「たたかいはいのち果てる日まで」復刻顛末記

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 このたびスペース96として(正確にいうとエンパワメント研究所として)「たたかいはいのち果てる日まで」(向井承子著)を刊行することになった。本書は1984年に新潮社より刊行された本の復刻である。
 本書は19847月に新潮社より刊行され、その後、筑摩書房より文庫本として刊行され、現在は事実上、絶版となっているものである。大手の出版社のひとつである新潮社から出された本というだけあって、その発行部数たるや、スペース96をはじめとする福祉関係の本を中心に発行している出版社とはケタ違いの部数が印刷され(初刷、一万部とうかがいました。Oh, no!)、さらには何回か増刷を重ねたものである。新潮社で絶版とされた後も、筑摩書房からさらに文庫本として再発行されるということに示されているように、その内容には高い評価が与えられていた書籍である。
 著者の向井承子さんは、医療や福祉問題を鋭い切り口で追い続ける社会派(死語かな)のノンフィクションライターである。その著書には、「脳死移植はどこへいく?(晶文社)、「看護婦の立場から」(講談社)、「老親とともに生きる」(晶文社)、「女たちの同窓会」(JICC出版局、現宝島社)、「医療最前線の子どもたち」(岩波書店)などをはじめ、最近の著作では「患者追放」(筑摩書房)、「犬にみとられて」(ポプラ社)など多数の著書がある。これまで出された著書の出版社名をみても、スペース96などとはおよそ無縁の高名な書き手である。
 そんな本をスペース96が復刻するなどというのは恐れ多いという感があったのだが、なぜか、スペース96で出版するように至った、その経緯についてご紹介しておきたい。

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 そもそも私自身がこの本を読んだのがいつ頃だったのかについては明確ではないのだが、新潮社版が刊行されてから、それほど経過していない時期であったことは間違いない。当時は、読み終わった日付を本に書き込んでいたりしたので、その本があればいつ読んだのか正確にわかるかもしれないが、今回の復刻にあたり、絶対に残しているはずと思っていたこの本が手元にないのには驚かされた。そして、もっと驚かされたのは、私がもっていたこの本が、現在、全国地域生活支援ネットワークの代表として活躍されている田中正博さんに渡っていたということである。後に述べるが、本書の復刻を当初は、web上で呼びかけたのだが、それに対するレスポンスの中でこのことはわかったことである。
 私自身がこの本を読んだのは、当時、東京都心身障害者福祉センターの職能科に在籍していた三ツ木任一さんから薦められてであった。聞けば、田中さんも同様であったという。三ツ木さんは、ご存知のように日本の障害者の職業リハビリテーションや自立生活運動の生みの親というか育ての親ともいうべき存在で、その後、放送大学の教授などを歴任された。この三ツ木さんの障害者関係書籍の読書量たるやたいへんなもので、当時、施設に籍を置きながら「誰にも、関連書籍の読書量では負けないぞ」と内心自負していた私の最大のライバルであった(あちらにはかなりの蓄積があったという意味で私にとってはかなりのハンデ戦であったが)。この三ツ木さんが、本書をたいへん気に入り、確か、ご自分で何冊も買い込み、人に押し付けられるようにしてまで販売していたのではなかったかと記憶している(少し、正確さに欠けるかもしれませんが、三ツ木さんお許しください)
 当時は、1981年の国際障害者年がおわり、身体障害、知的障害、精神障害あるいはてんかん、自閉症や難病などという異なる障害分野の関係者がようやく共同歩調をとり始めたときであり、障害者の当事者性などという考えがようやく市民権を得つつある時期であった。個人的には、国際障害者年日本推進協議会(現在の日本障害者協議会の前身)での仕事を終え、どちらかというと身体障害の分野にいた自分の至らなさを自覚し「もう少し他の分野を勉強しなくては」と思い、1982年から、当時はまだ原宿にあった日本社会事業大学の夜間の専修科(いまはもうない)に通い、1983年に全国各地で連続して開催された日米障害者自立生活セミナーという、わが国における自立生活運動の起爆剤ともなったセミナーの事務局長などをしていた。
 余談だが(そもそも、この文章自体がはじめから余談みたいなものなのだが)、今思い返してみると、この日米障害者自立生活セミナーのもたらしたインパクトにはまことに少なからざるものがあったといえる。具体的なお名前をあげるときりがないのでここでは省略させていただくが、いわゆる自立生活運動などで現在、活躍される当事者の面々も、このセミナーをつうじてわが国の運動のメインストリームに登場してきたのであり、前出の田中さんなども、日米障害者自立生活セミナーの会場に参加する障害者の介助者として参加していた若者のひとりだったという。日本グループホーム学会の代表として活躍されている室津滋樹さんも、このときのアメリカ側代表団といっしょに全国をまわった介助者のひとりであった。現在は琉球大学教授の高嶺豊さんはアメリカ側の代表のひとりとしてハワイCILからの参加であったし、アメリカ側からのその他の代表は、マイケル・ウィンターやジュディ・ヒューマンなどであり、彼らのその後の活躍ぶりはここに記すまでもない。まことに、わが国の障害者福祉の黎明期もしくは揺籃期ともいうべきときであった。
 ともあれ、そんなときに本書に出会ったのだが、とにかく、出勤途中、中央線が中野駅に到着する直前に車中で読み終えた時に、あたり憚らず滂沱の涙を流したことだけは鮮明に記憶している。当時、本書の何が、それほどの感動をもたらしてくれたのかについては、今思い起こそうとしても正直いうとよくはわからない。ひとりの医師が志なかばで早世するというその点が浪花節的に泣けたのであろうか。その頃はまだなく、今でこそあたりまえの障害児者の地域生活支援という考えを先駆的にひとりの医師が実践したという点に心動かされたのであろうか。高い志を持ち続け、高邁な理念の実現に向け私心なく突き進む生き方とそれに対する行政の無理解という不条理に憤ったのだろうか。もしかすると、滅多に感動することのない自分が珍しく感動したということ自体に驚いたのかもしれない。
 本書に感動して、本書に描かれている中新井邦夫という人物のことはなんでも知ってみたいと思った。ほとんど「好きな人のことはなんでも知りたい」症候群である。残念なことに、多くの著作は残っていなかったが、難しい二分脊椎の本まで無理をして読んでしまった(おかげで二分脊椎のことをよく知ることができたのはよかった)。ついでに向井承子さんの本も読んでみたくなり、「小児病棟の子どもたち」(晶文社)(天童新太の「永遠の仔」の舞台の病院の描写はこの本をもとにしているのではないかと勝手に思い込んでいるのだが)、「北大恵迪寮の男たち 60年安保から30(新潮社)(読む前は唐牛健太郎の章だけにしか興味がなかったのだが、すべての登場人物が魅力的であった)なども読んだことを覚えている。
 このたび、自社の刊行物として発行することがきまり、復刻という性格上、原稿そのものをチェックするという必要はないものの、やはりひとつの責任と思い本書を読み直してみて、かつてほどではないがやはり涙ぐんでしまった
(私にとっては、100%泣けることが約束されている「フランダースの犬」と同格の本に仲間いりしたといえる)。しかし、驚いたのは、かつて涙した理由が明確ではないものの、今回涙したのはかつてとは異なる部分であることだけは確かだということである。今回、涙したのがどういう部分かを記すのは恥ずかしいのでここには書かないが、やはり自分が歳をとったせいかもしれない・・・。
 私自身は、その後、施設に籍をおきながら、15年半にわたり、今はもう亡くなってしまた調一興(しらべかずおき)さんのもとで施設とはほとんど関係のない仕事をし続け、1993年末に退職し、障害者関係の本の専門店であるスペース96を始めることになった。そして、また、この本と出合ってしまったのである。

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 障害者関係の専門店を始めてからの注文の中には、絶版になった本の注文がしばしばあった。そんなとき、可能であれば、私は、自分の個人的な蔵書の一部も販売していた。昔の貴重な本でプレミアでもつけたいところなのに、何年も前の本でやけに定価が安いのが残念であった。「たたかいは・・・」も、何回か注文を受けたことがあったが、注文にこたえられずに残念に思い続けていた本のひとつであった。
 そんな折、現在は北海道のおしまコロニーの生活支援センターに携われている村川哲郎さんからも本書のご注文をいただいた。あとで伺うと、なんでも当時の中新井邦夫さんのところにまで実際に訪問されたこともあるとのお話しであった。村川さんのような尊敬に値する人物が後身の教育のために読ませたいと求められるくらいの本であるならば、私自身の感動もまがい物ではなく、この本をなんとか入手できるようにできないものかと強く思わされたのを記憶している。しかし、そう思っただけで、何もできずに、何かアクションをとるということはなかった。ただ、これをきっかけとして、この本の存在が私の中に大きく復活してきたことは確かであった。
(村川さんありがとうございました)
 その後、2005年7月に千葉大学で開催された日本発達障害学会の会場でいつものように書籍を販売していたときのことである。年輩のご婦人が何冊か本を購入して、郵送を依頼された。失礼ながら、私のこのときの印象は「お年のわりに、ずいぶんと時代にマッチしたトレンディな本を選んでお買い求めになるではありませんか」というものであった(私としては賞賛の言葉であります。念のため)
 ふと胸元の名札に目をやると「東大阪・中新井」と書かれている。「うん、中新井?そんなにある名前じゃないぞ」「それも、単に大阪ではなく、わざわざ東大阪と書いてある?」「もしや年齢的にみて中新井邦夫医師の奥様では?」私の胸はわけもなく高鳴り、失礼をかえりみず、(最近はめったに発揮することのない残り少ない)勇気をもってうかがってみると、やはり、中新井夫人その人であった。私は思わず、かつて「たたかいは・・・」に心動かされたこと、いまでも注文があるものの絶版で注文にこたえられないことなどをほとんど上ずったような調子で口早にお話しさせていただいた。すると「復刻というお話しもあるのですが、出版社の方は、ある程度まとまった数を買い取ってくれないと、とおっしゃるもので・・・」という趣旨のお話しであった。村川さんからの注文を受けたときと同様、この本の存在が再び大きく私の前にあらわれたにもかかわらず、結果としては、このときも私はなんの具体的なアクションをとることもなかったのである。しかし、今度は、本の送付先として残された、中新井澪子という人の手書きの名前と住所が書かれた紙が手の中にしっかりと握り締められていた。それからまた、「これはなんとかしなければ」という思いだけが空回りしながら時間がたっていった。
 そんなとき、仕事に関係する本として「復刊ドットコム奮戦記」という本を読む機会があった(ちゃんと業界のことも勉強しているのですよ)。復刊ドットコムというのは、ネット上で絶版になった本の復刊を呼びかけ、それに対する投票を集め、100票をこえると出版社に対して復刻を働きかけるということを仕事にしている会社であり、この本は同社を始めるきっかけから、その後の展開について書かれた本である。この本を読んで驚かされたのは、たとえば書籍の大手取次店である日販には月に7万点もの絶版本への注文があるということである。また、ドストエフスキーのいくつかの著作をはじめとする有名な本が数多く絶版になっているという事実にも驚かされた。
 この本を読んでいて、ふと「たたかいは・・・」もこのシステムにのせて復刊させてみてはどうかと気づいた。100票集まれば復刊ドットコムという会社が新潮社か筑摩書房に働きかけてくれるわけである。それで復刻が実現すれば、スペース96は書店としてそれを販売させてもらえればいいわけである。こりゃ、リスクがなくていい。そう思ったら、もう呼びかけの文章を書いていた。
 復刊ドットコムで復刊よびかけの登録の手続きをメールのやりとりで済ますと(すぐに終了する)、いつも目をとおしている障害者関係のメーリングリストやスペース96のメルマガなどに投票を呼びかける文章を流させていただいた。またweb上で中新井邦夫あるいは「たたかいは・・・」などという単語で検索をかけ、それらの言葉でヒットする方々には、面識もないのに、失礼をかえりみず投票を呼びかける文章を送信したりもした。勢い余って送信した先のひとりが、偶然にも中新井先生の娘さんだったりして、とんでもない恥もかいたりしたのだが・・・(野村寿子様、本当に失礼いたしました)
 そして、驚いたことに、なんと一晩で100票をこえる投票が集まってしまった。200656日、ゴールデンウィーク中のことであった。(最終的には、復刊が実現する時点までに177票の投票がありました。投票していただいた方々に感謝いたします)

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 この時点では、私は著者の向井承子さんにも中新井夫人にも何の連絡もとっていなかった。しかし、web上で復刊に対する投票の呼びかけを行ったため、すぐに、関係者をつうじて著者や中新井夫人にも伝わるところとなった(間をとりもってくださった山本淳子さんありがとうございました)。そして、6月に札幌で開催された発達障害学会に中新井夫人が参加し、このとき札幌におられた向井承子さんとお会いすることとなっているところへ、同学会で書籍販売をしている私が飛び入り参加させていただくことになったのである。著者の向井さんと中新井夫人は年齢も近いことがあり、本書の刊行後も深い親交があったのである。私は、ともあれ、こんな話しに火をつけてしまった者として、とりあえずはご報告をということとなったわけである。
 向井さんの案内で札幌の藻岩山にあるラ・コリネッタhttp://www.la-collinetta.co.jp/という素敵なイタリア料理のレストランで会食して楽しい時間を過ごさせていただいた。関係ない話であるが、このレストランは本当にすばらしい。その素晴らしさは、東京から飛行機にのって行くくらいの価値があるともいえるくらいである(若くて、美しくて、静かな女性と二人で行けばさらにすばらしかったかもしれない。失礼)
 この時点では私もよく理解していなかったのだが、向井さんによると、新潮社から筑摩書房に移管されたのは文庫本についての版権だけとのことであった。また、この本の中身についてはテレビドラマ化の話もあったそうで、新潮社としては、そういうときに得られる利益を見越して、単行本の版権までは譲渡していなかったのではないかとのことである。ただ、そのドラマ化の話しは配役まで決まっていながら見送られてしまったとのことである。どうやらその理由は、法の枠組みをこえた事業をしていることを知られるのを東大阪市が望まなかったということにあるとのこと。
 実は、復刊ドットコムというのは、復刊を希望する投票が100票をこえれば出版社と交渉してくれるというシステムにはなっているものの、それは必ずしも約束事ではなく、当然にも優先順位もあり、この時点までに、復刊ドットコムが出版社に対して何か働きかけをしているということがないことは、向井さん自身による出版社に対する問合せでわかっていた。向井さん経由で、新潮社は絶版、筑摩書房も事実上絶版となっており、筑摩書房からは「文庫本だと相当部数の売上が見こめないと復刊できない」「復刊ドットコムさんは100票程度では交渉にきませんよ」との話しも伝わってきていた。つまり、一晩にして100票をこえる投票が集まったものの復刊そのものについては何の目処もたっていなかったのである。
 会話のおよそ90%はおふたりによって占められ(90%はおおげさでした。本当は95%くらいでした!)、私はただかたわらで相槌をうつだけであったのだが、その話しの合間に、スペース96のことが話題になり、事業の一部として出版も行っているという話しにふれた途端、そのことを知らなかった向井さんが、私をキッとみつめ「あらっ、そんなら話しはもう決まったようなものじゃない」というのである。つまり、スペース96で出版すればいいというのである。
 私は、この本の復刊については、とにかく傍観者、第三者、高みの見物、対岸の火事(ちょっと意味が違いますね)と決めこんでいたのに、突然、出版そのものをひきうけざるをえないという状況においこまれ、ただ狼狽するばかりであった。スペース96のような零細な書店兼出版社は大手出版社の二代目ボンボン社長の道楽とでもいう感じで本を出すわけにはいかないのである。web上で投票を呼びかける際にも「この呼びかけはスペース96の事業とは無関係におこなっている」と断っていたことも気にかかるところであった。
 しかし、まあ、流れというものは恐ろしいもので、スペース96が出版するという話しになりかけると、もう、周囲も「やるっきゃないじゃない」などと、お金は出さなくても口だけは出すというあふれる友情の持ち主たちからの励ましの声がひっきりなしで、ついに自分のところで出版するということにあいなってしまったわけである。復刻するといったって、大手出版社の本を出すなどといったら、ベラボーな版権のような料金を支払わされるのではないか、そんなことをすると高い本になって売れないのではないか、自分が感動したからといって、今どき出して本当に売れるのかなどと内心の心配はつのるばかりである。
 ところが、いろいろと紆余曲折はあったものの、最終的にはエイヤッとばかりにダメモトで問い合わせてみると、案ずるより産むが易し、復刻そのものにはあまり大きな問題もなく、お金もかからないことがわかった。新潮社も筑摩書房も、同社から刊行したものと「そっくりそのまま」という形の本でない限り、絶版にしてしまった本の場合、同一の内容の本を出版しても版権や印税のようなものを支払う必要はいっさいないということであった。ただし、かつて出された本そのものを写真撮りやスキャナ撮りして「そっくりそのまま」出すという場合は、「その本がなければできなかった」という理由で版面料(はんめんりょう)というのを支払っていただきたいというのである。ところがこの版面料というものは、著作権料ほど法的に確立されたものではないらしく、いくら支払うかということについての定説はほとんどないようなのである。電話口に出る人によって「このあいだの出版社は2%支払った」とか「1%でもいいんじゃないですか」などとバラバラの見解なのである。最終的には、新潮社に定価×印刷部数×1%を支払うということで落着した。
 また、本書の表紙のデザインをされている菊地信義さんは現在の日本の装丁家としては三本指にはいる方で(表紙の装丁に関する著書も多数あるので興味のある方はそちらをご覧になっていただきたい)、スペース96にとっては雲上人ともいえる存在である。復刻の了解を新潮社や筑摩書房からとりつける以上に、表紙をそのまま使わせていただくことについて菊地さんのご了解を得ることは難しいのではないかと予想された。しかし、著者の向井さんから働きかけていただいたところ、菊地さんにも表紙を当時のままで復刻して使わせていただくことについて、快く同意していただけた。それも、こちらとしては****円(あえて伏せ字。単位は銭)までは支払う用意があったにもかかわらず、なんと無料である
(菊地さん、ありがとうございます)

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 ついにスペース96として刊行することが正式に決まった後に問題となったのは解説の執筆者であった。当初は、大江健三郎とか柳田邦男など著名人の名前もあがった。しかし、これらの方々は、本書を復刻することの意味について、障害児者福祉の現場との関連で書くことは難しいのではないかという理由で候補からは取り下げられた(ギャラの問題もあったかな)。そこで私が思いついたのは、姫路市総合福祉通園センター・ルネス姫路の宮田広善所長であった。これは、私が、これまでの同氏の著作や発言などから総合的に判断したことであった。内心は、突然このような本の解説の原稿を依頼して「そんな本も知らないし、そんな医者も知らない」といわれたらどうしようかという心配で一杯であった。しかし、それが杞憂に終わったことは、宮田先生の解説をお読みいただければおわかりになると思う。(よかったあ。宮田先生、本当にありがとうございました)
 次に問題になったのは本のオビ、業界では腰巻と呼ばれる、表紙の下に巻きつけられる数センチ幅の帯状の紙に書かれる文言であった。これは、通常、出版社の宣伝・広告と理解されている(そのためアマゾンなどをはじめとするネット書店でもオビが破れていたりしてもその交換には応じてくれない。というよりは、破れたオビは通常は廃棄したうえでオビなしで本は出荷されている)。そのため、新潮社もオビの原稿についてはスペース96で決めていただきたいというのである。
 このオビの原稿として私が最初に用意したのは「障害者福祉の現場で働く者よ 本書に刮目し、慟哭し、奮起せよ」というものであった(いいでしょう?!)。しかし、またもや金は出さないが口は出すというあふれる友情の持ち主たちからの「労働組合のスローガンじゃないんだから」との一声で却下されてしまった。その次には「今から四半世紀前、国際障害者年の「完全参加と平等」というテーマが新鮮に響き渡り、ノーマライゼーションという言葉もまだ耳新しく、当事者主体などいう考えもまだ登場していない、そんな日本の障害者福祉の黎明期に、自らの死に至る病をかえりみることもなく、障害児者の地域での暮らしを支えるシステム作りをめざして、駆けぬけていったひとりの医師の壮絶な闘いの記録」となり、最終的には「障害者の地域における暮らしを支えるシステムはどうあるべきか 自らの死に至る病をかえりみることもなく、その答えを求め続けたひとりの医師の壮絶な生きざま」と、だんだんよくなる法華の太鼓、結局は無難なメッセージにおわった。

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 そもそも本書を向井承子さんが執筆するきっかけを作られたのは、本書にも登場する小松陽一さんである。先日、短時間だが、小松さんとも京都でお会いさせていただくことができた(これも山本さんのおかげで感謝しています)。そのときのお話しでは、本書の復刻をきっかけに、何かセミナーのようなものでも開催できないかというお話しであった。
 年末ぎりぎりとはなってしまったが、中新井先生が亡くなられて25年後の本年に、かつて感動をいただいたひとりの読者が復刻する側にまわるというのは想像だにしなかったことであるが、本書が、障害児者福祉の現場に関わる多くの関係者に新たな元気を与えてくれることができればと願っている。


20061228

スペース96 https://www.space96.com

店主 久保 耕造

*ご案内「店主のつぶやき」
http://www.normanet.ne.jp/~ww100136/tsubuyaki.htm



2006年10月 日本LD学会の会場で(札幌)