はがき通信ホームページへもどる No.117 2009.6.25.
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 『臥龍窟日乗』 —孝造志野— 


 加藤孝造さんの窯を訪れたのはかれこれ30年も昔のことである。今でこそ次期人間国宝との下馬評だが、当時は40歳前後、陶芸作家としてこれからという時期ではなかったかと思う。ある雑誌の取材で美濃・多治見の窯を訪ねたが、ちょっと神経質そうな感じの人であった。
 孝造さんは志野焼を再興した人間国宝・荒川豊蔵さんの弟子として修業した人である。ただ荒川志野をさらに追求して孝造志野と呼ばれるものを創り出した。それは柿色に発色する生地に、白い長石釉(ちょうせきゆう)をたっぷりと厚めにかけて焼いた器である。釉薬に含まれた空気がぷすぷすとはじけ散り、後に無数の小穴があくのだが、それすらが景色となって全体的に柔らかく温かみのある作品になっている。
 陶房に何気なく置いてあったぐい呑みを手に取り眺めてみた。掌に温かみが伝わってくるようだ。上気した女の白い肌のようだと思った。われを忘れて見入っていたに違いない。当時孝造さんのぐい飲みが5万円、茶碗だと40万円といわれた。私の給料が6万円だった時代である。孝造さんはぼそっと「気にいったら持っていっていいよ」と言った。それは今でも化粧棚に飾ってあるが、いつかは茶碗が欲しいものだと思った。
 孝造さんは最初洋画家を目指した。20歳前後で日展に入選。しかし画家としてすぐに独り立ちできるわけでもない。翌年には岐阜県陶磁器試験場に入り主任技師となる。その当時、古志野の研究者であった荒川豊蔵さんがたびたび美濃を訪れるようになった。桃山時代の志野の破片を蒐集(しゅうしゅう)し、なんとかこれを再興しようと考えていた。大萱・牟田洞(おおがや・むたぼら)に窯を築き、志野復元の壮絶な戦いが始まった。
 古志野は桃山時代をピークに忽然と姿を消し幻の陶器といわれた。その後、焼物の生産地は瀬戸に移り、瀬戸物は焼物の代名詞にすらなった。志野、織部、黄瀬戸、瀬戸黒などの美濃焼きはほぼ全滅の状態になっていた。その美濃焼きを復元するためには、科学的な分析も必要であった。土の選定、釉薬の比率、窯焚きの温度や時間などを知るためには陶磁器試験場のデータが何より役に立った。
 試験場の技師であった孝造さんは、豊蔵さんの熱意に惹かれるようになり、いつか寝食を共にするようになった。やがて豊蔵さんは桃山志野の復元に成功し、その功績によって重要無形文化財すなわち人間国宝に認定された。孝造さんも独立し自分なりの志野の模索を開始した。そして出来上がったのが孝造志野である。
 製作工程の取材を終わり、既存の名品を撮影することになった。ひと通り窯業試験場に保存してあるが、美濃の主だった作家たちの作品がショーケースに収められていた。係りの人が茶碗、水差し、花入れ、香合などを取り出し、次々に撮影していく。それは背筋がぞくぞくするような時間であった。
 孝造さんの志野は、桃山志野を復元した豊蔵さんのやや白っぽい茶碗と違って、まるで生きている女性の肌のような赤みがある。官能的な人肌のぬくもりが伝わってくるようであった。こんなに美しいものを人間が造りだすということに深く感動した。しばらくの間、夜ごと夢の中に現れた。
 最近になってネットの世界でオークションがはやっているのを知った。何気なく眺めていると、孝造さんの志野が登場しているではないか。バブルの時代に比べると、信じられない価格である。一生、私蔵はできないだろうと諦めていた物が手に届く。老醜が気になる年頃になって、昔の恋人に会うような不思議な気持ちの昂ぶりを覚えるのである。
 その孝造志野茶碗が、いましがた届いた。
 

千葉県:臥龍



 南米ペルー訪問記 


 みなさんはじめまして。私は38歳男性で胸髄5番以下の完全麻痺です。受傷して18年になります。昨年1年間米国カンザス大学にVisiting scholarとして在籍し、「米国に暮らす脊髄損傷者の社会参加」について質的研究(インタビューを中心とした研究)を行ってきました。米国行きを励ましてくれた知人から、現地での生活の様子について「通信」に投稿してはと勧められ、筆を執った次第です。今回は研修の最後に訪れた南米ペルー訪問のことを紹介したいと思います。
 ペルーは日本からはちょうど地球の裏側ということもあり、ペルーのことを詳しく知っている人は少ないと思いますのでざっと紹介します。外務省ホームページによれば、ペルー共和国は人口2790万人で面積は日本の3.4倍あります。公用語はスペイン語です。1人当たり国民所得は3,450米ドルですが、GDP成長率は年率9.8%(2008年)と高く、実際首都リマ市では、いたるところで建築中のマンション等があり、経済が右肩上がりであることが覗(うかが)えました。道路を走る車は多くが本国で役目を終えて輸入されたとおもわれる古い車が多く、そしてオートバイに毛が生えたようなモトタクシーが排気ガスをまき散らしていたため空気が汚く、喉が痛くなるほどでした。
 今回ペルーを訪れた理由を説明します。カンザス大学における私の指導教官であるGlen.W.White教授(彼も脊髄損傷で車いすユーザーです。胸椎11、12番の完全麻痺と聞いております。以下「ホワイト」と表記)は、ペルーの障害を持った当事者の中からリーダーを育てて、現地に自立生活センター(以下「CIL」と表記)を設立するというプロジェクトに1998年から取り組んできました。今回は「US-Peru Independent Living Working Summit」と銘打ち、米国のCILの運営に携わっているホワイトの仲間8人とともに、ペルーの当事者たちにCILの歴史や哲学、経営手法等を伝え、同時に、彼らへの福祉サービスや、彼らの権利を向上させるための取り組みの方法について現地の当事者たちと知恵を絞ることを目的とした訪問です。それに同行させていただいたのです。
 新年早々、カンザス空港を出発して乗り換え空港のアトランタへ。アトランタ空港で今回の旅に同行するホワイトの仲間たちと合流しました。バックグラウンドや年齢層もいろいろでしたが、「Nice to meet you」で握手を交わしたあとはファーストネームで呼び合えるのがこちらの人づきあいの良いところ。アトランタ空港でペルー行きの便を待っている間、全米に幅広い人脈を持つホワイトは知り合いの航空会社の職員と再会して抱き合い、なにやら話し込んでいました。すると、ペルー行きの彼のシートだけがビジネスクラスにアップグレードされていました。

 ◇盛りだくさんのスケジュール
 ペルー共和国の首都リマ市での滞在は1週間でしたが、出発のかなり前からホワイトは現地での行動を綿密に計画していました。メンバーとは、事前に何度も電話会議を重ねて現地でのプランを詰めていました。私は米国滞在中に彼の出張に何度も同行させていただきましたが、今回もハードな旅になりました。
 深夜未明にペルーの首都リマ空港に到着。空港では現地の障害者団体のリーダー格のメンバーを始め、十数人の人々が歓迎してくれました。


    <左からDr.ホワイトとペルーの当事者代表のホゼ氏、ハイミ氏>


 ホテルへ送ってくれるために車を手配してくれていたのですが、今回のメンバーたちは障害の種類や重さに幅があったため、それぞれ電動車いす、手動車いす、電動スクーター等を使用していました。そのことは事前のペルーの障害者リーダーも含んだ電話会議で打ち合わせ済みだったのですが、空港の駐車場で誰がどの車に乗せるか考え込む受け入れ側の一同。用意したタクシーの台数もぎりぎり、というより若干少なめな予感。空港の駐車場を出発するまで軽く1時間はかかったと思います。なんとか用意してくれた車に収まったものの、私は自分の車いすを分解してそれを自分の体の上に載せられ辛かったです。それを見てホワイトが言いました。「Toshi ペルーへようこそ!!(笑)」「われわれの9時はペルーでは9時半だ。時々10時半になることもあるよ」ホワイトが彼らと付き合い始めた当初は、彼らとの時間の感覚や仕事への考え方のズレに大変苦労したようです。


        <米国メンバーたちとペルー当事者たちの集合写真>


 ◇ペルーのホテルでの「べからず集」
ペルーの首都リマ市のホテルでは、やってはいけないことが何点かあります。①トイレで使ったトイレットペーパーはトイレに流さずに付属のごみ箱に捨てる。これは水洗の圧力が弱く、紙がすぐに詰まってしまうため。②持ち込んだ電気製品を直接コンセントにつないではいけない。現地の電圧は220ボルトで米国と違うので、変圧器を使用する。同行したメンバーのひとりが、ホテルで電動車いすの充電のために直接コンセントを接続したところ、充電器から煙が出て故障してしまい、地元のDIYショップで代わりの品を買い求めるはめになった。③蛇口の水は飲まない。歯磨きの際の口をゆすぐ際にもペットボトルの水を使うほうが良い。ホテルといえども水は不衛生。出発前の電話会議等でホワイトが繰り返しわれわれに周知していました。

 ◇格差社会ペルー
 次の日はペルーの中心街を歩く時間がありました。暦の上では1月でしたが南半球のリマ市は暖かく、極寒のカンザスから来た自分は一気に気分が明るくなりました。歩道などの車いすでのアクセスも思ったほど悪くありませんでした。ただ、車道を走る車はクラクションを浴びせながら気合いを入れて走っているので注意が必要です。現地でチャーターしてくれたタクシーの運転手も非常にアグレッシブな運転をしたため、シートベルトを装着しようとしましたが、ベルトの先のバックル(金具)がなかったので恐ろしかったです。
 その日の夕方、受け入れ側の中心人物のお宅(脊髄損傷)にお邪魔しました。彼のお宅は閑静な住宅街にあり、彼の邸宅がある居住区の入口ではセキュリティチェックがありました。リマ市内の住宅やマンションのエントランスは高い塀に守られていることが多かったので、治安はあまり良くないと思われます。
 遅れて到着した私が彼のお宅の塀の呼び鈴を鳴らすと、蝶ネクタイをした執事が出迎えてくれました。この邸宅の主人は受傷前には建築家として活躍していたそうで、当時はこの家の3倍の広さの家に住んでいたそうです。といってもすでにこのお宅は広かったです。自分は遅れて参加したのですが、他の皆はすでに中庭で大変おいしい料理をふるまわれたそうで、私が到着したときには時すでに遅し。皆食べ疲れた表情で僕を迎えてくれました。がっかりしました。しかし、幸い私にも御馳走してくれました。チキンがとてもおいしかったです。
 そんなハイソな夜を満喫した次の日、われわれはペルー郊外へ向かいました。ホテルを出発してしばらく走っていくうちに車窓の景色が少しずつ変わっていき、赤茶色をベースとした背の低い粗末な住居と未舗装の道路、そして強烈な臭いが鼻を突きました。道路を走る車も、繁華街を走る車よりいっそう古く、道端には無造作にゴミが捨てられています。私は日本のテレビで貧しい国の様子を見たことはありましたが、実際にこのような光景を目の当たりにしたのは初めてでした。日本も格差社会といわれて何年か経ちますが、そんな生ぬるいものではない圧倒的な格差がここには存在し、その格差は世代を超えて引き継がれるそうです。貧しい家庭に生まれた子供が上の階層に上がっていくのは大変困難だそうです。高等教育を受ける機会がほとんどないからだと地元の人は言っていました。同じ市内なのにもかかわらず、いったいこの差はなんなのかと言葉を失いました。
 その日はスラム街で作業所を経営している方々を訪問しました。べニア板を張り合わせたような小屋のなかで衣類やバッグなどを作っていました。売上はとても少ないそうです。貧しいながらも、少しずつ当事者の生活の質をあげるための努力をしているそうです。しかし、ただでさえ貧しいスラムにおいて、彼らのような社会的弱者が文化的な生活を送るのは大変ではないかと思いました。


    <リマ市郊外のスラム街にある当事者が運営する作業所>


             <作業所前で責任者から説明を聞く>


 ◇現地でのミーティングなど
 「今回のペルー訪問は自分にとってはリラックスの意味もあるんだよね」と言っている割には、現地でのスケジュールは朝から晩まで人と会う約束が入っていました。これから自立生活センターを設立、運営し、そして第2、第3と普及させていくためには、ペルー国内のいろいろな障害を持った当事者の横の連帯が必要であり、ホワイトはその連携を作るのに一肌脱ごうとしていました。しかし、いまのところ一致団結には程遠く、乗り越えなければならない高い壁があるようです。感情的な行き違い。妬み。ホワイトは「どちらの障害者リーダーとも親友だから、辛いんだよね」と言いながらそれぞれと会ってなんとか彼らをうまくつなげようと努力していました。普段は陽気で人懐っこい彼らでしたが、ホワイトに相手方の悪口を言っていました。詳しい事情はわかりませんが、いろいろなしがらみがあるようです。
 連日いろいろな肩書きをもつ当事者たちとのミーティングの他に、リマ市の施設でホワイトたちアメリカの障害者リーダーたちが現地の人々にCILの歴史や哲学、そして経営手法などを講演するというイベントがありました。そこでは私も日本の障害者運動の歴史や現在のバリアフリー、日本の障害者雇用の様子などについて講演しました。事前に2か月以上かけてパワーポイントで作った資料は、日本から持ち込んだ写真などを盛り込んだ40枚以上のスライドとなりました。時間の制約があったため早口になりましたが、皆熱心に聞いてくれました。このスライドを作る過程で日本の障害者運動や現在の法律や仕組みについて調べたため、自分にとっても良い機会となりました。
 私の講演が終わった後で、リマ市長も参加し、現地の当事者たちとの対話をする時間が設けられました。ペルーでは、首都リマにおいても障害者福祉については黎明期(れいめいき)といったところで、今後彼ら自身が、いろいろな権利を勝ち取るために運動や交渉をすることになりそうです。彼らが市長にいろいろな意見をぶつけている様子を見ながら、日本でも30年ほど前には当事者のリーダーたちが行政に向かってこのような取り組みをしてきたのだろうと感じました。


             <ペルー国会議事堂正面玄関前> 


 そして今回の一番のイベントは、ペルー国会議事堂にて、同行した米国のリーダーたちがCILの歴史や哲学や経営について講演するというものでした。議事堂の入口では警備の兵士たちが直立不動で迎えてくれました。そして、議事堂内で150人以上の参加者たちの前で、米国CILの歴史や哲学等について講演しました。私は残念ながら客席側でしたが、ペルーの当事者たちにとってエポックメイキングな機会に参加することができたのは貴重な体験でした。


                 <ペルー国会議事堂内の議場での講演風景>


 ◇国際的な連携を
 当事者たちがいまだ貧困や差別に苦しんでいる国は、ペルーだけではないと思われます。日本の当事者リーダーたちは、1980年代に米国からCILによる当事者主権の手法を学び、現在ではアジアを中心とした途上国に、そのノウハウを伝授するまでになっており、その取り組みは米国のリーダーたちも一目置いているほどです。
 彼らは、欧州や日本の当事者運動に学ぶべき点が多々あるとも言っています。現在世界的に景気が低迷し、ともすれば当事者が長年の努力の末勝ち取ってきた権利や環境が後退しないとも限りません。今後日米や欧州、そして途上国のリーダーたちが、CILを核とした当事者運動について双方の知恵を交換しあう場を創り、それぞれが持っている既存のノウハウやリソースを共有できないだろうかと思いました。
 

東京都:T.C.



 頸損の身体アレコレ、受傷歴も長くなると…… 


トイレに座り、いわゆる“腸内洗浄”という方法で、モニターを兼ねて排便を始めたのは平成3年の秋からだった。神奈川リハビリテーション病院で研究・開発されたものなので、他県の頸損者にはあまり知られていないかもしれない。その後、「ウィブケア(注水式排便促進器)」として商品化されたが、諸事情により平成15年か16年だったか発売中止になってしまった。そのとき在庫を10セットほど買いだめしたものの、おそらく一生使うであろうものなので心配だった。
 それがこのたび一般医療機器として、「ファイコンBMSセット」という名称で、頸損には馴染みのあるカテーテルなどを取り扱う富士システムズ株式会社から新しく発売開始となった。ただ、1セットが1万円と高価。(保険適用にはならないものなのか?)
 受傷約20年のうち、もう18年近くこの方法で排便を続けているわけだが、私にはこの排便方法が合っている。排便時間は1時間くらいだろうか。座位を取るということで腹圧がかけやすく、便を押し出しやすくなる。ずっと手すりにつかまって座位を続けるのはつらいので、車いすの上に枕を置いて後ろに寄りかかる形で休憩している。
 週2回、排便の8時間半前に下剤(プルゼニドとアローゼン)を服用。下剤の種類は入院中からずっと変わっていない。ただ、下剤量は長年の間に2倍に増えた。今は、その他に整腸作用のある“フェカルミンスリーE”という顆粒(かりゅう)を排便の前夜と排便日の朝・昼食後に1包服用している。これも以前、『オリゴのおかげ』という整腸作用のあるオリゴ糖の服用でガスが出やすくなったという、Kさんの「はがき通信」の投稿を読んだことがキッカケになっている。下剤を飲まないと出ないので、今までに外出先での不意の失禁という経験が一度もないのは幸いである。
 受傷後まもなく膀胱瘻(ぼうこうろう)施術をし、膀胱の容量もきっと小さくなったであろう。瘻や尿道から漏れることも以前よりも多くなった。バルーンカテーテルのサイズはずっと20フレンチ。そのときのカテーテルの入れ具合も関係していると思うが、ハッキリとした原因はよくわからない。もちろん、カテーテルの折れ曲がりや詰まりも原因にはなっていると思う。お陰さまでと言ってよいのか、私は自律神経の過反射がほとんどない(感じない)。なので、漏れて下着が濡れていたり、臭いでようやく気がつく。尿取りパットやナプキンで対処している。
 頸損者にとって、排泄の悩みは一生のお付き合い。
 それから、いつの頃からか以前には感じなかった低血糖発作がひどくなった。これも頸損特有の症状のひとつだと思うが、小腹が空いたと感じたときに食べ物を口にせず、空き過ぎてしまうと動けなくなるほどの脱力感に襲われてしまう。お腹が空き過ぎてから食べてもなかなか回復しない。甘味を持ち歩く頸損諸氏も多いのではないだろうか。なので、朝食抜きの検査というのが不安! いけないとはわかっていも、飴やキャラメルをコソッとなめてしまう。 
 今年も年1度の骨密度と体脂肪の検査を受けた。神奈リハには、全身の骨密度と体脂肪が測れる機器がある。ようやく、全身トータルで5%ほど落ちた体脂肪がジワジワと1%ずつまた増えてきている。ハラよりケツとフトモモだ!……動かない部位だけにドウニモナラン……(涙)
 骨密度は脊椎(背骨)、骨盤はかなり立派な数値。脚の骨密度の数値が立位訓練などまったくしていないのに、少しずつ上がっているのはなぜかとても不思議。毎日、豆乳(イソフラボン)を摂取しているせい?? 「寝たきりになってはダメだよ。車いすに乗るようにね。」と、内科のM先生からアドバイス。
 血液検査も年に2〜3回しているが、今のところこれといった問題はない。頸損は生活習慣病になりやすいので、特にコレステロール値や血糖値が気になる。ただ、いつも腎機能の項目のひとつである“クレアチニン”の数値が基準値より低い。しかし、今までにそれに関して何も言われたことはない。今回、内科のM先生にお聞きしてみた。「クレアチニンは、筋肉量に関係するのでマヒして筋肉量が落ちている頸損は低いのが正常。高いほうが腎機能が悪い」とのこと。ようやく安心、納得。
 そして、吐き気はしょっちゅう。吐き気止めが常備薬に加わった。排便日の前日からひどくなる傾向があるのは、便がたまってくるのが関係しているのだろう。以前はやはり、こんなことはなかった。更年期もあるかもしれない。排便日は特に身体が痛い! 
 これからも加齢とともに、いろいろと身体の状態も変化してゆくのだろう。アルコールブロックを2度もしたが、痙性(けいせい)も少しずつ強くなっているし、更年期もこの先どうなってゆくことやら……不安はつきないが痛み同様、何とか対処して自分の身体と少しでもうまく付き合ってゆくしかない。
 

編集委員:瀬出井 弘美

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