2012622():読売新聞「きこえの自己評価表」を紹介

大阪読売新聞社の取材を受けた内容の一部が、本日付朝刊の「くらし-シニア」欄に掲載された。加齢難聴者や家族が自らの難聴を自覚することが補聴器適用への第一歩であると話したので、私が試作した「聞こえの自己評価表」が参考資料として載っている。



2012620():「かっぱの太ちゃん」出版記念パーティー

故三好祐先生は、かつて私のアメリカCID(Central Institute for the Deaf)への留学を決意させてくれた耳鼻科医である。30年以上も前に宮城県医師会長を務め、宮城県医師会ヒアリングセンターや仙台市難聴幼児通園施設「やまびこホーム」の生みの親でもある。ご長男の三好彰先生が仙台市泉区に三好耳鼻咽喉科クリニックを開院され、今年で20周年を迎えた。クリニック開院20周年記念講演会では、田中美郷先生(帝京大学名誉教授、田中美郷教育研究所・ノーサイドクリニック所長)が記念講演「もしも、あなたに耳の不自由な子どもが産まれたら~全ての子どもには無限の可能性がある!」をされ、私がその座長を仰せつかった。

記念講演会に引き続き「かっぱの太ちゃん」(作:山形三吉、絵:コンタゆうじ/たかはし よしひで。いちい書房)の出版記念パーティーが開催された。太ちゃんとは今は27歳になり立派な社会人として活躍している北野太造君のことである。生後2か月のとき、都内の病院でワールデンブルグ症候群による難聴と診断され、しかも直ぐ後には父親が東京から仙台への転勤を命ぜられるという事態になり、家族で仙台に越してきた北野家。絵本「かっぱの太ちゃん」には、そこで巡り合った耳鼻科医の三好彰先生との交流や当時は積極的ではなかった難聴児の水泳指導などが描かれている。私が巻末の「解説」を執筆した。出版パーティーには関係者が大勢集まり、絵本の主人公である北野太造君が感動的なスピーチを行った。

『・・・差別や疎外を受けることがあります。・・・僕にとっては「無知」よりも「無理解」のほうが恐ろしく感じます。何故ならば「無知」はまだ何も知らない状態なので、教えてあげればよいのですが、「無理解」は状況や状態を知っているにもかかわらず、それを理解しようとしないからです。』



2012617()「あぶと観音」と保護者教室

一昨日は福山城を真正面に見下ろすことのできるホテルに滞在したが、福山市役所での講演と夕食会を終えてから、昨夜は「こばと園」のある沼隈地区の海辺のホテルに移動した。朝早く車で迎えに来てくれた塩出園長が、午前の研修会開始まで少し時間があるのでと、国重要文化財「阿伏兎(あぶと)観音」に回り道してくれた。

海を広く見渡せる岬に突き出た高い岩の上に、さらに石垣を築き観音堂が建てられている。子授け観音、安産の守護として信仰されている。堂内には手作りのたくさんの「おっぱい絵馬」が奉納されていて驚いた。出生前からも我が子の成長を願う母親の熱い想いが伝わってくる。これから30分後には始まる保護者向けの講演会を前にして、私も身の引き締まる思いでいっぱいになった。

福山での二日間にわたる研修会のスケジュールは、①全体の先生方を対象とした講演、②保育所幼稚園の分科会研修、③保護者教室、④「こばと園」職員を対象にした専門研修と、多様でハードなスケジュールではあったが、私が取り組むべき宿題を確認できて有意義であった。



2012616()児童発達支援センター「ゼノ」こばと園(旧・難聴幼児通園施設)

全国に25あった「難聴幼児通園施設」は、今年41日からの児童福祉法の改正に伴い、全て「児童発達支援センター」に移行した。福山市にある「ゼノ」こばと園も、「児童発達支援センター「ゼノ」こばと園」(塩出順子園長)となり、8年振りに訪れた園玄関の看板も新しく立て替えられていた。通ってくる子どもは、知的障害、学習障害、広汎性発達障害、ADHDなどの聴覚障害以外の問題を併せ持っている子どもたちも少なくない。「こばと園」が中心となって30年ほど前から続けられてきた「福山聴覚障害研修会」も今年度が27回目となる。私は、1997年(第12回)と2004年(第19回)に講師として参加したことがあり、今回が3度目となる。福山市を中心とした広島県東部地域の保育所、幼稚園、小学校、中学校、高校、特別支援学校(聴覚障害・知的障害)の先生、教育委員会、保育課、保健課、児童相談所など行政機関の方々が、会場の福山市役所に参集された。

本研究会の運営でもお世話になっている村上学先生(広島県立尾道特別支援学校)や、聴覚障害児の療育環境の改善に尽力されている東川俊彦先生(東川耳鼻咽喉科院長)ともお会いできた。新生児聴覚スクリーニングに伴う対象児の低年齢化、中軽度難聴の子どもたちの増加、重度聴覚障害児の人工内耳装用などの傾向は、この地域でも同様である。聴覚障害児に初めて関わる先生方がここ最近は67割くらいにのぼるという。「聴覚障害児を理解し、豊かな力を育てていくために保育・教育の中での配慮ととりくみ―」のテーマで講演した。



201267():「聾学校が嫌いになってしまう耳鼻科医がいるのはなぜか?」

アベロンの野生児の教育を終えた後も、パリ国立聾唖学校に校医として住み込んでいたイタールは寄宿舎の聾生徒たちの聴力評価を初めて行い残存聴覚の活用に取り組んだ。このことは耳鼻咽喉科雑誌JOHNS(第236号「耳鼻咽喉科学のパイオニア:Jean Itard,2011年)で紹介しところである。これまで世界には、聾教育に深くかかわった耳鼻科医が聴覚障害児の育ち方・学び方・生き方に優れた影響を与えた例は多い。私が若い頃留学したワシントン大学医学部附属中央聾研究所(CID in St.Louis)も、ゴールドシュタイン博士(Max Aaron Goldstein, 1870-1941)が聾学校教師と耳鼻科医が一緒になって聴覚障害児を育てる施設が必要だと考え1914年に設立された。その後のCIDとその附属聾学校を隆盛させたのも耳鼻科学のデイヴィス博士(Hallowell Davis, 1896-1992)と聾教育学のシルバーマン博士(S. Richard Silverman)である。光栄にもお二人をセントルイスの私のアパートに招待し日本食パーティーを開いたことがある。同じ時期にワシントン大学医学部に留学されていた東北大学耳鼻科の小林俊光先生(現:東北大学耳鼻咽喉科教授)ご夫妻にお手伝いいただいた想い出がある。

日本各地の聾学校・難聴学級の発展の歴史を見ると、優れた耳鼻科医とのつながりがあったことに気がつく。その耳鼻科医の薫陶を受け勉強した教師が補聴器を活用した教育、今で言う教育オーディオロジーに貢献した。本研究会の先輩会員の中にも該当する先生が多い。私に関してだけでも、宮城聾学校時代は宮城県ヒアリングセンターを創られた三好祐先生、特殊教育総合研究所時代は昭和大学の岡本途也先生や帝京大学の田中美郷先生などがいらっしゃった。ところが、特に人工内耳の幼小児への適応が始まる頃からか、そして聾学校が手話を積極的に導入し始めた頃からか、どうした訳か聾学校が好きになれない耳鼻科医が出始めたようだ。もともと聾・難聴児の教育に無関心な耳鼻科医は論外だが、聴覚障害児の教育に熱心に取り組もうとする姿勢がある耳鼻科医や地域の中核的病院のなかに聾学校とのかかわりを諦めたり中止したりする事象が気になる。補聴器相談医やキーパーソンが聾学校の校医やアドバイザーとなってほしいと願っているのに、どうしたものか。

どの研究会や懇談会などでも「医療と教育の連携が必要」という言葉がお題目のように出るのは昔から今も変わらない。どちらの側も相手方に問題があると考えているようだ。「聾学校が嫌いになってしまう耳鼻科医が生まれるのはなぜか」のテーマで意見交換会やシンポジウムを設定してみたい。医療サイドの指定討論者と教育サイドの指定討論者から話題提供をしていただき、先ずはお互いの不信感はどこから出てくるのか謙虚に見つめあってみることが大事だ。



201261():「補聴器・きこえの道場」

東大先端研キャンパス公開のバリアフリー系研究室紹介で「聞こえにくい耳と聞こえすぎる耳-“聞こえの痛み”を和らげる補聴テクニック」の話をした後、参加された一人の補聴器ユーザーから質問があった。「自分のニーズに合わせた補聴器のフィッティングや再調整を希望して病院や補聴器店を訪ねても、どこも満足のいく対応ができていない。必要な教育や専門研修が足りないのではないか」「集会などでの話者が、難聴者や補聴器装用者のための適切なマイクやFMマイクの使い方を知らない。だから一般の催しに出向くことが制限され、諦めて難聴者向けの会合にしか参加しなくなる」。聞こえのバリアフリーを広く訴え理解を促すために『補聴器・きこえの道場(仮称)』をどこかに開設してもらえないか、といった主旨のご意見をいただいた。日本教育オーディオロジー研究会の会員諸氏からも「聞こえのバリアフリー」への様々な環境改善のアイディアが寄せられ、「静かに流れる教育オーディオロジー」としての地道な活動が始まればいいと思う。



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