Duskin Leadership Training in Japan

活動報告

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第10期生 セイネップの活動報告

“インクルーシブ教育とは、アクセシブルな教育であること”

Seinap Dyikanbaeva氏にインタビュー —ビシュケク、キルギスタン

APDC & Article 25

私の名前はセイネップです。キルギスタンのビシュケクで生まれ育ちました。

ソビエト連邦時代においては、障害者は存在しないと信じられていました。障害に関する情報は隠され、障害者は故意に隔離され、施設や家に押し込められていました。

私が生まれた時は、ポストソビエト時代で、私の母は医療及び社会統合のために素晴らしい働きをしていました。私は母が他者を助けている様子を見ながら成長し、障害児も人間である、ということ目の当たりにしてきました。

5歳の時、母に向かって、“たくさんの障害児が隔離されているのを見たわ。喜びも人生も全くない…。教育やサービスへも全くアクセスできないわ。”と言いました。

障害者隔離主義という態度が広がっていました。

私は、“障害児は常に置き去りにされている。私はそんな状況を変えたいの!”と母に言いました。母は、“あなたがそうしたいというのなら、私もそのためにもっと何かしなければ”と言って、障害者のための団体を立ち上げる決心をしたのです。

母は、1992年にはスタートしたいと思っていましたが、他の親たちが、どうやって障害児の権利を守るNGO活動をしていけばよいか、分かっていませんでした。それに、関係者と障害児を持つ親たちの間には複雑な関係がありました。

そして障害者の問題を解決することはできないと信じられていました。

数年後の1995年になって、障害児親の会(以下APDC)として団体登録し、設立することができました。当時は、資金的な支援やリソースが全くない状態でした。

“Umut — Nadejda” リハビリテーションセンターはもう一つの主な障害者のための団体で、ソビエト連邦時代から25年以上運営してきました。

私は“Umut — Nadejda” で学びました。そこでは障害児に、特に重複障害のある子どもに対して素晴らしい支援をしています。私は“Umut – Nadejda” で過ごした時にとても感謝しています。APDC は次のステップへ進もうとしていました。それは、障害者の地位向上と、家族・多くの人々・関係者を巻き込んでいきたいという強い希望でした。障害者をエンパワーする活動をたくさんしたいと望んでいました。 —それは後の2012年に私たちが設立した全国親のネットワーク “Janyryk”のような活動です。現在は仲間のネットワークがあり、障害問題に取り組んでいます。

設立当初は、インターネットがなく、情報が全く入ってこなかったので非常に困難でした。その結果、リソースも全くないという状態でした。私たちはまず、親たちの精神的な相談事業から始めました。

私たちの経験や情報は、今では多くの団体で活用されています。

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中央がセイネップさん

私たちは、フラッシュモブによる啓蒙活動のイベントも行いました。フラッシュモブは多くの情報を伝えるのに、とても有効でした。このイベントを通じて、障害者は障害者年金などの権利について理解を深めることができました。そして、障害者も他者と平等な権利を持っているという考え方を共有することができました。

現在団体では様々な種類のプロジェクトを実施しています。例えば、移住の問題ですが、キルギスタン国内において移住する際には、地域によって教育や医療サービスへのアクセスが同じではないという問題があります。ビシュケクは首都ですから移民の健康は大きな課題です。

2014年8月には、大きな会議を開催しました。私たちの団体は、初めて移住と障害の問題について取り上げた団体となりました。また、幼年期発達と障害の問題についても活動をしています。

そして今は世界人権宣言第25条の活動をしています。この運動のゴールは私たちの目標と同じくするものです。障害者にも平等な健康の権利が欲しいのです。

1995年に団体が設立されて以来、障害者は病気である、という考え方をなかなか変えることができませんでした。障害者は常にチャリティーとみなされています。しかし、何とかしてこの見方を変えるためにこの数年尽力してきました。

ジャーナリストは、以前は私たちの問題ばかりに言及していましたが、現在は私たちの団体や団体メンバーの成功例について聞いてくるようになりました。これは大きな成果といえます。障害者のポジティブなイメージを創るために尽力しておかげで、変化が如実に見られるようになってきました。

今私は29歳になりました。そして2012年に大学を卒業し、法律の学位を取得しました。

私が若いときは皆とても親切にしてくれました。それは私に移動障害があると、見てわかったからでしょう。脳性まひという障害がありましたから、自分で動くことができませんでした。今でも見捨てられたような気分で不幸にも感じています。

子どもの時には、他の誰一人の障害者を公共の場でみることはありませんでした。多くの時間をたった1人で過ごしました。公共施設のアクセシビリティは決定的に不足していました。今少し状況は良くなりましたが、私が子どもの時は他の障害のある子を見かけたのは、“Umut – Nadejda”リハビリテーションセンターだけでした。

今日、障害者を見かけるようになったのは、決して私たちの団体の活動の成果というだけではなく、日々、人々が行動を起こした結果といえるでしょう。

この問題に取り組む先駆的な団体として活動してきましたが、障害者のスティグマがこのように変化するとは思い描くことができませんでした。

状況は改善されています。今は皆が口をそろえて、障害者も同じ権利を持っていると言います。

例えば、インクルーシブ教育についてのプロジェクトで、様々な学校を訪問し、生徒と話をしました。その際に、障害者についてどう考えているかを尋ねると、以前はネガティブな答えばかりでしたが、今は子どもたちから、障害者を助けたいという答えが出てきます。

子どもたちは皆、障害のある仲間は同じ権利を持っていると言います。そして、彼らと友だちになりたい、そして彼らの問題を知りたい、と言います。

このことは、私たちの社会にとって大きなチャンスです。インクルーシブ教育とは、アクセシブルな教育のことです。今、障害児について語られるのは、ポジティブになってきています。そして人々が障害者の問題を支援することはよりオープンになってきています。

例えば、10年前まではダウン症について真に理解されることは不可能に思われました。一般の人々はダウン症の子どもは教育を受けることがでないと信じていました。今は、人々は、そうではない、と知っています。

私たちはダウン症の子どもを支援するためのデイリーセンターを運営していますが、近年大きな進展が見られます。ある10歳の子どもが、学校でうまく過ごすことができなかったのですが、このデイリーセンターに参加してから、同級生と仲良くすごすことができたり、先生の話を聞けるようになるなど、改善が見られました。

Q.経済的困難や政治抗争の問題の只中にあるキルギスタンにおいて、障害の問題を扱う余裕はあると思いますか?

キルギスタンの政治や経済の状況は完璧ではありません。2005年と2010年に革命があり、外国からの資金援助を模索しなければなりませんでした。その時は人々にとっても国にとっても、特に高齢者・子ども・女性にとって非常に悪い時期でした。しかし現在は経済成長や社会投資に成長が見られます。それに私たちは政府の資金だけをただ座って待つのではなく、ほかの方向に目を向けています。

多くの人々が自分たちでプロジェクトを立ち上げています。私たちの団体も成長しています。以前は首都のみに焦点を置いて活動してきましたが、今は全国に目を向けており、多くの国際的なリーダー達が支援をしてくれています。

Q. 最も困難だったことは何ですか?

教育を受けることは非常に大変です。私は障害児として、一般校に通うことはほぼ不可能でした。障害があったせいで、私は他の同級生より年齢が上でした。通常は7歳で就学しますが、私の場合は10歳でしたので、違うプログラムを受けさせようとしました。私が受けられるのは在宅教育だけだと言われました。私のレベルは、学校で先生が教えていることより高かったからです。

私の先生は、私が高等教育を受けられる、ということを証明してくれました。そして私は高校へ通うことになりました。ついに私は一般校へ通えることになったのですが、初めの1ヶ月はとても大変でした。しかし先生や同級生が非常に協力的でしたので、すぐに慣れることができました。

同じような問題に、私たちの団体も直面しました。障害児、特に脳性まひの子どもが学校に通えるということを証明するのは、とても難しいものでした。今は以前よりは簡単にはなりました。そしてより多くの子どもが良い教育を受けられています。

Q.それでは最も美しい瞬間はどんな時でしたか?

私は人々のサクセスストーリーから影響を受けました。私は問題について語るより —問題を解決する方法を語ることが好きになりました。

そして、友人の、どうやって結婚したかという話を聞くことはとても幸せな気分になりました。特に女の友人からの話ですが、彼らにとって家族を作るということは、より多くの困難があります。

仕事で成功を収めた人の話も、私にインスピレーションを与えてくれました。聞いた話は帰ってから皆に話して回りました。特に影響を受けた人は、フィンランド人のKalle Konkollaさんという、Abilis Foundation やKunnus organizationのリーダーです。彼は最初に、私の中のリーダーシップスキルを見抜いてくれた人物で、“Seinap’s Songs”というドキュメントのディレクターでもあります。

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Susan Sygall氏とMobility International USA (MIUSA) の人たちからも影響を受けました。2003年にWomen’s Institute on Leadership and Disability (WILD) の研修に参加してから、私は国際的に障害分野で活動を始めました。Susan氏はじめ、WILD の世界中にいる女性たちは、リーダーとして、プロフェッショナルとして、更に個人的にも素晴らしい模範です。Susan氏は、女性の権利擁護と人権擁護について熟知していて、世界的に影響を与えている人物です。

本当は、もっとたくさんの素晴らしい障害者リーダーに会ったのですが、あまりにも大人数なので、数人しかご紹介できずにとても残念です。奥平真砂子氏、Shuaib Chalklen氏、そしてまだまだ大勢の素晴らしい人々が世界中にいます。名前を挙げられなかった皆様、決して悪気はないのです。私の心と記憶は全ての皆様を尊敬しており、しっかり覚えていますから。

私はクリスチャンですから、神にも影響を受けました。イエス様は私を幸せにしてくれます。

Q.大統領と話すことができたら、何を伝えますか?

もし私が大統領に会うチャンスがあったなら、私たちの国はとても美しいですが、国内法や人権を敬う、優れた国家戦略が必要だと伝えます。

今現在、大統領は障害者の状況改善のために何もしようとしていません。もちろん2回の革命がありましたから、それは容易ではありませんが、何かを始めなければいけません。私たちの生活を10年前と比較すれば、良くなっています。

スティグマは少なくなりましたし、アクセスやサービスは良くなりました。ですがまだまだ十分ではありません。政府が行動し、計画を立てて私たちの問題と闘う必要があります。

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Article 25についてもっと知りたい方はこちら here

出典:https://medium.com/voices-of-a-movement/inclusive-education-is-accesible-education-ff9185d17605

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