はがき通信ホームページへもどる No.84 2003.11.25.
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 前号の「痛み調査」に対する反響 


 私は、去年8月13日に、T高速上の事故でC5・6の脱臼骨折により不全四肢麻痺の体になりました。東京で手術のあと、Kリハに5ヶ月入院し、現在は身障者手帳1級の身として自宅で過ごしています。
 2月ごろまでは、それほどの痛み・痺れもなく順調に回復しておりましたが、退院間際になって腰の痛みと足の灼熱痛、指先の痺れが現われ、現在では耐えがたいものになり、日常生活にも支障をきたしています。痛みが現われるまでは、退院すれば不自由ながらも大抵の家事などはこなせるものと信じておりました。
 また、医者や看護士の中にはこの痛みが充分理解できず、「怠け」としか受け取らない人もおり、そんな面でも辛い日々を過ごしています。抗うつ剤の処方、鍼治療などをしてもらいましたが、効果はなく、医者もさじを投げている状態です。この痛みさえなければ……と悶々とする毎日です。
 痛い人たち同士の情報ネットワーク作りをお考えとのことですが、ぜひ実現してください。私も痛みに耐え、ご協力できることはさせていただきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
 W.M

 私の夫は平成11年夏に受傷し、4〜5番の頸髄損傷者です。在宅生活2年になりましたが、倒れたときから特に両下肢の痛みと痺れを訴えており、それがだんだんひどくなると言っています。熱湯をかけられたようなと表現してしていますが、24時間そばにいても私にはその辛さを感じることなどできるわけがありません。はるか太平洋を台風がやって来ると、天気予報以上に感知します。  
 電気カミソリの振動、足の指の爪切り、入浴など、あたり前の日常的な動作が夫にとっては苦痛以外の何ものでもありません。同じ頸損者に会うと、まず挨拶代わりに「痛みや痺れがありますか」と聞いています。
 今回、アンケート調査に加えていただき、同じ苦しみに耐えている人たちと情報交換ができたら夫にとってどれだけ強い支えになることでしょう。ぜひ参加させて下さい。これを機会に仲間に加えていただき、少しでも前向きに生きていけたらと考えています。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 
 E.M
                           *
 私の義父が昨年5月末に自宅の階段から転落し、C3,4レベルの頸髄損傷になりました。退院してから家族でリハビリを行ってきましたが、今現在は痛みが増大し、リハビリを中断している状況です。
 今週からH大学病院のペインクリニックで痛みの治療を始めています。今後どうなっていくか全くわかりませんが、私たちでお役に立てることがありましたらご協力させていただきます。
 N.K
                           *
 私は、去年の暮れから徐々に痺れ・痛みがひどくなってきました。私の場合は、直接の原因はぎっくり首だったんじゃないかと思います。最初は左腕から痺れ始め、右腕、左足、右足、背中、腹の順でドンドン痺れ・痛みが増していき、痛みが強くなるのが怖くて一時は完全な寝たきり状態になってしまいました。
 受傷直後から痛みがある人がいるというのは聞いたことがあったのですが、受傷してかなりな日数が経って痛みが出るという話は聞いたこともなく、いったいこの体はどうなっているのだろうと思っていました。私以外にもそういう人がいるということがわかっただけでも、少し気持的に楽になりました。
 F.Y
                           *
最後にメールやお手紙をくださった方、アンケートにご協力くださった方、本当にどうもありがとうございました。痛み・痺れはつらいものですが、安全な治療薬ができてくるまでの根くらべです。あきらめずにがんばりましょう。
 瀬出井 弘美(編集委員)


 落ち込んでいる人を励ます難しさ 


 私は瀬出井さんの山のクラブ以来の友人であり、現在は自薦のガイドヘルパーをしています。前号に瀬出井さんが投稿していましたが、5月中旬頃より突然、急激に身体の痛みや痺れが増悪し始めました。もともと瀬出井さんは受傷時より下肢に痛みを抱えていましたから、痛みには強いはずです。長年の間にそれをコントロールし、外で口に出すことはありませんでした。
 痛みに対して本人がコントロール(我慢)できるものであれば、普段の生活や外出にも支障がないでしょう。痛みを忘れるため、気分転換のために何かをする、外に出るよう心がけるということもできると思います。それは、痛みがあくまで“度”を越えなければのお話しです。瀬出井さんの痛み等は、日に日に悪化していきました。
 本人が一番辛かったと思いますが、私自身、泣きたくなるような痛みに耐える瀬出井さんにどう対処したらよいか、本当に戸惑い、最初はオロオロするばかりでした。外出もほとんどしなく(できなく)なりました。それは痛みのせいもありますが、精神的にも気力を失っていたと思います。
 今の私に何ができるかと考えたとき、瀬出井さんが受傷したときのことを思い出しました。そして、自分なりに出した結論は、重度の障害を負った彼女の言う言葉に、ただただ黙って耳を傾けようということでした。今回もそれでいい! と考えたとき、気持が楽になりました。今はただただ、聞いてあげることがもっとも良いことだと思いました。
 声に出して言うことで、少しは気持が晴れることがあるのではないか。痛みを完全に除痛することは不可能に近いと感じるが、本人の性格、痛みへの感受性、そして周囲の環境の影響も大きいのでは? と感じます。家族とともに支えていける道をこれからも模索したい。
神奈川県:I・Y


 ブロードバンドについて 


 私はヤフーのADSL・12メガですが、局から4150mの距離があり、実測してみると0.5〜0.7メガしか速度が出ません。今度、26メガが開通しましたので、月額300円増しなら26に変更しようとHPで調べました。ところが、局から4kmの距離ですと、グラフで見ると12メガも26メガもほとんど同じ速度になります。それならと、今のままでいくことにしました。実質、0.5メガでも受信や画像は充分な速度で、常時接続は便利です。
 ヤフーのBBフォン(IP電話)は料金が非常に安く魅力がありますが、私の場合、あまりにも不具合が多かったのでBBフォンだけKDDIの普通の電話に戻し、ヤフーはブロードバンドだけ利用しています。IP電話は快適に利用している人も多数いますが、まだ問題があるようです。
福岡県:H・M E-mail: bistariw@ybb.ne.jp


 支援費制度と介護保険(39年めの受難) 

独居老人、受傷39年め、電動車イス使用

今年は、寂しいことに「はがき通信」の懇親会もお休み(ハワイには私も行けませんが)、夏も夏らしくなく、秋の声を聞く頃に猛暑となり、蘭たちも花咲く時期を狂わされて1ヶ月前から、カトレアや夏えびね、今時、パフィオ・ヘデルム、が咲き、ミニ胡蝶蘭がつぼみを付けている? 大山(山陰で一番高い山)に昨年より3日早い初雪が降り(例年より11日早い)、一気に冬が大将軍を連れてやって来る。ミニ胡蝶蘭もつぼみを落として自分の身を守ることだろう。
 さて、私は12月に満65歳になります。いよいよ介護保険適用で、11月には介護度を決める審査が始まるそうです。それはそれで構いません、しかし、交通事故対策センターから、出ている介護料がストップしてしまいます。この「はがき通信」の中には、交通事故で頸損になられた人ばかりではないことは承知の上でまことに申し訳がないのですが、この介護料をもらうのに私は本当に苦労しました。何せ、事故後30年以上たっています。事故証明も、警察の現場検証の記録もない、当時、担ぎ込まれた病院も10年前に院長が亡くなった後、閉鎖されたと言われ、図書館に新聞だけが残っていました。センターの方に「新聞は証明にはなりません」(気の毒そうに)言われて諦めようと思いましたが(24〜25年前にも同じような書類を出していました)、そのことを電話口で思い切って話しました。「そのまま、そこで待ってて」と電話は切れて5分ぐらいあとに、「山脇さん、貴方の書類は残っています」という返事、嬉しいような、何故という、妙な気持ちでした。
 昨年6月から介護料をもらっています。母が介護をしていてくれた時に、母が亡くなる7年前から介護をしてくれた付き添いさんに介護料は上げたかった。母も付き添いさんも亡くなり、独居になってしまった私に介護料です。支援費制度が介護保険に変わるだけなのですが、これが私には出費が増える上、センターからの介護料は入らない、介護保険に変わってもメリットはなく、自分でも健康保険に上乗せされて払っていますが、あまりよい制度ではないかも知れません。支援費制度も近い将来に、介護保険に吸収されることが決定的とも聞きました。今年の9月始めにセンターの課長さんが訪ねて下さって、その時に介護保険の件もお話しましたが、ただ黙って帰られました。
 その後、私の回りで脊損(頸椎7,腰椎)の人たちが褥創で入院しました。病院が使っているピュアレックスがよいと電話をもらい、さっそく視に行きました。私の褥創予防は柔らかめのマット(市の福祉課から支給)にボワの敷物、その上にシーツ、おしめを3枚縦に引き、横シーツを張る、それだけできましたが、特に頸損は、褥創と腎臓、膀胱の戦いと思っています。ところが介護保険給付は必要とする物品は全て(?)リースになり、月々に支払いが生じるという。センターでは支給する、とある。
 電話をかけて、ピュアレックスを買っても支給されるのか聞きました。領収書があればよいとの返事と、「それから、介護保険を使わなければよいんですよ、貴方の介護料は上限10万円ちょいまで出ますが、使うと介護料は出ません」電話のあと、私のことも気にかけて下さっていたのだと感謝でした。介護保険を使わない? そんなことができるのか市の福祉課に電話をしてみましたが、初めてのことでわからない県に聞いてみるから返事は待ってくれ、と言われて現在に至ってます。皆さんの中によい案があれば教えて下さい。
 10月31日
鳥取県:Y・H E-mail: hy0025@ncn-k.net


 受傷後初めての1泊旅行 

47歳、C4、頸損歴11年め、施設7年め、人工呼吸器、電動車椅子使用

10月上旬に、受傷後初めて=11年ぶりの1泊旅行(施設イベント)に連れて行ってもらいました。私にとっては記念すべき一歩であり、以下はその顛末記です。
 そもそもは3年前、当時の担当寮母さんの「無謀」な一言に始まります。その頃私はようやく健康が安定しつつありましたが、旅行に出かける人たちを横目で見つつ、人工呼吸器の携行が必要な私には、宿泊旅行など口にさえできる状況にないと思っていました。それを寮母さんは事も無げに「行こうよ、呼吸器も運んで行くから。」そして、2001年の10月のケース会議資料(「はがき通信」№82:2003年7月25日号「目標=仕事を探す」参照)から宿泊旅行が、それも無謀と見えない、より自然な形の、次にもつながるような宿泊旅行が私の目標になりました。
 まずは、呼吸器そのものから離脱できないか? これは呼吸筋が弱すぎて当面は難しいと言うので、次は呼吸器を小型の機種に変更できないか? こちらは現呼吸器の変更自体が難しいらしい。施設利用者は在宅人工呼吸指導管理料=2800点(28,000円/月相当)が適用外のところを、現呼吸器は県支給の病院所有品であったために診療報酬が少なくてもなんとか対応してもらえましたが、別機種への変更は難しいという説明でした。仕方がないので、現呼吸器のままで携行性をアップする算段として、「電動車椅子に、現人工呼吸器を載せられる台をつけること」「現人工呼吸器から加湿器を省略できる人口鼻付呼吸回路を導入すること」の2点の実現に希望方向を転換しました。そして、今回ようやくそれらが実現し、旅行に行くことができたのでした。施設イベントとして開始してから4年め、私自身の具体的目標にしてから3年めでの実現です

 私を含めて入所者4人、家族が2人、付き添いの介護員さんが3人で合計9人が2台の福祉レンタカー(2台×11,000円<30時間分>?=施設費用)に分乗しました。1日めは12時半に施設を出発〜寺泊水族館〜柏崎の岬館11階に宿泊。旅館では車椅子が入るスペースとベッドが必要なため、1泊16,800円也(自己負担)の特別室を用意してくれました。日本海に沈む夕日に感動。


         (日本海に沈む夕日)







 2日めは、柏崎の日本海フィッシャーマンズケープで昼食と買物をして16時には施設に帰着しました。旅程中の3食は海の幸一杯で普段の4倍は「食った食った」。しかし、さすがに2日間通常と異なる行動のため、帰着頃にはもう「くたくた」ではありました。へそくりを奮発して姉を始め、いままでお世話になった人に初めてのおみやげを送ることができたことも私の喜びのひとつでしたが、あんまりささやか過ぎて宅急便代が中味の「かに」代に匹敵したのはお笑いでした。

 不測の事態としては……
 ①車椅子に付けた呼吸器台が出っ張り過ぎていて寺泊水族館のエレベーターに乗れず、上の階の水槽見学を断念したこと。
 ②同じ問題が旅館のエレベーターでも起こり、呼吸器を下ろして台車で運んでもらったこと。
 ③旅館入口の急坂が呼吸器を後ろに積んだ車椅子にはきつ過ぎて、途中ローギアに入れ変えねばならなかったこと。
でした。今後も呼吸器台については、運用面の工夫でカバーしなければならないようです。


    (車いすに人工呼吸器を載せたところ)




 旅行に行くことができただけで大満足なのですが、いくつか気になる点も残りました。ひとつは、出発前日に担当介護員さんから言われた「アルコールは通常の施設イベント時の量を超えないように」というもの。もうひとつは、当日夕食を待つ間に言われた「消灯は施設の通常と同様22時」というもの。後者については、言われた咄嗟に「消灯ってどういう意味? 何をすること? しないこと?」と反駁(はんばく)してしまい、もう一人の介護員さんの「まあまあ楽しくやろうや」の言葉になだめられたのでした。
 一体これはどうして? きっと「健康を考えて」と言うのかもしれませんが、「管理」が旅行にまで及ぶのかと冷水を浴びせられた心持ち。「通常を離れるため」というのも旅行の目的でありたいものですが、施設のイベントでは無理なのか? 望むなら個人旅行で羽目をはずしなさいの意か? 結果的には、上の規制は不要でした。アルコールについては、日本酒通常200mlに対して150mlでもう一杯になってしまい、一方消灯については、当日は疲れてしまって夕食後しばらくして21時には床に入り、「ホテルのラウンジで皆さんにラーメンをおごる」という野望も絵に描いた「麺」となり、後味の悪さだけが残りました。
 でも、やはり「どうして」を確認したくて、後日、昼食の介助についてくれた今回のイベント担当で旅行にもついて行ってくれた介護員さんに「誰の指示か?」問うたところ、たとえば看護師さんなどではなく、その人本人の発案で「介護員の通常業務以上の負荷が心配だった」というのがその理由なのだそうです。「羽目をはずすといっても常識範囲だろう」とか、私たちをもう少し信用してくれてもよさそうなものなのに、と寂しく次にはやはり腹立たしくもなりました。
 しかし、寝たきりの時を思えば1泊旅行できたことは、私にとってきわめて大きな前進です。上の不満は健康になり過ぎた私の欲深の現われ? そして、旅行はまた、呼吸器と吸引器を携行し、しかし、看護師さんではなく、介護員さんだけの付き添いであるところにも次につながる意味があると思います。実現してくれた皆さん、応援してくれた皆さん本当にありがとう。
 2003年10月31日記
新潟県:T・H E-mail: th36th@hotmail.com
 3A+Aのページ: http://www.h4.dion.ne.jp/~the-36th/
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