20101029日(金):認定補聴器技能者の養成、指輪の紛失

テクノエイド協会が行う「認定補聴器技能者」の「第Ⅱ期養成課程」講習が25日(月)から本日まで5日間にわたり国際展示場近くの有明TOCを会場に実施された。私は最終日の今日、「青年・成人の聴能訓練」の課目の講義を担当した。

話を終え控室に戻ろうとすると廊下で受講者の一人が私を待ち受けている。何か質問があるのかと立ち止まると、「講義を聞いて大変感動しました。補聴器の仕事で頑張る決心が固まりました。」と顔を紅潮させ遠慮がちに握手を求めてきた。都内にある父親の店を継いで5年経ち、認定補聴器技能者を目指す勉強をしている青年である。「教育オーディオロジーにも詳しい補聴器専門店になるよう期待しています」と励ました。

【指輪の紛失】 TOC有明の3階にあるトイレに立ち寄ってから会場を後にした。「りんかい線」に乗り渋谷駅を経由し駒場東大前駅から先端研のキャンパスまで、一仕事終えた充実感を味わいながら気持よく歩いた。途中で行きつけのレストランに寄って昼食を済ませた。研究室に入り自分でお茶を入れ一服してから気が付いた。薬指に指輪がついていない。あれこれ紛失の可能性を考えた結果、午前中に講義をしたTOC有明ビルのトイレの洗面台に置き忘れたことに思い当った。既に3時間以上経っている。慌ててビルの防災センター守衛室に電話し経過を説明したが「届けられていない。もしよければ連絡先を教えておいてください。」との返答だ。今日の講義のなかで「私の補聴器」をスライドで提示したが、そこには愛用の補聴器のサイズ比較のために私の指輪を並べて写してあった。小さなダイヤが一つ埋めてある四角い特徴のあるリングである。諦めかけていたところに研究室の電話が鳴った。「念のためにと守衛さんが3階のトイレに行って見たところ洗面台にありました。3時間以上も誰にも取られずそのまま置いてあったのです。」との吉報を受けた。「ゆりかもめ線」で有明に向かい、5時間ぶりに指輪は再び私の薬指に戻ってくれた。

実はこの指輪は何度か紛失しては不思議に戻ってきている。2005624日、ロチェスターに出張する途中、ワシントンのダレス空港で乗継する飛行機の中で失くしたことがあった。全ての乗客が空港で機を降りた後で、客室乗務員の女性全員でシートを剥がし床の隅々まで探してとうとう見つけてくれた。【参照:2005624日付け学長日誌 http://www.tsukuba-tech.ac.jp/soumu/diary/200506.php



20101020日(水):神田幸彦先生

先月918日に長崎大学で開催された日本特殊教育学会自主シンポジウム「聞こえのバリアフリー:人工内耳・補聴器の選択と非選択」の内容を、学会誌「特殊教育学研究」に掲載するための報告原稿を提出した。字数が限られており残念ながら当日の様子を十分に伝えきれないものとなってしまった。

神田幸彦先生(神田ENT医院・長崎ベルヒアリングセンター)からは人工内耳に関する豊富な話題提供をしていただいた。神田先生の発表内容も学会報告書では私が随分と端折ってしまったので、ご自身がまとめられた概要を教育オーディオロジー関係者にも供覧したい。

【ユーザーからみた補聴器、人工内耳の進歩とそれぞれの選択(神田幸彦)】

ユーザーとしての観点からおよび長崎大学で230例を越える人工内耳手術を執刀医として経験し、その後の患者の改善や成長の過程から学んだ事を報告した。医学部学生時代の24歳から20種類以上の補聴器を装用、アナログからデジタル、そして最近では第3世代のデジタルも出現、ISP(統合信号処理)やFMなども進歩し全て愛用して来た。それらの利点を報告した。

また、人工内耳では2004年に補聴器非装用側のscale out earにドイツ、ビュルツブルグ大学にてProf. Müllerの執刀でMed-EL/Pulsarの人工内耳手術を受けて来た。現在6年が経過したが、補聴器との両耳聴により、騒音下・離れたところからの会話・早口の会話・音楽の聴取などがより良く改善された。現在は左の人工内耳だけでも会話可能で装用閾値は20-30dB、語音明瞭度(67-S)は左人工内耳のみで騒音下(S/N=070/70)で90%である。両耳聴では506070dBSPL全ての提示音圧、騒音下で100%となった。

人工内耳も最新の器機ではFSPや通常よりも3倍多い高頻度刺激により聴取能アップが進んでいる。手術前はいろんな葛藤や不安があるが主治医との信頼関係でそれを乗り越える事が出来る。聴覚の回復にはその過程で希望・魅力があり、ドイツのシステマティックな医療・Audiologyを経験できた事は大きな財産となった。難聴者としてとても良い時代に生活できた事に感謝するとともに、難聴を有する人々にとって、それぞれの進化した補聴器・人工内耳を自分に合った形で選択できる時代となっていることを報告した。



20101014日(木):全日聾研・研究協議分科会

札幌コンベンションセンターで開催された全日聾研の研究協議分科会(発音発語、聴覚活用、聴覚補償工学)では、次の4つの研究発表と私のミニ講演が行われた。

1)「発音・発語指導における韻律記号の試作」永野哲郎先生(岩手県立盛岡聴覚支援学校)。

発音指導の大家として名を馳せた、いしぐろ・あきら先生(1984年「学年的水準」)や久保山とも先生(1968年「発音発語指導」)、そして岡辰夫先生(1990年「たのしいはつおんきょうしつ発音発語マニュアル」)など、先達の遺産を引き継ぐ若い聾教育者が育っているのは頼もしい。

2)「指導中に見られた日本語の特徴について」板橋安人先生(筑波大附属聴覚特別支援学校)。

重度聴覚障害児にカ行音の発音指導が成功裏におこなわれる途中で、それまでうまく発音出来ていた他の音節が一過的に誤って発音されてしまう現象(例えば板橋の「イタバシ」が「イタバキ」などと誤発音)を発見しその理由を分析した。ちなみに板橋先生は発音指導の実践研究で博士号を取得した数少ない聾学校の先生である。

3)「アニメーション技術を用いたオノマトペ教材の研究」生田目美紀先生(筑波技術大総合デザイン学科)。

聴覚障害者にとってイメージしにくく音象徴の構築がしにくいといわれるオノマトメ(擬音語・擬態語・擬情語)を、視覚化して提示するアニメーション教材を開発した。昔は聴覚障害者にとって擬音語や擬声語の素になっている原音は「聞こえないもの」と考えられていたが、補聴器と人工内耳による聴覚補償が進歩した現在では、殆どの聴覚障害者の耳に「音」は届くようになった。たとえ「音声」は聞こえなくとも「音」は大丈夫な時代である。手話の歌に音楽としての「音」も求められるように、オノマトメの中には視覚情報だけではなく「音」も加えられるべき領域が確実に増している。

4)「学芸会で育つ心とことば」田邉仁美先生(日本聾話学校)。

大島功先生が掲げた「聴覚主導」の人間教育を90年にわたり実践し続ける「日聾」の今の様子がとてもよく分かる発表である。学童期に一般の学校で学んだことのある聴覚障害者に「音楽は好きでしたか」「劇に参加するのは好きでしたか」とアンケートすると多くが「学校での音楽の授業、劇の練習は嫌いだった」と答える。しかし聾学校で学んだことのある聴覚障害者は「音楽が好き、劇の発表が好きだった」と答える。聞くこと話すことが気持よく楽しめる感性が今でも日聾で育まれている。

5)ミニ講演「聴覚補償の最新情報:なぜ補聴器は使われにくいのか」大沼直紀。

聴覚障害関係に限らず世の中一般にも補聴器のことが正しく広まらず誤解されやすい理由について、以下に挙げた7つの事項に触れ、最近の聴覚補償の動向について話した。

聾者の言語(手話)と関わって

聾教育の方法論と関わって

難聴当事者の問題と関わって

難聴者を取りまく人の問題と関わって

補聴器の専門家・供給者の問題と関わって

補聴器の技術的問題と関わって

聴能学の問題と関わって



20101010日(日):全日聾研・北海道大会

全日本聾教育研究大会(全日聾研)が13日から札幌で開催される。今年の北海道大会は第44回目となる。広島で開催された第42回大会では私が記念講演した。演題は「聴覚障害教育における専門性の保障-これからの聾教育に聴覚は活かされるのか」であった。早いものであれから2年が経った。更に前の第40回(関東大会)はAPCD国際会議と共催で盛大に開催され、私が実行委員長を務めた。大会テーマは「専門性の継承・革新・継承」であった。あれからも既に4年経ったことになる。

14日に設定されている全日聾研の研究協議分科会(発音発語、聴覚活用、聴覚補償工学)のプログラムを見ると、発表取り止めなどもあり口頭発表は3件しかないらしい。その中でも補聴器・人工内耳に関する発表は一つもない。聾学校だけでも約100校ある日本で、教育オーディオロジーの実践研究成果の発表が何故こんなに激減したのだろう。北海道を覆っている「聴覚活用を標榜しにくい」空気を全国の関係者が慮っての結果なのだろうか。あるいは、成果を発表したくても各聾学校の財政難や勤務体制などの事情により県外出張が許されないという、専門性を保障する余裕さえも失われようとする現状なのだろうか。実はこの分科会の助言者を仰せつかっっているのが私である。当日朝から夕刻まで5時間設定のプログラムを数本の研究発表で賄うことが大変だということで、残りの時間を私が「ミニ講演」するという窮余の策が浮上しかねない。

奇遇にもこの日、1014日はちょうど3年前に亡くなられた故菅原廣一先生(国立特総研名誉所員)の命日である。北海道の聾教育が生んだ、北海道の聾学校を最も愛した菅原廣一先生の想いは如何。







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