はがき通信ホームページへもどる No.101 2006.9.25.
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 真夏の出来事 


 それは一瞬の、思い出すだにおぞましい光景であった。ある温泉へ出かけたときのことである。ひなびた温泉街の細い路地を介護車で走行していると、前方の横断歩道を70歳くらいの夫婦が渡り始めた。夫のほうは一見して大企業の部課長クラスを定年退職したというような風貌である。脳卒中でも患ったのか、右手に杖を持ちバランスをとりながらゆっくりと歩いている。左腕には夫人の体を支えて。夫人の方も物静かな人のようだったが、よく見ると視線が宙をさまよい認知症かと思われた。
 温泉付きのマンションを購入し、2人でちょっと街に散歩に降りてきたという風情であった。その直後のフラッシュバックしたような出来事がなければ、のどかで幸せそうな雰囲気である。
 私たちの車に気づいた夫の足が心なしか早まった。ところが夫人の方がついて行けず、足が絡まって横断歩道の真ん中でくずおれてしまった。夫は杖を振り上げ、夫人にまたがるようにして彼女を打擲(ちょうちゃく)し始めた。真夏のジリジリとした炎暑の中で、だれも声を発しない。まるで無声映画のように動きだけが続く。
 娘が急いで車を降り割って入った。大きな声で「何をするのヨッ」と叫ぶと、夫はへなへなとその場にへたりこんでしまった。近くの商店主や通りがかりの主婦が駆け寄ってきて、2人を抱き上げ近くのバス停の長椅子にかけさせた。
 最初私は、何かのパフォーマンスかと思った。温泉街でのことである。観光客も多い。中には障害者と気づかず、動きの遅い2人をクラクションで追い払おうとする輩もいるのではないか。夫は倒れた夫人を持て余し、ドライバーへの当てつけに妻に暴行を加える。二重にも三重にも屈折した心理が働いていたのではないか。あるいは自分に対する腹立ちをそんな形で現したのかもしれない。
 もし仮に判断力やヒトに訴えかける手段を失った妻への折檻(せっかん)が、家庭の中、つまり密室で行われているとしたら、これほど悲惨でむごいことはない。
 
千葉県:T.D.


  初めての骨折経験 


 6月の下旬、福祉車両に乗車中、急ブレーキをかけられて車いすから転落。右足の脛(すね)を2ヶ所(足首近くと膝下)折ってしまった。健常者のときから生まれて初めての骨折だ。
 結局、シートベルトがゆるかったのだが、急ブレーキをかけるような場所ではなく、ちょうど家に携帯で電話をかけていたので状況を把握する間もなく、車いすから転落していた。右足が狭い座席との間の溝(みぞ)のような箇所に変なふうに足首をひねった形ではさまっていたので、「ヤバイかも!?」とは思ったのだが……。
 発熱・冷や汗もなく、痛みはまったく感じない。しかし、翌日、左足に比べ明らかに腫(は)れてきてやっぱり病院に行ったほうがよいと判断し、翌々日に自宅近くの病院を受診。レントゲンの結果、ポッキリ折れている(膝下のほう)とのこと。昨年の骨密度検査では総体的には正常値に入り、足の値はやはり他に比べ低いものの、先生から「まだポッキリいく値じゃないね」と言われていただけにショック!! 狭い場所に、ひねってはさんで転落したのがいけなかったのかもしれない。
 骨折から1週間後に太腿(ふともも)から足首までギプス固定。一応、通院で全治2ヶ月の見込みという診断。骨折は初めての経験だが、この状態で2ヶ月も固定しているとなると……20年近い頸損という身体との付き合いから、足首や膝の関節は大丈夫だろうか? そして、何よりも褥瘡(じょくそう)が心配になる。そのあたりの不安から、受傷したときからずっとお世話になっている元Aリハ病院の整形の主治医にメールで相談したところ、「すぐに来院しなさい。ギプスは必要ないと思う。褥瘡(じょくそう)を作るだけ。改めて治療方針を検討しましょう。」と、私の心配・不安としている部分をズバリ! 
 ギプスをしてから1週間後に現在の勤務先の病院を受診。レントゲンを撮り直し、ギプスは不要ということでその場ですぐにカット。タオルで膝から下を包み、マジックテープで着脱式の装具に替えていただいた。これだけでもずいぶんと足が軽くなった(カチコチに固められたギプスの重いこと!)。案の定、かかとにすでに褥瘡(じょくそう)ができていた。幸いまだ皮膚は破れていない。このまま2ヶ月もギプスで固定していたらどうなっていたか……考えただけでゾッとする。おかげさまで本当に助かった。やはり、長年脊損患者を診てこられた専門医のノウハウは違う。日常生活の中でたとえば入浴の仕方、体位交換の仕方等どうしたらよいかというこちらの質問やどのように気をつけたらよいかという具体的なことについて、アドバイスを即答していただける。とにかく太腿(ふともも)は動かしてもよいが、膝から下を捻らないように注意しなさいとのこと。
 しかし、足をまっすぐ伸ばした状態というのは日常生活が不便になる。骨折してからほとんど外出もしていない。私の場合、車いす〜ベッド間のトランスファーが自力でできなくなったことが一番痛かった。両親にドッコラショと持ってもらうしかない。パソコンデスクの下にも足が入らない。トイレでの排便、洗面所で顔や髪を洗うのも大変になった。そして、座位バランスを取ることも。常に、足先を家の中でもぶつからないか気にしていなくてはならない。重度障害者がさらに怪我をする辛さ・大変さを改めて感じた。まぁ、手でなくてまだよかったが……。
 足乗せ板は両親に作ってもらった。こういうものは病院にはないのだろうか? 1cmくらいの厚さの木材の板をネルのような柔らかい素材の布で包み、先端にはクッション材を入れた。それを、車いすの座面シートのクッションの下に敷き込む。かかとに褥瘡(じょくそう)ができているので、かかとの部分を外す長さにした。足が落ちないように幅広のマジックテープを購入し、2ヶ所で留めた。ここでまた問題発生。今度は、右足の太腿(ふともも)の付け根(臀部(でんぶ)との境)の皮膚が赤く盛り上がったようになってしまった。おそらく、膝下がクッションの高さ分浮いていて足首で足を支えているので、この部分に圧がかかるのだろう。そこで膝下にクッションとタオルを丸めて入れ、圧を分圧するようにしてみた。それから、除圧のためにクッションをロホに替えた。皮膚の保護はガーゼではなく、以前「はがき通信」にAさんが投稿されていたキッチンペーパーの“リード”を使用。
 次の受診で先生に太腿(ふともも)の付け根の褥瘡(じょくそう)のことをお話してみた。すると、足乗せ板の作り方を間違えていたようだ。板を骨折した右足だけでなく、車いすの座面全部に敷き込むようにL字型に作らなければならなかったのだ。先生もそのように作ってあると思い、「気づかずに申し訳ない」とおっしゃっていた。そして、自分の体位に関係なく作った褥瘡(じょくそう)は治りが早いと。プロスタンディン軟膏を処方していただき、さっそく足乗せ板を作り直した結果、先生が言われた通り車いす座位を続けても太腿(ふともも)の付け根の褥瘡(じょくそう)は約1週間で問題ないレベルにまで治癒。かかとの褥瘡(じょくそう)も同様に、もう安心できるほどにまで治ってきている。骨折のほうも順調に回復しているようでよかった(受傷よりちょうど1ヶ月)。
 骨折から5週間目より膝関節のリハビリを自宅で開始。油断は禁物とのことで慎重に行う。ベッド上で膝を少しずつ曲げてみてから、ソッとフットプレートに足を下ろしてみる。大丈夫! 骨折の具合・程度にもよると思うが、私の場合、骨がズレていなかったのと膝関節にかかっていなかったのが不幸中の幸いだった。
 8月14日に3度目の受診。レントゲンの結果、骨折は順調に回復しているとのこと。先生が即席のシーネ(装具)をその場で作ってくださり、ようやく右足を曲げられるようになった。ホッ。でも、3ヶ月は油断禁物だそうで、ここで骨がズレたら入院で手術になるよと釘を刺される。フットプレートに足が乗せられる角度まで膝が曲がるので、リハビリは特別必要ないようだ。プッシュアップもOKとのこと。トランスファーは用心のため1人ではしないようにしている。今度の受診は1ヶ月後。早くフリーになりたいものだ。
 骨折は、頸損なら誰でもする可能性がある。自宅近くの病院の整形の先生もフレンドリーなよい先生だ。健常者ならギプス固定は正当な治療法であるが、頸損というマヒした身体の患者に対する知識・理解のある医師は少ない。皆さんも骨折した際、ギプス固定にはくれぐれもご用心とご注意を。おそらく、間違いなく褥瘡(じょくそう)を作る。骨折は日柄もので治るが、褥瘡(じょくそう)のケアのほうがそれよりもエライことになってしまう。
 なお、福祉車両のシートベルトというのは万人の障害者向けではなく、補助的に付いているだけで十分に安全を確保されたものではないらしい。通常の車の運転席や助手席のシートベルトと違い、急ブレーキをかけた衝撃ではロックされない。自分の身体と車いすにベルトをして固定するなどの自己防衛策をしたうえで、車両のベルトをすることが必要のようだ。私も今後はくれぐれも注意したいと思っている。
K県:もののけ姫

<特集!「介護する側、される側」>

 [特集の趣旨] 
 活動が活発な頸損者には必ず、その活動を支える有能な介助者がいます。最近、そのような介助者を“スーパーヘルパー”と呼ぶ人もいます。他者の手足となって、決して出すぎず、黒衣(くろこ)のようにその人の手足となってその人の活動を支えるとは、たいへん難しいことです。介助者も有能でしょうけど、介助者を有能に鍛え上げていく頸損者もたいへんな能力が必要だと思います。
 先進国の脊髄損傷リハビリテーションプログラムには“アテンダントと良好な関係を構築するうえで必要な知恵とスキル”が含まれ、リハビリテーションの一環として組み込まれています。そのようなリハビリテーションを受けてこなかった日本の頸損者にも、介助者と驚嘆するような関係を築かれている方がたくさんいます。その人のもって生まれた性格も関与しているでしょうが、日々葛藤と試行錯誤の過程で築かれていく人間関係ではないでしょうか。
 その体験を埋もれた生活の知恵として放置するにはあまりにももったいないと考え、しばらく連載特集で「介護する側、される側」の体験談コーナを設けました。有用な体験にこだわりません。匿名で日ごろの鬱憤(うっぷん)ばらしに使っていただいても結構です。手も足も使えないとはどういう心理状況なのか、人を介助するとはどういうことなのか、たいへんな介助を続けていられるのはなぜか、などなど、皆さんに共通するテーマです。頸損者、ご家族、介助者の皆さんの通信をお待ちしています。

編集顧問:松井 和子



 <特集>◆ 独身・三十路・介護漬け 


 このタイトルだけ見たら、私の人生は、もう終わっている。介護をする側になって、まだ日は浅い。けれども、この数年で私の外見も身体も、見違えるほど悪くなった。まだ仕事に精を出していた頃に出会った得意先のある人は、私を見て「お姉さんは元気ですか?」と聞いた。「私がそのお姉さんです」と答えると、口元がヒクッと痙攣(けいれん)したのを、私は見逃さなかった。
 性格も悪い。いや悪くなった。両親が嘆くほど、したたかで、攻撃的になった。曖昧(あいまい)にしておくことも、中間を取ることもできず、いつも白か黒かで切羽詰まっている。その余裕のなさは身体中に影響し、果ては人違いを招くほどになった。無論、外見も人格も持って生まれたものだから、自身が思うほど変わったわけではないのだろうが、できれば、一生隠しておきたかった、負の部分が露呈されてしまったのだった。
 介護は決して自分の思うようには、いかない。いくはずがない。介護をされる側は、介護をした経験のない人が大半で、介護をする側はたいてい、介護をされたことがない。互いの気持ちが経験不足によって理解できないのだから、相容れることはない。介護の対象者が親である場合は、ことさら難しい。さらに最悪なことに、私の場合は、異性である父親の介護をしている。理解不能なことが、なんと多いことか。世帯主である自分の尊厳を犯されるとでも思っているのか、とにかく、一言に対し2分間は反論して、助言は受け入れない。そして一度了解しておきながら、また蒸し返す。同じことを何度もゆっくり言い聞かせて、3ヵ月後くらいに、ようやく飲み込む。時間が無駄でイライラするが、おかげでずいぶん忍耐強くなった。父は未だに、薹(とう)が立った私を成長させようとしてくれている。
 「介護」は美しいものなどではない。美しくなるのは、介護をする必要がなくなってからだ。近所の人は、私に「偉いわね」と微笑む。偉いか偉くないかの問題ではない。ただそこに必要があるからする。大海原で人がおぼれかけて、必死でもがいて、ようやく水面から口を突き出している。そして、助けに入った私の身体にまとわリ付いて、私もおぼれそうになる。助けに海に飛び込んだら、自分もおぼれるかもしれないと判っていても、飛び込む。そんな感じだ。
 後先を考えずに、また、考えている猶予などなく、介護は始まる。気持ちの整理などつけられないから、精神は歪(ゆが)む。寝息をたてる父の横で、自分も寝そべりながら天井を眺めていると、突然涙があふれ出る。あれ? 今日何か嫌なことがあったっけ? 市役所で嫌味を言われたんだっけ? お父さんと喧嘩したっけ? 思い当たることはないのに、涙腺が壊れる。はたまた、役所の手続きが終わって、ようやく帰宅すると「遊んで来たのか」と言われて、どっと疲れる。ソファーベッドに横になって、ついウトウトしても、顔がかゆいと起こされる。泥沼にハマった鉛のような体を、渾身(こんしん)の力を込めた腕で引き起こすも、夢かうつつか、しばらく分からない。心ない言葉で傷つけ傷つけられ、闘いは永遠に続くように思われ……やや、本文見ても、私の人生、終わってた(笑)。
 私の体は、確かに悪くなった。でも、ひとつだけ良くなったものがある。それは愛情だ。どんなに疲れても、どんなに傷付いても、こころは案外、強い。お父さんが生きていることが嬉しい。

W.



 <特集>◆ 伊藤さんとの交流を通して 


私が、伊藤道和さんと初めてお会いしたのは、大学の家庭訪問実習のときでした。地域で生活している方について学ばせていただくという目的で、友人と二人で伊藤さんのお宅に訪問させていただきました。学校で、質問内容など指導されていたにもかかわらず、実習の緊張感と人見知りの性格と伊藤さんのお宅のワンちゃんが気になって(犬が苦手なので……)と、実際の家庭訪問は友人に頼りっぱなしだったと思います。実習の感想は、ただただ驚きでした。いくら授業で、地域で生活している多くの方について講義を受けていても、やはり私には想像ができていなかったのだと思います。しかし、実際に伊藤さんように整えられた空間を見て、本当にこうしてここで生活しているのだと感じました。
 また、もう一つの驚きは、伊藤さんの描かれている絵画でした。絵も苦手で、何もわからない私には、あんなふうに描けることをとてもうらやましく、またとてもすばらしいことだと感じました。それまでの作品をカードにしたものをいただき、今でも時々ふと思い出して観ることがあります。絵や音楽などの芸術は、それを観たり聴いたりする受け手によって、感じ方はさまざまだと思います。しかし、何かしら受け手には影響を与えているのだと思います。自分の知らない、行ったことのない風景を絵から知ることができたり、なんとなく温かい気持ちになったり、観ているだけで落ち込んでいた気持ちが晴れたり……私は伊藤さんの絵から、そんなことを感じ、たくさんのチカラをもらっています。
 実習のあとも、福祉機器展や映画などさまざまなところに一緒に出かけさせていただくようになりました。最初は、「え、私ひとり? 私なんて何もできないのに……介助とかどうしたらいいの?」という大きなとまどいがありました。実際、一緒にいても、毎回教えていただきながらで、とても申し訳なく思います。しかし、伊藤さんと一緒に過ごす時間は、とても楽しく、またさまざまなことを学んだり、そして感じたりと私にとって貴重なことが多くあります。そして、私は伊藤さんに会うたびに大きなチカラをもらって自宅に帰ってきています。ちょっとしたことで落ち込んだり、なんとなく気分が晴れていなかったり……そんな情緒不安定になっているときでも、伊藤さんと話していると、よし、明日からまたがんばろう!という気持ちになってきます。10代のころは、「私は1人でも生きていける」なんて根拠もなく思いこんでいた私ですが、今は伊藤さんとの出会いをはじめ、多くの人の温かさに触れ、人と人との関わりの大切さ、関わりの持っている大きなチカラを心から感じています。
 先日行われた、横浜での「全国頸髄損傷者連絡会総会・神奈川大会」の際に、伊藤さんと関わる多くの方の姿を拝見していても、おそらく私だけでなくとても多くの方が、伊藤さんとの関わりからたくさんのことを感じ、心を温かくしているのだろうと思いました。
 私は現在、小児病院で看護師をしており、まだ2年目です。1人の人としても、社会人としてもまだまだ未熟な私ですが、今よりもっとだめな学生時代をご存じの伊藤さんに少しでも成長したなあ……なんて思っていただけるように、大きくなれたらなと思っています。これからも伊藤さんとの関わりを通して、たくさんの素敵な時間を過ごせたらと思います。

M.T.



 <特集>◆ 伊藤道和さんと出会って 


伊藤道和さんとの出会いは5年半ほど前になります。入浴のお手伝いから始まり、伊豆・神戸・小倉など……いろいろなところへもご一緒させていただきました。しかし、僕はいまリストラの危機に直面しているのかもしれません!? 道和さんは大変人気があります(特に女性から大人気!!)。
 いつもポジティブな考え方をされ、周囲への配慮を忘れず、その行動・発言には存在感があります。そして言葉の使い方がとても上手で周りの人々に安心と活力を与えてくださるように感じます。このように魅力あふれる方ですから、外出先では見知らぬ方から「コラムを読んでいます!」と声をかけらることもしばしばでした。職場では道和さんと外出したことを報告するとうらやましがられるのが現状です。今は介助者を選べる時代になっていますからね。僕も精進を続けていかないといつ後ろからそっと肩を叩かれるやら……(汗)。
 何度か「道和さんの介助は大変でしょ?」と質問されたことがあります。しかし、僕はいままで大変だと感じたことは記憶にありません。それは道和さんの立ち居振る舞いや物事の考え方に教わることが多く、いろいろな面で介護者の考えなども尊重してくださるため、その言葉に込められた温かい気持ちや人柄に惹(ひ)かれていることも理由の一つなのかもしれません。自然と介助者の心の中にお手伝いをさせていただきたいという気持ちが芽生えてくるような感覚があります。
 実際の介助の場面でも何をどうしてほしいのか、自分の意志を明確におっしゃってくれることがたいへんありがたいと思います。日本には謙虚さを美徳とする文化があります。これはとても素敵な文化であると思いますが、介助を行うさいには遠慮なく心の内をお話していただけたら嬉しく思います。
 人間どうしのつながりには信頼という絆(きずな)がとても重要だと思います。人はそれぞれ生き方も考え方も異なりますから、この信頼関係を築くには時間がかかったり、難しい場合もあるとは思います。しかし、だからこそこの絆(きずな)は一度結ばれたら強いのだと思うのです。
 障害の有無に関わらず、人として同じ時間を素敵な笑顔で共有できる関係が介助の質を高め、QOL(生活の質)の向上にもつながるのではないかと思います。
 僕が道和さんからリストラの宣告を受けなければ、これからも皆さんとお会いできると思います(笑)。皆さんと直接お話できるその日を楽しみにしていますね♪
 そして道和さん、僕にとっては人生の先輩であり、先生のような存在です。これからもご指導ご鞭撻(べんたつ)のほど、よろしくお願いいたします。
 

T.S.



 <特集>◆ 「おやじの威厳」あるいは「介護される側の屁理屈」 


 私はせっかちである。ヒトに頼めばよい仕事も、自分でやった方が早いからと背中に背負い込んでしまう。だから私の背中は「ヤリ貝」がいっぱい立っている(わかるかなぁ……このおやじギャグ。最近の若い人はモチベーションなんて言っているが、ちょっと意味が違うんじゃないかな)。
 かてて加えて貧乏性である。年から年中、何かやっていないと落ち着かない。だから正月休みとかお盆休みなんて大の苦手である。例年ジングルベルの頃は、旧暦の中国や台湾に出かける。あちらが正月になると帰国する。帰ったら帰ったで椅子に座ることはまれである。全国各地へ出張に出かける。だからまともに出社するのは年に3カ月くらいだろうか。病的なワーカホリック(仕事中毒)だったといってよい。カアチャンはいつも「ウチは母子家庭だから」とあきらめていた。
 こんな生活を送っていると、いつかは飛行機事故に遭うだろうなぁと漠然と考えていた。それが海外でのバス事故だなんて。なんとも格好のつかない話である。
 長女は同じ職場で働いていた。DTP(編集レイアウト)の責任者をやっていた。しかし親子の会話はほとんどない。むしろ仕事のことで突き上げをしてくるのは、だいたい長女だった。だからわが社は労使交渉を親子でやっていた。男社会の中で毎年色気がなくなっていくのが気になってはいた。
 事故のあった日、最終便でまず駆けつけてきたのは長女だった。婦長と折衝してICUへの出入りを24時間できるようにしてもらったり、流動食が合わないと果物に換えてもらったり、そのため現地人の家族から病院にクレームがついたこともあったようだ。ひと月後に帰国するときも航空会社との折衝、日本の受け入れ病院との交渉などをひとりでこなしていった。「こいつが男だったらなぁ」と何度か思った。
 強引というのではないが、時間をかけて理詰めで説得していく。日本に戻ってからもこの調子で、完全看護の大学病院でも、24時間付き添いを認めさせてしまった。さすがにリハビリ病院では許されなかったが、近くの親戚の家に移り住んで毎日通ってきた。
 ところがこの熱心さが裏目に出ることもあった。せっかちな私はやってもらいたことを順番に頭の中で整理しておく。例えば鼻クソを取ってくれとか、耳の裏がかゆいとかだ。もちろん、やってはくれるのだが「いっぺんに全部はできないよ」とグチをいう。だから次にモノを頼む時は1つずつにする。すると「全部一緒にはできないよ」というではないか。そろそろ限界になってきたな。だけど耳の裏のかゆみなんて我慢できないんだよね。ひと呼吸おいてまた頼む。すると「それじゃあきちんとお願いしなさい」ときたもんだ。いくらなんでも、これはないだろう。私には子供を育ててきたという自負がある。おやじの威厳が許さぬ。頸損者にとって威厳や誇りがなくなることは「受容れ」や「あきらめ」を意味すると思っている。あとはお決まりのコースだ。
 とかく介護は難しい。なかなかヘルパーさんに「鼻クソを取ってくれ」とは言いにくい。家族にはなんでも頼めるという気安さと甘えがある。しかし介護はやればやるほど家族の心の澱(おり)が確実に蓄積されていく。激しい言葉の応酬もやがて疲れはてお互いに黙りこんでしまう。現在はヘルパーさんの時間を増やしてもらい、家族にはホントに頼みたいことだけを頼むようにしているのだが、さて……。
 かくしてわが家は危うい均衡の上に、かろうじて安定を保っているのでR。

M.T.

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