こだま363号 2008年8月号


  目次
視点…1
【特集】8月の暑い日…5
信州に行ってきました…12
【読者投稿】2編…18
【連載46】 点字図書、録音テープ図書、ビブリオネット・モバイルまで…23
ビールについての教養講座…26
情報アラカルト…28
ありがとうコーナー…29
役員会だより…30
日程情報…32
編集後記…35
(目次 終わり)

   視点
  鍼灸に思う
 8月9日は「鍼灸の日」、提唱したのは全鍼師会、日盲連は「鍼灸マッサージの日」と言っている。8と9の語呂合わせだ。日本語の性格(特徴)を使っての語呂合わせが好きなようだ。よく知られているのは3月3日の「耳の日」、6月4日の「虫歯予防の日」、11月22日の「いい夫婦の日」など。記念日とか忘れないようにとか、健康や潤いのある生活のために利用しているのだろう。
 鍼灸の日にまず私が言いたいのは、先師 杉山和一(わいち)検校 ご恩徳に感謝する日にしたいということである。
 杉山検校は江戸時代の人(1610〜1694年)。伊勢の国に武士の長男として生まれ、5歳で失明。17、8歳のとき江戸に出て山瀬琢一の門に入るが生魯鈍と言われて破門される。入江流の鍼灸を習うためか京都に赴く途中、江ノ島の弁才天にこもり21日の満願の日に、木の葉に包まれた松葉を手に触れる夢を見た。このヒントにより、後に管鍼を考案。四代将軍に見出され、五代将軍の病を鍼で治し、本所一つ目に家屋敷を賜り、800石を与えられた。
 これは伝説的向きもあるが、和一が鍼の道を究め、各所に「鍼治講習所」を作り、特に盲人に鍼灸あんまを教え、幕府の庇護もあって職業的自立をさせたことと共によく知られている話である。この「鍼治講習所」は明治3年まで残っていた。
 鍼灸あんまは、江戸中期までは漢方は薬や養生法などと共に「医学」とよばれ、国民大衆に深く浸透していた。それ以後はオランダ医学(蘭方)が進出したため、蘭方と区別するために「漢方」と称された。明治維新以後は蘭方など西欧医学を日本の医学とし、「漢方」は禁止されてしまった。
 日陰者にはされたが国民の強い支持を得て、漢方はひそかにも盛んに残り 研究も進められた。晴盲にかかわらず 鍼灸あんまを業とし、教育している者は杉山検校のご恩徳に浴している訳だが、特にここで強調したいことは、京都や東京の盲学校で、明治20年頃から鍼灸あんまの教育が始まり、明治44年には内務省令で、鍼灸あんまを盲学校の正規の職業教育として認可したことである。しかも大正12年からは盲学校の鍼灸あんまを教えるための教員養成が始まった。
 以後、師範部講習鍼按科を卒業した若者が全国の盲学校に赴任し、現在もその制度が続いている。この制度は世界のどの国にもないことで、盲人の自立厚生に計り知れない恩恵となっている。
 漢方禁止令の中で、こうしたすばらしい制度が続いているのは、まさに杉山検校が江戸時代に残した実績のお蔭なのであり、誰もが認めている。検校が残した杉山三部書はわかりやすい本だが「素問(そもん)」「霊枢(れいすう)」「難経(なんぎょう)」など、古典に基づくもので、今でいう経絡治療の原典である。
 私が定年退職して直ちに開業し 経絡治療一筋に歩んでいる意義は、この道を究めたい、後輩たちの指針になりたい、己の生きがいにしたいという信念からである。経絡治療を身に付けることは大変難しい。難しいからこそやりがいがあるのだ。私の教え子を見るだけでも 経絡治療家は多くの患者に信頼され、たくましく営業している。
 盲学校、教員養成施設、筑波技大、さらには晴眼の養成施設において鍼灸あんまの伝統(本道)をもう1度見直し、実力のある鍼灸あんま師、教員を育てて欲しいと願う。
 良心的な学生は、資格は取れても夢と希望を持てないでいる。「これでは教員になる自信が持てない」という声を実際に聞いている。卒業後、経絡治療を学びたい者がいれば、個人としても関わりある団体としても喜んで協力する用意がある。
     編集委員会  佐野 昭典

   【特集】8月の暑い日
 戦後63年目の夏、戦争の記憶が人々の記憶からだんだん消えようとしています。そうあってはいけないと私たちは、東視協の戦争体験者に毎年この時期、体験談を書いていただいています。今年もお二人のかたに当時を振り返っていただき、体験を書いていただきました。

  「私の兄のこと」
     北部  井上 毅三
 私には、兄が二人いました。上の兄は陸軍の整備兵で終戦の時、熊本の飛行場にいて 無事復員してきました。下の兄は、海軍の軍属で終戦の5ヶ月前フィリピンのミンダナオ島のザンボアンガで戦死しました。この兄は、工業学校の建築科を出て、呉(くれ)海軍施設部に就職しました。就職口はもう一つ住宅営団というのがあったのですが、兄は海軍の方を選びました。就職して はじめは内地勤務でしたが、その後、外地勤務となり、昭和19年7月に、呉を出ました。行き先はジャワのスラバヤということでした。
 そして、兄が出てから1年後、戦争は終わり復員が始まりました。私たち家族は今日は帰ってくるか、明日は帰ってくるかと待っていました。ところがある日、兄が出た工業学校から兄が戦死する前、何日間かを壕の中で一緒に過ごしたという石見さんというかたが紹介されてきました。母はすぐ兄の写真を岩見さんに送りました。折り返し、石見さんから「一も二もなく、この人です。」という手紙が来ました。それで、兄が帰ってくるという望みがなくなりました。
 その後、石見さんにお会いして、詳しい話を伺いました。兄は、ジャワのスラバヤに行くと言って出ましたが、船はフィリピンのザンボアンガに寄ったところで沈められ、皆 岡に上げられ、そこへ米軍が上陸してきたので山中を退却することになったのでした。食糧は2年分ぐらいあったのですが、米軍の上陸があまりにも早かったので、食糧を残したまま逃げたということでした。兄は、伝令として、壕から壕へと走り回っていたそうです。兄は、伝令の役を終えて自分の壕に入ろうとするところで弾に当たって、一声 大きな声を上げて息絶えたということでした。石見さんの話では、「お母さん!」と言ったみたいに聞こえたということでした。(兄18歳の時でした)
 私が小学校を出た頃は、義務教育は小学校6年生までで、その先は余裕のある家の子は上級学校へ進み、あとは高等科という2年課程へ進みました。この課程は、余裕のない家の子を救済する目的で作られていたような気がします。私が高等科を卒業するとき、男子12人全員 担任の先生に引率されて、海軍志願の試験を受けるため、山陽線の駅の近くの学校まで泊りがけで行きました。結果は背が足りないとか、体重が足りないとかで全員不合格になりました。私は、近視で視力が足りず「眼を良くして来年来い」と言われました。私は眼は1年経っても良くはならないのにと思いました。
 高等科の同級生で、E 子さんという、勉強が良くできた生徒がいました。E 子さんは、逓信講習所に入り、その後、広島市内の郵便局に勤め、原爆に遭いました。建物の中だったのでケロイドにはなりませんでしたが、髪の毛が全部抜けたということでした。勉強ができたのが仇になって原爆に遭うことになりました。
 あの戦争では、どれだけ多くの人の人生が狂わされたことでしょうか。

  「戦争中の食糧事情について」
    東部  平井 久子
 1931年9月の満州事変に始まり1937年7月の廬溝橋事件をきっかけに、日本は日中戦争へと突入してゆきました。
 翌1938年4月に国家総動員法が公布・施行され、私たちの生活は徐々に戦時体制へと移行していったのです。はじめのうちは戦争中だという実感がなかったのですが、戦局の拡大とともに1939年4月、米穀配給通帳制、外食券制が始まり、1940年11月、砂糖の配給統制、1941年5月、肉なしデーと国民生活は制約を受けるようになりました。肉なしデーは月2回、肉屋さんは一斉休業し、飲食店では肉料理は出さないというものでした。その他 みそ、醤油、塩、小麦粉、食用油なども配給制で、卵は隣組で2人当たりに1個、乳製品は満1歳までと制限されました。野菜も八百屋さんの店先に並んで、配給を受けるのですが、何が手に入るのか 行ってみなければわからないという状態でした。
 菓子の配給もありましたが、月1回位で 1人当たり 乾パン5、6個で、ようかんを期待していた私はがっかりでした。
 1941年12月8日 日米開戦、はじめのうちは良かったが半年後のミッドウェー海戦で敗れ 制空権を米軍に握られてからは日増しに敗色が濃くなっていく。生産力を軍備に集中したため生活必需品にも事欠き、食糧難も日々に進行してゆきました。戦中戦後の食物で印象に残っているのは、すいとんや雑炊でちょっぴりのお米に、大根の葉、芋のつる、じゃがいも(皮つきのまま)のかけらなどをシジミやタニシのむき身をだしに、代用醤油で煮込んだもの。代用醤油は、原料の小麦や大豆が不足したためにアミノ酸に食塩を混ぜて作られたもので、戦後もしばらくの間 出回っていました。

   信州に行ってきました
     西部  加藤 厚実
 去る7月19日〜21日にかけて、岡山の岡崎茂明さんが企画された信州旅行に東京から、菅井さんご夫妻、西原和子さんと共に参加してきました。
 高速バスで長野に到着した私たちは、神奈川、岩手の仲間と一緒に名古屋からやってくるツアー本隊のバスを待ち受けます。3連休初日の渋滞で定刻より40分遅刻した私たちでしたが、名古屋からのバスも30分遅刻したため悠々セーフ!
 全員がそろったところでまずは善光寺に参拝。山門の前でお土産物屋を営業している店主さんのガイドで、大きな山門や善光寺本堂を見学。時間の都合で名物の「お階段巡り」は できませんでした。
 その後 一行を乗せたバスは「戸隠バードライン」を通り、今夜宿泊するペンション「アコールデ」がある戸隠高原に向かいました。ペンションがある戸隠高原の標高は1,300メートルあり、バスを降りるとひんやりとした澄んだ空気が私たちを迎えてくれました。
 夕飯はチキンのソテー、川魚の塩焼き、キノコ汁など 地元で採れたと思われる食材が多数 出されていました。夕食後の交流会では、ペンションのオーナーによるアコーディオン演奏も加わり、初日から大盛り上がりです。ちなみにペンションの名前の「アコールデ」は、楽器のアコーディオンのドイツ語読みからきているのだとか。
 翌朝は午前6時スタートのバードウォッチングから始まり、朝食をはさみ、バスで「戸隠森林植物園」に移動して園内を散策。地元で民宿を経営されておられる吉井さんというかたが、とてもわかりやすい解説をしてくださいました。
 戸隠には「キビタキ」「ノスリ」「ウグイス」「アオジ」「ニュウナイスズメ」「アカハラ」「ミソサザイ」といった野鳥が生息しており、それら野鳥のさえずりを聞きながら「ツルアジサイ」「姥百合」「栃の葉」などを触って観察しました。
 1時間近く植物園を散策した後は、野尻湖に移動して遊覧船に乗船。野尻湖の海抜は654メートルで湖を一周すると17.5キロメートル、諏訪湖や芦ノ湖と同じくらいの大きさだとか。船のデッキは暑かったですが、走っている時は風が当たり とても涼しくて気持ちよかったです。
 昼飯は、団体予約してある「樹香(じゅこう)」というレストランでそば定食をいただきます。定食はトリの照り焼き丼とそばがセットになっているのですが、そばが出てくるのが遅いのには少々腹が立つ思いも。まあ、そばの本場 戸隠だけあって、出てきたそばは確かに美味しかったですけどね。
 昼食を済ませた後は野尻湖 ナウマンゾウ博物館を見学、学芸員のかたの案内で、重さが3キロもある本物のゾウの歯の化石やゾウの環椎・軸椎などを、特別に触らせていただきました。ゾウの歯の表面には、あんなシマシマの凹凸があるなんてこと、はずかしながら私は知りませんでした。
 4万年前のゾウの化石に触れた後は、信越線の黒姫駅近くにある「一茶記念館」を見学、戸隠は俳人 小林一茶の故郷だそうで、その記念館と墓を学芸員のかたの案内で見学しましたが、この頃になると早朝からのバードウォッチングの疲れがたまり、説明ビデオを観ていてもウトウト、内容はほとんど頭に入らなかったですね(苦笑)。
 宿舎に戻り、ハンバーグと煮魚で夕食を済ませた後は、今回の旅行のメインイベント、西日本を中心に活動しているフォークソンググループ「フリーダム」を招いてのコンサートと歌声パーティーです。「フリーダム」は、オリジナル曲と合唱を取り混ぜながら約2時間、会場は皆さんの歌声と熱気で最高潮。
 3日目は午前中「松代(まつしろ)大本営」跡のうち「象山地下壕」を、松代大本営の保存を進める会の深沢さんの案内で見学しました。
 松代大本営は太平洋戦争末期の戦況悪化の際、国の中枢機能や皇居を移転する目的で1944年11月から9カ月という短い期間に、朝鮮半島より徴用された労働者7千人を含めた1万人以上にものぼる労働力を要して造られたとのこと。また地下壕は象山の他、水上山、舞鶴山にも作られ、象山には政府機関・NTT(当時は電電公社)・NHKが入る予定だったそうです。
 地下壕の総延長は10キロ以上にも及び、広さは4万3千平方メートル、甲子園球場が4つも入ってしまう大きさだとか。このうち一般公開されているのは、象山地下壕の500メートルほどだけだそうです。
 壕の中の気温は一年中通して15度で、中に入った時はとても涼しく感じました。また、壕は縦方向と横方向に通路が作られ、岩壁には削岩機を当てた痕跡も残っていました。
 松代大本営跡を見学した後は上信越道・長野道を経由して松本へ。中華弁当で昼食を済ませた後は松本城を見学する予定でしたが、あまりにも暑かったので 私たちを含め数名は、天守閣の登頂は遠慮させていただき、近くの喫茶店で涼をとっていました。その後、私たちは旅行本隊と別れ、松本から特急「あずさ26号」で無事に戻ってきました。
 紙面の都合で、詳しく書けないのが残念ですが、久しぶりに大人数での旅行でしたが、全視協大会とはまた違った雰囲気で、とても新鮮な楽しい旅行でした。

   【読者投稿 1】「視覚障害者移動支援事業従事者 資質向上研修事業」に参加して
     西部  佐藤 直子
 結構おもしろかった、というのが素直な感想です。
 会場となった日本盲人福祉センターに行く途中、そこを目指しているらしい全盲の男性に声をかけて一緒に歩いた時、細い道に対向車が来たので二人で道路脇に寄りました。そういえば相手の右側についてしまったけれど、普通は右手に白状を持つからガイドは左側につくべきだったかもしれないと思い、男性に聞いたら、「今、車は右側から来ますから、車の来る側にガイドがつくのが正解。だからこの場合これでいいんです」
 自分が無意識にやっていたことが、ガイドヘルパーとしては「正解」だったというのは驚きでした。
 自分がアイマスクをつけての実地訓練。これは、少し怖い。以前、盲導犬使用者の浅見さんから聞いたことを思い出しました。「犬を信じなかったから落ちたんです。犬を信じるべきだった。」この場合は「犬じゃなくて、ガイドを信じろ」ですが、心の中で「犬を信じよう、信じよう。」と唱えて歩きました。
 とにかく、今まで自分がガイドしてきた皆さんがいかに歩くのがうまいのか、いわば視覚障害者の「プロフェッショナル」であったのだと知りました。アイマスクをつけた「素人」をガイドして歩くのは、特にエスカレーターや階段など大変でした。
 バスの乗降の訓練の時に、遠くでセミが鳴いていました。アイマスクをつけるまで、セミの声には気づかなかったなあと不思議な気がしました。

   【読者投稿 2】カラオケと私
     北部  川井 由美
 私が実家にいる時、母方の身内の集まりがお盆、正月などに必ずあり、その時には母の実家の2階でカラオケをやるのが年中行事でした。皆が歌うので、例外なく私も歌詞を いとこたちに読んでもらいながら歌いました。そのときは人前で歌うのは恥ずかしくて嫌でした。うるさ型の叔父の評価も「お前は歌が下手だなあ」というものでした。でも、毎回歌わされ、だんだん恥ずかしさはなくなりました。
 そんな私がカラオケを習おうとまで思ったのは、専攻科2年の時にクラスメートと初めてカラオケボックスで歌った時、思いのほか評判が良く、また気持ちも良かったからです。それからは友達と事がある度にカラオケに行くようになりました。
 そうこうしているうちにTBSラジオを何気なく聴いていたら、カラオケ道場の宣伝がきこえてきました。電話番号が覚えられなかった私はTBSに行けばいろいろ説明してくれるだろうと思い込み、赤坂に行き、道行く人に「TBSはどちらでしょうか?」ときき、教えられた方に行き、着きました。当然警備の人に引き止められ、「どこに行くのですか?」と、きかれました。そこで、「カラオケ道場について話をききたいのですが、どちらでしょうか?」と言うと、警備のかたは「カラオケ道場ですか?」と、きょとんとした表情できき返して来ました。(当然ですよね?)。
 それで、もう1度TBSラジオをよく聴き、電話番号をしっかり覚えて電話をして資料を送ってもらいました。その時はまだ実家にいたので、誰に読んでもらうかと思案しているうちに、時間だけが経ってしまいました。
 それから何年かたち、今から3年前にまた電話をして今度は近くに住む知人に頼み、必要事項を書いてもらい、晴れて当時のTBS「赤坂ミュージックスクール」デビューしました。
 歌というのはやればやるほど奥が深く おもしろく、すっかりはまってしまいました。レッスンの都度、講師の先生に指摘されることが、録音したレッスンの様子を聞くたびに「ああ、なるほどなあ」と思いながら日々勉強中です。最近は友人から携帯サイトでカラオケの曲コードや歌詞、カラオケボックスの場所まで検索できるものがあるということを教わったので、それを生かして一人カラオケを楽しんでいます。

   【連載46】点字図書、録音テープ図書、ビブリオネット・モバイルまで
     北部  長谷川貞夫
 日本点字図書館と日本ライトハウスによる「ビブリオネット」による録音図書のインターネットによる配信が、携帯電話でも聞けるようになりました。8月4日からの試行で11月から正式な運用のようです。これを利用できる携帯電話は、本年4月発売のNTTドコモの「らくらくホン・プレミアム」と8月1日発売の「らくらくホン X」です。私は幸いに「らくらくホン・プレミアム」を持っていましたので、早速にこれで「ビブリオネット・モバイル」を聴ける手続きを取りました。
 この試行は8月4日からとのことでしたが、実際は8月2日でも利用することができました。早速、日本点字図書館のテープ雑誌、小説2編、随筆集1冊を読むことができました。パソコンでも聴ける訳ですが、パソコンの前で本をじっと聴いていることもできないので、夜の睡眠前にとか、朝目覚めてからの時間を有効に使うことができました。
 本 連載の初期において、日本における初めての録音テープライブラリー開設の説明をしました。それは、日本点字図書館から始まったのではなく、国際キリスト教奉仕団からでした。この事務所は、東京・銀座4丁目の教文館ビル5階にありました。この図書館に刺激されて本間一夫先生が昭和32年に附属盲学校の寄宿舎で録音機を囲んで読書会を開いているところを見学し、日本点字図書館に録音図書を置くことを決心したと私は思っています。
 視覚障害者の生活が便利になるのですから、それは結構なことですが、そこに至るまでの人々の苦労について私は忘れてはならないと思っています。
 当時、国際キリスト教奉仕団は、コツコツと点訳する点訳奉仕により成り立っている点字図書館に遠慮し、録音による視覚障害者用図書館の存在をあまり宣伝しなかったのです。
 日本点字図書館における本格的なテープ利用は、昭和36年6月15日からの視覚障害者に対するテープ図書貸出しの郵送料が無料になってのことです。郵政省に対するその働きかけは、国際キリスト教奉仕団の小川猛氏と日本点字図書館の本間一夫先生とで行ないました。それで、最初の郵政省からの録音テープ送料無料の指定は、この2カ所に対してだったはずです。
 参考:六点漢字の自叙伝(5) http://www.wesranet.com/6ten/txt605.html

   ビールについての教養講座
     北部  山城 完治
 7月27日の教養講座のテーマは、ビールでした。講師の井上喬先生は、農学博士で長い間ビールに関わってきたかただとのことでした。
 今回の講座で印象に残っていることを簡単に書きたいと思います。
 その1つは、講師の井上先生が持ってきてくれた酵母やホップがビールとは全く違う味だったということです。発酵の影響って大きいんだなと思ったことです。
 2つは、ビールにとって大切な発酵について、そのメカニズムを解明したのがフランスの細菌学者、狂犬病のワクチンで有名なパスツールだったという話。知らなかったのは私だけかもしれません。低温殺菌をパスツリゼーションというそうです。
 3つは、人間がビールを作ったのは、少なくとも5千年以上前のことで、5千年前にはメソポタミアでビールの作り方が記録に残されていたということ、人間がビールを作るようになったのは おそらく麦を作るようになったのと同じ頃だろうという話でした。
 この講座で残念に思ったことは、講座の場でビールが味わえなかったことです。北部支部の提案の段階では、ビール工場に見学に行こうということでした。ビールを飲むのは、東京都が主催する講座にふさわしくないという東京都・担当者の考え方があって今回の講座になったいきさつも私の残念につながっています。

   情報アラカルト
  1.納涼祭のご案内
 王子・多摩スポーツセンターで、恒例の納涼祭が行われます。どうぞお出かけください。
 開催日時:王子 8月16日(土)15時30分から、多摩 8月23日(土)13時から。
 内容:フリーマーケット、模擬店、バンド演奏、盆踊りなど。
 詳しいお問い合わせは 王子 03−3907−5631、多摩 042−573−3811までお願いします。

  2.イベント情報
 北部支部主催の「タンデム車でサイクリング」は、今年も9月14日(日)に行われます。昨年、10周年の企画を予定していましたが、悪天候により実施できませんでした。今回は二人乗り自転車で思いっきり走った後、バーベキューで楽しいひとときを過ごします。詳しいお問い合わせは、山城支部長(090−9012−3532)または織田(03−6410−7118)まで。

   ありがとうコーナー (省略)

   役員会だより
  1.対都要請行動 後半戦(18日建設局、21日交通局)と1日行動に参加して下さい
 8月28日(木)に教育庁、警視庁、財務局、生活文化局、選挙管理委員会、病院経営本部と行います。さらに知事室要請も予定しています。1日行動は会で昼食を準備します。集合は午前8時30分 JR 新宿駅西口改札を出たところ。参加されるかたは、23日までに必ず事務所 03−6410−7118 または 織田津友子 080−1027−9836までご連絡下さい。
  2.手をつなごう集会実施について
 9月8日(月)に行われます。交渉先など詳しいことは後日お知らせします。是非参加していただきますよう、よろしくお願いします。
  3.「こだま」7月号に、障都連夏季募金のお願い文を入れました。こちらの手違いで、活字版は入れ忘れました。8月号に入れますので、趣旨をご理解いただき、原水禁派遣カンパと合わせてご協力下さい。振替用紙の必要なかたは、事務所までご連絡ください。お送りします。
  4.「東視協ミュージックフェスタ」をみんなで盛り上げましょう!!
 この行事は文化・レクリエーションの取組みの一つでもありますが、会に新しい仲間を迎えたいと思います。皆さんの友人・知人を誘って来てください。歌って、演奏して、お話して楽しいひとときを過ごしましょう。

   日程情報
8/14(木) こだま8月号活字版発行
8/17(日) 東視協役員会
8/18(月) 社会参加推進会議
  同    対都要請行動(建設局)
8/19(火) 事務局会議
8/20(水) 障館相談・鈴木彰
8/21(木) 事務局作業
  同    対都要請行動(交通局)
8/23(土) 事務局作業
  同    組織委員会
8/23・24(土日) 第15回女性部奈良大会
8/24(日) 教養講座「耳の聞こえ方」(仮称)
8/26(火) 事務局会議
8/27(水) 障館相談・栗山 健
  同    障都連三役会議
8/28(木) 対都要請1日行動
8/30(土) 事務局作業
  同    視覚障害者9条の会 連続学習会
8/31(日) 「東視協ミュージックフェスタ」
9/1(月)  点民編集委員会
9/2(火)  事務局会議
9/3(水)  障館相談・織田津友子
9/4(木)  事務局作業
  同    こだま編集委員会
9/5(金)  雇用をすすめる会
9/6(土)  事務局作業
  同    東部支部例会
9/6・7(土日) 全視協全国委員会
9/7(日)  障都連代表者会議
9/8(月)  手をつなごう集会
  同    南部支部例会
  同    全視協情報問題会議
  同    9月定例都議会前 共産党都議団との懇談
9/9(火)  事務局会議
9/10(水) 障館相談・山城完治
9/11(木) 事務局作業
9/13(土) こだま9月号点字版 発行
  同    北部支部例会
9/14(日) 「タンデム車でサイクリング」

   編集後記
 毎日暑い日が続いていますが、皆さん体調を崩さないようにがんばっていますか。
 7月の28日から毎年恒例の対都要請行動が始まりました。参加者は10数名とまずまずです。成果らしきものはありませんが、石原都政に私たちの要求を伝えることの意義は大きいものと思っています。
 8月後半からは建設局、交通局、警視庁と比較的要求を実現させている局が続きます。ぜひ要求をぶつけて1つでも多くの成果をあげたいと思います。皆さんのご参加をお待ちしています。
 8月4日から広島で行われた原水禁世界大会に東視協から野島さんが全視協の代表として派遣されました。次号ではその報告を掲載します。皆さん お楽しみに。
 まだまだ暑い日が続きますが、がんばってこの夏を乗り切りましょう。

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