はがき通信ホームページへもどる No.150 2014.12.25.
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 特集 震災から3年半、ようこそ福島へ! 


 2014年10月4日(土)・5日(日)、わが福島県福島市において、「はがき通信」の懇親会が、第5回東京・神奈川・栃木・福島頸損合同交流会とコラボする形で開催されました。
 私にとっては「はがき通信」の仲間に出会える初めての機会となります。震災から3年という節目の年に思いがけずなんとも嬉しいお話でした。が、お聞きした当初はかなり困惑しました。4日に交流会と夕食交流会、5日に被災地視察及び仮設住宅の方々との交流という、私たち福島の仲間(福島頸損友の会、以下・福島頸友)にとっては2日にわたる大々的な企画です。
 しかも、広い福島県の県南に住む私自身、福島県人にもかかわらず震災後未だ浜通り(東部の太平洋側沿岸の地域)の被災地には行ったことがありません。道路状況も把握できず、車でどのくらいかかるのかもまったく予想ができません。「被災地視察は無理だ! 出迎える側なのに申し訳ないなぁ」と最初は諦めていたのですが、遅れても参加してくれたほうがいいということであわててシフトを作り直し、私は4日の交流会と5日の仮設住宅ご訪問に参加することになりました。
 このような機会がなければなかなか南相馬の被災地を訪れることはありません。3年以上も経過した被災地の今もなお改善されない現状を他県の皆様に生で知っていただけること、肌で感じていただけることはとてもありがたいことであり、有意義なことでもあります。その前に、画面を通してしか知らない私自身が生の現実を見ておかなければならなかったのかも知れません。私たち福島頸友の中にもここの仮設で先の見えない不自由な避難生活を続けている仲間がおります。さまざまなことで苦悩いたしております。今回は私にとってその仲間に会いに行くきっかけにもなりました。
 4日の交流会会場「コラッセふくしま」は復興支援などのいろんなイベントが行われる福島県では有名な複合施設です。そこの特別会議室は私も初めてで、広い室内に1人2人と懐かしい友の姿を見つけてはもう感動しまくりです。歳を重ねるごとに言葉にならない熱い思いが込み上げてきます。私たち福島の仲間も外出できる者はごくわずか、参加できない仲間たちにも思いを馳せて、私にとってはみんなが大切な友であり恩人なのだと改めて実感いたしました。反対側に私と同じ“晴れ女”発見! おーいと手を振りながら、元気そうな顔を見てホッとします。本当は元気じゃないんだろうなぁと内心心配しながら。もちろんこの日は晴れ、とても暖かい一日でした。
 「はがき通信」の仲間である北海道からと新潟からご参加くださった方々との初めての出会いは大きな感動でした。お2人の一言一言に芯の強さととても深い人間性を感じたのは私だけではなかったはずです。そしてもうお一人、もう何年前になるでしょう。「日本せきずい基金」の発足会でご一緒できた大先輩との再会もまた大きな感動でした。交流会は主に震災のお話を中心に名残惜しさを引きずりながらあっという間に過ぎてしまいましたが、ご参加くださった皆様にとっても仲間から力をもらえる、生きる糧となり得る一期一会の場であったことと思います。
 5日、いったん帰宅した私はとりあえず8時ごろに家を出て南相馬に向かいました。どんどん山奥に入っていくのですが、皆さんが被災地を視察されているときに私は車の中から廃墟になった町、荒れ放題になっている田畑、そして除染土嚢(どのう)の黒い袋が何列にも連なり放置されたままの光景を生で確認し、復興から取り残された地域の現状に恐怖を感じていました。被災地はどこまでも続いているのです。
 私たちは主に浪江から避難されている方々の仮設住宅をご訪問させていただいたのですが、そこはあくまでも「応急仮設住宅」となっています。このような“とりあえず急場をしのぐ”住まいの場が数棟を単位にあちらこちらに点在していて、“取り急ぎ”この地域が生活の場となり得るべく開拓されつつあるようではありましたが、なんとも殺風景な寒々しい風景でした。にもかかわらず、そこの自治会長さんやご協力くださった方々は前向きで明るく力強い姿だけを私たちに見せてくださって、反対に私たちが元気づけられたようなふれあいの場となりました。
 人生の途中で突然大切なもの、これまで築きあげてきたものを失い、「普通に生きる」ことから追い払われたような被災者の苦悩は私たち障害者仲間にも通じるものがあるように思われます。プレハブが並んだ長屋のような仮設住宅を見せていただいて、復興に向けての長い道のりが一日も早く滞りなく成されるよう、少しでも今の生活が改善されるよう、祈らずにはいられませんでした。実は、このような仮設住宅は遠く離れた県南にもあります。孤独死、孤立死されていたお話も以前に何度か耳にしました。とても身近な現実なのです。
 大型台風が迫り来る中、擦れ違うようにこの2日間の交流会を無事に終えることができました。正直ホッとしました。危惧することは大いにありましたが、この交流会が実現できたのも無事に終えることができたのも世話人の皆様の並々ならぬご尽力と地元の方々のご協力、ご支援があってこそで、今回の事細かなスケジュール表と役割分担を見ればお一人お一人がどれだけご苦労くださったことかと胸が熱くなります。




とりわけ中心的に動いてくださった福島頸友の仲間であり「障がい者の旅行を考える会」の代表でもあるT.Sさんとボランティアの方々には改めて感謝と労いの気持ちをお伝えしたいと思います。そして、ご来県くださった皆様、ありがとうございました!(2014.11.10.)
 

福島県:T.S.



 特集 「はがき通信・4都県頸損 福島合同交流会」に参加して 


 皆様、お久しぶりです。私は1993年晩秋、ダニが媒介するロシア春夏脳炎ウィルスに脳幹部を侵されました。そのため、罹患以来、四肢体幹麻痺・構音障害となりました。罹患後22年目に入り、回復が見られた部分もありますが、自宅にて家族とヘルパーさんによる全介助生活を送っています。1998年から地元、北海道北斗市周辺でWith You 〔前向きな障害者と仲間達〕を主宰しております。
 今回の福島合同交流会は、私が1995年に「はがき通信」を手にしてから初めての参加でした。現存するロシア春夏脳炎患者は日本国内に私1人だけですので、罹患当時は孤独そのものでした。ですから、そんな私を仲間に入れて下さった「はがき通信」の懇親会で皆様にお会いし親交を深めるのは夢でした。加えて今回は4都県の頸損の方々ともお会いできる!思いました。また今回の会場が福島県であったことは、私を交流会参加へと強く導きました。なぜならば……2011年3月11日に起きた東日本大震災の被災状況はマスコミを通じて知るだけでした。私たちWith Youでは東北関東大震災障害者救援本部へわずかずつではありますが、せめてもの気持ちで寄付金を送っています。そしてDVD「逃げ遅れる人々 東日本大震災と障害者」(東北関東大震災障害者救援本部・制作)をWith Youで観ました。でも私の中では悶々とする何かがありました。それが何なのか、福島の地に立つことでヒントだけでも得られれば……と思ったのです。そのために東日本大震災が残したものを、ほんの少しでも自分の目に焼き付け、皆様の生の声を自分の耳で聴きたかったからでした。
 私の「はがき通信」懇親会参加への憧れを誰よりも知っていた夫は、迷っていた私の背中を押してくれました。私は〆切ぎりぎりまで夏に崩した体調の様子を見て、ドキドキしながら麸澤さんに申し込みの電話をしました。落ち着いて話そうとすればするほど、発音不明瞭になり焦ったけれど、電話の向こうの麩澤さんは私の言いたいことをくんで下さいました。
 障害を持ってから私の遠出は、夫が運転する乗り慣れた自家用車(プラド)で行く北海道内の旅だけでした。JRを使っての夫との2人旅は初めてでした。この旅の行程はJR函館駅の職員さんで、私のティルト&リクライニング&足操作式コントローラー付きでやや全長の長い電動車イスを見知っている方に依頼しました。彼女の綿密な計画のお陰で、各駅での乗り換えも10〜20分間ほどでスムーズにできました。そんなわけで10月4〜5日に、夫と私はJR木古内駅(特急スーパー白鳥)→新青森駅(東北新幹線はやて)→仙台駅(東北新幹線やまびこ)→福島駅を順調に往復しました(片道約4時間半弱)。
 《地元PR☆木古内駅は函館駅より青函トンネル出口に近く、拙宅からも近いのです。北海道新幹線開通の折には北海道で最初に停まる駅です。ちなみに終点はわが北斗市の新函館北斗駅です。どうぞお見知り置きを!》
 JRにて。全ての駅でスロープ片手に駅員さんが待機、誘導してくれるので気楽に乗り継いで行けました。そして女性職員が増えたことはJRの雰囲気全体を柔らかくしていると感じました。列車待ちの僅かな時間でも軽い会話ができて事務的な感じはしませんでした。

 ●夕食交流会




 列車内での問題点は車イス席についてでした。最先端をいく新幹線については存じませんが、今回、利用したものは通路側の普通席を一つ外してあるだけでした。よく病院などにあるごく普通の車イスならば十分に置けると思いますが、ティルト&リクライニング型や大きい電動車イスだと収まらない場合が多いと思いました。実際、私の場合も十分に楽な姿勢を取るだけのスペースはありませんでした。他の方に聞いたところによると、デッキに出ているしかなく、停車するたびに乗降客の邪魔にならないよう移動しなければならなかったそうです。今回、私は何とか車イス席に入りましたが、足先を動かすとすぐに目の前の自動ドアが開閉し、乗客の皆様に対し心苦しく思いました。車イスの多様化を加味して、もっと乗りやすい空間を期待します。
 しかし乗務員の方々は声掛けも良く、車内販売のワゴンも以前に比べてスリムになり通路を通りやすくなっていました。車イス用トイレはかなり奥行きができて使用しやすくなっていました。なおいっそうのバリアフリー化への努力と、その経過において利用する者の意見を取り入れていくことをお願いしたいと存じます。
 4日福島にて。ホテルにチェックイン後、交流会会場コラッセふくしまへ。福島頸損ネットワークのT.S様の流暢な司会の下、K敏明代表挨拶、各自自己紹介、福島県浪江町で看護師をされていたSのり子様の2011.3.11をめぐる体験談、質疑応答が行われました。初対面の方ばかりの中で緊張していた私は自己紹介の段階でいったい何を話したのやら……? けれども誌面上でしか知らなかった「はがき通信」の皆様を目の前にして、いつの間にか自分の中の妙な構えが溶けていきました。質疑応答の際には「北海道から参加された方……」とのご指名に、S様に福島原発事故をめぐる個人的な悩みを聴いていただきました。場違いでは?と思いつつも言語障害の口が止まらなくなり、大切な交流会の時間を割いてしまいました。この場をお借りしてお詫び申し上げます。
 そしてコラッセふくしま12Fのレストランki-ichigo(一期一会の意だそうです)での夕食交流会へ。この期を逃すまいと私はエンジン全開! 食事中はマイクを切るので、夫に拡声器になってもらい、同じテーブルを囲んだ方々と。ここではF川様ご夫妻とお話しさせていただきました。そして食後にはマイ・マイクで声量だけは確保して、「はがき通信」の皆様や全国各地の皆様と楽しく濃いときを持ちました。その後、福島市の夜景をバックに集合写真をパチリ! まるで既知の友人の如く受け入れて下さった皆様に、心より感謝いたします。
 翌5日8時半過ぎ、ホテル前から別行動の麸澤様や瀬出井様に見送られ、何度も「またねー、元気でねー」を繰り返して別れを惜しみつつ、その日の行程へと……。



●向かって左よりHさんとSさん

 前日とは異なる緊張感を持って、2011.3.11の被災地視察・訪問のためにキャブへH野様、H様と乗り込む。途中、川俣町—飯館村を経由する。津波によって崩れた家々。あっと言う間もなく命が家屋が流された。放射能濃度が高く全村避難命令が出ている飯館村には人影もない。動いているのは放射能汚染土壌除去をする重機のみ。数知れぬ大きな黒い袋が並ぶ。放射能汚染で行き場を失った土が、わずか3年の耐久性しかないビニール袋に詰められているのだという。何度もテレビで見た風景を目の当たりにして、改めて全身が凍りつく。
 そして南相馬市の仮設住宅で避難されている方々のお話を伺う。当時から今に続く東電の隠し事ばかりの卑怯な態度。やむを得ず避難してはいるものの故郷の地は心の拠り所。きっと帰るとの意思が伝わってきた。私の脳裏には取り寄せたDVD「逃げ遅れる人々 東日本大震災と障害者」がオーバーラップして、息苦しさを覚えるばかり。被災地に立ち、はたして自分に何ができるのか……? またわが北斗市も津軽海峡を挟んで30㎞余りの所に大間原発がある。日本中に原発がある限り、いつ誰が被災者になるかは分からないのだ。これから自分はどうすべきなのか…… あの時、自分の無力さと軽々に何ができるかなどを声高に論じられる立場に自分はいないのだということを痛切に、私は感じました。つまり障害者の気持ちを健常者が簡単に「分かるよ」と言うことを私たちの多くは良しとしていないように、被災者の皆様に対して安全な場所にいる者が、同じような言葉を言ったとしたら……と深く思うところがありました。同時に大きな宿題を背負いました。すぐにその答を出すことはできません。大切なことは忘れずに考え続け、寄り添うことなのではないでしょうか……。今回、福島で私が苦し紛れに得た思いでした。
 その後、一行は北上してきた台風15号の中、福島駅へ戻り今年の交流会は解散しました。駅では見送って下さったT.S様に「ふくしまバリアフリーツアーセンター」へご案内いただきました。そして待合室では、H様が声を掛けて下さり、「はがき通信」上と何時か何処かでの再会を約束して、新潟と北海道に帰りました。帰途、皆様がそれぞれに信ずる道を一歩々々、歩んでいらっしゃることにしみじみと思いを巡らせました。今回の旅で皆様にお会いして、最近、弱気になっていた自分を省みることができました。
 「4都県頸損・はがき通信 福島合同交流会 2011.10.4〜5」皆様のご尽力に対し心より御礼申し上げます。まことにありがとうございました! 
末筆ながら、この2日間で「はがき通信」の瀬出井様、F川様、麸澤様、H様、H野様、I様と近くに遠くにお目にかかることができ、まことに嬉しゅうございました。またの機会に、次はさらに多くの「はがき通信」の皆様にお会いしたいと存じます。向寒の折、お身体大切にお過ごし下さいますよう、お祈り申し上げます。
 Merry Christmas ! & A Happy New Year !

北海道:A.S.


 特集 「はがき通信」懇親会in福島に参加 

57歳、C4、頸損歴21年目、人工呼吸器、電動車イス使用

 「はがき通信」懇親会には、今年で5年連続参加させていただきました。幹事の方々はじめ御協力の皆さん、また参加された皆さんにはお世話になり本当にありがとうございました。今年は福島ということで、1日目は朝の9時半に家を出発して、新潟〜大宮〜福島には13時半には到着していましたから、昨年の広島の半分ほどの旅程でした。また、4都県頸損会とのコラボということで、例年以上に多くの方が参加され、しかしながら2日間と短縮になったので、もっと多くの皆さんとお話ししたかったというのが率直な感想です。本稿においては、今回の恥ずかしかったことについて書きたいと思います。
 最初のコラッセふくしまでの情報交換会では、全国頸髓損傷者連絡会・機関誌「頸損」でお名前を存じ上げていながら、お会いしてお話ししたこともない頸損の有名人の方々を前にして、じつは私自身何をお話ししたのか覚えていません。あがってしまったのか? 緊張してしまったのか?



 そこで、夜のレストランki-ichigoでの夕食交流会では、指名されたらどうしようかとあらかじめ考えていました。時間制約のある中で、皆さんにお伝えしたいことは何か=それは、今年導入したスピーカーホンの紹介でした。
 私は、人工呼吸器を使っているため、どうしても声が小さく、たとえば宴会に行っても周囲がにぎやかならば、隣に来て話を熱心に聞いてくれる人としか十分に会話が成立しないという悩みがありました。そこで、スピーカーホンを2年ほど前に導入を試みたことがあるのですが、5000円ほどのものだったせいか、ボリュームを大きくすると「キーン」というハウリングが起こって使えませんでした。しかし、今後、人と話をする機会が多くなるとしたら何とか解決したいと思い続けて、フッと立ち寄ったヨドバシカメラで問い合わせると、私と同様の問題を解決した実績のある機器があると紹介してくれました。それは16000円余と値が張るのですが、エイヤっとヨドバシドットコムから購入してみると、ハウリングがなく、一度食事会に持って行って使えるという感触を得たのでした。そこで、「はがき通信」は情報交換会なので、懇親会で皆さんに紹介すべきと思ったのでした。少し自慢げにお話ししたような?



 ところが、夕食会も終わってホテルに帰る途中、参加者のお一人から「パワーギガホン4D手ぶら拡声器」を使っていらっしゃることの御紹介を受けたのでした。価格は数万円ながら行政から補助が出るとか(日常生活用具・携帯用会話補助装置の福祉機器として給付金・補助金を受けられる制度)。しかもマイクは私の方は頭にヘッドホンのようにつけたものにつながっていたのですが、よりスマートに襟元にタイピンマイク化(ピンマイクはオプション品)されています(じつは私は頭が締め付けられて夕食会中つけていることができなかったのです)。また、スピーカーもスマートに車イスのアームレストに自然に取り付けています(一方私の方は、マイクから有線コードで膝の上に置いて使っていました)。
 いやー恥ずかしかったです。しかし思い直せば、夕食会で私が紹介したからこそ、より良いものを紹介していただけたのです。すなわち、真の情報交換ができたのでした。私は、スマートでないスピーカーホンをしばらくは使い続け、来るべき2代目でよりスマートなものに切り替える予定です。
 (2014年11月14日記) 

新潟市:T.H.



 特集 福島へ行ってきました 


 10月4、5日(土、日)に「第5回・4都県合同」&「第19回はがき通信懇親会」が福島で行われました。4都県は(福島、栃木、東京、神奈川)です。今回は福島でより多くの方と、また、東日本大震災で被災された方々との交流も考え、コラボという形で企画されました。
 今回の付添は昨年6月の全国頸髄損傷者連絡会総会・神奈川大会でご縁のできたA君との1泊2日の初体験。神奈川からですとルートは新横浜駅発のイメージがありますが、わたしの最寄り駅からは新宿駅から大宮駅の方が早い。相変わらず新幹線の切符は予約もせずに当日、大宮駅で購入。駅員さんには「身障者(向け設備の付いた)車両のデッキの上」と伝えたつもりが、案内されたのは一般自由席のデッキへ。ゲッ! 出入り口が狭いのでヒヤリとしましたが、握り拳ひとつの余裕で乗車。さすがは簡易電動車イス。福島駅まで途中の駅は2駅、降車側のドアを確認した上で反対側へ移動。宇都宮駅を過ぎると空席が出て、A君には自由席で休んでもらう。先は長い。だが、考えてみれば帰りは迷わずどの列車からも乗れる。帰りの列車の時間を気にしなくても良い。うん、都合良く考える。
 福島駅に到着。ここまで来たのは初めて。早めに着いたのでラーメン屋さんで、お店自慢のラーメンを食べる。駅前でのんびりしていると偶然、Iさんに会う。駅前を背景に二人で写真を撮り、ホテルへ直行。くつろいだ後は懇親会の会場へ。懐かしい人々との再会です。昨年の4都県は栃木で行われました。その栃木のH田さんと世間話を。やはり災害の話題から、栃木は地震や大雨が多かった年です。一度、気になりメールを送りましたが、自宅近くの道路が冠水で通行止めになったとか。お目にかかれてなによりです。各自の自己紹介後は、K.S(福島)さんの付添のSさんの体験談でした。被災された初日は車中泊をされたとか。福島に来たと実感させられます。短い時間でしたが一同で記念撮影。
 会場の「コラッセ福島」の建物は福島駅近くにあり、1階は「県の物産店」、5階の特別会議室で懇親会、夕食交流会会場の12階は最上階で県内で1番高いとか。夕焼け、夜景の眺めも素晴らしかったです。夕食交流会はパズルのような配置を組み立て準備完了。K.Sさんの挨拶、お店の常務さんからの挨拶後、みんなで乾杯!! 



わたしはご配慮いただいたのか? K.Sさんと同席に。「Hさん海外へ行きましょうよ」のお誘いに「うーん」と曖昧(あいまい)に返事をするわたし。K.Sさんは「TAD〈障がい者の旅行を考える会〉http://www.tad1999.com/ 」の代表で、今回の企画の責任者です。付添の方もスタッフとして動かれているようでした。お疲れ様です。司会は瀬出井さん、相変わらず采配は上手い。指名された方の中には歌い出す人もいて盛り上がりました。楽しいひと時も無事に過ぎ定刻となりました。最後は展望室で一同記念撮影。「はい、笑顔で!」。
 2日目は被災地へ。福島駅前のホテル玄関に早朝から出発準備。わたしが乗車する車両はリフト付き車両。電動車イスが2台、車内の配置はこちらもパズルのようです。わたしは普段使用している背中のマットを座席に敷いてもらい自身は補助席へ乗り移り。おかげで景色が見られて眺め良し。出発進行! 走り続けるうちに聞いたことがある地名、川俣町へ。途中、大きな商業施設でトイレ休憩。再び走り始める。やがて海岸線手前の国道6号線へ。のんびりと車窓を眺めながら違和感を。人の気配が感じられず廃墟の家々が点在する。運転手さんの話では国道は海岸から2、3キロ内陸へ。それでも津波は4キロほど襲ったそうです。完全に目が覚めた。対向車も国道なので多い方なのかも。15分くらい走り、被災された皆さんの住んでいらっしゃる仮設住宅へ。



 仮設住宅の自治会長(浪江町)さんの「原発と共に生きてきました町です……」の挨拶は重い。じつは「柏崎刈羽」の事故を取材した本を読んだことがあります。『原発と地震−柏崎刈羽「震度7」の警告』(新潟日報社・特別取材班 著)を東日本大震災前に出版され新聞協会賞を受賞しています。機会があれば読んでみて下さい。

 集会所で昼食後、質疑応答。
 質問「病院は?」 やはり障害当事者ということもあり医療は切実な問題だと認識。意外にも近くに病院もあり大丈夫なようです。

 質問「避難先が10数回も変わられた理由は?」。 Aさん。避難を始めたが(小さな)町の公共施設では避難している人で一杯、ようやく避難先が見つかり一晩過ごす(これが1次避難)。翌日、浪江町も災害対策本部を立ち上げようとして役場職員もマスコミの報道を見て原発事故を知った。自分の家族に原発関係者がいて本能的にこれは簡単には帰れないと悟った。それからは転居先が次から次に変わる。親戚を頼った人、町の指示で新潟、軽井沢と移られた方(2次避難)。ようやく昨年の夏より仮設住宅ができて皆ここに集まった(3次避難)。ただ、若い人はほとんど他所へ行き残ったのは高齢者が多いとか。ふるさとへの思いは誰もが共通です。ここからならばときどき自宅の様子も見に行ける。Aさんも念願叶ってヘルパー2級を取得されたとか。
 もう少し時間があれば良かったのですが、どうやら帰りの時間です。前向きに。これからが復興への長い道のりでしょうが、どうぞお体にお気をつけて頑張って下さい。お世話になりました。
 帰りは寄り道もせず福島駅へ。東海道新幹線の11号車と違い東北は列車の種類が多い。乗車回数も少ないので、結局、帰りの新幹線も行き同様の形になりました。改札口を挟んでK.Sさんと話をしていましたが、あいにくと団体客が来て中断。お互いに「またね」といって別れました。名残惜しい。台風も近づいていて一路家路へ。夜9時半ごろに無事に帰着。今回、スタッフとして動かれた皆さん準備お疲れ様でした。心に残る旅行でした。ありがとうございました!

神奈川県:F.H.

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