出生前診断に思う

 医学の進歩は原因も治療法もなかった難病も,遺伝子治療という新たな技術により治療への光が見えてきた.それと同時に遺伝子技術を駆使して行う予防医学と称した出生前診断,遺伝の有無についても診断可能な域に達した.しかし診断可能になったことにより弊害も表出してきた.つまり出生前に診断可能になれば,過去ドイツのナチス党,ヒトラーに引き起こされたユダヤ人大虐殺のような,特定人種の排除という痛ましい惨劇に似た人間の選別,また障害を持った人間の存在を否定することに繋がりかねない.確かに出生前に障害の存在が判明すれば,堕胎に及ぶこともありえるだろう.広い意味での人間の選別と捉えることが可能だ.
しかし安易に人間の選別,障害を持つ者の排除と言えるのだろうか.と言えれば,「お前も病に伴う障害を持っているではないか.」,「何に伴うものであれ,障害者というレッテルが貼られている以上,お前の存在も否定されるのだ.疑問など唱えるのはおかしい.」と言う人もあるだろう.確かに私も障害者という言葉でひとくくりにされる人間だ.しかしある言葉にくくられる人間であっても,現在のいまここにある私は,直ちに消える訳ではない.またアイデンティが失われる訳でもないことを忘れてならない.
 この問題で大事なことは,何を中心に据えるかで違ってくるように思う.まず,自分を中心にすれば,病を持ち,障害を持つ人間の1人としてある限り,私という人間の存在も否定される意味あいはある.ある人は「我々患者は予防医学の対象ではなく,治療の対象である.」というようなことを言った.
 確かに病を持つ身である限りは,どのような状態であろうと治療の対象であり続けたい.もちろん切り捨てられたくない.それは誰もが持つ本音だろう.しかしそれだけで良いのだろうか.そもそも遺伝子診断を含む出生前診断の技術が出てくるには,それなり必要としている人がいるからだろう.また診断を受けることで,救われる親もあるだろうと思う。それはあくまでも親である。または親になる人たちの価値観である。
では自分以外に置くとどうであろう.
 私の病は現在の医学の技術を持ってしても治らない.未来には治るかも知れないが.大切なのは,これから生まれ来るであろう子どもたちの為に,我々は考えるべきだ.責任もある.
 いま我々の意見は,未来に影響を与えると思う.ノーと言えば,逃れるべき災難も我々がノーと意志表示をしたばかりに,我々と同じような思いをさせるかも知れない.また辛い人生を送るかも知れない.ただ「筋ジス患者として生まれても,不幸ではないよ.」と言ってやるばかりで,本当にそれでいいのだろうかと疑問に思う.
 現在,私のような重度の患者は,現実には既に治療の対象ではないように思う.かと言って,治りたいと思わない訳ではないし,このままでいいとも思わない.また諦めたり,開き直ってる訳でもない.現実問題として,今こそ真剣に自分のことばかり考えるのではなく,未来のために考えなければならない.
 もしも「あなたはデュシャンヌ型だから,人間失格です.」と言われたとすると,素直に認めるしか術を持たない.大事なのは自己の存在,自己の思想である.

 医学も含め科学の進歩は,良い面,悪い面,様々な問題が沸き上がってくる.それは研究者や科学者の単なる探求心,好奇心かも知れない.しかし考えなければならないのは,我々患者が今こうしているのは,他ならぬ科学の進歩があることを忘れてはならない.
 出生前診断のような人の倫理の問題は,解決は難しく,他人が判断することもできない.結局は受けたいと思う対象者が独自の判断で受けるべきで,第三者が助言や判断材料を与えられても,判断の結果を与えられない.それをする為には,ケアする体制を作ると共に,インフォームドコンセントありきでなければならない.
 最後に私の意見を言えば、受ける、受けないの選択肢はなければならない.そして絶対に強要や強制をしてはならない.

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