はがき通信ホームページへもどる No.123 2010.6.25.
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◆特集!「はがき通信」懇親会in沖縄2010

 今号の「特集」は、3月12日(金)〜3月14日(日)に開催された沖縄懇親会です。親睦を深め励まし合う目的で年に1度、仲間が一堂に会して集う懇親会や自由行動での(バリアフリー情報も含む)観光についてのご投稿を次号(8月号)と2回に分けてご紹介いたします。







 ◆特集 「はがき通信」懇親会in沖縄に参加 

53歳、C4、頸損歴18年目、施設14年目、人工呼吸器、電動車イス使用

 私にとって、「はがき通信」懇親会への参加は、長年の念願でした。2004年に一度計画したことがあったのですが、その時は施設から個人宿泊旅行の許可が出ず(「はがき通信」92号参照)、JRからは新幹線乗車を拒否されて断念せざるを得ませんでした。その後、施設からの外泊許可を得るのには、ドクターの緊急時の紹介状というアイデアによってですが、2年かかり(「はがき通信」101号参照)、新幹線は交渉の末、強行突破するまで2年かかりました(「はがき通信」103号参照)が、一歩一歩進めてきた結果、今回ようやく実現することができました。この過程においては、いろいろな方々にお世話になり、質問等のメールにも答えていただいたり、今回も実行委員長のIさんにお世話になりました。関わっていただいた皆さんに御礼申し上げます。ただ、2004年だったら向坊さんにもお会いできたのに、結局お話しできなかったのは残念なことでした。
 しかし今回、私は1日目夜のレセプションにさえ遅刻してしまいました。次号で紹介する飛行機利用のトラブルで思いのほか時間を要してしまい、さらに遅くなったら福祉タクシーを使おうと4社ほど電話番号を調べて行ったのですが、空港から18時ごろ電話してもことごとく「終わりました」という返答=これまで当日利用した経験のない私の見込み違いでした。仕方がないということで、空港から「ゆいレール」〜国際通りを車イスで行進しました。私の場合、ギャッチアップしないと車イスは動かない設計である一方、街中を移動中は呼吸器が大き過ぎて車イスに付けられないので、1分ほども動くと酸欠のためギャッチダウンして休憩しなければなりません。1〜2分ほど息を整えてからギャッチアップして進み、1分ほどでまた休憩=実際には、駅からホテルまでの800mを1時間ほどもかかってしまいました。(この時に経験した沖縄の人の温かさ=見てないようで人々は道をあけてくれるのです。大都市では人にぶつかりそうでいつもヒヤヒヤしていたのとは異なる雰囲気でした。それから、800mで「大丈夫ですか?」と2回も声を掛けられました。)結果として、レセプションに1時間ほども遅刻してしまいました。到着しても呼吸器を付けてさえ、か細い声しか出なかった時は、自分でもいささか驚きでした。皆さんに御心配をおかけし、皆さんが話しかけてくれても、まともに返答さえできない失礼は、体力の余裕のなさが原因でした。申し訳なく、また残念でもありました。
 そんな中、2日目はちゃっかり沖縄観光させてもらいました。皆さんと同一行動では、必ずや足を引っ張ると考え、別行動をとらせていただきました。万座毛で沖縄のエメラルドブルーの海を実感した後、介護タクシーの運転手さんの御案内で沖縄料理を食し、その後、首里城は守礼の門で記念写真(写真参照)だけとってきました。3日目の帰路の準備と疲労を考えて、ホテルには予定より2時間早く15時過ぎに戻りました。運転手さんは、Iさんが3年前の沖縄旅行でお世話になった運転手さんだったとか=リクライニングして重い電動車イスを観光地ほとんどで押してくださり、予定より早くホテルに戻っても、いやな顔もせず、時間計算してくださったり、3日目の空港まで急遽タクシーにするのに御自分は予定があるというので他のタクシーを手配くださったり、親切な方に当たってラッキーでした。





 今回は、参加し無事帰ってくることに力を使い切ってしまいました。そして、ようやく自分の限界を知りました。次の課題は真の意味での参加=皆さんと懇親を図ることですが、そのためには器具等の導入、工夫の開発が不可欠です。いつか皆さんとゆっくりお話しできることを次の目標とさせていただきます。(2010年5月19日記)

新潟県:T.H.


 3A+Aのページ http://www.h4.dion.ne.jp/~the-36th/


 ◆特集 はじめての沖縄旅行 


 沖縄が日本に返還されたのは、私が大学に入学して間もない4月28日でした。それまで外国でしたので、大学合格発表の掲示板に、沖縄出身の人が留学生と書かれていたのを覚えています。それから40年弱になりますが、なぜか沖縄に行く機会がありませんでしたので、今回は絶好の機会になりました。沖縄に関する情報は、米軍基地問題や先の戦争の悲惨な状況を伝えるものが多かったので、さぞ、基地や戦争の遺物にあちこちで遭遇するだろうと思っていましたが、そんなことは全くなく、平和な南の楽園でした。もっとも、そんな所だけを、観て回ったからかもしれません。
 初日の夕方のレセプションは感動的でした。日本全国から南の果ての島に車イスで介助者に付き添われてやってきて、一堂に会しての食事。順番に自己紹介をしましたが、皆、それぞれの地で障害にもめげずに、生活されているのだと思いながら、眺めているとジーンとくるものがありました。そして、たくさんの元気を分けてもらった気がします。余興の家庭的な雰囲気の島歌と、若者の勇壮な琉球太鼓(エイサー)には心安らぎ、よい想い出になりました。





 2日目は、高速道路を使って名護に行き、美ら海水族館を見学。とても大きな水族館で、いろいろな珍しい魚が人工の磯の海中を泳いでおり、まるで水中ダイビングをしている気分になりました。目の前を、10m近くもあるジンベエザメが泳ぐ姿には、圧倒されました。
 3日目は家族と首里城の見学。建物内も含めてすべてがバリアフリーで、しかも、案内係の方がとても親切でしたので、気持ちよく見学できました。
 那覇空港では珍しい車にも乗りました。那覇空港で、飛行機がオープンスポットに停車すると、機首の左舷にタラップが取り付けられ、一般乗客はそこから降りはじめました。自分も、車イスごと「御神輿」みたいに、数人がかりで担がれて降るのだ、いやだなあと思いながら待っていた。すると、今度は、機首の右舷のドアが開けられ、そこには大きなコンテナみたいものが取り付けられていました。なんと、これに乗せられて、空港ビルまで、快適に、運んでもらいました。後で調べると、その車は、車イスやストレッチャーの乗客が乗り降りするための専用の車「ストレッチャーカー」だと判りました。皆さんも乗りましたか?
 単独で旅行するのは、手配などに手間取り大変ですが、今回このような行き届いた楽しい沖縄懇親会をお世話下さいました実行委員の方々に感謝し、御礼申し上げます。

福岡県:M.I.



 ◆特集 「はがき通信」沖縄懇親会に参加して 


 3月12日羽田から沖縄へ、ミントの会の3人は細谷先生と一緒に飛行機に乗りました。これからの3日間、どんな出会いがあるのかワクワクした気分でした。
 私たちにとってこのような体験は初めてでしたが、初めて会ったのにホテルのロビーでも、那覇の市場の2階でも、気軽に声をかけていただいたのがとてもうれしかったです。
 パシャイは日本人ではないのに、こんなに素晴らしい方々に会うことができ一緒に過ごせたことは、何にも代えがたいことでした。本当にありがとうございました。このような出会いを是非、イランの障害者にも体験していただきたいと思いました。




     ●夕食レセプションにて:パシャイさん(左)と瀬出井さん


 もしできることなら、私たち「ミントの会」のホームページのペルシャ語のところに、皆さんと過ごしたこの3日間の出来事を載せさせていただけたらと思いました。
 一つ残念だったことは、ホテルの部屋のトイレが使えなかったことです。やはり、バリアフリーは大切だなーと思いました。今回の旅は、一生心に残る素晴らしい旅になりました。これからも何かの機会に参加させていただけるとうれしく思います。ありがとうございました。

 特定非営利活動法人 イランの障害者を支援する「ミントの会」
 http://www.geocities.jp/mint_assist/index.html

パシャイ ・ 大澤



 ◆特集 ハワイ以来の飛行機旅行 


 2泊3日の沖縄旅行は天候にも恵まれ楽しい旅でした。飛行機に乗るのはハワイ以来です。往きのJALは順調でしたが、座席が窮屈? 私のお尻が成長したのか少し痛かった。
 帰りのANAでは、バッテリーをはずされるかとヒヤヒヤ。事前に連絡を入れているからと主張し続け事なきを得ましたが、30分近く時間のロスがありました。空の旅は大きな楽しみですが、私たちの身体の一部とも言える車イスを引き離されると無事に対面できるまで不安が付きまといます。
 2日目はリフト車で観光に。朝、乗り込むとき、私の車イス運転ミスで帽子がリフト入り口に引っかかった。ケガが無くてよかったが、最近運転が下手になり、枯れ葉マーク(もみじマーク)を付けては? とヘルパーさんに冷かされています。




        ●牧志公設市場食堂・手前左よりGさんとYさん

 観光は高速道路を2時間ほど走り「美ら海水族館」へ。今まで水族館はいろいろ行ったが、人の頭ばかりでゆっくり見たことがなかった。巨大アクリル水槽は、マンタやジンベエザメなどがよく見えて素晴しかった。ゆうゆうと泳ぐ魚を見ながらの昼食も初めてで壮観でした。
 3日目の首里城は車イスでリフトに乗せてもらったり、意外とたくさん見せてもらえた。もっとバリアがあるのかなと思っていたが、今までになく観光ができて嬉しかった。沖縄のモノレール「ゆいレール」はボタン1つで(床がせり上がりスロープになる)バリアフリーに。駅員がスロープ片手にホームを走り回っている大阪の地下鉄とは大違いでした。その後、那覇空港に直行しました。





 現地での運転手兼ガイドの方にも大変よくしていただき、幹事の皆様にもお世話になりました。元気で過ごし、また参加したいと思います。
 

大阪府:M.G.



 ◆特集 「はがき通信」懇親会in沖縄にて 


 今回の懇親会は沖縄ということで、飛行機に乗っての旅でした。手動車イスでは何度か飛行機に乗ったことはありましたが、電動車イスでは初めてのことで、多少不安はあったけど、航空会社の方たちに接し、対応をみているうちに安心して任せられました。
 那覇空港に着き、電動車イスの無事を確認してホッと一息。モノレールに乗り、車窓から街を眺めると「木造建築がないな・・・」「沖縄の家たちにシーサーがいないな・・・」などなど、想像していた沖縄とは違っていて、街は高いマンションやビルが立ち並んでいて、「ずいぶん都会だな・・・」と、思っていたより、沖縄が栄えていたのにびっくりしました。
 牧志駅に着き、国際通りをホテルに向け歩いていくと店が建ち並んでいて観光客も多く活気があり、徐々に沖縄に来たという実感が湧いてきました。ホテルに着きチェックインを済ませ、部屋に荷物を置き、土産の物色に行こうと国際通りを歩きました。とりあえず、母が行きたいといっていた「謝花きっぱん店」を探してみました。行ってみると歩道が狭いうえに段差があり、私はお店に入れなかったので母だけが店の中に・・・しかたなく道ばたで待っていると、お店のおばちゃんが試食を持ってきてくれて食べさせてくれました。
 土産を少々買ってホテルに戻ると、懇親会が始まろうとしていたので、すぐに部屋へ荷物を置きに行き、会場へ向かいました。会場に行ってみると、顔なじみの人から初めて会う人もいて、和やかな雰囲気で自己紹介をしている最中でした・・・やはり、頸損仲間の元気な顔を見られるって良いもんです(^^)。三線やエイサーなど沖縄気分も満喫しつつ、今回の企画を実現してくれた実行委員の方たちに感謝しながら交流を楽しみました。
 2日目は美ら海水族館へ行きました。東京のN夫妻とリフト車に乗り込み出発。高速道路に乗り、車内からわずかに見える沖縄の景色を眺めながら、運転手さんやN夫妻と歓談しながらの楽しいドライブでした(^^)。2時間弱走ったところで美ら海水族館に到着。行ってみるとそこは水族館だけではなく、郷土村や植物園など色々な施設がある大きい公園でした。
 N夫妻と水族館へ入りましたが、私は最初、魚なんか見てもジンベエザメくらいしか興味がわかないだろうと思っていたのですが、これが結構面白い! ふだん魚や海の生物なんてじっくり見たことないので、いろいろな海の生き物がいるもんだと、見入ってしまいました。そして、美ら海水族館の目玉のジンベエザメを見つけました、さすがにデカイ! 勝手に親近感がわいてきた私は、ガラス越しに近寄ってジンベエザメに「めんそーれ」と挨拶をしてコミュニケーションを図りました、そうしているうちに確かな友情を感じた(嘘)私たちでしたが、私には限られた時間しかなく「まためんそーれ」と挨拶をし、涙が出そうになるのを堪えジンベエザメと別れたあと、水族館を後にしました。




            ●電動車イス・左よりIさんとNさん


 その後、昼食を食べようということになったのですが時間も微妙なので軽めに取り、N夫妻と集合時間を決めて、私と母はおきなわ郷土村へ行きました。そこに地頭代の家(王朝時代当時、地方行政を担当した領主の家)があり敷地に入っていくと、おばあさんがお茶と黒糖を出してくれました。庭の木の椅子に母が座り2人でくつろぎながら部屋の方を見ると、観光客の女性たちが楽しそうに三線(さんしん)を習っていました、おばあさんに屋敷の中を案内してもらい、何ともゆっくりとした時間が過ぎていくのを感じ心地の良い気分にひたってしまいました。
 夕方、ホテルに戻り、土産を買いながら夕食を食べようと国際通りに出て母と街を歩いていると、Nさんから「牧志公設市場の2階に食堂がある」と聞き、国際通りで土産を買いながら牧志公設市場へ行きましたが、市場の中で母が土産を買うのに夢中になってしまい「いい加減、食堂が終わっちゃうよ」と母を説得し、食堂へ向かいました・・・食堂に行くと、懇親会に来ていた頸損仲間や介助の方たちが、すでに盛り上がっていました(^^)。私たちもご一緒させてもらい、夕食を済ませ、また土産を物色しながらホテルに帰りました。





 最終日、頼んであった福祉タクシーに乗り、平和祈念公園とひめゆりの塔に行きました。帰りの飛行機の時間もあるので、ゆっくりとできなかったのですが、感慨深いものがありました。
 あっという間でしたが、楽しい3日間でした。次回の懇親会で、また皆さんに会えるのを楽しみにしています。
 

東京都:M.I.



 ◆特集 OKINAWA 


 ◇3月12日(金)
 気温5℃の早朝、極寒の伊丹空港南ターミナルに我が家のハイエースで到着。しかし、搭乗するはずのJALは北ターミナルと分かり、極寒の中を移動。海外の空港では、こういう時は巡回カートで移動できるそうだが、伊丹にはどうやらなさそうだ。しかもいったん屋外へ出なければならないとは。介助者2名と荷物を転がして漸く北ターミナルに到着。
 さっそくチェックインカウンターへ。事前にJAL「プライオリティ・ゲストサポート」に電話で伝えてあったのと同じ内容を根掘り葉掘り尋ねられて少しイラッとする。やりとりが終わったところで「スマイルサポートカウンター」に促され、行ってみるとまたまた同じ質問が始まった。3度目、しかもバッテリーを開けて見せろだのと宣いはじめたので・・・切れる。ブチッ! 半泣きのスタッフに「プライオリティ・ゲストサポート」の担当者の名前を告げ、事前通告内容をその場で確認させ、帰りの便で同じようなことがないように念を押す。懸案のバッテリーは電源スイッチをオフの状態で封印することで決着。電動車イスは姿勢保持装置を含んで、体の一部であり、精密機械であることを伝え、荷物カートを預けて出発口へ。減圧に備えて導尿キットは手荷物にしていたが、メンテナンス用の工具をゲート内へ持ち込みそうになった。危ない、危ない。
 そして、いよいよ搭乗口。しばらく待っていると、来た来た、これが噂の機内用(こども用?)車イス。改めて床擦れの恐怖を伝え、できるだけ(こども用?)車イスに乗っている時間を短くするように伝える。4人がかりで移乗。意外にもすっぽりと収まる。プチプチに覆われた愛車RANGER−Xとはしばしのお別れ。(こども用?)車イスに移動用車輪が取り付けられ、エプロンを通って機内へ。見たところエプロンには大した段差もない、というかむしろバリアフリーになっている。(こども用?)車イスに乗り換える意味はないように思われる。
 機内に入るところには段差がある。座席はクラスJをカウンターで追加指定したが、最前列を確保していてくれたので再移乗も無理なく完了。搭乗時のトラブルについては聞き及んでいたものの、あまりにもその通りだったことには苦笑した。しかし、笑っていたのもここまで。ハッチが閉まったとたん我に返った。閉所恐怖症、暗所恐怖症、高所恐怖症、パニック障害の持ち主が初めて飛行機に乗るという現実に引き戻された。
 動き始めた。眼前のモニタがコクピットからの視界に切り替わる。滑走路に出て行く。モニタは六甲山から長尾山系にパーン。北西に離陸するようだ。急にエンジン音が高くなり、徐々にスピードが上がっていく。早いの怖いよ〜。停めてくれ〜。8時40分。
 窓から差し込む光の色が変わったような気がした。機体が右旋回をはじめる。モニタに島影が見えてくる。どうやら北西から着陸するようだ。11時00分、定刻通り那覇空港到着。那覇ではリクライニングもできる機内用車イスが用意されていた。移乗して、愛車を待つ。光だけでなく空気も違う。より自然に近い。駐機してあったピカチュウのラッピング機体が飛び立ったころ、愛車無事到着。時間がゆっくり流れている気がする。愛車に再移乗して荷物を受け取り出口へ。空港内のムービングウォークはなぜか車イスでの利用禁止の看板がでかでかと掲げられている。海外では考えられない差別扱いに唖然とする。移動制約者がさらに移動を制約される設備があっていいのだろうか?
 2階からは沖縄都市モノレール「ゆいレール」の駅につながっている。20℃を超えただろう気温は心地よさを頬に残していく。基本的にどのゆいレール駅も2階が改札で3階がホームになっている。エレベータは各最低1ルートは確保されている。2両編成で1車両に2ドア。駅には可動式ホーム柵が完備。那覇側から二つ目のホーム柵下に引き上げ型のスロープがあり、乗降時に駅員が操作する。全柵にスロープを常設すればいいのに、無駄なことをしたものだ。
 那覇空港駅で乗り込んだら広島組の2人と遭遇。車窓には緑がまぶしい。市街地に入ると、ビルの屋上には妻夫木聡がひとり暮らしをしていそうな小屋が並んでいる。こころなしかひともゆっくり歩いている。思い込みから牧志駅まで切符を買ってしまった。大人260円、沖縄の物価に比べるとやや高め。
 牧志駅で下車し、国際通りで宿泊先のホテルJALシティ那覇を目指す。歩道のアップダウンはかなりきついものがある。国際通りの中央付近にあるホテルに正午過ぎに到着。チェックインを済まして、昼食処を物色。なかなか入れそうな店は見つからず、来る途中見かけた三越に。「そば処・琉風」で沖縄そば。塩味の出汁に中平縮れ麺、トッピングは豚角煮。これが関西人の味覚にビンゴ。定食なのにひとり700円程度というお得感も。
 再びゆいレール牧志駅から首里城を目指して首里駅まで。首里駅から首里城までは徒歩30分弱。歩道は狭い、傾いてる、真ん中に電信柱がある・・・と、と〜ってもバリアフル。途中で見切りを付けて車道を行くことにする。どうにか守礼門まで到着。首里城は正面から入るには階段だらけで、出口から入ることになる。城郭内は有料(800円)になるが障害者と介助者は無料。ここで広島組と再会。正殿は塗り替え中で、独特の赤を損なわないように足場や防護ネットも赤く色づけしてあった。エレベータ、斜行エレベータ、段差解消リフトなどで極力すべての展示を観られるようにはしてある。展示は沖縄と首里城の歴史を物語るもので、迫力がある。帰路についたところで、首里城へ向かう神奈川3人組と遭遇。帰途は隣の儀保駅へ向かう(首里駅にあった案内に従いました)。儀保駅からゆいレールで県庁前駅まで行き、ホテルまでの道すがらお土産を物色。その後ホテルでの懇親会に参加。   




            ●守礼門(県指定文化財)の前で


 ◇3月13日(土)
 ホテルの朝食はビュッフェ・スタイル。沖縄らしさ満載で、八重山かまぼこ、もずく、煮物やおかゆと食べる油味噌など2日にわたって楽しませてもらった。この日は、終日、日興タクシーのハイエースの旧ロングタイプ天窓有り車両(にこにこ号)で運ちゃんのMさんにお世話になる。
 まず、目指すは噂の「美ら海水族館」。那覇市街地を抜け、沖縄道路へ。30分ほどすると左側にフェンスが続く。嘉手納基地だそうだ。沖縄で数少ない平野部を5キロ四方以上の面積が占領されている。基地がなくなればそれに関わる雇用を心配する声があるが、これだけの面積に産業を誘致すればあまりある雇用が創出できそうだ。居住区には米兵の家族も同伴されていて、市街地では観たことがないような豪華なスクールバスが30台以上並んでいた。思いやり予算という名目の無駄遣いも大概にしてもらいたい。沖縄道路を降りて名護の西海岸沿いを走る。海の色がエメラルドからモスグリーンに徐々に変わっていく。「岩が沖縄している」と叫んだらMさんは笑っていた。石灰岩の波打ち際が浸食されてキノコのようになった岩が沖縄には多い。
 今日の第1目的地は、正式名称「沖縄美ら海水族館」。1975年に沖縄海洋博覧会の開催された跡地を整備した海洋博公園の一施設。入場料は1,800円だが障害者と介助者は無料。また、近くのコンビニなどで1割引になる(Mさん情報)。海のエリアまで含めた規模は、神戸市立須磨海浜水族園や海遊館(大阪市)よりも大きい。ただし、高低差が激しく、車イスでの移動はかなりハードになる。目玉は何と言ってもジンベイザメなどが入った大水槽。全体のボリュームも2時間でマナティ館も含めて早回しで観たけど、まだまだ残っている感じだ。お土産を物色したあと神奈川コンビと入れ違い水族館を後に。
 Mさんの案内で、海洋博公園近くの「やんばる海の駅」という道の駅みたいなところへ。「海邦丸」という食堂で刺身盛り合わせと海ぶどうを食す。刺身はほとんどが鯛の仲間で、皮のままでも軟らかいので食べられる。淡泊ではあるが、海ぶどうと食べるといい。また、飽きてきたところで油味噌を挟むと口がリセットされる。たとえ皮が青くてもおいしい。
 今日のもうひとつの目的地は万座毛。にこにこ号で1時間半ほど、西海岸一の絶景にたどり着く。描写は筆舌に難いのでやめておく。あとから来たガイドが、写真でお馴染みの象さん岩を指して、「あれが万座毛だと勘違いしている方が多いですが、あれは象さん岩で、万座毛は皆さんのいるここです」と力説しているのが妙に面白く記憶に残っている。





 万座毛を後に那覇に向かいしばらく行くと再び左に嘉手納基地が。そして、右からF−15C戦闘機らしき機影が。こんな日常があっていいのだろうか。もし必要なのだとしても、この苦痛を沖縄だけに押しつけていいという理由はどこにもない。嘉手納基地が終わったら次は普天間基地。Mさん曰く「この丘の向こう」と左手の住宅地を指さす。言葉にならない。兵庫県民としては不要不急の神戸空港を売り渡したいくらいだ。
 予定時刻を30分近くオーバーしてホテルに到着。Mさんは予定の金額しか受け取らなかった。少し休んで国際通りに繰り出す。夕食は、「千と千尋の神隠し」の湯屋のような店構えの「御菓子御殿国際通り松尾店」。ラフテーは軟らかい、テビチはとろとろ、パパイヤ炒めはジャガイモっぽい。どれも絶品。沖縄料理大好き。


 ◇3月14日(日)
 共同交通のハイエースのロングタイプ天窓無し車両で運ちゃんのGさんにお世話になる。今回の旅は行き当たりばったりだ。首里城行きもチェックイン後に決めた。水族館・万座毛はMさんに決めてもらった。今日も、こちらから「どこ行きましょう」と問いかけるといういい加減さだ。 
 車はサトウキビ畑の真ん中を走っているらしい。天窓がないから何も見えない(涙)。まずはGさんお薦めの玉城村にある「おきなわワールド 文化王国・玉泉洞」。入場料は600円(障害者と介助者はそれぞれ330円)。ここは、沖縄の歴史・文化・自然をまるごと体感できるテーマパーク。国・登録有形文化財に指定された古民家で伝統工芸の制作体験ができる。ところが順路の最初の鍾乳洞・玉泉洞がバリアフル。Gさんの案内で出口から逆にまわっていく。エイサーの演奏、泡盛の製造ライン、織り、染、シーサーの絵付け、ガラス工房など楽しめました。個人的には土染めが妙に気に入った。あの微妙な黄色が忘れられない。
 3日目の正午を過ぎると流石に3人とも疲れ気味で、朝食の食べ過ぎもあり、昼食抜きで平和祈念公園の「平和資料館」へ。入場料は300円(障害者と介助者は無料)。そこには安土桃山時代以後の沖縄の歴史、特に明治以後の国策の取引材料に使われ続けた悲しい歴史が語られていた。言語学上アイヌ語と琉球語は日本語の方言ではなく中国語とも違う独立した言語だそうだ。今沖縄地方で話されている言葉は、明治以後の日本の同化政策でしゃべらされるようになった言葉らしい。
 展示は進み、太平洋戦争突入から沖縄戦へと遷っていく。沖縄戦は硫黄島などと同様に本土陸上戦を遅らせるための時間稼ぎだったらしい。しかも民間人を盾に・・・。その民間人を艦砲射撃した上で、平気で火炎放射器で焼き殺す米兵。。。半年ほど前、ドキュメンタリー映画「ひめゆり」を観た。ひめゆり部隊の生存者が65年以上経ってやっと語りはじめた真相を撮った作品だ。そのことが思い出された。資料館の映像展示で火炎放射器の炎が洞窟の入り口へ向かって伸びた瞬間、思わず目を伏せてしまった。沖縄の皆さん、ごめんなさい。もうそれ以上見続けることができなかった。ジオラマを避けるようにくぐり抜けると突然視界が開けた。小雨にむせた少しざわついた糸満の海が270度ひろがっていた。





 15時、那覇空港着。早めにチェックインして、4階レストランフロア「どんぶりの店 志貴」で遅い昼食。ゴーヤー丼、ミミガー丼、最後までおいしい沖縄の食事でした。さていよいよ後は帰るだけ。搭乗ゲートをクリアして、出発ゲートへ。誕生日を沖縄で迎え、ご満悦の介助者Cと、この3日の間、夫婦間の問題を解決できず焦りまくる介助者Hをよそに暮れなずむ出発ロビーで楽しい思い出を繰った。やがて機内用車イスがやってきて、移乗、エプロンから機内へ、介助者Hの機転で枕をクッション代わりに座席の左右において座骨を浮かせて座ることにした。「友人が乗ってない」、映画「フライトプラン」にあったような台詞を誰かが言っている。。。急にエンジン音が高くなり我に返る。徐々にスピードが上がっていく。早いの怖いよ〜。停めてくれ〜。18時15分。定刻10分遅れ。
 窓からは沈んだはずの最終日の夕陽がまた見えた。雲の上、不思議な風景だ。それも夜の帳にかき消され、漆黒に包まれていく。
 目が覚めたらモニタにはぽつぽつと街の灯が。そのぽつぽつが光の川や海に変わっていく。道路や交差点がはっきりとわかる。滑走路の空きを待っているようだ。着陸態勢に入った。淀川の上に阪神高速、滑走路、その上に長尾山系。光だけだが、南東から進入しているのがはっきりとわかる。ランディング。できるだけ座席で待って、機内車イスへ移乗。しばらくするとハッチの前まで愛車がやってきた。JALもやればできるんや。20時15分、定刻20分遅れ。寒い。またまた南ターミナルで待つハイエースまで移動。え、北ターミナル前にも車イス用一時駐車スペースあったの?(涙)
 

兵庫県:うめ吉

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