めとし、それで押して操作した。机はそのままでは低く足がつかえるため、「試行勤務」中は会議テーブルの下に有り合わせの物を置いてかさ上げしていたが、復職後は事務机の足の下に職場の試作係で作ってもらった下駄を履かせて合わせた。何もかも、最低限の対応での出発であった。
 こうして今年3月末にようやく定年退職を迎えた訳ではあるが、その間には、いくつもの山や谷があった。復職時の電動車イスはリクライニング式ではなく、毎日最低10時間は完全に座りっ放しだったため、座骨部の褥創(じょくそう)が頻発。復職4年後には学会誌に掲載する期限付きの依頼原稿を無理して作成したため、褥創が悪化。創部の細菌感染のため毎日発熱に悩まされ、入院した時には敗血症になったら命にも関わるところだったと言われる始末。その結果、臀部(でんぶ)の回転植皮術、1年の休職を要することとなった。その後は車イスを電動リクライニング式とし、午前午後の休息時間と昼休みにはリクライニングを倒すこととし、病気休暇は年に何回か取るものの何とか入院するほどのことはなくなった。
 膀胱結石(ぼうこうけっせき)も、復職後は毎年のようにでき、そのたびに入院しては採石術を受けた。10回は入院しただろうか。
 復職1年後には、実家からの毎日の送迎をしてくれていた弟が就職することとなり、通勤が難しくなった。このため、職場近くの電動車イスのみで通勤できる場所にアパートの部屋を借りることとなり、介護をしてくれる母と2人移り住んだ。その後は、雨の日には以前は山でよく使っていたビニール製のポンチョ(雨具)を改造して、それを着て通った。このポンチョは、脱ぐ方は自力でできたが、着る方は一部どうしても介助が必要だったため、帰りに着る時には「勤務時間後だから」との理由を付けて、職場の同僚に手伝ってもらった。
 時には腹具合が悪く、職場で便失禁し、休暇の届けは翌日するからと人から離れた位置で口頭で許可を取り、あわてて帰ることも何回かあった。幸い、家は車イスのみで帰れたので、「仕方ないので、臭気芬々(ふんぷん)、そのまま電車に乗って帰ったよ」と言う頸損の知人に比べれば気が楽であった。
 肝心の仕事の成果は、122号のKさんに比べれば恥ずかしい限り、結果として大きな成果も出せず終始した。上にも書いた手始めだったはずの翻訳作業は、ずるずると15年ほども続いた。突然「N君にも研究をしてもらわなくては……」と言われた時には40歳過ぎ。頭にはカビが生え、筆頭の成果は学会の大会でさえ2〜3本、マイナーな学会もどきに2本くらいのお粗末。
 そうする内に組織の改編で、所属部署がそっくり地方の支所に移ることとなり、それに付いて行けない私は、異動先を探す羽目になった。ようやく拾ってくれる人が見つかったものの、仕事の内容は、それまでの衛星通信からコミュニケーションに関わる福祉機器の研究開発へとまったくの異分野に変更になった。ここでも筆頭の成果はやはりマイナーな学会に3本。その後同じような組織ごとの地方移動で、別部署に移されて同系統の仕事を続けたが、そこでも2本程度であった。ただ、この分野の仕事は自分が障害者でもあり、興味を持って楽しめた。職場外の知人を多く得られる契機にもなった。「はがき通信」広報委員の麸澤さん、購読者のYさんなど、現在親交を持たせていただいている方々に出会ったのもこのころであった。定年前の4年間は、「窓際」と言ってはいけないのかも知れないが、研究者の研究環境を整えるための支援の側に回って事務作業に就いていた。

 ◇振り返れば
 以上が、私のイイ加減人生の主に勤務生活に係る部分の概略である。職場で守って来たことは、まったく当たり前の常識的なことであるが、規則は遵守すること、無断で遅刻しないこと、手続き等を正確・遅滞なく行うこと、仕事は約束した期限を守ること、また朝夕の挨拶(あいさつ)は誰にでも返事がなくとも必ず行うこと。それくらいである。
 組織とは、少なくとも私のいた組織では、一度復職が認められると職員として便宜は図られるようである。障害者となって復職してからの30年間、意見は聞かれるものの特に頼まなくても、いろいろと改善が行われた。私の職場は、年に1回の一般公開はあるものの、通常、一般の方の出入りはほとんどないに等しい場所である。しかしそれにも拘(かかわ)らず、私の通う本所のみでも、多目的トイレは「なし」→19カ所に増えた。各建物には必要な個所にはスロープが付き、入口はほとんど自動ドア、エレベータは全ての建物で障害者対応となった。このためでもないだろうが、有期雇用職員の障害者採用枠が設けられ、車イス利用者も私を含めて3人となった。30年間、私が職場にいすわったことで、多少はそうしたことに寄与できたのかも知れない。結局、私の成果と言えばそのくらいだろうか。

◇そして今
 そして定年後。Kさんは、向上心旺盛に新たな興味分野に研鑚(けんさん)を積まれているようであるが、最初にも述べたように怠惰で無趣味な私は、退職後は1カ月くらいは寝飽きるまで寝てみたいなどと考えていた。ところが、ここでまた「棚ぼた」が落ちて来た。組合時代は意見が合わず、いつも批判を浴びせられていた、今は総務の中堅幹部となっている人から、「Nさん、定年後は何か決まってるの?」と声を掛けられた。「無趣味だし、行くところもないだろうから、しばらくゴロゴロしてるかな」と答える私に、「それなら、再雇用制度があるのだから、手を挙げたら。話は進めておくから」と来た。私など、どうせ引き取ってくれるところなどないだろうとタカをくくっていたところ、たまたま私でも引き受けようと言う「奇特」な部署が見つかってしまい、今は観測データ読み取りの技術屋となるべく、嘱託としてまたまた新しい分野の苦手な勉強の最中である。こんなに同じ職場に迷惑を掛けつつ、しがみついていて良いものかと感じつつ……。

 ◇最後に
 最後になるが、これまで、ここに記した以外にも本当に多くの方に、陰に日向に助けられて来たことは言うまでもない。職場の同室の皆さんには、エレベータが故障した時には、4階から担いで降ろしてもらったことさえある。家族にも普通では考えられない苦労を掛けた。特に、私の帰宅後の夜間まで行わなければならない介護と毎日の弁当作りを担ってくれた、復職後14年間の母、そしてその後16年間の結婚後の私を母に代わって支えてくれた妻。母と別居していた間、不便を掛けた父。感謝しても、し切れることはない。何もお返しはできないが、心から「有難う」と申して、この拙文を閉じることとする。
 

東京都:M.N.



 総合せき損センター「排痰介助訓練システム」 


 総合せき損センターの医用工学研究部と看護部が協力して開発した「排痰介助訓練システム」についてご紹介します。
 排痰介助訓練システムは、新人看護師による排痰介助の学習法を改善することを目的に開発しました。





 頸髄損傷による横隔膜の麻痺のため、咳などによる自発的な排痰ができない患者がいます。
 その対応策の一つである胸部圧迫法は、呼気流速を看護師の外力により高めることにより排痰を促進させます。





 なお、不全麻痺で痛みを訴える患者や外傷のある場合は、胸部圧迫手技ではなく体位ドレナージ(体位変換により重力を利用して痰を移動させる方法)やハフィング法(吸気後、一気に「ハッ〜」もしくは「ハッ、ハッ」と強制呼出させる方法)で対応します。
 従来は口頭で指導していましたが、力加減をわかりやすく正確に伝えることは困難で、習得のためには実践経験が必須になることが問題でした。
 そこで排痰介助訓練シミュレータを開発し、圧力および呼気流速センサーを用いた胸部圧迫手技の波形表示により客観的な評価を可能にしました。
 そのため、新人看護師は熟練看護師との比較を視覚的に確認しながら、短期間で習得できるようになります。





 また、波形表示だけではなく、吸引カテーテルの操作、ICタグによる聴診音発生装置を用いた聴診音の再現などにより、排痰介助を一連の流れとして学習できます。





 さらに、本シミュレータに加えて、当センター仕様の新人看護師指導用ビデオも活用しながら、シミュレータによる演習、実技・学科試験といった排痰介助訓練システムを構築しており、4月のオリエンテーションで演習を行い、6月と10月に実技・学科試験を実施しております。
 実技試験はチェックシートによって、吸引者に関して18項目、介助者に関して16項目を項目ごとに4段階(3;きちんと実施できる、2;ほぼ実施できる、1;あまり実施できない、0;全く実施できない)で評価し、その結果を知らせています。
 総合せき損センター医用工学研究部では、随時研究・開発パートナーを募集しております。もし、興味があり協力できるという研究テーマがございましたらお気軽にご連絡ください。宜しくお願いいたします。

 独立行政法人労働者健康福祉機構
 総合せき損センター 医用工学研究部
 〒820-8508 福岡県飯塚市伊岐須 550-4
 TEL: 0948-24-7500
 E-mail: office@sekisonh.rofuku.go.jp
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