はがき通信ホームページへもどる No.79 2003.1.25.
Page. 1 . 2 . 3 .

前ページへ戻る
写真だより(その1)


 日本一の石段(3,333段)の里、熊本県中央町在住のN.Sさん、C5、47歳。ビデオ6台、パソコン4台、ハードディスクは200GBというビデオ編集の達人の編集環境の写真です。編集技術は独習されたそうです。

 「ベッド上での生活が多いので、編集用機器類はすべてベッドサイドに配置。パソコン、ビデオデッキはラックに固定したトラックボールを左手、キーボード、リモコン等をマウススティックで操作します。マウススティックと左手のみでの操作にはある程度限界がありますが、できうる範囲で自分なりに楽しんでおります。

 最近では保育園、知人、友人等からの依頼で発表会や運動会、旅行、記念行事等、いろいろな催事の編集をやっております。
 なかなか自分自身満足のいく作品はできませんが、でき上がった作品を観て『良かったよー!』と喜んでいただけるとそれが一番の励みであり、次へのエネルギーとなります」(ご本人の弁)
 
熊本県:ノリタン noritan@trust.ocn.ne.jpメール
 


 引っ越しました 


 昨年12月に引っ越しました。以前より福祉機器の開発モニターや大学・専門学校での講演活動などで少しですが収入を得ることができるようになり、一昨年に思い切って生活保護を打ち切りました。その頃から「自分としてこれからもっと活動しやすい場所で生活していきたい」ということから、引っ越しを考えていました。
 昨年夏頃からは、インターネットを中心に探していました。不動産屋を回っても車いすということで相手にしてくれるところは少なく、ホームページなどで良い物件があるとメールを出し、良い返事が返ってきた物件のみ話を進めました。しかし、エレベーターが狭かったり、玄関に段差があったりなかなか納得のいく物件がなく、諦めかけていた時にこの物件が見つかり「即決」しました。
 私のような全身性の障害者が別の市区町村に引っ越す場合、ホームヘルパー制度や各種手当て・訪問看護・巡回入浴サービスなどいろいろな制度が変更になり、その手続きや住宅改造の打ち合わせなどでアパートとマンション・区役所を行ったり来たりの毎日で、引っ越しをはさんだ3週間くらいは身体的にも精神的にもギリギリの生活でした。
 住宅改造については和室をフローリングにし、天井走行リフトを以前のアパートから移設し浴室にリフトを取り付け、車いす対応の洗面台を付けました。以前のアパートでは週1回の巡回入浴でしたが、これからは女性介護者でも毎晩でも入浴が可能になり、受傷後、自宅のお風呂に入ったのは初めてで「思わず感動!」でした。朝、電動車いすに乗るとすぐ洗面台で頭と顔を洗うこともでき、以前のアパートの生活よりもグッと生活の質も向上しました。そして、駅・区役所・銀行・スーパーなどが近くにあり、マンションなので機密性が高く、静かで暖かく寒がりの私には非常に嬉しいことです。
 以前のアパートは友人を呼ぶにはちょっとためらうようなところでしたが、今度は泊まることもできますので皆さんぜひ遊びに来てください。
 住宅改造やベッドサイドの工夫などを「ふざわたかし・ホームページ」で公開していきたいと思います。お楽しみに! 
広報委員:麸澤孝
 


はじめての国内旅行空の旅(「DPI世界会議札幌大会」参加記)

 高い所が苦手なので、飛行機に乗るのは怖い。世界の障害者が集まる「第6回DPI世界会議札幌大会」に参加するため、とうとう飛行機に乗ることになってしまった。当日、一緒に行く友人の宮腰さんと合流し、JALのカウンターでチェックインを済ませた。搭乗口で電動車イスから機内用の車イスに乗り換えなければならないことは、ハワイに行った時に経験ずみだ。

 一般の客が飛行機に乗り込む30分前に、ボディーチェックを受けて搭乗口に行った。そこに、JALが新しく導入した“リクライニング式の車イス”が用意されていた。それは、JALのプライオリティーゲストセンター(TEL: 0120-747707)に事前にお願いしていたからである。
 ゴリラは飛行機の普通の座席に座れないため、スーパーシートの航空券を購入した後、プライオリティーゲストセンターに電話を入れておいた。身体が大きいため、移動がしやすいように座席を一番前にしてほしいことや新しい機内用の車イスを用意してもらうこともお願いしておいた。しかし、楽しみにしていたリクライニング式の機内用車イスは、座位面が低すぎて背もたれを起こすと足が床に着き、座位姿勢にできないのである(ゴリラの身長184cm)。結局、寝たままの状態で荷物のように運ばれることになってしまった。
JALはDPIのために、外国人や日本人の大きな方でも対応できるリクライニング式の車イスを導入したのではなかったのか! 事前に、何度も安全性や乗りごこちなどテストしたのではないかと思うのだが……。それとも、業者任せにしていたのか!? 当事者の意見を取り入れ、利用客が安心して快適に利用できる車イスに早急に改善してもらいたいものである。

 羽田発10:40、JAL509に乗り込んだ。座席は、機内の一番前。さすがスーパーシート、座席が広い。しかし、褥創予防のため座席の上に車イス用マットを敷くと、皆より頭2つぐらい飛び出してしまった。離陸のため滑走路に移動し始めたときに、突然、目の前にあるテレビ画面が飛行機前方の景色に変わった。高所恐怖症のため外の景色を見ずに済むと思っていたが、目の前の映像に釘付けになってしまい、ひとり変な声を出していたらしい。

 無事、新千歳空港に着陸すると肩の力が抜け、段々と元気が出てきた。乗客が降りた後、リクライニング式の車イスが運ばれてきた。やはり、羽田と同じ座面の低い車イスだった。JALの職員の方4名で、座席から車イスに移動してもらった。昨日、大勢の方を移動したらしく、とても上手かった。しかし、また寝たまま運ばれ、貨物から電動車イスが運ばれてくるのを待った。なかなか電動車イスが運ばれてこず、変な予感が……。
 やっと運ばれてきた私の愛車が、文句を言っているように見えた。それは、電動車イスのフットレストがずれ、ヘッドレストが曲がっていたからである。ゴリラの身体が壊されていたのだ。あれほど、電動車イスを丁寧に扱うことを言ってあったのに……。ムカーッ!! 帰りは、何度も固定をしっかりするように伝えたので大丈夫であった。フットレストは簡単に直ったが、ヘッドレストが直らず、結局そのまま乗って空港を出た。

 DPIとは、「Disabled Peoples' International」の略であり、「障害者インターナショナル」という。オリンピックやワールドカップと同様、4年に1度の開催である。日程は、2002年10月15日から18日までの4日間。こんな時ぐらいしか北海道に行くことはないと思い、観光も兼ねて10月15日から20日までの5泊6日で行くことにした。
 今回、DPIの開催のおかげで、国内の航空会社が障害者の搭乗人数制限の見直しをした。緊急脱出が必要になった場合、歩行や視力に障害を持つ人の介助に手間取るからと、一定の人数以上は乗せない決まりになっていた。そのため、車いすの人たちはグループでは飛行機に乗れない、付添い人の同行を条件にされたり、新婚カップルなのに隣同士の席に座れないなどの機内での制限があった。これらの「決まりごと」は各航空会社がそれぞれの内部規定によって決めており、根拠や基準もまちまちであった。しかし、札幌で世界会議が開催され、国内外合わせて2000人の障害をもつ人たちが札幌へ集まる見込みのため、その多くが航空機を利用するので改善されることになったのだ。
 愛車の電動車イスのヘッドレストを傷つけられ、落ち込みながら新千歳空港の外に出ると、ピンクのスタッフジャンバーを着た多くのボランティアさんがいた。その中のひとりの女性に、「DPIにご参加ですか?」と明るい声で話しかけられた。「はい」と答えると「電動車イスの重量はどれくらいですか?」といきなり聞かれ、「私を入れて200キロあります」と答えると驚いた表情になった。それは、重量が200キロを超えると古いハンディキャブのリフトでは上がらないらしい。それで、“日本財団”から寄付された新車のハンディキャブに案内された。重くても、たまには良いことがあるものだと思った。新車のハンディキャブはサスペンションがいいので、あまり揺れなくて乗り心地がいいのだ。空港の前には大型バスやリフトバスが待機していて、会場とホテルにピストン送迎をしていた。名古屋から20台のハンディキャブと運転手さんが貸し出され、札幌まで運転をしてきたという。全部で100台のハンディキャブが集められ、会場で並んでいるハンディキャブを見た時には壮観であった。
 会場に着くと受付を済まして会場内に入った。会場は、“道立総合体育センター・きたえーる”で、とても大きな建物だった。また、地下鉄も乗り入れているので、車イスにとってはアクセスしやすい。メイン会場に、世界109か国から3150人の障害を持った人たちが参加をしていた。迫力満点。会場には発言とほぼ同時に、その内容が日本語と英語の字幕となって大型スクリーンに写し出されていた。また、手話にも英語の手話と日本語の手話があり、動きが全く違う。スピーチは英語なので、同時通訳のレシーバーを借りてイヤホンで聞いた。何か、自分が国際人になったかのような錯覚にとらわれた。
 会場でフランスやアメリカ、マレーシアから来た人たちと知り合いになった。フランスの人は、「日本人の対応がよく、地下鉄のエレベーターが壊れていなかった。ただ、エレベーターの場所がわかりにくかった」ことや「札幌の街はバリアフリーで素晴らしい」と話してくれた。フランスではエレベーターが壊れていたり、バリアフリーではないことなど情報を得られた。もちろん通訳は、ボランティアさんだ。日本まで来た人は皆自立し、自分の意思をはっきりと主張することに驚いた。ゴリラも、叫ばなければならないことがわかった。
 会期中、1日サボって小樽に出かけた。札幌駅からJRで小樽まで快速で約35分。小樽では運河や北一ガラス、オルゴール堂などで買い物をし、寿司屋通りで寿司を食べ、中でもいくら丼がめちゃくちゃうまかった。今回の旅は北海道とあって食べ物が美味しく、ホテルもすすき野のそばだったので毎晩すすき野に出かけて食べまくっていた(本当はこれが一番の目的だったのだ!)。
 すすき野といえば、ジンギスカンの美味しい“だるま”という店をホームページで探しておいた。だるまは小さな店で入口に段差があり、どうしても入れない。何とか入ろうとしたが無理なので諦めて帰ろうとした時、店のおばちゃんが駆け寄ってきて「私が焼いてあげるから外で食べなさい」と声をかけてくれた。なんて優しい! 店の外には地元の人が十数人並んでいる前で、宮腰さんに食べさせてもらった。アッという間に、ジンギスカン3人前とどんぶりご飯をペロリ。分厚い生肉だが匂いがなく、タレもうまい。最後に、野菜とタレに特製のお茶をかけた特製のスープが絶品だった。
 今回の旅行もまた“どこでもうまい物食いに行くぞ!!”という気になった。
 

<写真4枚挿入>
 ①さすが、スーパーシートは広い!
 ②荷物のように縛られてムッとした顔のIさん(JALのリクライニング式車いす)
 ③JR札幌駅にて(スロープがちょっと急?!)
 ④会場にて外国からの参加者と
神奈川県:M.I. gorilla@kk.catv-yokohama.ne.jpメール
 
 

写真だより(その2)

C4、5。43歳。

 「マラソン大好き!」主婦の広島県加計町在住のM.Kさん。
 
今年も「ヒロシマMIKANマラソン」を完走しました。受傷してジョギングシューズから電動車いすに変わってからは、20kmから3kmコースです。私の3年半の入院中、退院後、電動で走る気力が出るまでこの大会の5kmコースですが、代走しつづけてくれた次女の梓。電動車いすで再びマラソンを開始してからも、私は3km、梓は5kmと一緒に走り続けてくれた梓。その梓も今年の春、県外の大学へ進学予定。一緒に走るのも今年で最後かなぁと、5kmにチャレンジしてみました。

 新車での不安なスタートなのに、当日は突然の寒波。MIKANNマラソンは、瀬戸内海に浮かぶ島の「大柿町」であります。開催は毎年10月中旬頃で瀬戸内の穏やかな暖かな気候なのですが、今年はぐ〜んと気温が下がり、温暖な瀬戸内も冷たい突風に変わりました。
 梓との記念ランの予定が最悪の結果となりました。寒いはずなのに、ゴールするまで寒さは感じませんでした。でも、体はしっかりと感じ取り、腕は寒さで縮まってコントローラーの上から手が落ちるんです。主人に時折ストレッチをして伸ばしてもらうのですが、すぐに緊張が高まり手が落ちます。体中の緊張も上がり、肋骨がしめつけられるのとあわせて口も開きません。「くそ〜!」という思いばかりが頭の中を行ったり来たり……。最後は、手をコントローラーにテープでくくりつけて迎えに来てくれた梓と歯を食いしばってのゴール!
 ゴールとともに冷えた体はがちがちと震えが止まらなくなり、暑いお茶を買いしめ、ひざの上に置いたり顔に当てたり飲んだり……。伴走してくださったボランティアさん、友達、夫……寒い中最後までありがとうございました。

 
広島県:ハローマリ hello-mari@enjoy.ne.jpメール



 ボランティア考 

46歳。C4。頸損歴11年め。施設6年め。夜間と作業時人工呼吸器使用。電動車椅子

 先日、「年賀状書き」にボランティアの方々が施設に来園してくれました。口述筆記と宛名書きです。私はパソコンを使って年賀状を作成するのですが、印刷の時にはどうしても手助けが必要なので前もって寮母さんに予約を入れました。そのときの反応は、「パソコンからの印刷は頼んだことがない」「ボランティアさんを居室に入れていいのか? 上司に相談してみる」といったものでした。
 当日、午後から60歳前後の女性5人ほどが来園し、施設の入所者が共用部屋に年賀状を持ってきて代筆を依頼しています。私は「居室で待機しているように」との寮母さんの言に従って待つこと2時間、1人のボランティアさんを連れて寮母さんが居室まで来てくれました。前述の問題点は、クリアしてくれたようです。しかし、入って来るとボランティアさんは私のプリンタを見て「これは使ったことがない」「習い始めたばかりで自分のプリンタ以外使えない」「ごめんなさい。今度勉強が進んだらお手伝いします」と1人でまくし立てて、結局帰って行きました。
 その間、私はどう対処していいのかわからず、一言も発することができませんでした。はがきのセット等、私の言うことをそのままやってくれるだけでいいように自分なりに準備万端だったのですが、ベッド上で床ずれ予防のために寝たままで待っていた私を見て、全てを行なわねばならないと早合点したのでしょうか? それにしても人の話を全く聞かないという法はありません。あるいは、最初から断るつもりだったようです。
 すぐ後にたまたま来室した年配の寮母さんに印刷の手伝いを断られたことを話すと、「私らの年代は機械に弱い。もし壊したらその人のその機械への愛着もあり、お金で済む問題ではない」等々すぐに考えてしまうそうです。また「ボランティアといっても、お話しすることを目的にしてくるのだから難しいことは頼んではならない」だそうで、はなから当てにしてはいけないという口振りです。
 2003年の4月から障害者の介護も措置から支援費制度に変わり、同時に障害に応じた補助額(?)の区分が細分化されて、施設においては実質的には収入が減る方向だそうです。収入が減ったら支出を減らすしかなく、諸経費を削減したとしても減収額によっては職員さんを減らす(自然減に補充なし〜アルバイト・臨時職の延長なし〜?)しかなくなります。当然代替え手段が必要であり、
 ①入所者が寮母さんへの依存を減らす=施設における自立の促進
 ②ボランティアの積極的活用
がすぐに思いつきます。このことは施設の大小によらず(あるいは個人の在宅においても同様であり)、そのノウハウの蓄積が真に生き残りの条件になります。
 そんな時にあって、上記のボランティアさんへの対応は戦略なしと言わざるを得ません。まずはボランティアということについて、寮母さんはじめ施設職員、私たち障害者、またボランティアさん自身の意識改革が必要です。どれだけボランティアさんを実戦力化できるか、あるいは実戦力のある人を集められるか? どのような作業でもボランティアさんができない理由を探すのではなく、どうやってやってもらえるようになるかを考えるべきです。 
 たとえば極端な話ですが、吸引をやってもらえるようにするには? 臨時職の人にもやり方を教育してやってもらっているのですから、ボランティアの人もキャリア次第です。以前施設に勤めていた人がボランティアに来てくれた時、吸引してくれますか? 「印刷のプリンタを壊したら」と同様、やはり責任問題を理由に断られてしまいそうです。
 一方私たち障害者側も意識改革が必要で、プリンタが壊れても責任は問わない→壊れるのを恐れるなら別の方法(例えば口述筆記)で年賀状を作成すべきです。私たちの先達は、死にそうになる経験をしつつも海外旅行さえ実践しています。リターンを多く望むなら、リスクも大きいと覚悟すべきです。吸引のリスクは、苦しくなる、気管が傷つく、場合によっては処置の遅れで窒息死する? 等ですが、吸引のやり方の教育時から自分を積極的に使ってもらい、関与し、場合によっては1人処置の可否判断に加わることによって、リスクミニマムに持っていくことができると考えます。
 意識の清明でない人にリスクvsリターンの判断を求めることはできませんが、問題は同じ障害を持つということで、逆に判断できる人にもローリスク(=我慢)を強いていないかということです。あるいは、「責任を問わない主旨の一筆」を入れることが判断能力の基準になるでしょう。制約を受けることを嫌うなら、一筆などなんの問題でもありません。
 ボランティアさんには上記事情と考え方にご理解をいただき、特に作業の範囲を広げることに積極的であって欲しい。お話しに来ていただくことも施設にとって必要ですが、それは慰問であり、ボランティアさんには目的達成(今回は年賀状作成)を志向していただきたいと思います。
 なお、年賀状は、後日来訪してくれた別のボランティアさんの手助け3時間ほどで無事完了しました。結果的に、前記「午後から来園〜2時間待ち」では所要時間内での完成は難しかったようですが、たとえ1時間でも始めてみなければ問題点すら明らかにはなりません。年賀状作成を断られた戸惑いが、思わぬところまで話を膨らましてしまいました。各位のご意見を求めます。
 ホームページを開設しました。現在の主な内容は「はがき通信」への投稿原稿とその記事内容のその後、および「身の回りの工夫」です。1度見に来て、足跡(御意見)を残して行って下さい。
 3A+Aのページ: http://www.h4.dion.ne.jp/~the-36th/
新潟県:TH th36th@hotmail.comメール





 読書メモ(3)

1987年C5受傷、53歳、男性

 ベッド上で本を読むのはきつい。体がきちんと立たない。首が疲れる。ノーマン・カズンズの『笑いと治癒力』はベッドで読んだときはさほどおもしろいと思わなかったが、車椅子で読むとおもしろい。リューマチのカサルスがピアノに向かうとシャンとするところなど説得力がある。原題はANATOMY OF AN ILLNESS AS PERCEIVED BY THE PATIENT。患者によって認識された病気の解剖、体験的病理解剖とでも言おうか、それを『笑いと治癒力』にしてしまうのだから岩波は商売がうまい。
 もう1ヶ所おもしろいと思ったのは、重病の女の子に毎日ひとつずつジョークを見つけて電話で報告するようにといったところ、その子だけでなく家族中明るくなったというエピソード。

 坪内祐三の『古くさいぞ私は』(晶文社)に目を通す。『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』がおもしろそうなのだが、値段が高いしマガジンハウスだからいまいちアブナくて、図書館で様子を見ようと思ったら5人待ちなのであきらめ、気になっていた『古くさい』を借りてきた。
 古本屋のこと、図書館のこと、テレビのことと、1段組・2段組・3段組こき混ぜたバラエティブック。はじめのほうは明治時代関連なので漢字が多くて読みにくい。
 文章というのはあまり厳密に出典などを記してもわずらわしくなるし、引用文も読書の流れをさまたげる。こういうこともあればまたああいうこともあるとあまり博覧強記を前面に出すのもうっとうしいということがわかる。括弧も少なくするべき。まあマニア向けの媒体に発表したものだからこうなるか。
 日記の合わせ読みがおもしろい。3人の作家が出会ったとして、その日の様子を各自どう書いているかを読みくらべる。そこから『慶応三年生まれ』の想が浮かんだのだろう。
 「もはや戦後ではない」という経済白書の名言は、じつは中野好夫が「文藝春秋」誌に書いた同題のエッセーのパクリであるなど興味深いことを自慢げでなくさりげなく書いてある。高円寺の古書店竹岡書店の名が出てくる。オレの本を高く値踏みしてくれたあの親爺さんも去年亡くなってしまった。
編集部員:藤川景
このページの先頭へもどる  次ページへ進む



HOME ホームページ MAIL ご意見ご要望