【2009年12月28日(月):補聴器のデザイン】

ワシントン大学医学部附属中央聾研究所(CID:Central Institute for the Deaf)に留学していたとき、補聴器フィッティング理論に「規定選択法」を位置づけたことで有名なパスコ博士(David P. Pascoe)は、私が師事した教授の一人であった。1980年代になってからのアメリカの補聴器は既に「ポケット形」(当時のBody worn typeの呼称は箱型補聴器)が無くなり「耳かけ形」が主流になりつつあった。そんなある日、パスコ先生が補聴器は必ずしも肌色にこだわらず、青、赤、紫色などカラフルなものが選択できる世の中になるであろうと話された。「耳せん」(補聴器のイヤモールドは「耳栓」とは記述しない)もいろいろなカラーが選べるようになり、人眼から隠す補装具ではなく目立たせる補聴器デザインの時代が来ると予言された。そして私に珍しい形の「耳あな形補聴器」を見せてくれた。耳穴の外に見える面をカメオ(シェル・カメオかストーン・カメオであろう)の彫刻飾りで覆った工芸品のような補聴器である。イタリアのデザイナーが試作したものだという。補聴器としての電気音響的性能はとても使い物になるような出来ではない。しかし、耳飾りとして身に付けてみたくなるような斬新な補聴器デザインであった。かつてパスコ先生が見通したように、今では子どもの補聴器やイヤモールドは、自分の好みの形やカラーを親子が自由に選べる世の中となった。
  宇宙旅行に聴覚障害者も加わる時代もそう遠くはない。地球の重力があればこそ耳介や外耳道にうまく納まっていられる補聴器であるが、無重力状態では問題が起きよう。また、防水型補聴器を着けて海中生活や水中でのレジャー・スポーツを楽しむ機会も増えよう。泳いでいる時やシュノーケルを着けて海中を覗くときなど、耳かけ形補聴器は水の抵抗力に負けて直ぐに耳介から外れてしまう。耳あな形補聴器は外耳道の皮膚との間に入り込む水により摩擦力を失い直ぐに耳穴から外れてしまう。近未来の生活に備えた補聴器の装用様式、特異環境における聴覚障害者の聴覚補償・情報保障に関する研究も今から始めておかなくてはならない。



【2009年12月26日(土):補聴器用電池切れの難】

加齢による私自身の聞こえにくさの体験から、世の中には難聴の耳にとって大変聞きにくい話し方をする人が多いものだ(一方、とても聞きやすい話し方をする人もいる)ということを実感している。先日、ある中央紙の記者から聞こえの補償についての取材依頼があり、研究室でインタヴューを受けることにした。約束の時間が近づいたので、その記者が不明瞭話者であった場合に備え補聴器を着けておくことにした。両耳の補聴器のスイッチを入れると間もなく電池切れの信号音が聞こえる。しまった、たまたま予備の電池の持ち合わせがない。先端研の敷地内には小さなコンビニ(大学生協)があるので日用雑貨のコーナーを探したが置いてない。店員に訊ねると、ここにはないが教養学部のある駒場キャンパス内の大学生協は規模が大きく品揃えもいいから有るでしょうという。先端研から10分ほどの所なので急ぎ足で向かった。スーパー並みに何でもありそうな広いフロア-のどこを探しても「PR41/312電池」は見つからない。相談コーナーの店員に助けを求めたが「こんな特殊な電池は見たことがありません」と分厚い商品カタログで調べ始める始末。とうとう諦めて戻ることにした。私は電池の自己管理からして未だよく出来ない補聴器新米ユーザーであることを思い知らされた。幸いなことに、対談者は聞きやすい話し方をする女性記者であった。



【2009年12月25日(金):つくば市教育委員】

 つくば市教育委員会の教育委員は5人で構成されている(内一人は教育長、一人は教育委員長)。私が委員になることについての議案が12月定例市議会で諮られ同意がえられたことを受け、本日付で市原健一市長から任命された。教育委員の任期は4年である。教育委員会制度そのものについて廃止・縮小論から活性化論まで議論されている最中にあって受諾すべきか迷ったのであるが、45年に及んだ私の教育経験が少しでも役立つのであればとお引き受けした次第である。二つの国立大学と国、独立行政法人、民間合せて300を超える研究機関等が集まっている研究学園都市の特性からか、全国の市町村の小中学校の中でもトップレベルという学力成果を誇るつくば市ではあるが、特別支援教育の実情なども含め当面の課題を把握し展望を描いてみたい。



【2009年12月23日(水):森繁久弥さんの想い出】

「障害者」と表すのを避けて「障碍者」や「障がい者」などと記すのを目にする。実際に障害者を差別しない心と実践を持ち合わせている専門家の中には、表記そのものは大した問題ではないと(口には出さず)思っている人もいるのではなかろうか。むしろ「表記の仕方ばかりを気にする人」に対して気遣いしなければならないことが厄介だと感じているのではなかろうか。依頼され寄稿した文章のなかに「聴覚障害者」と書いてあった個所が、担当の編集者から「障がい者」と修正された初校が返ってきたことがある。そうであればと、更に私は「しょうがい者」と修正して書き送ったことがある。

45年以上も昔の学生時代、「森繁劇団」の仙台公演があった。数日間の公演期間中、演劇部員や地元の劇団員などがエキストラやアルバイトとして加わり、私も動員され舞台裏を手伝うことになった。劇場内には俳優たちの控え室が用意され、それぞれの扉には森繁久弥の表札や役者たちの名前が貼られている。地元のスタッフたちにも大部屋があてがわれた。毎日の芝居作りの疲れが溜まってきた頃、私たちが入る大部屋の扉に貼られている「現地人」の表記に対して、地元のスタッフを馬鹿にしている、差別している現れだと誰からともなく不平が漏れ出したのである。「森繁に抗議しよう!」と森繁久弥様と表札のある個室控え室に皆で押しかけた。当の森繁劇団長はその剣幕に驚き、合点のいかない困った表情で「本当に何も差別する気持ちはない」と応じる。では「現地人」を何という名称に代えたらいいのか、その場の雰囲気では解が出ない。結局「現地人」と書かれた貼り紙を取り去ることで決着した。その後もずっとテレビやポスターなどで森繁さんの顔を見るたびに、自尊精神の高揚した青春時代の一コマとして思い出す。あの時、「現地人」と呼ばれて私たちは何が気に障ったのだろうかと考える。「現地者」とあったら文句は出なかったのだろうか(ちなみに、中国や韓国では日本人が「障害者」と表すのを好まない。「者」ではなく「人」であるとして「障害人」と表記する)。この頃であれば「現地スタッフ」とでも表記するのだろうか。当事者(障害当事者も)の心境は微妙なものだ。今は亡き森繁久弥さんのご冥福をお祈りする。



【2009年12月21日(月):自己音声のコントロール】

このところ厚生労働省関連の委員会に出席する機会が多い。午前中の会議を終え駒場キャンパスに移動しようと電車を待つ間に、さっきまで会議で同席していた同じ委員会の委員の一人とホームでまた会った。私が関係する会議には障害のある当事者が委員として参加することが多い。次の電車を待つ人やアナウンスでホームはザワザワと騒音が多い。二人で立ち話を始めた。この方は人工内耳手術を2年前に受け、その後順調に聴能が発達し今では電話も可能となった聴覚障害者である。最近の補聴器や人工内耳についての話題に興じるうちに、周囲の人々がチラチラと私たちを気にしだす様子が分かった。そのとき私も彼も補聴器や人工内耳を着けていたので、そのせいかと思ったがどうもそうではないようだ。
  私たちの話し声が格段に大きいのである。電車に乗り込んでからも私たちの会話はそのまま続き、乗り合わせた人たちは怪訝な顔をしてこちらを窺がう。夢中になっている話の頃合いを見て「我々の声が大きすぎるようだよ」と一言おうと考えているうちに次の乗換駅に到着してしまった。彼と私は「いいお正月を!」と、慌ただしく分かれた。難聴者が学ぶ聴覚的マナーの一つとして、自己音声コントロールについてどのように聴覚学習すべきか思案した次第である。



【2009年12月17日(木):聴覚障害問題何でも相談外来】

東大・先端研の3号館4階には児玉眞美先生(現在、東大先端研・先端学際工学専攻に所属する博士課程の院生)が主宰する「聴覚障害児と共に歩む会」の親子教室が特別設置されている。私はそこで補聴相談もお手伝いしている。FM補聴器の試用を始めようとする難聴児の幼稚園を、園長先生と親の承諾を得て現場訪問したりもする。この頃は聴覚障害問題の「何でも相談外来」を担当するようになってきた。実際は、ある問題を抱えた親や学校の先生とお会いし「何でも聞き役」を果たすだけである。不安や悩みを聞いてもらうだけで安心される来談者もいて、年輩の私が少しでもお役に立てればと続けている。
 聴覚に障害があることを告げられた親の悩みや迷いは、一昔前と同じように今でも繰り返されている。残存聴力は活用できるのか、手話か口話か、補聴器か人工内耳か、聾学校か通常の学校か、そして学力保障、コミュニケーション能力、社会性や常識、就職などの課題は解決されたのであろうか。聴覚障害児を育てる親や聴覚障害のある当事者の話を聞くと、依然として同じ問題が相変わらず繰り返されていることが分かる。一人の聾・難聴児の「育ち方・学び方・生き方」に深く接する専門家(聾・難聴教育の教師、難聴や新生児スクリーニングに関わる医師、言語聴覚士、そして手話通訳者、要約筆記者、認定補聴器技能者など)でさえも一人で問題を抱え悩み迷うことがある。
 それぞれの専門家が個々の問題事例に対し自分なりの方法でカウンセリング・ガイダンスするだけでは解決に至らないケースも多い。だからこそ、一人の聴覚障害児(者)の問題について関係する全ての専門家が総合的にカンファレンスできる場が必要だと考え、そのための専門家(障害当事者も含め)が集うカンファレンス研究のモデルを構築したいと思う。



【2009年12月16日(水):初忘年会】

筑波技大の現役時代は12月に入ると忘年会のハシゴ状態であった。退職した今年は一度も機会がないまま明けるのかと思っていた。定例の教授会に出席した後、宮野健次郎所長から「今日は恒例の先端研・忘年会です」とアナウンスがった。今年初の、東大に勤めて初めての忘年会の機会が訪れた。
 4号館のホール前の受付で徴収された会費は、一桁違うのではと訊ねたくなるほど安い500円である。いつものように教職員だけが参加する忘年会と様子が異なり、会場内は若い学生たちでいっぱいに混んでいる。実は、先端研は東大の大学院工学系研究科・先端学際工学専攻をかかえている教育組織でもあり、キャンパス内には大学院生の数も多い。外国からの研究生も多く、食堂やエレベーター内などでも英語が飛び交う。酒や焼酎よりも缶ビールが多く、ほとんどが揚げ物で刺身系が全くないメニューの忘年パーティーであったが、専門の異なる様々な研究テーマを持つ人との会話が何よりの肴であった。そしてパーティー・ノイズのなかで、新しい私の試用補聴器が効果を発揮したことは言うまでもない。



 【2009年12月11日(金):補聴器技能者講習会】

第20回「補聴器技能者講習会」が東京・有明の会場で開催された。財団法人テクノエイド協会が行う「認定補聴器技能者」の資格制度の一環である。今週月曜日から金曜日までの5日間、カリキュラムには22コマの講義と試験がびっしりと詰まっている。最終日の今日は私が「青年・成人の聴能訓練」の講義を担当した。耳鼻科医、言語聴覚士、聾学校・難聴学級の教師、手話通訳者、要約筆記者などと同様に、認定補聴器技能者も「聞こえの痛みを治す専門家」であることを強調した。
 補聴器技能者講習会を受けるには、その前に「補聴器技能者基礎講習会」(5日間40時間)を修了していなければならない。その後修了者のうち3年以上の補聴器販売実務経験を有し、その期間に指定講習会の規定ポイントを得て、なおかつ耳鼻咽喉科専門医(補聴器相談医が現在全国に4161名いる)との連携を持つ者が、次のステップとして今回の補聴器技能者講習会の受講資格を得ることになる。本日行われる試験に合格した修了者は更に2年以上の研鑽を重ねた後にようやく「認定補聴器技能者試験」の受験資格が得られる。そうして補聴器の専門性を身に付けた認定補聴器技能者が全国に1698名いて、認定補聴器専門店(現在全国に546店ある)等で活躍している。聾・難聴教育の現場の先生たちと一緒になって聴覚補償の教育に奮戦してくれる認定補聴器技能者が全国各地に増えていることは有難い。子どもの補聴器を制する者が大人の補聴器も制する。



【2009年12月7日(月):神田幸彦先生が桜内義雄賞受賞】

 聴覚障害者教育福祉協会が主催する第32回「聴覚障害児を育てたお母さんをたたえる会」が今年も国会議事堂の側にある憲政記念館で開かれ、全国100余名のお母さんが山東昭子会長(参議院副議長)から表彰された。秋篠宮妃殿下紀子様が会の始めから終りまでご臨席され、流暢な「手話でのお言葉」があった。川端達夫・文部科学大臣も出席され、全国作文コンクール最優秀賞に選ばれた都立中央ろう学校中学部2年の小林遥さんを称えられた。いつもながら「お母さんの体験発表」と「母を語る」では皆が大きな感動をうける。聾学校の親任者や障害学生支援に関わる大学の教員はこの会に参加しただけで、聴覚障害者の育ち方・学び方・生き方を知る貴重なFD研修となるはずである。
 2003年91歳でお亡くなりになった桜内義雄先生(第67代衆議院議長)は聴覚障害者教育福祉協会の会長を長く務められ「お母さんをたたえる会」の発展にも尽力された。1975年(昭和50年)に我が国で初めて開催された聴覚障害教育国際会議(ICED)東京大会の大会会長であった先生を顕彰し「桜内義雄賞」が設けられた。この賞は社会貢献の顕著な聴覚障害者に与えられるもので、今年度は聴覚障害のある耳鼻科医として補聴器・人工内耳の臨床で活躍する神田幸彦先生が受賞された。
 神田先生が長崎大学医学部耳鼻咽喉科に勤めていたときは小林俊光教授(現・東北大学医学部教授)の指導のもと、自ら補聴器を装用し難聴患者の診療や補聴器フィッティングに当たられていた。小林教授が東北大学に移った後は、長崎市内に神田耳鼻咽喉科ENTクリニックを開業された。医院のビル内には神田先生の夢であった人工内耳と補聴器の処方から活用支援まで行なえる「長崎ベルヒアリングセンター」が設置された。センター内の各部屋には「ベル」「ヘレン」「サリバン」などの名前が付けられている。私に負けず劣らずのアレキサンダー・グラハム・ベル信奉者である。長崎ベルヒアリングセンターは長崎ろう学校とも提携しながら8年の実績を重ねてきた。言語聴覚士4名、障害児教育専門教員1名、検査技師2名、非常勤のろう学校聴能訓練専門家(オーディオロジスト)1名、非常勤のろう教育経験者2名がスタッフである。神田先生はドイツ・ビュルツブルグ大学に留学してヘルムス教授について人工内耳手術を学び、その後2004年にはドイツで自らの左耳に人工内耳手術を受けられた。神田先生が補聴器を使用している時代からお付き合いのある私には、先生が人工内耳を装用してからの目覚ましい補聴効果と聴能発達の経過が、学会発表や講演会の場でとてもよく実感できる。これからの日本の聴覚補償教育を支え導いてくれるにちがいない神田先生の桜内義雄賞受賞を心から祝福したい。



【2009年12月4日(金):健康ブーム】

 10年近く前、みのもんた司会の「おもいッきりテレビ」に出演したことがある。耳の健康について取り上げた番組だったが、「○○を食べると○○が治る!」「○○をしたら○○が回復!」などと、結論の持って行き方が強引なのに懲りた。最近は健康ブームに乗った様々な雑誌が同じような怪しげなコピーで読者を引きつけようとする。ところで、わかさ出版の編集者から高齢難聴者の「聴能」について寄稿してほしいと頼まれ、「視覚と聴覚は互いに補い合っている」「聴こうとする意志が大切」など2ページほどの原稿を送った。今週発行された「夢21」は「頭痛と耳鳴り」を特集した号で、そのなかに拙稿が掲載されていた。実は私自身も数年前から耳鳴り症状が現れている。自己コントロール心理療法を自分で工夫した結果今では殆ど悩まされることがなくなった。耳鳴り特集号の「1日3分の耳こすりで回復」「ハチの子食品で完治」などの記事に挟まれて私の「聴能」の話が載っているのが何とも居心地よくない。



【2009年12月2日(水):アジア・太平洋特別支援教育国際セミナー】

  横浜の山下公園近くにある産業貿易センタービルで開催された「アジア・太平洋特別支援教育国際セミナー」に出席した。現在の独立行政法人国立特別支援教育総合研究所が国立特殊教育総合研究所(特総研)であった時代、私が難聴教育研究室長だった頃から毎年開かれ、今回が第29回目の開催となる。当時はアジアの開発途上国の特殊教育担当者が日本にやってくるのは難儀なことで、ある年はネパールから初めて日本に旅立った先生が予定通りに現れず、羽田空港の到着ロビーに一昼夜研究員交代で待ち続けたこともあった。APEIDと呼ばれたこの国際会議が4半世紀前の我が国の特殊教育の世界では数少ない国際色のある催しだったのである。過去何回かのAPEIDの集会を通じてアジア太平洋地域の友人も増え、アジアの聴覚障害教育に対する見方や今私が考える「東アジア連合・聴覚障害問題カンファレンス」も発想された。
 今年度の「アジア・太平洋特別支援教育国際セミナー」のテーマは「自閉症教育の現状と課題」である。自閉症教育の在り方とこれからの方向性について、14カ国(オーストラリア、バングラディシュ、中国、インド、インドネシア、日本、韓国、マレーシア、ネパール、ニュージーランド、パキスタン、フィリピン、スリランカ、タイ)の代表が情報を分かち合い協議した。実は当研究所の非常勤役員(監事)を拝命しているお役目の一つとして出席し、また自閉症については門外漢を決め込んでいたこれまでの私であったが、聴覚障害教育の早期教育や言語・コミュニケーションなどについて専門性を分かち合える領域があることを知り有意義であった。



TOP

Home