●歴史・事故・汚染
・核兵器と核実験
1.広島・長崎の原爆被爆者たち
米国がはじめて原子爆弾を爆発させたのは第二次世界大戦も終わりに近づいた1945年7月ニューメキシコ州アラモゴードでした。
ナチスドイツが原爆をつくるかもしれないことをおそれた物理学者シラードが、1939年にアインシュタインの紹介でルーズベルト大統領に手紙を送り、原爆製造をすすめました。
それから3年目にマンハッタン計画として知られる原爆製造秘密計画がはじまったのです。ノーベル物理学賞受賞者をふくむ当時世界で最もすぐれた科学者をあつめ、ばく大な予算をかけてすすめられたこの計画によって3年間で原爆が完成しました。
その威力はニューメキシコ州アラモゴードで試されました。(写真)
アメリカ軍部は原爆の威力を人間社会でじっさいにためすため、当時アメリカが戦争をしていた日本の広島(1945年8月6日)と長崎(1945年8月9日) をえらびました。広島・長崎で直接の被ばくにより死んだ人だけでも20万人以上といわれています。
原爆の恐ろしさはその時の破壊力(写真)だけではありません。放射線に被ばくし、生きのこった人たちはその後ずっと体の調子が悪く、普通の生活をすることがむずかしくなりました。
そして63年以上たった今でも被ばくが原因でガンをはじめ心臓病、感染症などでなくなる人が多くいます。
また、自分の健康についてのなやみだけではなく、子供や孫に何か悪い影響がでないか、いつも不安をかかえながら、くらしています。
みなさんは被ばく者の話を聞いたことがあるでしょうか?もしなければ図書館や広島の平和記念資料館にいって調べてみてください。たくさんの資料があります。
2.世界の核実験
第二次世界大戦が終わるとすぐに世界は核軍備の競争時代に突入しました。東西の冷戦時代ともいわれ、共産主義と資本主義の国々がおたがいに相手よりも強力な原子爆弾を作ることを競争したのです。その結果、上の世界地図に示すように核実験場はほとんど地球全体に広がりました。
1945年から18年間の核競争の時代に米国、旧ソ連、英国、フランスなどが行った核実験の回数は地図中の表に示してあります。
実験によって世界中に死の灰(=放射性物質)がふりそそぎました。核実験場のまわりにすむ人たちには危険性も知らせずに注意も与えないというのはどこの国も同じでした。
1954年3月に日本のマグロ漁船第五福竜丸(写真)が米国がビキニ環礁で行った水爆実験(ブラボーショット)で死の灰を浴び、久保山愛吉さんが亡くなりました。
これをキッカケに日本から世界に核実験反対運動が広がってゆき、1963年8月には大気圏内の核実験が禁止されました。(部分的核実験停止条約)
しかし、これまでにはすでに約473回の実験が行われていました。その後も地下の実験は続けられ1990年までに1328回となりました。
核兵器はその爆発の時、環境を破壊し生き物を殺し、健康に大きな被害を与えることはおおくの人にわかることです。しかし、核の被害はそればかりではありません。
爆弾を作るまでにも、核実験の後にも、その放射性物質によって長い間地球上のすべての生物の命をおびやかしつづけます。戦争で原爆が使われたのは、広島・長崎の2発ですが、地球上では合計1800回以上の核爆発がおきました。核軍備競争によって人々が受けた被害について調べてみましょう。
3.アメリカによる核実験(南太平洋)
■南太平洋ビキニ・エニウエトク環礁での実験
アメリカは広島・長崎に原爆を落とし20万人以上の命をうばっただけではなく、世界で最も多く原爆実験をくりかえした国です。
1945年のアラモゴードに始まり、地上217回、地下705回、計922回も実験を行いました。
1946年からの実験場は南太平洋の楽園といわれたマーシャル諸島、ビキニ環礁・エニウエトク環礁でした(図1)。これらの環礁は図2に示すように珊瑚でできた島にかこまれたラグーンとよばれる静かな内海をかこんでいます。島民はこの中をカヌーで自由に行き来し、全体が生活圏でした。
写真1:ビキニ環礁で行われた水爆実験
(1954年3月1日) (『棄民の島』より) 。
ブラボーショットといわれる世界ではじめての水爆実験(写真1)はビキニ環礁のビキニ島で行われました。第五福竜丸が被ばくしたのはこの実験です。
アメリカは島に住む人々には「世界の平和と福祉のために行う実験で、実験が終わったらすぐ島にもどす」と約束し、ロンゲリック環礁に移住させました。
写真2:年々広がる墓地、被爆者が埋葬されている。
しかし、ここはビキニの風下にあたりました。放射性物質の危険性を知らされていなかった島のこどもたちはふりそそぐ雪のように白い死の灰をかぶりながら遊び、放射性物質で汚れた水を飲み、汚れた植物や魚を食べました。そのため多くの島民はがんや白血病にかかり死んでゆきました。(写真2)
死産や先天性異常も増加しています。
写真3:実験から二十数年後。頭の部分が枯れ落ちているヤシの木。
アメリカは病気になった島民を診察しましたが、治療は一切行いませんでした。そのためこれは放射線の影響を調べるための人体実験だったのではないかとのうたがいがもたれています。
その後、実験の大きさも場所もどんどん広げられ、エニウエトク環礁だけでも44回の原水爆実験が行われました。実験が終わった1968年までに故郷の島をおいだされた島民も、もとくらした島に帰りたいという希望は強く、アメリカ政府は死の灰をとりのぞく作業を行いました。
(写真下4,5)
写真4、死の灰を吸わないように完全防護服を着た兵士
写真5、防護服を着て死の灰とコンクリートを混ぜ、実験でできたクレーターの中に流し込む(エニウエトク)。
ビキニ島でも汚れをとりのぞく作業が行われ安全宣言がだされました。いったん島民は島に帰りましたが、地下水の汚染もひどくヤシの実や魚に放射能がたまっていて危険であることが分かりました。ついに島は閉鎖されました。
このようにマーシャル諸島では核実験により島民の生命も生活も文化も破壊されたのです。
写真は図1を除き全て『アトミックエイジ』より。
4.アメリカ国内の核実験
■ハンフォード核施設
長崎に落とされたプルトニウム核爆弾が作られたのは、ワシントン州にあるハンフォード核施設です。
オークリッジ(テネシー州)、ロスアラモス(ニューメキシコ州)、とならんで原爆開発の中心でした。
ハンフォードでは、1949年グリーンラン実験といわれる人体実験が行われました。大量の放射性物質を、周囲の住民に知らせずにわざと空気中に放出し、こっそりとその影響をしらべたのです。周辺の住民には甲状腺がん他いろいろながんがふえましたが、当時その理由はわかりませんでした。一人の勇気あるジャーナリストの6年間にわたる追求によって実験の事実が明らかになったのは1986年のことです。
米・ソ連の冷戦時代は両方の国が核兵器を競争で作っていったために、安全対策はおろそかになりました。毒性の高い危険な廃液を入れておくタンクからは猛毒のプルトニウムをふくむ放射性物質や化学物質が大量にもれだしました。それが地下水をよごし、今では近くを流れるコロンビア川に入りこんでいます。この汚染をとりのぞく方法はありません。鮭、川魚、流域の生物が放射性物質を取り込み、これらを食べる人々の健康をおびやかしています。コロンビア川は太平洋に注いでいますから、将来は海全体が汚れることになります。
詳しく知りたい方は「21世紀核時代負の遺産(中国新聞)」を見てください。
■アトミックソルジャーと風下住民
アトミックソルジャーという言葉を聞いたことがあるでしょうか?
核爆発を起こした後、爆心地に敵がいることを想定し、突撃する訓練をしたり、キノコ雲の中に飛行機でつっこんで行き、放射性物質を集めたりして被ばくした兵士のことです。ぜんぶで20万人以上もいます。
『被ばく国アメリカ』という本があります。原題は”Killing Our Own”「自国民を殺す」という意味です。アメリカは広く、砂漠のように人の住んでいない場所があるとはいえ、核実験をすれば、放射能は風に乗って広がり、やがては地上に落ちてきます。下の図は82回行われた大気圏内核実験のたびに風向きを調べ死の灰がどのように広がったかを地図の上に落としたものです。アメリカ国内がいかに汚されているか分かりますね。
図1,核実験による放射能雲の通った道『Under the Cloud 雲の下』より。
これら核実験がおこなわれたときに風下にいて死の灰をあびて被ばくした「風下住民」の中には、白血病やがんで死亡したり、健康をわるくした人が多数でました。また、直接の被ばくや放射能で汚れた草を食べた家畜がたくさん死にました。これらの被害は核実験のためだとして、住民はアメリカ連邦政府を相手取って裁判を起こしましたが、最高裁判所で住民側が負けました。
5.第五福竜丸の被ばく
1954年3月1日、アメリカ軍がビキニ環礁で行った水爆実験によって日本のマグロ漁船第五福竜丸が死の灰を浴びました。真っ白な雪のような灰だったそうです。ロンゲラップ島のこどもたちも海岸でこの灰をかぶって遊んだのですが・・・。
第五福竜丸が被ばくしたところは爆心地から160kmもはなれた危険区域の外でした。乗組員23人は母港である焼津港に帰り着くまでの14日間、体についた死の灰から大量の放射線をあびつづけ、毛がぬけたり、もどしたりなど急性の放射線障害の症状をしめしました。全員直ちに入院治療を受けましたが、中でも症状の重かった無線長の久保山愛吉さんは9月に亡くなりました。
被ばくしたときには大部分の船員は20歳代の健康な若者でした。しかし、半数以上の方が50歳代前後でがんなどのためになくなっています。
第五福竜丸以外にもこの近くで漁をしていた漁船は多く、その後も行われていた核実験のために856隻以上が被ばくしたといわれています。被ばくした漁師もいたはずですが政府は調査をしませんでしたのでその実態はしられていません。かわりに高校生がその調査を行い報告しました。水揚げされたマグロは放射線をはかるガイガーカウンターで調べられ、汚れていたものは“ 原爆マグロ”としてすてられました。
しかし、アメリカ原子力委員会は「ビキニ・エニウエトク環礁外の魚の放射能を恐れる理由はない」などといって、被害をうったえる声に耳をかそうとしませんでした。
そこで、日本学術会議の科学者達が俊鶻丸という船に乗ってビキニ海域の調査に行きました。海水の放射能汚染は予想よりもはるかに高いことがわかりました。アメリカはこれを認めないわけにはゆきませんでした。
日本人ばかりか世界の人々が原爆実験に不安をもち核実験反対運動がひろがって行きました。ついに1963年、大気圏内核実験(注)は停止されました。
注)1963年8月調印 部分的核実験禁止条約(PTBT)
資料
・映画「第五福竜丸」新藤兼人監督、宇野重吉、音羽信子主演
・『ビキニ事件の真実』大石又七著 みすず書房2002年
・『ビキニの海は忘れない』博多高校生ゼミナール/高知県ビキニ水爆実験被災調査団篇 平和文化 1990年
・『死の灰と闘う科学者』三宅泰雄著 岩波書店 1972年
・ビキニ調査船俊鶻丸の調査結果について 公衆衛生年報1954.11
国立衛生試験所 浦久保五郎
CiNii(NII論文情報ナビゲータ) http://ci.nii.ac.jp/ より検索可能
・森住卓さんのホームページに最近の様子があります
マーシャル諸島(ビキニ水爆実験)
6.旧ソ連の核汚染
■カザフスタン・セミパラチンスクと北極海の核汚染
旧ソ連の核汚染にはすさまじいものがあります。これまでに起きた事故で大事故の説明はしましたから見てください。
セミパラチンスクでは核実験も多く行われ、住民に危険性を知らせず、避難もさせなかったという事情はアメリカと同じです。近くの住民は実験のたびに家の窓ガラスがすべて割れるほどの地震のようなゆれを感じ、危険も知らずにキノコ雲を見たりしました。そのため、後になって家族ぜんいんががんで死んだ家庭がでたり、赤ちゃんの流産や奇形が増えたりしています。
セミパラチンスク地下核実験:チャガン核実験(1965年)の映像
森住卓さんのホームページ セミパラチンスク
セミパラチンスクに次ぐ旧ソ連の核実験場は北極海にあるノバヤ・ゼムリャ島です。ここでは133回の実験が行われ、さらに核の廃棄物が大量に捨てられたことも後に明らかになりました。
北極地方の先住民はトナカイを主食としています。トナカイはヤゲリというこけを食べていますが、このこけが放射能で汚れているためにトナカイを食べている人の体は普通の人の10から100倍も放射能がたまっています。この人々には食道がん、腎臓がんが多く発生していると報告されています。
大気圏内の核実験によってふき上げられた死の灰は上空に行って北極に流れ、ここで冷やされて地上にふって来ます。ですから北極の地は、ここで行われた実験だけでなく、太平洋やネバダで行われた核実験の被害も受けています。核被害には国籍や国境はありません。
「ネバダ・セミパラチンスク運動」のように世界のヒバクシャは共通の苦しみを背負い、手をつなぎ協力して核兵器廃絶を訴えています。
■原子力潜水艦の事故
日本には「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則があります。それでも核兵器をつんだアメリカの原子力潜水艦が佐世保港や横須賀港にたびたび入港し、ついに2008年9月には横須賀港に火災事故を起こした原子力空母"ジョージワシントン"までやってきました。これらが原子力発電所よりも危険なのは、いろいろ理由があります。皆さんも考えてみてください。
旧ソ連の原子力潜水艦の事故はたびたび起きています。最大のものはノルウエー沖1500kmで火災事故を起こし沈没した「コムソモーレツ号」で、1200メートルの海底に沈んでいます。このように深いところから原子炉を引き上げるのはとても危険です。沈没した原子力潜水艦はほかにもたくさんあり、その原子炉は海水によって腐蝕されますから、中にある核燃料がとけだしてくるのは時間の問題でしょう。
2009年2月の始めには核兵器を積んだ英国とフランスの原子力潜水艦同士が衝突事故を起こしました。このような事故で地球全体に核汚染が広がったら、生き物たちはどうなるのでしょうか?
7.イギリス・フランスの核実験
■フランス
フランスが大気圏内核実験をはじめたのは世界的にその実験が禁止された後の1966年です。実験場はゴーギャンの絵で知られるタヒチ島のあるフランス領ポリネシア、ムルロア環礁でした。
フランスは秘密主義を徹底し、反対運動をした住民をつかまえて刑務所にぶち込みました。核実験が行われたあと、魚を食べたり、海で泳いだりすると病気になる人が増えましたが、病人にはそのことをほかの人に言わないように口止めし、外国の記者なども島に入れないようにしました。核の被害をかくそうとしたのです。
しかし、世界的な反核運動が高まり、フランスの製品を世界の人々が買わないようにしたため、ついには実験を中止しました。しかし、地下爆発によって環礁を作っている珊瑚礁にひびが入ってしまい、そこから放射性物質がいつもれでてくるか分からない状態です。
■イギリス
イギリスが核実験を行ったのはアボリジニーが住むオーストラリアの砂漠や太平洋のクリスマス島などです。
アボリジニーは住む土地を追われ、生活や文化は破壊されてしまいました。核爆発やキノコ雲が人間によって作り出されたものであるなどとは理解できないアボリジニーの人々の間では、健康被害を調べることも難しく、その実態はハッキリ分かっていません。
クリスマス島の実験に参加させられたイギリスやニュージーランドの兵士は今でも人体実験の材料にされたのではないかというたがいをすてきれません。なぜなら、普通の服装のままで放射線を測る測定器をつけて実験に参加させられたからです。爆発の瞬間は自分の手の骨が見えたといいます。恐さのために気が狂ったようになった兵士もいました。
大部分の兵士は実験後、毛がぬけたり、皮下出血、吐き気、めまい等の症状を示しました。健康に対する影響は兵士だけにとどまらず、子どもにまでおよびました。それでも英国政府はこれを放射線の影響だと認めようとはしません。多くの被ばく兵士達は国の責任を問うて、裁判を起こしています。
・原子力の事故
1.チェルノブイリ原子力発電所の事故(1)
原子力発電所などに大きな事故がおきたら、わたしたちの命や生活はどうなるでしょうか?
人体や生物の命に害をあたえる放射線や放射性物質が環境にまきちらされます(図1)。もしそこに人や動物がいれば、たくさんの放射線をあびて死んでしまいます。
これまでに起きた原子力発電所のいちばん大きな事故は、1986年4月26日に起きたチェルノブイリ原子力発電所の事故です。みなさんがうまれるよりもずっと前のことですね。
上は爆発してメチャメチャにこわれた原子炉を上からとった写真です。もっと近くで横から見た写真は京都大学原子炉実験所(原子炉研)のホームページで見ることができます。
こわれた原子炉から放射性物質がふきとばされ風にのってひろがるようすが上の図です。放射性物質をたくさんかぶると死んでしまいますからこれを死の灰ともいいます。
この死の灰で汚れた地域を日本地図と同じ縮尺で書いたのが図2です。これからわかるようにもし同じような事故が日本の原子力発電所でおきると、日本中ほとんど安全に住めるところがなくなりますね。
チェルノブイリは現在のウクライナにあります。その時はこのあたり全部(ウクライナ、ベラルーシ、ロシア連邦)がソビエト連邦という国でした。ソビエト政府は事故が起きたことを秘密にしようとしました。しかし、4月27日に1000キロメートル以上も離れたスウェーデンで放射性物質が見つかり、事故をかくすことができなくなりました。5月3日には8000キロメートルもはなれた日本にも放射性物質がふってきました。
このように事故で環境中に放出された放射性物質は風にのって世界中を汚染します。
2.チェルノブイリ原子力発電所の事故(2)
■避難
放射線の被害からのがれるためには、汚れていない場所にできるだけはやくにげるしかありません。しかし、チェルノブイリ事故では発電所から30キロメートル以内の住民13万5000人と、農村の動物たちの避難がおわったのは、事故から8日後の5月3日のことです。そのあいだ、
混乱をさせないという理由で住民にはくわしい事故のようすも、放射線の危険性も知らされていませんでした。このため知らされていれば被ばくしなかったかもしれない多くの人が被ばく者になりました。
発電所の職員がすむ町プリピャチ市の住民は、まず4月27日に避難させられました。
住民達は2~3日で帰れると思って、着の身着のままで町をはなれました。しかし、20年以上たった今ももどることはできません。ゴーストタウンになったプリピャチ市のビルと急いで逃げた住民の家の写真を見てください。
■事故処理
原子炉は爆発してから10日間ももえつづけ、そのあいだにたくさんの放射性物質がまきちらされました。放射性物質が危険であることを教えられずに消火作業をした消防士の多くはまもなく死亡しました。
上の写真のように爆発で原子炉の中から非常に危険な放射性物質がまわりにちらばりました。また爆発した原子炉の中にはまだ核燃料が残っています。これをそのままにしておいたら、雨などが降ってぬれると再び爆発するおそれがあります。それで、これを左の写真のように原子炉ごとコンクリートの建物(石棺といいます)でおおいました。
この石棺も今では古くなって雨もりがひどく危険になっています。これをおおうさらに大きな建物を建てる予定でしたが、ウクライナにはお金がなく、ヨーロッパの国々の助けが必要です。そのヨーロッパにもゆとりがなく、計画はすすんでいません。
その工事をするためにはまわりにちらばった放射性物質を片付けなければなりません。かたづけるのは非常に危険なので、はじめはロボットをつかいました。でも、放射線があまりに強かったためロボットはすぐにこわれてしまいました。それで写真のようにロボットのかわりに人間がかたづけたのです。この仕事をしたのは若い兵士や労働者で事故処理者、ロシア語でリクビダートルとも呼ばれています。彼等は強い放射線をあびたのでだんだんと健康をそこない、多くはがんや心臓病で亡くなってゆきました。
上の写真はリクビダートルの証言記録「ザ・サクリファイス」の一場面です。この映像を見ると放射線が人の体にどのような障害を与えるかよく分かります。ぜひ見てください。
チェルノブイリ事故は終わっていない 原子力による被害と他の災害のちがい
3.原発震災
地震、洪水、竜巻、火事など災害にはいろいろあります。また、世界ではイラクや、パレスチナ、アフガニスタンのように戦争によって街全体がこわされてしまったところも数えきれないほどあります。でも、これらの災害による被害とチェルノブイリ事故のような原子力による被害とはまったくちがうところがあります。それは何でしょうか?
自然の災害や戦争でも(もし核兵器が使われなければ)それがおわれば、その後にすぐに人が入り、
こわれた建物を取りこわし、新しく建て直すことができるようになりますよね。
阪神淡路大震災のときの様子
撮影:松岡明芳
WikimediaCommonsより
1995年1月17日に阪神淡路大震災で6434人が亡くなり15000人以上が負傷するという大惨事がありました。
この震災は大変なことでした。
でもこのときはたおれた家の下に人がいることが分かれば、近所にいる人たちや救助隊員が力を合わせて、上の写真のように助けることができましたし、食べ物や飲み物を運んで救助することもできました。ただし、すぐに救助に動ける人が足りなかったことも事実です。直接建物の下じきになって死んだ方もおおぜいいますが、救助されてケガはしても命は助かった方もいます。
震災後16年、神戸とその周辺の街は力強く復興しています。
しかしもしこの地震が、いつ地震が起きてもふしぎではないといわれる静岡県の沖合の海で起きたら・・・・、そしてそれによって、近くにある浜岡原子力発電所に事故が起っていたらどうなっていたでしょうか・・・・。
ここで起こる地震は東海沖地震といわれています。近い将来必ず起こるといわれていて、震度6~7にたっする巨大地震です。浜岡原発は予想される震源地帯のど真ん中にあります。
地震により原子炉が破壊され、中の放射性物質がもれだしたら、空気も水も建物もすべてが放射性物質で汚れてしまいます。地震のとき助かった人もその場所から逃げなければ、放射線で命に危険がせまります。
救助が必要な人がいても普通の服装では行けません。放射線をふせぎ放射性物質のついたチリを吸いこまないような防護服を着なければなりません。原子力発電所で使う右のような防護服は放射線をふせぎませんから完全とはいえませんが、それすら充分な数はないのです。
ですから、普通の災害だったら助けられた人も、助けられないでしょう。その上、放射性物質をあびた人が避難するばあいにも、身体についた放射性物質がまわりの人や物を汚すかもしれないため、自由には逃げることはできません。このように地震によって原発事故が引き起こされた場合は、地震の被害の他に放射線の被害がくわわりますので、これを原発震災といいます。
4.回復しない被害
原発震災など、原子力施設の事故により放射性物質で汚染された土地ではながいあいだ農作物も作れませんし、人も住めなくなります。
写真はチェルノブイリ事故のために全員が避難させられたプリピャチ市内の、住む人がいなくなった家や、病院や学校です。人々があわてて避難したようすがよくわかると思います。市内全体にこのような場所がたくさん残されています。阪神淡路大震災と比べてみてそのちがいを考えてみてください。
プリピャチ市の放置された民家
廃墟になった遊園地
elenafilatova.comより
ウクライナは世界の穀倉地帯といわれているように農作物がたくさんとれるところです。しかし、
そこも放射性物質で汚れてしまったために、いまでは農業をすることはできません。その期間がどのくらいつづくのかは、汚染した物質の種類や程度によります。みなさんやみなさんの孫が生きている間に元にもどるでしょうか。
事故処理のところで書いたように原子炉の火事の消火や、汚れた土や建物の処理のために百万人以上が働きました(ザ・サクリファイス参照)。彼らが使ったたくさんの車、トラクターやヘリコプターも、放射性物質でひどく汚れました。それらはもうどうすることもできずに野ざらしになっています。トラクターやヘリコプターの墓場のようですね。
毎日新聞大島記者撮影
これまでに起きた大きな事故
5.ウラルの核惨事
チェルノブイリ事故の他にも原子力事故はたくさん起きています。ここでは代表的な事故についてだけ説明します。
ウラル地方ではソ連の時代に大きな核事故が3回起き、数十万人が被ばくしたといわれています。(上の図参照)
このことは長い間秘密にされていましたが、1993年ついにロシア政府が公表しました。この3回の大事故で環境に放出された放射性物質の量はチェルノブイリ事故の20倍にあたると発表されました。
①:アメリカと旧ソ連が核兵器の開発競争をしていた時代にウラル地方に地図にも載らない秘密都市が作られました。現在は正体が明らかになってオジョールスクと呼ばれているそうですが、当時の暗号名はチャリャビンスクといいました。ここで原爆用のプルトニウムの生産をしていたのです。その過程ででる大量の放射性廃棄物を住民に知らせずにテチャ川に流していました。川の水を利用していた多くの住民と家畜が被ばくし、現在でも被ばく者からがんが多く発生しています。この流域は危険で人が住めません。
詳しくは森住卓さんのHPへ
さらに、中国新聞「21世紀核時代
負の遺産」へ
写真 テチャ川流域、廃村になったメトリノ村の教会。
(『核の20世紀』より。Lerager J.写す。1951年の調べでは放射能レベルは自然放射能の30万倍だった。)
②:1957年には核コンビナートで放射性廃棄物を入れておいたタンクが爆発し大事故になりました。広大な土地が放射性物質によって汚染され、数千人が放射能障害でなくなりました。これは「ウラルの核惨事」として知られています。この大事故も30年以上もの長い間秘密にされていました。
詳しくは中国新聞「21世紀核時代
負の遺産」へ
③:1967年、やはり放射性廃棄物を捨てていたカラチャイ貯水池の水が干上がって、からからに乾いた放射性物質が風に乗って吹き飛ばされてゆきました。放射性物質で汚れた範囲は1957年に起きた惨事と同じくらい広いといわれています。
このように核兵器を作るということは、爆弾を落とされる側はもちろんのこと、爆弾を作る側の人間も大きな被害を受けるということです。アメリカでも原爆実験がビキニ環礁やネバダ核実験場で行われました。その風下にすむ人達、長崎を爆撃したプルトニウム爆弾が作られたハンフォード核施設の周辺にすむ人々に放射性物質による被害は広がっています。
6.ウィンズケール(セラフィールド)
イギリスの湖水地方は、みなさんがよく知っているピーターラビットのお話の舞台になっているところです。あのお話しからも分かるように自然がとても美しいところでした。
ここのウインズケールというところに、核兵器用のプルトニウムを作る工場が建てられました。
ここで、1957年10月8日に工場内の原子炉に火災が起き、3日間燃え続けるという事故が起きました。
その間に大量の放射性物質が環境中に放出され、広い範囲が汚染されました。その結果大量の牛乳が飲めなくなり捨てられましたし、がんの増加も心配されています。事故の恐ろしい印象をなくすために地名が“セラフィールド”に変えられたのです。
また、この工場では2005年5月にも大事故が起こったようです。
原子力発電所の使用済み燃料を強力な酸で溶かした、ウランやプルトニウムを含むとても危険な液体が、工場内で大量にもれて(50mのオリンピックプールの半分の量だそうです)、大きなプールのようなところにたまってしまうという事故がおこったそうです。あまりに放射線が危険なので、人が近づくこともできず、処理することができなくなり、工場が閉鎖されたというニュースがありました。この工場には、日本の原発の使用済み燃料も再処理をするために送られていて、日本とも大事な関係があります。
しかし、この事故のニュースは、日本ではほとんど知っている人がいません。テレビや新聞でニュースとして伝えられていないからです。どうして、伝えられていないのか、考えてみましょう。
くわしく知りたい人は、
青山貞一さんのHP,原子力資料情報室のHP。
7.スリーマイル島原子力発電所
スリーマイル島(TMI)は米国ペンシルバニア州の州都ハリスバーグ郊外のサスケハナ川の中州にあります。 1979年3月28日、この島にある原子力発電所で事故が起きました。原子炉を運転しはじめてからわずか3ヵ月めのことでした。
原子炉を冷やすために送る水の栓を、運転員がまちがえてしぼってしまったために、原子炉がからだき状態になり燃料がとけてしまうという大事故でした。あやうくチャイナ・シンドローム(原子炉の燃料が溶けて底がぬけ、地球の反対側にある中国までとどくというたとえ)になるところでした。
この事故によって出された放射性物質によって環境が汚染され、周辺にいた動物が死んだり、奇形動物が生まれたり、植物の葉が巨大になったり、人のがんがふえたりの異常がおきました。しかし、原子力事故ではよくあるように、州政府はこれらの被害をみとめていません。
スリーマイル原子力発電所 WikiMediaCommonsより
・東海村JCO事故
1.事故のあらましと、被害にあった人たち
A:1999年9月、茨城県東海村で、当時としては日本が原子力を開発し出してから最大の、恐ろしい事故が起こって、2人が亡くなり、667人の被ばく者がでました。
これは、1945年の、ピカドンと呼ばれた広島・長崎の原爆の被ばく者たち、1954年のビキニ水爆実験による漁船の被ばく者たちに次ぐ、「核」による被ばく者でした。
しかも”核兵器“としてではなく、”平和利用“として原子力を開発してきた日本の、ふつうの街中の工場で起こったことなのです。
Q:どんな事故だったの?
A:1999年9月30日、午前10時35分頃、茨城県東海村のウラン加工工場JCOで、3人の作業員が、ウラン溶液を作っているとき、突然バシッという音とともに「青い光」が出て警報が鳴ったの。これが臨界事故の発生で、3人はたくさんの放射線をあびてしまったのよ。
Q:むずかしくてよくわからないよ。もう少しやさしくして。
A:JCOという会社はもともと普通の原発で使う燃料を作っていたの。でもこのときはその仕事とは別に「核燃料サイクル開発機構」というところの注文で、危険な、濃いウラン溶液を作っていたのよ。
臨界という言葉がわからないわね。臨界とは、原子炉の中で起こっているような核分裂反応が次々に起こって続くこと。このときは、まわりにさえぎるものがなかったので、たくさんの放射線がそのまま出てしまったわけ。
A:これで少しわかったかしら?みなさんは原子力というと原子力発電所をまず思い出すでしょう?でもこの事故はその前の、燃料を加工する工場で起こったのね。他にも原子力の事故を起こすかもしれないものは、核燃料輸送のトラックも含めて、わたしたちのまわりにたくさんあるのよ。
Q:それでその後どうなったの?3人のことが気になるな。
A:3人の方は病院に運ばれたけれど、治療がむずかしく、あとで書くように2人の方が亡くなったの。
そのうえ、初めの臨界のあと、臨界がつづいているとも知らずにすごし、22時間も工場やその周辺に放射線がでてしまい、決死の作業で臨界を止めた人たちや、住民など多くの人が被ばくしてしまったのね。
放射線による事故で一番大切なことは、「早く避難し身を防ぐこと」。でも政府はこの事故を「ありえない事故」と考えていたのでなんら対策が出せず、結局、現地の東海村が午後3時に施設から350メートルまでの住民に避難するよう求め、さらに事故後12時間も経った午後10時30分に、茨城県が半径10キロメートル以内の住民に、自主的な屋内退避(外に出ないこと)を求めたの。
その数は約31万人にもおよぶそうよ。
2.JCOではどんなことが起こったか
Q:どのくらいのウランで、そんな大きな事故になったの?
A:それが、この事故は、わずか1mgのウランの核分裂で起きたことなのよ、おどろくでしょう?
1mgは1gの1000分の1、小さじ1杯が5gだから1mgはその5000分の1よ。(ちなみに100万kW級の原子力発電所では毎日、その200万~300万倍のウランが核分裂しています。広島原爆はおよそ1kgですからその100万倍ということになります。)
ウランが、ほんの少しでもいかに危険なものかわかるでしょう?
Q:亡くなった方はどんな放射線をあびたの?治療はできなかったの?
A:放射線はこのときは、主に中性子線で、中性子線はほとんどあらゆるものを通り抜け、人の体を突き抜けると、人体を作っている細胞を傷つけたり死なせたりするの。被ばくすると吐き気・下痢・発熱・リンパ球の減少・放射線によるやけど・毛が抜ける・血が止まらないなどたくさんの症状が現れるそうよ。
二人の方は致死量以上の放射線を浴びて、必死の治療のかいもなく12月と翌年の4月に亡くなったわ。放射線がいかに身体の細胞そのものをこわすか、身体がボロボロになっていくか、治療がいかに不可能かについては、次の本かビデオをみてね。本当にいたいたしい記録よ。
参考にするとよいもの
・「東海村臨界事故被曝治療83日間の記録」(岩波書店)
・「被曝治療83日間の記録」(NHK)
・「ザサクリファイス」
3.なぜ、事故が起きたのか?
Q:なぜこんな恐ろしい事故がおきたの?
A:直接の原因は臨界をふせぐ特別の管理をしていない沈殿槽というタンクに、濃いウラン溶液を限度を超えてたくさん入れてしまったことなの。
Q:なぜそんなまちがえをしてしまったの?
A:およそ4つのことが考えられるわ。
①、まず根本的な原因は、この種の施設では、人間が取り扱い上ミスをしても絶対に臨界を起こさない設計をするように決められているのに、それができていなかったこと。
②、また、国も安全審査をするときに、1の施設の欠陥を見過ごして審査を通してしまったこと。
③、それに、作業をしていた3人は、臨界の恐ろしさも、濃いウラン溶液が危険だということも教えられていなかったの。JCOは臨界の危険性を教えておくべきだったわ。
④、もうひとつ忘れてならないのは、「核燃料サイクル開発機構」の注文そのものが無理で、この施設にあわず、作業をむずかしくし、危険なことをしてしまったことね。
Q:これからどうしたらよいの?
A:原子力は、原発でも原爆でもその基本は同じで、非常に恐ろしい被害を出すことはわかるわね。でもいわゆる原発ではないところでこういう事故が起こることは国も自治体も、ぜんぜん考えていなかったの。今までの安全神話がこわされたわけ。
だからまず、原子力について正しい知識を持つことが必要で、事故はあり得ないではなく、万が一に備えることが大切ね。政府や電力会社は、何より安全を第一に考えてほしいし、正しい情報を市民に広めてほしい。
そして、万が一にそなえてヨウ素剤を配布するなど防災対策をしっかりしてほしいわね。
最後に亡くなった方を解剖したお医者さんの言葉をきいてください。
「もうひとつOさんがうったえていたような気がしたことがあります。それは、放射線が目に見えない、匂いもない、普段多くの人が危険だとは実感していないということです。そういうもののために、自分はこんなになっちゃったよ、なんでこんなに変わらなければならないの、若いのになぜ死んでいかなければならないの、みんなに考えてほしいよ。
心臓をみながら、Oさんがそう訴えているとしか思えませんでした。」
(NHK取材班「東海村臨界事故、被曝治療83日間の記録」より)
参考資料
文献
1.ウラン加工工場臨界事故調査委員会報告(案) 原子力安全委員会ウラン加工工場臨界事故調査委員会 1999年
2.「JCO臨界事故と日本の原子力行政」=安全政策への提言= JCO臨界事故総合評価会議
七つ森書館 2000年
3.「原発事故はなぜくりかえすのか」 高木仁三郎著
岩波新書2000年
4.「人間の顔をした科学」 高木仁三郎著
七つ森書館 2001年
5.「恐怖の臨界事故」 原子力資料情報室編 岩波ブックレット 1999年
6.「東海村『臨界』事故」 槌田敦+JCO臨界事故調査市民の会
高文研 2003年
7.「東海村臨界事故被曝治療83日間の記録」 NHK取材班
岩波書店 2002年
8.「漠さんの原発なんかいらいない」 西尾漠著
七つ森書館 1999年
9.「あの日、東海村でなにが起こったのか-ルポ・JCO臨界事故」 粟野仁雄
七つ森書館 2001年
10 「検証東海村臨界事故,眠らない街」 相沢一正 丹野清秋編/著
実践社 2000年
11.「原子力の終焉と臨界事故」 小泉好延 たんぽぽ舎 2001年
12.「原子力資料情報室通信 353号」 原子力資料情報室 原子力資料情報室 2003年
13.ビデオ「被曝治療83日間の記録」 NHK取材班 NHK 2001年
14.ビデオ「東海村臨界事故への道」 NHK取材班 NHK 2003年
15.JCO臨界事故患者の初期治療
鈴木 元 保健物理 35, 4-11 2000年