はがき通信ホームページへもどる No.122 2010.4.25.
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<連載特集!「介護する側、される側」>


 特集 レベルアップしたい食事介助の方法 


 思い返してみると初めての食事介助は、父が脳梗塞で倒れたときだった。そばが好きだったので、少量を箸に巻いて口に運んで入れていた。その他の食事については、あまり記憶がない。好みがわかっていて、歯が弱かったので少量を入れていたと思う。父が亡くなりそれから後は、食事介助をする機会はなくなっていた。
 その後、ヘルパーの資格を取得するにあたり、実習の一環として介護施設での食事介助であったが、認知症の方の担当になりました。対応の方法がわからぬままの実習でありトライしましたが、一口も食べていただけなかった。最後は職員の方に助けていただき、食事をする姿を見つめているだけでした。父のときは、意思が通じていたためか(?)こちらの問いに答えてくれたので、きっと考えることなく介助ができていたのでしょう。
 現在は、頸髄損傷の方のガイドヘルパーをしていますが、担当させていただいている方の身体機能レベルが良く、直接口に運ぶこと等の食事介助をすることが極端に少ないです。ときには、仲間の頸髄損傷の方の食事介助を依頼されることもあるが、自分に自信がなく緊張と不安が相手の方にも伝わっているようだ。そのときは口頭で指示をしてくださる方が多いので、なんとかできていると感じているだけかもしれない。
 先日、久しぶりに食事介助を依頼されたとき、口頭で指示をしていただいたが、経験の少なさから(?)「基本的に相手に確認しながら」をつい忘れ、相手の方の希望する一口の量よりも多めに口に入れてしまいました。がんばって食べてくださいましたが、のどに詰まらせないか内心ヒヤヒヤでした。飲み物についてもボトル、グラスのときには、やはり量がわからないです。多ければむせるでしょうし、少ない量で回数を重ねることも考えたが、満足度から少なければ良いというものではないと感じているが、いかがでしょうか?
 初めて食事介助を依頼するときに当事者の方は、顔を合わせることが多いときにはそれなりに経験をもっていると感じているのかな? それとも、初めてだからと妥協してくださっているのかな? 食事介助において直接口に運ぶことの機会の少ない現状で、観察力を養い、機会があったときは「基本的に相手に確認しながら」を忘れずに対応させていただきたいです。
 これからも、皆さんとお会いすることがあります。食事介助の機会を与えてくださったときの不備については、どうぞご遠慮なくご指摘いただければ幸いです。気兼ねなく楽しんで食事をしていただけるよう、少しずつでも食事介助のレベルの向上をしていきたいです。よろしくお願いいたします。

神奈川県:Y.I.



 葛西臨海公園へ 


 春の風とやさしい太陽の光に誘われて、皆、啓蟄の虫のように外出し始めた。13:56発、一之江から葛西臨海公園まで4.5kmを走るバスに、なんと6台ものバギーと1台の電動車イス。M運転手さんも驚いていた。
 一之江からのバギー2台は折りたたんで席に。葛西からの3台は、そのまま乗った。最後の夫婦連れには、「折りたたんでくだされば乗れます」と運転手さんが頼んで夫が赤ちゃんを抱き、奥さんがバギーを折りたたんで乗った。赤ちゃん同士が手を伸ばしてかまいあったり、ガンを付け合って対抗意識を燃やしたり、すやすやだったり。ノンステップさまさまだった。
 バリアフリー運動は、車輪文化を日常生活に導入する運動であると思っていたが、今日はまざまざとその現実を見て確信した。何度も言うようであるが、明治・大正政府が自動車文化導入のために道路を造り、五島慶太が100m道路建設を主張し、皆が反対したのと同様に(皆が反対しても)家庭内や公共の場で、バギー・車輪付きボストンバッグ・車イス・手押し車は普及し、それに対応できるインフラ整備が必要だった。東京は、早かった。絶望的になった時もあったが、皆、賢明であった。将来は、とても明るい。

東京都:M.K.



 腰折れ俳句(14) 


 俳人は仰ぐのが好き朧月

 山彦と化す花吹雪背にうけて

 春はやて童この地を離るるな

 茶を摘みに朝の光のただなかに

 母の子に生まれて母の日を祝ふ

 里芋なのです。ごろんとしているのです。その存在感が見事で5日間で3枚仕上げて—。






 集中できるのはそれくらい。線を引くと絵になるのはなぜだろう。ふしぎだなあ。

熊本県:K.S.



 『臥龍窟日乗』 —天津丼を天津で見つけた— 


 狗不理(コウプリ)という老舗食堂が天津にある。
 天津の人間ならだれでも知っている。昔は小さな店だったが、繁盛店になってから両隣の建物も買い取り、壁に穴をブチ抜いて拡張した。だから内部が蟻の巣のようになっている。
 狗不理は包子(パオツー)の専門店である。各種饅頭(マントウ)、焼売、春巻、餃子など。小麦粉を使った食品が中心だ。
 この店で餃子といえば水餃(茹で餃子)か湯餃(スープ餃子)のことだ。日本人は餃子というと焼き餃子だと思っているが、中国では一般的ではない。さらに日本ではおかずである餃子は中国では主食なのである。
 ご主人様が餃子を召し上がった翌日、使用人が焼いて食べたのが焼き餃子だと中国人から聞いたことがある。日本人が残った飯で焼き飯を作ったのに似ている。関西ではコーテーとかコーテルというがこれは鍋貼(こーてー)という調理法のことで、鍋で焼くことに由来している。
 長江(揚子江)の北と南とでは食文化が異なる。南は米作地帯で米飯が主食だが、北の方では米が育たない代わりに麦がとれる。だから天津には餃子屋がやたら多い。餃子屋というのは日本でいえば食堂なのである。
 どこでどう間違ったのか、本場中国の餃子にはニンニクが入っていない。確かにニンニク入りの餃子はうまいが、これは日本人が始めたものだ。中に入れる具も、豚肉のほかに韮(にら)か白菜である。キャベツを入れるのは邪道だ(とはいえ好き嫌いだから勝手だが)。ニンニクを食べる人もいないではないが、丸ごとかじって餃子と交互に食べていた。私が通っていた食堂の親父は、私の顔を見るたびに怪訝(けげん)な表情で下ろしニンニクを付き出しで添えてくれた。
 いつぞやテレビのクイズ番組を見ていたら、天津丼(関西では天津飯ともいう)は日本人の発明だと言っていた。浅草の中華料理屋の店主が考案したというのだ。なるほど天津で天津丼に出会ったことはない。
 天津市は長江のはるか北方にある。このあたりは麦の栽培は盛んでも米作には向いていない。しかし流通の発達していない戦前であればまだしも、高速道路が次々に網目を広げている現在で米がないわけではあるまい。
 ないと断定されると、ムキになって探すのが私の悪い性分である。天津に行くたんびに、メシを食うたんびに天津丼を注文する。どんなものだといわれるから、手ぶり身ぶりで説明するが、そんなもんはないと一蹴される。一般の人にも聞いてみるのだが、天津丼なんて見たことも聞いたこともないとそっけない返事だ。
 ある時天津市の北のはずれで昼食をとることになった。リンゴのように赤い頬をした小姐(シャオチェ、お嬢さんの意)に、いつものように天津丼を注文する。「わかりません。老板(ラオパン、親方の意)に聞いてみます」といって調理場に駆け込んだ。
 50年配の太った親父が前掛けで手を拭きながら出てきた。料理の説明をすると「有(ヨウ)」と答えた。胸をワクワクさせながら待つこと10分、大ぶりの皿に盛られた料理が出てきた。米飯の上に炒めた蟹の卵とじが乗せられその上にアンがかけてある。紛うことなき天津丼である。「やったぞ」と叫ぶと小姐はしかられたと思って奥に逃げ去った。違うところといえば1人前の丼ではなく大皿盛りになっている。
 しばらくして老板が出てきた。「どうだい、それでよかったかい」「これはお宅だけの特別メニューですか」「いやそんなことはない。昔からある料理のひとつだよ。必死になって探すほどのもんじゃない」
 つまらない通説ではあっても日本の常識を覆したという満足感はあった。感激の面持ちで私は老板と固い握手をした。何がそんなにうれしいんだという目で彼は私の顔を凝視したが、視線にわずかなたじろぎが見え隠れした。
 数年後のこと。上海の馴染みになった飯屋の老板がこんなことを言う。「中華料理に一応菜単(メニュー)はあるが、お客の注文通りに何でも調理してみせるのが1人前のコックだ」
 ホントに天津に天津丼はあったのか否か。今となっては杳(よう)としてわからない。

千葉県:臥龍

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