はがき通信ホームページへもどる No.130 2011.8.25.
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【特集原稿募集】


 『けい損者の便秘について』131号

 けい損者にとって排便管理は一生つづく厄介な問題です。頑固な便秘に苦しみ、腸閉塞で緊急入院を反復し、巨大結腸(メガコロン)と診断された方もいます。今までのせき損医療では排尿にくらべ排便は取り上げられることが少なかったのですが、最近、巨大結腸が注目されたり、脊髄損傷者の排便管理ガイドラインが英国で作成されたり、せき損医療でも排便管理が注目されています。 
 その海外最新情報の紹介とともに、けい損者の便秘についての特集を次号・131号で計画しています。便秘の悩み、合併症、対策などの体験や意見に関する原稿を募集します。
 締め切り:9月30日まで! 



 『「はがき通信」懇親会in横浜』132号

 懇親会に参加された皆さん、懇親会でのことはもとより、横浜までの道中でのこと、自由行動での横浜観光のこと(今後横浜に出かける方の参考にアクセスやバリアフリーのことも)、参加するにあたっての問題をクリアしたこと、準備段階で気をつけたこと、計画通りにいったこと・いかなかったこと、ハプニング等々、何でもかまいませんので、ぜひご投稿を。写真もたくさんお待ちしております。

 締め切り:11月30日まで!


 2号続けての特集原稿募集の呼びかけとなりますが、情報交換のためにぜひドシドシご投稿ください。どうぞよろしくお願いいたします。





<特集!「四肢マヒ者のスポーツⅡ」>


 今号の特集は、116号(2009年4月発行)特集の続きの「四肢マヒ者のスポーツ」の第2弾です。四肢がマヒしていてもできるスポーツがあり、生きがいとして楽しまれている方がおられます。スポーツを何かしたいという方へスポーツを始めるきっかけになればと、現在されているスポーツの紹介や体験談、スポーツを始めたきっかけ、スポーツを始めて心や身体の変化、チームメイトとのエピソード、スポーツを行うなかでの工夫、気を付けていること、失敗談等々を情報交換のためにご投稿をご紹介させていただきます。




 特集 スポーツ吹き矢の活動状況 

58歳、C4−5

 皆さん、こんにちは。十数年ぶりの投稿になりますが、いかがお過ごしですか。「はがき通信」はいつも楽しく拝見しています。
 初めにスポーツ吹き矢を知らない人のために簡単に説明いたします。まず、使う道具は矢と筒と的です。立位のできる人はこれで良いのですが、車イスの方や手の不自由な方は他に筒を支えるスタンドと上下するテーブルがあれば便利です。長さ120cmの筒で高さ125cm(これは車イス時で立位は160cm)、直径18cmの的を射る競技です。もう少し言えば5本の矢を6回吹いて合計得点を競うものです。狙いと吹き出す力のバランスが難しいです。
 早いもので当施設(函館リハビリセンター)はこのスポーツ吹き矢を導入して10年余りの月日が流れました。今でこそスポーツ吹き矢と言うとそれなりに知名度もありますが、当施設が始めた平成11年ごろはそれほどメジャーな競技ではありませんでした。
 それではなぜ導入されたかの経緯について説明したいと思いますが、ご承知の通り北国は冬期間が約半年余りもあり室内での生活が余儀なくされます。そこでレクリエーション感覚でリハビリ要素を備えて、なおかつゲーム性のあるものが求められたわけですが、スポーツ吹き矢の吸って吐く動作はリハビリ要素として、腹式呼吸による横隔膜の刺激で肺呼吸を援助することと、酸素が増えることにより体内の血流を良くすることが上げられます。他にも効果はまだありますが、このことを踏まえて当施設では、リハビリの一環として私を含めた数名で始めることになりました。
 それで軌道に乗ってきた頃合いを見て、入所者の中から肺活量の少ない人に限定してメンバーを選抜し、同好会として発足いたしました。ほとんどが頸髄損傷、筋ジストロフィーの方々で吹き始めのころはひどい状態で、的の周りの物品に、また窓のカーテンにと矢が大きく外れるのは当たり前でしたから、的の周囲に大きな段ボールを広げて囲っていました。疾病の割には肺活量があったり、またほとんどなかったりという具合で、まずは暫定で全員5mの距離から吹いてもらい40cm角の的のベースに届かない人、外してしまう人にそれぞれ距離の調整を身体に無理が掛からない程度で行い、近い人は3mから、遠い人は7m等とし数年活動が続きました。ちなみに、現在私は10mから吹いています。通常、成人の距離は10mです。



 ある程度的に当たるようなると、今度は技量の向上と集中性を高める目的で罰金制を導入しました。最低点数(当施設は100点)をベースにそれ以下の点数の人に対する罰則ですが、最終的には親睦会等の飲食で還元しています。また他のルールとして高得点(120点)が3週続いたとき、逆に3週罰金を払い続けたときには話し合いで距離を調整します。どうしても点数を競うため、ゲーム性を重視して熱くなってくる方も最近のメンバーでは見受けられ少し気には留めていますが、大会で景品の争奪戦になると急に実力がUPする不思議な現象をどう理解したらよろしいのでしょうか?(笑)
 現在6人の会員で活動していますが、ゲームは1時間ほどで終わるので人数的にはちょうど良いと思っています。この数年間に病気や体調不良で数名の方が会を退きました。穴埋めに限定条件に当てはまる人がいなくて、やむを得ず入会させたのがちょっと悩みの種で、肺活量を十分に持っておきながら的に当たらないことを理由に下がろうとはしない、この行動が理解できませんが、このようなことを円満に解決して行きたいと思います。いろいろと会をまとめるのは一苦労ですが吹くことにストレス解消を求めて来られる方々には快く帰っていただきたいとも思っています。


            ●一番左の方(写真下)がKさん

 当会では会員の親睦を兼ねて年間2回の食事会と大会を行っています。経費は会費と施設からの活動援助費、罰金の3系統で運営しています。年度末の総会には全員持ち回りで会長と会計を務め、ちなみに会長は全体の掌握と各企画、会計は会費徴収と罰金管理です。活動の意義たるものは、週に1度の語り合いの場として楽しんでいる人、純粋にスポーツ吹き矢を楽しみに来ている人、その他それぞれですが、この集まりを今後も楽しんでもらえれば導入した一員として満足しています。とにかく会員に飽きさせないように的などに工夫を行っています。
 このインフォーマルグループが施設の中の情報交換の場の1つとしても役立っていることは間違いありません。毎週日曜日の午前中に活動していますが、活動日は朝から気合いが入りメンタル面でも多少の体調不良でも出席するくらい役立っているように思います。私も体力の続く限り継続したいと思います。少しでも導入を検討されている方々に参考になれば幸いです。安全面に十分気を付けてプレイを楽しんで下さい。(平成23年7月22日)
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[参考]
・社団法人日本スポーツ吹き矢協会 http://www.fukiya.net/
・IFA国際吹矢道協会 http://www.echigo.ne.jp/~dhiguchi/970314a.html

北海道:K.K.



 特集 私と車いすスポーツ(1) 

42歳、C6、受傷歴20年

 こんにちは、Sといいます。福岡市在住C6の頸損です。今年でちょうど、受傷して20年になりました。
 私は、大学4年のときに、ラグビーの練習試合中スクラムが崩れて下敷きとなり、頸随損傷になりました。約1年半の入院後、自宅に帰ってくることができました。その後、市職員に障害者枠で採用され、幸運にも仕事を得ることができました。
 私と車いすスポーツとの出会いは、入院中の卓球からでした。リハビリの息抜きで、手にスポーツ用の伸縮包帯でラケットをくくりつけてもらい、(欲求不満を解消するかのように)好き勝手に打っていました。座高が高い私は(高校時代100cmの座高計で計測不能だった「笑」)、卓球台と目線や腕の高さがちょうどよく、健常者のときより、車いすになってからの方が卓球がうまくなったのではないかと思うほどでした。入院末期には、OT担当の先生や、毎日食事を運んでくれる看護助手の方に誘われて、病院の卓球部の練習(?)にも参加し、かなり速い球を打ち合っていました。
 自宅に戻った後、福岡市の障害者スポーツセンター(以下:障害者SCとします)をたずねて、最初にしたのも卓球でした。指導員の方から卓球サークルを紹介され、練習に参加しました。車いすの卓球は、ラケットを振り回さず、面を合わせてラリーを続けることが基本形のようで、フォアハンドではしばし打ち込む私のスタイルは珍しがられました。しかし、いざ車いすの方とラリーをすると、私は徐々に振り遅れ始め、10球も続けられませんでした。面を合わせる打ち方を習いましたが、気がつけばラケットを振り回していました。サークルの練習日が平日の午前中だったこともあり、練習にも行かれず次第に卓球から離れていきました。
 障害者SCで、水泳もしました。車いすのトランスファーや着替えも満足にできなかったため、とても無理だとあきらめていました。当時障害者SCでは、頸損者を受け入れた実績がなく、「できる範囲のことは自分でがんばれ、できないことは何でも言え、それをサポートするのが俺たちだ」と言われ、あつかましくも(?)プールに入ることができました。指導員の方と四苦八苦して着替えた後に入ったプールの気持ち良さは忘れられません。専用の車いすでスロープからじゃぶじゃぶとプールに入っていきました。車いすごと体が浮き上がる感じがしました。車いすを降りて最初は、お風呂ぐらいの深さ(座位で肩が出るくらい)で遊ばせてもらいました。ここでも座高の高さが有利に働いたかもしれません。プッシュアップして軽々と尻が上がるのがおもしろく、調子に乗ってやりすぎるとバランスを崩して倒れました。水が耳や鼻に入ってきましたが、(塩素の匂いがする)その感覚も懐かしく感じられました。
 いよいよ、一般の深さのコースに入りましたが、緊張して体に力が入りすぎて全然浮くことができませんでした。何度か挑戦するもののうまくいかず、結局ヘルパー(浮き輪のようなもの)を両腕に付けてもらい、背泳ぎで何とか25mの向こう岸にたどり着くことできました。
 結局、その後2、3回プールに入れてもらいましたが、どうしても自分で浮くことができず、仕事に行き始めたこともあり、水泳から遠ざかっていきました。
 障害者SCに行き始めたころ、ちょうど車いすバスケット(ツインバスケット)の教室がありました。それに参加した私はそのままツインバスケットのチームに入りました。皆さんはすでにご存じかとは思いますが、ツインバスケットとは、ただ一般の車いすバスケットと違い、通常のゴールの高さにボールが届かない選手のために、フリースローサークルの中心に高さ1mほどのもう一つのゴールが置いてあります。また、選手のほとんどが握力がないため、ボールもすべりにくくぶつぶつのついたゴムの4号球を使用します。重度の障害者でもできるようにと日本で考え出されたものです。各選手は、自分の障害の度合いに応じて持ち点があり、ヘヤーバンドの色によって分かれます。それによって、上のゴールにシュートするのか、下のゴールにシュートするのかが、分けられます。この競技では、ゴールのすぐそばからシュートできるぶん障害の重い人の方がポイントゲッターになることができます。それがこの競技のいい点だと思います。われわれ頸損を想定して考案されたスポーツでしょうが、チームに頸損は私1人で、後はほとんどが脳性マヒの障害者でした。
 九州大会で、大分や長崎に遠征して試合をしました。私が参加していた1990年代半ばごろは沖縄が九州大会に参加していなくて、決勝は、毎年のように大分対長崎でした。そんな中、唯一決勝に進めた年がありました。切断や、脳性マヒで動きのいい若手がいて、大分と決勝戦を戦いました。敗れはしましたが、とても充実感がありました。彼らは、身体の状態が良すぎて、その後ツインバスケットには出場できなくなりましたが、(脊損の)車いすバスケットや、バドミントンに転向し、今もスポーツを続けています。そういういろんな障害を持った人と知り合うことができたのも、そのときツインバスケットをしていたおかげだと思います。
 しかし、当時土日の出勤もある職場に勤めていたので仕事の都合上、チームの練習や、試合に参加するのが難しくなってきました。また、並行してやっていた陸上競技がおもしろく、徐々にツインバスケットから離れていきました。
 長々と書いてしまいすみません。次回、陸上競技、そして車いすラグビーについて続きを書いてみようと思います。(続く)

福岡市:Y.S.



 特集 私にとって辛いけど楽しい趣味 

44歳、C8、受傷歴7年

  私は現在、広島頸損ネットワーク、岡山県吉備高原医療リハビリテーションセンター頸損・脊損の会の代表をさせていただいておりますK.T.と申します。今日は私と車いすマラソンとの出会いについて投稿させていただきます。
 私は約7年前に交通事故で頸髄を損傷しました、障害のレベルはC8です。病院はいくつか転々としましたが、本格的な生活自立訓練のために広島から岡山県吉備高原医療リハビリセンターへ転院しました。
 その時にリハセンターの周辺地域で車いす使用者との交流マラソン大会があり、ポスターを眺めていた私はふと「出場しなきゃ」と思い、病室の若い子たちに「マラソン出るぞ! みんなも出よう!」って勝手に普通車いす3kmの部にエントリーしました。今考えると中学生の頃からケガをするまで文化系で吹奏楽部の私がマラソンだなんて、考えられません。
 初マラソンの成績は……車いすの若い子、子どもたち、お年寄りに追い越されながらようやくゴールするレベル。でもゴールした時になんとも言えない達成感、爽快感で満ちていました。
 「あ〜走るって何て気持ちがいいんだろう」
 それから4ヶ月後、全ての訓練を終えて自宅に帰ったのですが、おそらく毎日が暇だろうからって、姉が大分国際車いすマラソンのビデオを録画してくれてまして、車いすマラソンだなんてとまた言いながら、暇つぶしに見てみたのですが、その時に3輪のレース用車いす(レーサー)で疾走するトップグループがもうかっこよくて、いっぺんに惚れてしまいました。
 それからは、もう勢いだけ! イケイケで広島の車いすマラソンクラブ(広島エモーションクラブ)に連絡して「レースがしたいのですがどうしたらいいですか? レーサーが欲しいのですが!」
 頸損さんでいきなりそんなこと言う人はいないようで、今でも師匠に言われます。
 レーサーへの移乗も駆動の仕方もわからなかったので、一日中、大分国際車いすマラソンのビデオを穴が開くほど見て、自分がレーサーに乗って走っているイメージトレーニングはバッチリ! イメージだけはパラリンピック金メダルですね。
 数ヵ月後、自分のレーサーが納車され、まず乗ってみての最初の感想は、前傾姿勢で頸損腹はキツイし……呼吸も難しい……。前進するだけでやっと……「 こんなはずじゃあ……こんなしんどいのか」
 でも人間やる気になればできるもので、最初は1kmがやっとだったものが
3km、5km、10kmと伸びてきます。そこでいい気になるのが私なのですが、走り始めて3ヶ月、師匠に「大分国際車いすマラソンに出たい!」と強引にエントリー用紙をもらい、即申し込み! 


●広島国際平和マラソン、H部さんとのツーショット、S畑さんの写真と一緒に走りました。


 今、考えると無謀ではありましたが、もう最下位に近いくらいの順位でハーフマラソン(21.097km)を走りきることができました。ゴールのスタジアムに入ったその時に先にゴールしていた師匠や広島のクラブメンバーのみなさんが「よし! よく帰ってきた! ゴールまで手を休めるな!」と、その時も達成感と爽快感に包まれ幸せな時間でした。


●大分国際車いすマラソン(2009年10月25日)の競技中とスタート前(写真下)の一コマです。


 もっといろいろな大会に出てみたい。いろいろな人に会いたい、いろいろ教えてもらいたい。筋トレして、自宅の近所で普通車いすで走って、週に数度レーサーに乗る。ただがむしゃらに走るって感じでした。マラソンを続けていく上で身体にも変化が現れてきました。始めた頃は握力も15kgくらいだったのですが現在では45kgまで回復し、背筋も少しだが使えるようになり、肺機能は健常者並みに鍛えられました。車いすからレーサーへの移乗もできるようになりウロウロと練習場所を探して走ることもできるようになりました。不全の部分が少し残存していたと言ってしまえば簡単なのですが明らかに力はついてきました。
 マラソンデビューして6年、参加した大会は京都、丹波篠山、岡山、鳥取、広島、大分、沖縄など西日本の大会に出場し、大会で知り合った仲間とのたくさんの出会いがありました。



●広島国際平和マラソン(2010年11月7日)でのゴールシーンです。これは優勝です^^


 現在は会社勤めもしつつ、年々酷くなる幻肢痛、内臓痛に苦しみながら戦っているので体調管理が難しく、走る距離が少なくなっておりますが、健康維持も含めて土日中心でマラソンの練習は続けています。
 もちろんマラソンだけが障害者スポーツではありません、もちろん頸髄損傷のレベルはいろいろありますので同じ頸損さんでもできること、できないことがあると思います。
 私の師匠(脊髄損傷の方)はいつも私にこう言います。
 「やってみる前にあきらめるな」「 いろいろな工夫をして努力をして、それでもできないなら別のことを考えればいい」
 C8だからマラソンができるのではないのです、C5−6のレベルでも86
歳のスーパーじいさまの頸損さんも大分国際車いすマラソンにはたくさんの選手が出場しています。その選手たちの目標はもちろん完走なのですが、まずスタートすること、そして5kmの関門で回収されないようにすることが目標の選手もいます。その障害に応じた目標でいいと思うし、そこへ近づくための努力が重要なのだと思います。障害レベルに応じて、肩が動くなら肩、顔が動くならほっぺや顎を動かす、これでかなりの血流が確保できます、血流が良くなると呼吸やタンの切れ、肌もよくなります。もちろん絵を描く、書道をする、PCを使うなどいろいろな身体を動かす方法があります。みなさんも動かせる部位を積極的に動かして使える機能を呼び覚ましましょう。
 PS:継続は力なりですが継続するには「リハビリ!」なんて考えないで、楽しい自分の趣味にしましょう。

広島県:K.T.

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