ふるさと生雲 



【4】生雲に滞在した女流文人 田上菊舎(たがみ・きくしゃ)

田上菊舎:江戸時代の美濃派の女流俳人(1753〜1826) 長門の国豊浦田耕村(現在の下関市豊北町田耕・たすき)生まれ。 夫と死別後、28 歳で得度。「妙意」の法名を得て、俳諧修行の一人旅に出た。 加賀の千代女(ちよじょ)と並び、女性俳人の双璧とも称され 漢詩・和歌・琴曲・書・画・茶事などの諸芸に通じ、 後に続く女性俳人たちに影響を与えた 月を笠に 着て遊ばゝや 旅の空 薦(こも)着ても 好きな旅なり 花の雨 「芭蕉」の奥の細道を逆コースで巡り江戸を経て、4 年の旅を終え長府の父母宅に帰る。 33 歳の晩夏の頃、生誕地・田耕を訪れ、その後萩を経由、 長門の国生雲郷在住の美濃派の俳人「謙亭斎三思(けんていさい・さんし)」を訪ね、 冬至頃まで生雲に滞在した。 生雲にて(1785 年 33 歳) 戻りには 傘おもき 雪見哉 田上 菊舎 書付も ゆかし因の 雪の笠 謙亭斉 三思 ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★ 昨夏、下関市立美術館で「相田みつを展」を鑑賞後、ついでのつもりで市立歴史博物館にも行ったところ、 企画展で「女流文人 田上菊舎展」を開催していた。 田上菊舎が、宮城・松島や新潟まで足を延ばした諸国行脚の地図があり、その地図上にふるさと「生雲」の地名を見つけた。 江戸時代中期の頃に、女流俳人が一人旅 で「生雲」までなぜ行ったのかという思いが残った。 今回この『ふるさと生雲』で歴史に関する史料や文献・ネット検索などを使って、幕末維新のことなど調べて行くと、 田上菊舎の生誕地「長門の国豊浦郡田耕村杣地 (とようらぐん・たすきむら・そまじ)」が、 大谷家に滞在した天誅組首領の中山忠光 とも関わりのある地だとわかった。 ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★ 【中山忠光の暗殺】 中山忠光(明治天皇の叔父・1845〜1864 年) 元治元年(1864)11 月 8 日(15 日説などあり)に豊浦郡・田耕村杣地(たすき むら・そまじ)(現下関市豊北町田耕杣地)の山中で 俗論派の長州藩士の手によって暗殺された。 享年 20 歳(数え年)。 ・「本宮中山神社」は、忠光が非業の死を遂げた下関市豊北町田耕杣地(たす き・そまじ)にある。 没後 100 年の 1964 年に正式に建立。 【※田耕・杣地(たすき・そまじ)は田上菊舎の生誕地】 ・「中山神社」は、忠光の殺害後下関市綾羅木の浜に遺体が葬られた場所にある。 《忠光の曾孫娘にあたる浩(ひろ)は、清国最後の皇帝、愛新覚羅溥儀の弟溥傑 に嫁いでおり、その娘「慧生(えいせい)」の天城山心中事件は有名》 「中山神社」の境内には『愛新覚羅社』が建立され愛新覚羅溥傑・浩・慧生親子が眠る。 ★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★ ・田上菊舎は、封建社会の世に「風雅に老若男女貴賤都鄙(きせんとぴ)の差別 なし」という俳諧の道を基とし、 生家を持たず、富や名誉も求めず、生涯を「山水の過客」として、延べ 30 年間もの旅をする。「信」の一字で生き抜いた。 ・中山忠光は公家の位を捨ててまで尊王攘夷の世をと、強い思いを持ちながら、 時代の流れに翻弄され、志半ばで潜伏先の杣地で暗殺された。 彼は公家で唯一犠牲 になった人物である。 違う時代に、全く違う境遇の二人が生雲の地を踏んでいる。 田上菊舎の生雲の滞在先の謙亭斎三思については、生雲郷の大庄屋大谷家が支援していたと考えられる。 田上菊舎の生雲滞在については残念ながら、史料文献が地元に残っていない。 今回生雲のことを調べて行くうちに、たまたまこの二人の接点 がわかったが、生雲での菊舎滞在についての史料などを調べてみたくなった。 ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★ 参考文献・参考資料・写真提供 阿東地域づくり協議会・阿東郷土史研究会・阿東町制施行 50 年史 菊舎顕彰会・あとう観光協会「あとう路ブログ」・「おいでませ山口」山口観光連盟 ☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆ 写真資料:「あとう路ブログ」から




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