2009年度 第2回 「CBRと開発」研究会 報告書 -ウズベキスタンでの事例からCBRの課題を学ぶ- 主催 : JANNET(障害分野NGO連絡会) 日時 : 2009年10月11日(日)午後1時00分〜3時30分 会場 : 戸山サンライズ 2階 大会議室 目次 はじめに ・・・・2 プログラム ・・・3 会場風景 ・・・・4 講演 ・・・・・・5 「ウズベキスタンにおけるCBR導入の試み ―あるいは開発とリハビリテーションの協働の試み」 講師紹介 ・・・・41 はじめに 障害分野NGO連絡会(JANNET)は、1993年に設立された、障害分野で国際交流・協力を行っている日本の民間団体のネットワークです。情報交換と経験交流を目的として活動をしています。 年数回開催している研究会ではCBR(地域に根ざしたリハビリテーション)をテーマに取り上げてきました。その延長で、関心がコミュニティそのものへと移り、さらにコミュニティでは開発がどう行われているかを学ぶことで障害がどう組み込まれるかを考える、という方向へと進展してきました。さらに2008年にはカナダのクィーンズ大学で教科書として使用されている、『CBR』をJANNET有志で翻訳出版し、JANNETではそれに基づく勉強会を開催いたしました。 2009年度はその延長としてCBRと開発の研究会を継続し、第二回目の10月11日の研究会では、国際医療福祉大学で作業療法を教授される一方、国際開発では、ウズベキスタンにおける障害問題に携わっていらっしゃる河野 眞氏を講師にお迎えしました。旧ソヴィエト連邦の大多数の国にもれず、ウズベキスタンでは、施設型障害者支援が行われています。そういった状況の中、CBRを導入したきっかけ、実施にあたり直面した問題、今後の課題について、さまざまな事例を交えながらお話していただきました。質疑応答では、特に地域住民参加についての感想や意見が会場から活発に出され、実りのある議論が行われ、住民参加の重要性を再確認することができました。 当日の報告書が出来ましたので、ホームページにてご紹介いたします。 皆様の活動にご参考になれば幸甚でございます。 ご質問、ご意見などがありましたら事務局までお問い合わせください。 JANNET事務局 2010年3月 プログラム 【趣旨】 JANNETは昨年クィーンズ大学(カナダ)で使用されているCBRのテキストを有志で翻訳・出版(明石書店)し、それをもとに「CBRと開発」の連続勉強会を開催しました。今年も継続し、7月の研究会では、バングラデシュで長年活動を続けてきた開発NGO、シャプラニールの経験から学ぶ研究会を開催しました。 今回は、CBRに見られる様々な課題について、ウズベキスタンでのCBRに携わっている河野眞さんを講師に迎え、ウズベキスタンの事例から考えられたことを話していただいた上で、皆様と議論する研究会を開催します。今回は、例えば開発分野の専門家などの、障害分野の関係者でない人々がCBRに関わることの必要性・その関わりのあり方について議論を深めました。 なお、過去の勉強会については、JANNETの関連サイトhttp://www.normanet.ne.jp/~jannet/cbr/index.htmlでご覧いただけます。 【プログラム】 13:00−15:30 「ウズベキスタンにおけるCBR導入の試み―あるいは開発とリハビリテーションの協働の試み」 講師兼ファシリテーター:河野 眞(こうの まこと)氏 国際医療福祉大学保健医療学部 日本作業療法士協会国際部 「ウズベキスタンにおけるCBR導入の試み ―あるいは開発とリハビリテーションの協働の試み」 講師兼ファシリテーター: 国際医療福祉大学保健医療学部  日本作業療法士協会国際部 河野 眞(こうの まこと)氏 よろしくお願いします。河野です。普段は国際医療福祉大学という大学で教員をやっていまして、作業療法というリハビリテーションについて教えているというのが本業なのですが、合間にこうして国際協力関係の活動をやっています。ウズベキスタンの話は、ワールド・ビジョンさんからお話があって、短期の専門家としてプロジェクトに関わりだしたのが去年の7月。その前にJICAに申請する段階からお話を聞いていたので、その前くらいからここ2〜3年、一緒に仕事をさせていただいています。今日はその話をいたします。 今日は全体で40名を超え、定員を超える方にお越しいただいて、発表する方として緊張しているんですけれども、ましてとてもいい天気で、しかも連休の中日に、果たして聞きにくるほどの価値のある話ができるのかなと思ってドキドキしていますが、よろしくお願いします。あと一点、今、風邪っぽくて、新型インフルではないのですが、大学の1〜2年生と一緒に去年1年間に生まれた赤ちゃんの発達ぶりを2週間ごとに撮影しているのです。その赤ちゃんがこの水曜日に撮影をしたときに風邪を引いていまして、その風邪を見事にもらったようで、途中で咳き込んだり、声が出なくなるかもしれませんが、お聞き苦しい点はお許しいただければと思います。 今回の参加者を見てみると、紹介しておいた方がいいのは、ワールド・ビジョンの今西さん。このプロジェクトを実際にやられているワールド・ビジョンの方です。最後に質疑応答の時間をとりますが、もしかすると私ではなく今西さんに答えてもらった方がいいことがあるかもしれません。そのときはお力添えをよろしくお願いします。 あとは何点か既に質問をいただいている方がいらっしゃいます。青年海外協力隊でウズベキスタンに派遣されるのですね。JICAが機材を去年、大量に供与すると聞きました。頑張ってください。いろいろありそうな気がしますが。私の話がどこまで参考になるかはわからないんですが、大分、医療リハとは違う話になってしまいますが、参考になれば幸いです。 あと、質問をいただいている方は。精神科のリハビリテーションにご関心をお持ちのようですが、精神科の話は今日は多分ほとんどできないと思うのですけど、CBRでどういうことをやっているかというのが参考になればと思います。あと、アサーティブ・コミュニティ・トリートメントというのがあります。包括的な地域の中で精神障害の人を見ていくというシステムではあるのですが、あれはあくまでもサービス供給をどういうふうにするかという話が中心になっているので、多分、コミュニティ・ベースド・リハビリテーションと重なるところと重ならないところがあるのだろうと思います。その辺を今日の話で何となくわかっていただければありがたいかなと思います。 では、本題の方に入らせていただきます。 プロジェクトの背景・経緯 ウズベキスタンにおける「CBR導入の試み―あるいは開発とリハビリテーションの協働の試み」のようなタイトルをつけさせていただきました(スライド1)。 このプロジェクト自体は、先ほども言いましたように去年始まったばかりで、コミュニティ・ベースド・リハビリテーションの考え方にのっとったプロジェクトではあるのですが、本当に導入の部分、始まったばかりです。まだ1年も経っていないです。 なので、成果と言っても、たいしたことはないのですけど、少なくともCBRを始めていくポイントからお話ができるという点は、せめてもの強みかなと思います。あと、基本的にはワールド・ビジョンという開発系と言っていいのか、そういうNGOが主体となっているところに、私のようなリハビリテーションの専門職がどういうふうに協力できて、どういうふうにともに働けていくか、働けていないのかわからないのですが、そういうお話ができればなと思っています。 早速、「はじめに」ということで、そもそもどういう事業なのかというのは、さっきから大分お話をしていますけれども、実施者はワールド・ビジョン・ジャパンがJICAに申請して、JICAからの委託ということでやっている事業です(スライド2)。JICA草の根技術協力事業で、事業名自体は、タシケント市における地域に根ざした障害者支援事業ということで、タイトルだけでもわかるように、思い切りコミュニティ・ベースド・リハビリテーションを高らかにうたったプロジェクトなのかなと思います。事業期間としては2年間で、自分の感覚としては短いなというところはありますけれども、この範囲でこのプロジェクトを行っています。 ワールド・ビジョン全体としてはウズベキスタンで活動する歴史はありますが、この中で、地域に根ざした障害者支援事業というのは本当に去年始めたばかりで、去年の事業が始まった段階で情報を収集したり、地域で働く人を探したりということをやっているので、本当に始まりのところで、始まって1年経ったばかりです。その辺を一応、心にとめておいていただければと思います。 CBR-障害分野における地域開発 次のスライドですが(スライド3)、最初に、CBRとよく言いますが、このウズベキスタンの活動の中で自分たちが、私とか現地にいる日本人スタッフ、あとCBR担当の現地のスタッフの中で考えているCBRの枠組みというか、有り様を明らかにした上でお話しした方がいいかなと思うので、この辺を最初に述べておこうと思います。 日本語で訳すとCBRって、地域に根ざしたリハビリテーションですし、英語でもコミュニティ・ベースド・リハビリテーションなので、リハビリテーションというのが割合としては大きく出てきますが、あまりこのリハビリテーションの部分を引っ張れない。どちらかというと、障害分野における地域開発というところでやっていけるといいなと、我々は考えていました。 どういうことかというと、リハビリテーション自体は我々リハビリテーションの専門家にとってみると、すごく広くもとれる概念で、決して医学的リハビリテーションに限られるものではないのですが、しばしば、地域の中でリハビリテーションというところが重くなると、どうしても、「医学的リハビリテーションをどうやって地域の中でできるようにしていくか」という話になりがちですが、そういうふうにしたくないというか。そういうふうになると、なかなか先が続かなかったりするのではないかと我々は考えている。なるべくリハビリテーションに引っ張られないことをやりたいなと思っていました。今もそう思っています。 中でもサービス提供型活動のウエイトをなるべく小さくしたい。サービス提供型の活動というのは何かというと、訪問にしてもアウトリーチ型にしても、どこかに来てもらうにしても、リハビリテーションのサービスを地域の中でどういうふうに提供していくかという活動のウエイトはあまり大きくないようにしたいと思いました。なぜかというと、お金がかかったり、持続性が難しくなったりするのではないかと思いました。サービスを提供しようと思うとサービスを提供する人というのが必要です。その人をどうやって雇うかという話がありますし、その活動の場にどこから持ってこようかという話が出てきますよね。そうすると当然、その人を養成しよう、雇用しようと思うと、そこにお金がかかります。活動のためのお金というのは当然かかってきます。全体的にお金の規模も大きくなるのと、それに伴って多分、活動の持続性がそこの部分で怪しくなることがあるかなと思っています。なるべくサービス提供型の活動は小さくして、地域の中で障害を持った人たちが暮らしやすくなるには、地域の人たちにどんなことをしてもらえばいいかなということで考えていきたいなと思っていました。 サービス提供型の活動は悪いというわけではないのです。多分、サービス提供型の活動を強くしていくには、別のメソッドが必要で、多分、専門職の養成とか、その専門職をこの国でどう使っていくかというシステムづくりみたいなものに力をこめないと、なかなかサービス提供型の活動というのは根づいていかないのではないかと思います。 もう一点、これは自分への戒めがかなりあるのですが、私はリハビリテーションの専門家なのですが、専門家に自由にやらせると、ろくなことがないと思うのですよね。自分で言うのもなんですけど。でも、限定的に使えば役に立つ。それは決してリハビリテーションの専門家に限らないですけど。抽象的に言うと、専門家というのは、自分もそうなのですが、どうしても高い山を築こうとする。深い穴を掘ろうとする。より専門性のあるところにいく。本能ではないですけど、そういうふうに考えるところがある。それって地域の中であまりそぐわないのですね。地域の人たちで何か地域の障害者の人たちの生活を支援していこうというときに、あまり専門性の細かいところを言われても、ついていかれなくなるのです。だからどこか中庸のところで、でも意味のあるところで止めないといけないです。専門家が自由にやると、どうもそのドライブがかかって、えらい専門的になりがちというふうに、私は思っています。自分が関与するときに、あまり自由にしない。自分が役立ちそうなところで、しかも一般の人たちにもわかってもらえる範囲で、限定的に、かなり自制的に活動に加わろうと思っていたのですけど、実際どうだったかはわからないですが。 リハビリテーション専門職の必要度は3分の1 次のスライド (スライド4) ですが、「CBRを考える枠組み」というところで、まるっきり私が考えて勝手に整理した資料なので何の根拠もないですけれども、CBRを構成する活動としてはどんなものがあって、それぞれについてリハの専門職がどのくらい必要か。必要というレベルと、いれば役に立つというレベルと、全然必要ではないレベルがあると思っています。それを分類してみたのがこの表です。 CBRを考えるときに、大きく分けると多分この二つはある。地域や地域の住民を対象とする活動と、個々の障害児や障害のある人とかそのご家族を対象とする活動。マクロな活動とミクロな活動と理解していただいてもいいかもしれないですが。 その中でさらに中分類として、地域を対象とする活動としたら地域住民の啓発とか、障害教育とかという啓発関連があって、あとは地域の中で障害のある人の生活に資するような組織を立ち上げたい、あるいは地域の中の活動、運動みたいなものを立ち上げたい、運営していきたいという活動。あと、地域内でいろんな組織や団体があります。小学校とか中学校とか病院とか、既にある制度とか組織、こういうものとの調整をする活動というのが、地域に関する活動かなと思っています。 要は、大分類1の方は専門家はいてもいなくてもいいか、いなくてもできる。啓発活動なども、恐らく専門家は、障害に関する専門的な情報とかインプットをしたり、あるいは何かのイベントのときには、障害に関するレクチャーや情報を提供したりという形で関われる。いれば役に立つかな、というぐらいですけれど。その後の、「地域の人たちを組織化する」「地域の中で運動を立ち上げる」あるいは「地域の中のいろいろな組織、機関の連携をとる」、といった活動は、別に専門家はいなくてもいいんですよね。リハの専門家がいなくても、気が利いた人がいれば十分にできる活動だろうなと思います。 大分類の2番、個々の障害のあるお子さんとか障害のある方、あるいはその家族を対象とした活動には、リハビリテーションの専門家が必要かなと思いますが、この中の一つ目、地域の中にいる障害のある人たちを発見するというのが、途上国の地域リハに限らず、障害者の支援の活動では重要なステップになりますが、そこの部分は、障害の専門家がいればそれに越したことはないのですが、いないならいないで、ある程度情報は集まるというレベルの活動かと思います。 二つ目、対象者の評価。障害を持った人に実際どういうサービスを提供するかというときに、対象者の状態やニーズを評価する、支援プランを立案する部分については、専門家はいた方がいいのかなと私は思いました。あと、直接的な支援、必要な情報、活動、環境的な調整や機器とか、そういうものを、実際に、直接に提供するという場合も、専門家はいた方がいいですね。 もう一つ、支援に関しては直接的だけではなくて、間接的に必要な情報を提供してあげる。例えば病院とかリハビリテーションの機関を紹介してあげるとか、リファーしてあげるとか、あるいは必要な機器を作れるところを紹介してあげるとか。そういうところについては、リハビリテーションの専門家がいればそれはそれで役に立つんでしょうけど、いないならいないで、ある程度は機能する活動かなと思います。 そんな感じで全体を見ていくと、本当にこれでカバーできているかわかりませんが、カバーできているとして、リハビリテーションの専門家が必要な活動というのは3分の1くらいです。あとは同じぐらいの割合で、いたら役に立つというくらいの活動。いなくてもできるという活動が3分の1くらいある。全体としてコミュニティ・ベースド・リハビリテーションの中でリハの専門職、いれば役に立つし必要な部分もありますが、全体にリハビリテーションの専門職がコントロールしていかなければならないものではない。そういうふうに思いつつ、このプロジェクトに関わっています。 考えてみれば、私、今年43で、特定健康診断というのを受けなければいけないんです。メタボの。私、見てのとおりガリ細なので、全然メタボには関係ないのですが、ただ問診票みたいなものがあって、40以上の人は受けないといけないのでしょうけれど、お酒の量、タバコの量、それから一日の運動の習慣とかを問われて。それで運動習慣がないとか、お酒が多いとかがわかると、お医者さんに運動しろ、運動する習慣を身につけろということを言われるんです。一応、「はい」と言って、でもそのとおりにしないですけどね。でも、もし私が常に医者がつきまとわれていて、今日は運動が足りないから運動しろ、とずっとやられていたら、ちょっと私の生活、ままならないというか、すごい不自由ですよね。コミュニティ・ベースド・リハビリテーションも多分、障害のある人の生活全般に関わることですけれど、その中で、例えばリハビリテーションの専門職、医療の専門職が、あなたはこういうふうにしないとこの後、機能に影響を及ぼすかもしれないみたいなことを、ずっと脇で言われると、すごく不自由な感じになると思う。そういう意味もあって、リハの専門職というのは、生活には限定した関わり方であった方がいいのではと思っています。 そういうのも含めて、コミュニティ・ベースド・リハビリテーションは、専門職は自制しながら関わらないといけないのだろうなと、自分では思っています。同意されるかどうかはわかりませんが。 Team Uzbek 次のスライドにいきます(スライド5)。 この辺からウズベキスタンで実際にやっている活動の話に移ります。先程から言っていますように、私一人で関わっているのではなくて。というか、どちらかというと私は短期の専門家なので、関わっている時間は短くて、メインで関わっている人たちがいます。この人たちが本当はここでお話しできれば一番いいのですが、何しろ現地にいるので、日本人の駐在員がこのタイミングで帰ってきてくれたら一緒に話ができるかなと思ったのですが、タイミングも合わず、私がお話ししています。一応、きちんと現地でやっているという人がいるということを知っておいていただくといいだろうなと思います。 一人は、こちらのミルジャホン君という、30歳で二児の父です。典型的なウズベク人だと思います。ウズベクの伝統とかウズベクの地域の中の習慣みたいなものをすごく大事にしています。言ってしまっていいのかわかりませんが、ウズベキスタンはかなりの人がムスリム、イスラム教徒で、ラマダンになると一応やっている人もいますが、彼も去年辺りはラマダンをやっていましたが、ボロボロですね。今日は朝、口を閉じる儀式を忘れたからまだ食べてもいいやと言って食べたり。ラマダンは本当も病人はしなくていいんですが、調子が悪くて風邪薬を飲んじゃったから今日はいいやと言って食べたり。そういうメタメタの風習への従い方ですけれども、今年は比較的まじめにやったかな。そういうところも含めて典型的なウズベク人だと思います。この事業で雇用される前は別の事業でウズベキスタンの農村開発みたいなことをやっていて、開発畑でずっとやってきていて、今後もやっていくんだろうなという職員です。 向こうの人はワールド・ビジョン・ジャパンの職員、今西さんもよくご存じで、田中久美子という人です。29歳、独身で日本人として典型的かどうかはよくわからないですが。ワールド・ビジョンに入職する前は、青少年活動とか社会的弱者の支援とかをやられていた。なので、彼女も開発系といえば開発系の経歴をたどっている人だと思います。 ウズベキスタンの事業自体は彼ら2人がメインでやっていて、それを私が定期的に行って手伝っていますが、それだけではなくて、次のスライドですが(スライド 6)、彼らがメインでやっているところをリハビリテーションの専門家として河野が、ほぼ2ヶ月に1回くらい、去年の7月からでこの9月に行くので8回目くらい、1〜2週間くらいずつ行っています。APCD=アジア太平洋障害者センターが当事者の分野になるのだと思いますが、2年に1回、向こうで当事者活動の関係のことをやってくれています。あと自立支援センター。中西由起子さんのところが年に1回行って、向こうの当事者の人に啓発をするような活動をやっています。なのでプロジェクト全体としてはいろいろな人間が関わっているわけです。 私自身は自分が関わっている分しかわからないので、今日の発表を聞くときに重々注意してもらいたいのは、これが全貌ではない可能性がすごくある。あと、自分で話しているので、自分の話はいい話になっている可能性がすごくあります。「何かいいことを言っているけれども、マイナスして聞いた方がいいのではないか」と思ってもらえるといいかと思います。 ウズベキスタン共和国 次のスライドになります(次頁、スライド 7)。 ウズベキスタン共和国の説明を少ししておきます。ずっとソビエト連邦の中の国であったことはご存じですよね。1991年に独立しましたが、独立したと言っても大統領が元ソビエト時代の共産党のウズベキスタン共和国の第一書記だった人で、その人がずっと今も大統領をやっているので、すごくソビエトのカラーが強い、独裁的なにおいが強い、というふうに私は感じています。 医療事情は、平均寿命が66歳くらいなのでそんなに悪くはない。医師の数は多い。旧ソ連圏はどこもそうなのですが、医者の数は絶対多いです。人口10万人当たりの医師数274人というのは日本より多いくらいです。ただ、レベルはどうかと言うと何とも言えなくて、私が向こうで経験した例では、脳性マヒのお子さんがいるお母さんが一般のお医者さんのところに行って、どういうふうにしたらいいだろうかという相談をしたら、子どもに食事を与えるなと。 食事を与えないでお腹がペコペコになったところで、食事を少し離れたところに置けと。そうすると自分で這っていこうとするだろうから、それがトレーニングになるのだということを言われたと。「それは本当ですか?」と聞かれますが、本当のわけがないですよね。「そういうことは多分ないと思うよ」と言って正しいことを説明するのですけれど、そういうレベルです。あと別の例で、先天性骨形成不全の男の子で、骨折して整復しますよね。それがきちんとくっついていない。見事にずれた状態でくっついている。結局また切り離さないといけない。そういう例はよく見ました。医者のレベルはどの程度なのかというのは、何とも言えないです。 この事業自体はタシケント市という首都で行われています。首都はそれなりに発展しているところです。人口も200万人以上いる大都市です。世界中のどこでも同じ大都会という感じだと思います。 タシケント市民の自慢がありまして、中央アジアで唯一地下鉄があるんです。ソビエト時代に何ヶ所か、モスクワとグルジアの首都とここともう一ヶ所くらい、地下鉄が作られましたが、その中の一つということで、それが市民の自慢です。ソビエト時代には中央アジアの中の雄というか、いい国として重視された国なのだと思います。 草の根活動の鍵を握るマハラ―中央アジアの伝統的地域共同体 ウズベキスタン関係の基本的な情報として一つお伝えしておかないといけないのは、マハラというものの存在です(スライド8)。マハラというのは、中央アジアの伝統的な地域の共同体です。日本で言うと、完全に対応するわけではないですが、田舎の町内会や自治会をすごく強力にした組織かなと思います。もともとの政府の地方行政の中には位置づけられてはいません。ただウズベキスタンが独立してから、昔あったマハラという仕組みを見直して、そのマハラに以前のソビエト時代より力を与えて、マハラのレベルで地域住民を管理、統治していこうという方向性があるらしくて、今、比較的マハラが力を持ってきているみたいです。 マハラの組織としては、「オクソコル=長老」と言われる人がいて、その人がマハラのトップ。マハラの中のことを取り仕切る感じです。ナンバー2として「アドバイザー」がいます。そのほかに「マハラ委員会」というものがあって、その委員会で長老を中心にマハラ内を管理・運営していく仕組みになっています。意外と民主的に見えるのは、オクソコルとアドバイザーは選挙で選ばれます。ただ、選挙には政府の息がかなりかかっているので、政府がその人を推薦するかどうかで大分、様相は違うみたいです。一応、選挙で選ばれることになっています。だから選挙前になるとオクソコルたちは選挙を意識して活動をし始めるということはあります。 マハラの役割というか活動というのはすごく広範囲に行われていて、地域内の共同作業のとり仕切り。例えばマハラ内の清掃をしたり、ウズベキスタンの場合、国で所有している農場があって、そこで綿花などを栽培したりしていますが、その収穫の際には、各マハラが人を動員しないといけません。収穫量によってマハラが表彰されたりする。地域が課せられている共同作業のとり仕切りをやる。あと、一挙に個人レベルの話になりますが、夫婦の離婚の調停までやるのです。だから、マハラ内の住民のことをオクソコルやマハラ委員会はかなり把握していて、夫婦関係が悪い家があったりすると、そこに乗り込んでいって、実際どちらに問題があるかまで調べて、離婚した方がいいとか、離婚せずに仲よく暮らせというような調停までやる。そういう強力な地域共同体です。 つまり何が言いたいかというと、このマハラを利用することが多分、ウズベキスタンの中で地域に根ざしたリハビリテーションをやっていく上では重要というか、マハラをうまく利用できると地域に根ざした活動ができる。マハラの協力を得られないとなかなかうまくいかない。この活動のキーみたいな存在です。 実際にこのプロジェクト自体はタシケント市内で5個のマハラを選んで。タシケント市内にマハラは幾つあるのでしょうね。ディストリクトに11あって、各ディストリクトに10〜50くらいマハラがあると思います。まあ200くらいのマハラがありますが、その中から5つだけ選んで、そこをモデル地域として活動しています。なので、それぞれのモデル地域では各マハラのオクソコル、アドバイザー、マハラ委員会が、この活動のカウンターパートといった感じになっている、そういう存在です。 これは中央アジアにはどこでもあるらしいですが、マハラがまだ力を持っているか持っていないかというのは、国によってまちまちのようです。 政府による施設型障害者支援 まだまだ前段階の話を続けますが、ウズベキスタンの障害事情というか、障害のある人たちの支援の事情が次のスライドです(スライド9)。 まず政府レベルの話をしますと、基本的に旧ソ連圏ではどこでも、施設処遇が中心です。障害のあるお子さん、障害のある人がいたら施設に入所していただいて、施設でずっと面倒を見ていくという方針になっているみたいです。これはウズベキスタンに限らず、タジキスタンや他の中央アジアの国でもそうなので、多分ソビエト時代の影響が強いのでしょうかね。私はソビエトのことを詳しくないので何とも言えませんが。あと、国の制度として障害の程度別の分類のようなものがあるみたいです。重症度によって。カテゴリ1から3まであって、あと年金も若干出るみたいです。 あと、ウズベキスタンに特徴的かと思うことは、重度障害者の労働は禁止されています。これは禁止です。「やらなくていい」ということではなくて「禁止」。なぜかというと、そんな重度の障害があるのに労働をさせるなんてかわいそうではないかということだと地元の人たちは言っていました。そうなのかもしれませんが、もしかすると、この辺もソビエト時代の影響が色濃く残っているのかなという気がしなくはないです。 障害児の入所施設と、中のお子さんの様子の写真を出しておきました。外観自体は立派です。これはタシケント市内の障害児入所施設です。中は知的障害がメインの棟と、身体障害がメインの棟に分かれていますが、身体障害のあるお子さんがメインの棟は、こうやってベッドがずらっと並んでいる。この会場より一回り小さいくらいの部屋にベッドがバーッと並んでいて、そこに子どもがザーッと寝ている。頭なんかは丸坊主にされている子が多かったりします。そういう状況です。 タシケント市内には施設が2つ、合わせて700床なので、人口の中にいるであろう障害児の比率と比べると、すごく少ないのがわかりますね。当然、地域には障害のあるお子さんがいっぱいいるわけですけれども、その人たちに対する政府からの公的な支援というものはなかなかない、年金があるぐらいという状況です。 2つともは行ってないのですが、この写真の方、PTのような役割の人が1人いました。運動機能学っぽいことを大学で学んだとか言っていましたが、PTではありませんでした。その人が1人で、しかも常勤ではなくて週何日か来るという程度の関わりで、基本的には介護職員が、やるとしたら理学療法っぽい活動を子どもたちに提供をしている感じかなと思いますが、通常、子どもたちはほとんど寝かされきりで、関節の拘縮もすごく進んでいます。関節が固くなってくるのですね。 清潔ではあり、栄養自体もそんなに悪くはなく、ケアのワーカーさんたちはそれなりに仕事をしてくれているとは思いますが、風景としては、やはりこういうところにバーッと寝かされているわけですから、何かぞっとします。それぞれのお子さんたちの扱いも寝かせきりなので、あまり気持ちのいいものではないです。ウズベキスタンの人たちも、この施設の状況をほとんど見たことはありません。たまにウズベキスタンの人たちを連れていってみると、たいてい女の人は泣きます、その場で。泣くか、その日は家に帰って眠れなかったと言っていました。そういう結構ショッキングな状況ですね、一般の人から見ると。 障害児の施設は18歳までですが、18歳になると自動的に障害者の施設に送られて、一度入所するとほぼ一生、そこで一生暮らすという仕組みになっているようです。なので、一回入るとなかなか出にくい。ワールド・ビジョンがこの障害児の施設に入所しているお子さんを地域に帰そうという活動をやっていて、少数ですが地域に帰るお子さんもいますが、それは本当に限られたお子さんです。 リハビリテーション分野事情 リハビリテーションの話をもう一つしますと、専門職はOT、PTは養成されていないと思います(次頁、スライド10)。詳しく調べたわけではありませんが、向こうのリハビリ関係、障害支援関係の専門家に聞くと、「いやOT、PTは養成していないし、いないと思う」みたいなことを言います。多分いないですね。でも、多分これはソ連時代の影響なのですが、ディフェクトロジーという学問というか、障害者を支援する技術みたいなものはある。私は向こうでディフェクトロジーを教えている教授にインタビューして話を聞きました。 ディフェクトロジー自体は、日本語で言うと「欠陥学」とか、そういう感じのものですけれども、内容は、その教授に聞くと、スピーチセラピー、言語療法と特殊教育を合わせたような感じで、中でも言語の教育のウエイトが大きいのかなと思いました。それが合っているのかどうかわかりませんが。いろんな道具を口の中に突っ込み、きちんと発音できるようにする、そういうデバイスがいっぱいある。言語面でのアプローチはすごくあるのかなと思いましたけれども、その教室では例えばダウン症の子とかもやっていますが、果たしてどのくらい意味があるのかなと思いながら話を聞きました。あと、ソーシャルワーカーは一応います。それなりの数。あと、心理の専門職も結構いました。 リハビリ関係では車いすの製造所がタシケント市内には2ヶ所あって、上の写真は車いすですが、そういう車いすを大量に生産していました。パッと見、それなりのものに見えますが、このサイズのこの形しかないので、なかなか使いにくい。ひたすらこの形のこの大きさのものを大量に作っているというだけでした、そこの製造所は。他のところも、型は違っても多分同じものを作っている。 それ以外に、障害のあるお子さんの親や当事者の方が運営されている小さな組織がときどきあって、それが市内のところどころに作業所みたいなものや通園施設みたいなものを運営していました。市内に点在しており、数はそれなりにありますが、知られていません。知っている人は知っているけれど、広くは知られていないという状況で、できている、できていないというのが結構あるのかなというのと、各作業所と都市間の連携はあまりないという印象です。 人々の障害観 さらにウズベキスタンの障害のある方を取り巻く状況。次のスライドになります(スライド11)。 一般の人々はどういうふうに障害をとらえているかという話で、もちろん日本でもこういうふうに障害がとられているかというのは言いにくいんですけど、幾つか向こうで典型的かなと思う、一般の人の言葉を経験したのでそれを紹介します。 例えばこの写真の人、障害のあるお子さんを持ったお母さんが言われたのですが、障害のある子どもがいることは一族の恥であると。一家というより一族の恥だと。だからこの子を外に出すなと。他の人に、うちに障害のある子どもがいると思われたら困るということを、夫の家族、弟たちにいろいろ言われて。だからこの子を外に出そうと思ったことはないということを言われました。 みんながみんなそうではありませんが、ウズベキスタンの風習として、結婚は個人と個人の結婚というよりは、家族と家族の結婚というか、親が結婚相手を探してきて結婚させるという仕組みが強いので、家族の中に、例えば障害のあるお子さんがいるとなると、それは家族に何かあるのではと思われて、他の一族もろとも結婚相手が見つかりにくくなることがあると言います。ここまで強くみんなが言うわけではないけれど、ただ、これは障害をすごくネガティブにとらえている例で、とてもよくない面だなと思います。 もう一つ別の例として、あるマハラのアドバイザーと一緒に、障害のあるお子さんの家を訪問したときに、そのアドバイザーが言った言葉があります。その家は、自閉症で知的な障害もあるお子さんがいて、お父さんはアル中っぽいなと思ったのですけど、仕事がなくて、すごく貧しい家で、我々も、すごいとびっくりするくらいの貧しい家だったのです。そのマハラのアドバイザーもその生活状況にびっくりしたぐらいです。アドバイザーは「なぜこの子を施設に入れないのか」と。施設に捨てろということではないのです。あくまでもマハラのアドバイザーとして、よい感情、慈善的な、チャリティー的な気持ちとしてこういうことを言います。なぜそういうふうに言うのかと聞くと、施設に行けば専門的な技術もあるし、専門的にこういう子の面倒を見ることができるのだから、こういう子は家にいて専門性のない世話を受けるよりは、専門的なサービスを提供できる施設に入った方がいいに決まってるじゃないかみたいなことを言われるんです。ああ、そういうふうにとらえるのかと思ったことがあります。 さっきの重度障害者が働くのを禁止するということに対する説明も、似た感じのものです。慈善から来ていると言えば言えなくもないのかなと思います。働かせるのはかわいそうではないかと。専門的なところに入れておかないとかわいそうではないかと。そういう発想がそういう発言に変わっていく場合もあったりします。 外出できない障害者 当然、障害のあるお子さんや障害のある人は、施設の定数は少ないので地域にいっぱいいますが、地域にいる人たちはなかなか外に出られない状況にあります。次のスライドですが、こんな人がいっぱいいます(スライド12)。 上の方の写真は女の子で、私とまるで恋人同士のように手と手をとって見つめ合っていますけれども、この日は初対面で、特にどうっていうことでもなかったのですが。脳性マヒで、運動障害はそんなに重くはないのですが、知的な障害が結構重くて、なかなか自分でセルフケアや移動ができない。彼女のセリフのように書いてありますけれども、実際彼女がこんなことを言ったわけではありませんが、2年間一歩も外に出ていないとお母さんが言っていました。もっとかわいらしい頃はお母さんが抱けたので、そのときは外に行くのが好きだったのだけれども、2年間一歩も外に出ていなくて、病院にも行かれないと言っていました。 下の写真の男の人は23歳でゾキルという人で、彼は身体障害、原因はわからないですね。四肢のかなり重い障害がある方で、彼の場合は、彼の住むマハラの中に他の当事者の人がやっている作業所があったのですが、そこで彼は木彫をやっていて、その当時の作品を見せてもらいましたけれども、ほとんど普通の職人さんの、普通に市販されているものを作れている。これは後で見て欲しいのですが、ここに絵が描いてあります。この絵自体は彼が最近描いた絵をそのままプリントさせてもらいましたが、かなり精巧な絵を描けるのです。そこの木工房が閉鎖されてしまって、行けなくなって、家にずっといたのですが、関節の拘縮が進んで、我々が見たときには木彫自体もできなくなっていました。かろうじてペンを持って絵を描くことはできるけれど、木を彫るということは難しいという状況でした。彼自身は敬虔なイスラム教徒で、ラマダンもきちんとやっていて、実はモスクに礼拝に行きたいのだけれど、面倒を見てくれるのがお母さんで、お母さんもそれなりに高齢なので連れていって欲しいとはなかなか言いにくい。他の人がじろじろ見るのが嫌だしということで、行きたいけれどなかなか行けないんだよねという話をされていました。いつか彼をモスクに連れていくというのが我々にとっては目的でもあるのですけれども。 そういう状況で、ある時期、何かラッキーなことがあって、外に出て行かれた人もいるのだけれど、いったん出られなくなると長く出られなくて、それによって機能も低下していって生活全体がどんどん縮小していくというか、小さくなっていく感じの人が多かったかなというのが、向こうで会った障害のあるお子さんや障害のある大人たちの状況だと思います。 障害児のニーズ調査 「もっと社会に参加したい」 次のスライドに入ります(スライド13)。まだ本題に入らないのですがすみません。 この事業が始まった当時、一緒に働くコミュニティ・モビライザーという現地のおばちゃんたちも決まっていない段階で、紹介してもらった障害のあるお子さんの家を訪問して、聞き取りをしたりして、簡単な調査ですけれど、タシケントの中で暮らす障害のあるお子さんのニーズみたいなものを集めてみました。 その結果ですが、ごく初期の頃で15人のお子さんの話を聞いただけです。年齢としては、0〜5歳の人が5人、6〜12歳の人が4人、12歳以上が6人で15人です。男の子が多くて11人、女の子は4人でした。 まず保護者の人がこのお子さんにどういうふうになってもらいたいかの希望を聞き取ってもらったのですが、15人という少ない数なので全体のことは言えないかもしれませんが、「社会参加がもっとできるといい」と言っている人は7人で一番多くて、親御さんの中には「障害が何とか治癒しないか」と願っている人は日本でもよくいますし、ウズベキスタンにもいますが、その治癒への祈りというか希望を述べている人は4人。あとは「セルフケアだけでも自立してくれるといい」と言っている人が4人。15人という数ですが、全体としては「社会参加をもっとできるといい」と言っている人が多い。 社会参加の希望の例としては、当たり前ですけど、「幼稚園を含めた教育の場への参加がもっとできるといい」とか、あるいは「きちんとした職業に就けるといい」とか、「きちんと地域のマハラのような活動に参加できるといい」ということを言われる人が多かったです。 一般の幼稚園は日本と同じようで、ある程度の年齢で入るのが普及していますが、基本的に障害がある子は入れてもらえないです。他のことは全部できていて、ただてんかんがあるという人も、「てんかんがある」という理由で入園を断られることが多いです。なので、なかなか、障害のあるお子さんにとって幼稚園の入園というのはハードルが高いです。 その後の教育システムにしても、普通の小学校に通うというコースと、特別支援学校に通うコースと、あとホームエデュケーションといって家庭に先生が来てくれるケースとがありますが、普通の小学校に障害を持っている人が通っている例というのを私は聞いたことがないです。大体、よくて特別支援学校。多いのはホームエデュケーションが多かったです。ただホームエデュケーションの場合は毎日ではないです。日本もそうなのかもしれないですけど、週に何日か。何日としか言えないのが微妙なところで、来てくれる家には週に3日とか4日来てくれますが、来てくれない家には週に1日しか来てくれない。なぜそんなバラツキがあるかというと、親御さんの経済力次第でその辺は左右する。親御さんの経済力があるといっぱい来てくれたり、親御さんの経済力がないとなかなか来てくれなかったりということがあると聞きました。小学校さえでそうですから、それ以降、セカンダリー以降は推してはかるべきという状況だと思います。 障害関係では、視覚障害、聴覚障害の人たちが運動系の障害のお子さんや知的障害のお子さんとは違うルートが、日本もそうかもしれないですけど、あって。全寮制になっている学校に入って、そこで教育を受けるという仕組みがあるらしくて、視覚障害、聴覚障害のお子さんたちはそちらに通っている例が多かったかなと思います。 実際問題、CBRをやっていて、聴覚障害のお子さんには比較的会いますが、視覚障害のお子さんにはほとんど会っていないです。なぜだろう、進んでいる人生のルートが大分違うのか何なのかわからないのですが。 障害児のセルフケアの実情 先ほど言ったように、親御さん自身は社会参加に対する希望がとても強い。たった15家族の聞き取りですけれども。では実際に社会参加の状況はどうなっているかというと、この資料はそれぞれのお子さんを評価させてもらった結果ですが、年齢相応のセルフケアができているお子さんは15人中8人いました(スライド14)。年齢相応のセルフケアができていない人が7人。この年齢相応のセルフケアをしている人の中でも、年齢相応の社会参加をしている人は2人しかいませんでした。 ほとんどの人は学校にも行けていなかったり、当然就労もできていなかったりということがあるので。親御さんたちの希望が社会参加というところにあるというのは、お子さんたちの状況を反映していることになって、決してずれた希望ではないんだろうなと思いました。 コミュニティ・モビライザー ここから実際に我々が実施している活動の話に入っていきます。 まず、当然ですが、緒にCBRをやってもらう人を雇用するという作業があります(スライド15)。我々の場合はコミュニティ・モビライザーというふうに呼んでいますが、コミュニティ・モビライザーの雇用をしています。どういう職業かというと、CBRをご存じの方はいわゆるCBRワーカー、CBRボランティアをイメージしてもらうといいと思いますが、それぞれの地域でCBRの活動を主導的に、主体的にやってもらう人ということです。 ミルジャホン君と田中さんと私が加わって考えた雇用条件というのは、1つは当たり前に聞こえるかもしれませんが、ウズベク人であること。ウズベキスタンの場合、6割くらいはウズベク人なんですけど、残りはいろんな人がいるんですね。ロシア系の人もいるし、朝鮮系の人も結構いたりします。いわゆる地域の中にはウズベク人が多くて、その人たちが一番コミュニケーションとれるのはウズベク語なんですけれども、そのときにウズベク人でウズベク語がちゃんとわかる人でないと地域の中で活動するのには不自由があるだろうということです。 二つ目の条件として、CBRワーカーとかCBRボランティアを一般の地域住民というか、障害のない地域の住民がやっているというCBR活動は結構多いと思うんですが、我々のこのタシケントのCBRの場合は、コミュニティ・モビライザーを障害当事者が、あるいはせめて障害児や障害者の家族の人にやってもらおうということを条件と考えました。その理由は、JIL(全国自立生活センター協議会、Japanese Council on Independent Living Centers)の中西由起子さんの助言を反映して、その結果条件をつけているというところもあるんですが、私自身、青年海外協力隊のときからかれこれ10年近くたつんですが、アフリカでCBRみたいなものを自分の配属された施設がやっていて、メインで関わったわけではないんですけど、そのプロジェクトの場合は、障害が全然ない地域住民の方をCBRワーカーとして雇ったんですけれども、その人のモチベーションをどうするか、インセンティブをどうやってつけていくかというのが難しくて、なかなかうまく働いてくれない、ボランタリーに働いてくれないということがありました。CBRワーカー、我々の場合はコミュニティ・モビライザーですけれども、その人の動機付けといっても、多分、明らかに障害を持っているご本人の方がモチベーションがあるから、その方がいいだろうというのが一つと、あと、障害当事者の方のエンパワメントというか、経験を積んでもらうという意味でも、障害の当事者の人にコミュニティ・モビライザーについてもらって、その人に地域の中で活動していくという経験をしてもらうといいんじゃないかということで、進めてもらいました。 実際の作業としては、マハラの委員会やマハラの長老、アドバイザーがカウンターパート的に働いているので、そこの協力はかなりもらっていました。マハラの事務所の建物に求人情報を掲示してもらうのと、それだけだとなかなかマハラ全体に周知していかないので、長老とかアドバイザーを通して適任な人、障害のある人でこういう仕事に向いていそうな人がいたら紹介してくださいみたいなことを言って紹介してもらって、そういう人に会って。で、適任そうであれば応募を進めるということをやったり。あとは実際に面接をしたりということをやっています。 その辺、マハラの委員会との調整とか交渉とか、あと実際の面接は田中さんやミルジャホン君がメインでやっているんですけど、私も行ったときには面接に加わったこともあります。ただこれは専門家として参加しているというよりは、向こうの2人がちょうど30歳くらいで同じ年齢で、私だけ十幾つ歳が上なので、年の功で、自分たちだけでは心配だから入ってチェックしてくれるかという感じで加えてもらっていたんじゃないかと思います。別にリハ専門家がいなきゃできないということでは全然ありません。 この写真はわかりにくいんですが、奥に1人いるんですが。この5人が選ばれました(スライド17)。一応、このモデルの場合は5つ、1マハラに1人ずつで5人なんですが、うち3人が障害のある当事者の方で、2人は障害のあるお子さんを持ったお母さんという構成になりました。 私は年長者として参加して何人かを面接しているんですが、私が「あの人はいいよ」と勧めた人が、入ってみると会合には遅刻するわ、遅刻しても謝らないで威張っている わ、威張っているかと思うと注意したら逆ギレして泣くわというすごい人が加わって。ほとんど面接に加わっても機能していないので。これはすばらしいと言いながらこれか、という感じで。いまだにすばらしいとは言い続けているんですが。 この人、一番若いんですが。明るくていい感じの人なんですが、お子さんが知的な障害を持っているお母さんなんですが、本人もなかなか激しいです。行くたびに飯おごれとか、日本に私を連れてゆけと言いますし、自宅で収穫したキュウリを10kgくらい私に買わせようとしたり。日本人だし要らないと言っても「買え」と言ったり。まあ、自分はあまり人を見る目がないかなという話です。 啓発的活動・イベント実施 活動としては、いろんな活動をするんですが、まず地域の中での啓発的な活動。あと障害のあるお子さんや障害のある人同士が出会う機会づくりのようなイベントをよくしているんですけど、そのお話をしておこうと思います。 初期の頃はモビライザーもいなくて我々を中心にやったんですけれども、だんだんモビライザーたちに企画実施のウエイトをシフトしているという経過があって、詳しく話をしようと思います。 (1) コミュニティ・モビライザー不在時代 まず最初はモビライザーがいない時代がありました(次頁、スライド18)。この事業自体は5月に始まって、私が初めて行ったのは7月の末で、最初に面接したのは10月でしたか。実際にモビライザーが5人そろったのが今年の1月なので。最初の数ヶ月はモビライザーがいなくて、私と田中久美子さんとミルジャホン君が右往左往しているという。その中で、それぞれのマハラの障害のあるお子さんと活動はしていたんですね。 そのうちの一つで、障害児によるプロフ作りというのがあります。この写真、わかりにくいですけど、これはプロフという料理で、日本でいうとピラフみたいなもの、焼き飯というか、油でご飯を炊いたような感じです。すごい大きな中華鍋みたいなものの、こちら側は全部油です。サラダ油を2リットルくらい入れてそれで炊くという油っぽい食べ物なんですけど、ウズベキスタンの伝統料理です。例えばタシケント市だと毎週木曜日はプロフの日と決まっているん です。だからほぼすべての人が食べる。あと、結婚式というとプロフを食べるんです。 しかも結婚式のプロフは、お嫁さんの方が準備しないといけなくて、お嫁さんの家はその結婚式のプロフを準備する前の晩、親族総出でニンジンを切ったりするニンジン切りという儀式があって、で、準備して新郎側や親戚にプロフを食べてもらうというのが結婚式の儀式の一部になっているんです。そのくらい伝統的な料理です。ウズベキスタンに慣れ親しんでいるプロフを、みんなで作って食べると楽しいんじゃないかというのがそもそもの発想です。 最初のときには私が始めたんですが、障害のあるお子さんで活動したいというイメージを彼らは持っていたんですけど、実際、ウズベキスタンの中でも障害のあるお子さんに対するイベントというのはあるんですけど、大体、来てもらって障害のあるお子さんたちに出し物を見せて、お子さんたちはそれを黙って見て、何かもらって帰るというチャリティーチックな活動ばかりだったんです。障害のあるお子さん自体もいろいろやりたいだろうし、実際できるんだから、もっと障害のあるお子さんが自分たちで何かを作って、その体験を共有する機会を持てるのではないか、そういうイベントをやった方が障害のある人たちも知り合えるし、いいんじゃないかということから始まったんです。 細かい企画は彼ら2人、地域開発をやっているので、地域の中でイベントをやったりすることは慣れているんですね。なので企画のところは彼ら2人で考えてもらって、自分自身は障害の重いお子さんが参加するときに、こういう障害に対するときはこういうことがいいとか、こういう設定にすればこの子はできるということを具体的に専門的、技術的なところを助言してあげるという手伝い方をしました。事前準備は当然彼ら2人がやって、当日も私が加わって一緒にやっているわけですけれど、全体の流れは2人が見て、私自身は専門的なところで障害の重いお子さんに直接ついて、実際に援助をしてあげたり、あるいは障害の重いお子さんの親御さんに、こういうふうにやるとできるよということを教えたりということをしました。 実際の活動はこんな感じです。次のスライドです(次頁、スライド19)。完成したのはこれです。結構おいしくできました。障害のある人たちはいろいろですね。彼女は脳性マヒのお子さんで、彼なんかは知的な障害のあるお子さんたち。そういういろんな障害の種類のお子さん。耳の聞こえないお子さんも混じっている活動になりました。 プロフに入れるものは決まっているんですが、年長のお子さんが多かったので、子どもたち自身で、付け合わせに何を作るかということも話し合って考えてもらって、買い物を子どもたち自身で、大人もついていきましたけど、行って。なかなか向こうの障害のあるお子さんは全然外に出ていない。外に出ていても実際に買い物をしたりするという経験は少ないお子さんが多いんですね。多分できないと思って親御さんがやらせない。なのでこういう買い物の経験も積んでもらい、実際に料理をし、みんなで集まって物を切ったり炒めたりということをしました。 この後いろんなイベントをしたんですけれど、プロフというウズベキスタンの社会の中で独特な価値があるものにまつわる活動だったからか、彼らは後々にまたやりたいと言ったのはこのプロフ作りが多かったです。いまだに多いです。その後、いろんな活動をやっているんですけどね。同じようなイベントをずっと一定の期間やっているんですが、啓発的な活動や障害のあるお子さん同士、障害のある人たち同士が知り合うようなイベントを実施しました。 (2) コミュニティ・モビライザー登用初期 マハラ合同運動会というのもやりました(スライド20)。最初の段階、プロフ作りというのは私もいろいろ言わせてもらったんですけれど、彼ら、田中久美子さんたちが結構できるので、発案から企画から準備・運営まで彼らが主体的にやってくれました。 そこにモビライザーが個人的に入って、実際の活動の進め方を経験するという感じです。私自身は企画の段階で実施する種目の中で、いろんな障害のレベルの人たちがいるので、誰でもできる、どんな障害者でもできる種目というのはこういうのがあるよというのを幾つか提示してあげたり、みんながやりたい活動をやるとしたらどういうふうにやったらいろんな人が加われるかという助言をしたり。あとは全体で会場でまとめて盛り上がりそうな活動にはこういうのがあるよと例を挙げてあげたりという、最後のところで専門的なところを助言したという感じです。その辺の集団で活動するというのは、作業療法士は専門にしているので、何かしら助言できることはあったかなと思います。 次のスライドですが、こんな感じでした(スライド21)。 各マハラでユニフォームを着ていますが、マハラ対抗の運動会という形で、それぞれマハラによって色違いのユニフォームを着ています。この子は脳性マヒの女の子です。あと知的な障害のあるお子さんとか、聴覚障害のお子さんとか、いろんな人が加わってやりました。運動会自体は子どもの運動会だったんですけれども、大人たちにも加わってもらって、各競技の審判をそれぞれやってもらいました。 で、運動会自体はとりあえず終わったんですが、ウズベキスタン人の特徴なんでしょうか、大人が熱くなりすぎて、そこが大変でした。自分のマハラが勝たないと収まらない。モビライザーすらも。お前たち仕事なんだろと言うんですが、いかにして自分のマハラが勝つかにエネルギーを注いで、ズルしたりするんですね。ズルを発見して怒ったり。大人同士で怒鳴り合いのケンカになったり。すごい修羅場のような感じになって、まあ、これも楽しみなんじゃないかなと思います。ちょっと大人が熱くなりすぎて、後の反省会で、なんぼなんでもあれは熱くなりすぎだろうというのを、モビライザーたちにも注意したんですが。熱くなりすぎるために、障害のあるお子さんも来てるんですけど、競技が進んでいくうちにその人たちを入れなくなるんですね。全然障害のないお子さんを入れたりして、何とかして競技に勝とう、みたいなところがメインになって、本末転倒だと大分文句を言った覚えがありますが。でもお子さんたちはそれでも結構楽しんでいたんじゃないかなと思います。 一番最近、これは9月に行ったときですけれども、同じようなイベントとして1泊旅行を。ワールド・ビジョンが関わっていて、お金のあるうちにやってしまえというわけではないんですが、1泊旅行にみんなで行きました。これはモビライザーが大分自立して活動できているので。運動会は今年の3月でしたから半年くらい前。モビライザーが揃って2ヶ月くらいなのでなかなかまだ経験もなかったんですが、モビライザーが全員揃って大分たつ今年の9月には、 モビライザーが中心になって、企画も彼女たちが考えて、事前準備は現地のミルジャホン君と田中久美子さんがメインでやっています(スライド22)。 当日の運営の全体のことは田中久美子さんとミルジャホン君がやらないと、モビライザーたちは個々のことはわかるんですが全体に目が配れないという特徴があるので、でも最初の頃は大分モビライザーがやっています。私自身は同じように企画で現地プログラムで、「こういうのだったらできるんじゃないの?」と言ったりしたんです。どちらかというとこのときは一泊旅行なのにプログラム満載なんです。着いた日の朝から次の日の昼まで、ずっと何かしら活動があるみたいな状況だったので、「旅行なんだからそんなにいろいろやらずにゆっくりすればいいんじゃないの?」と言ったりもしたんですが、聞いてもらえなくて。パンパンのプログラムのまま事は進んでいって、実際行ってみたら、みんな子どもたちが言うことをきかないのでほとんどプログラムはできなかった。 だから言ったとおりじゃないかと思いましたけれども。でも旅行自体はこんな感じで、子どもたちは結構楽しんでいたのでよかったかなと思います。 大型バスを借り切って行ったんです。結構、体に障害のあるお子さんもいて、このお子さんは脳腫瘍で水頭症もちょっとあってマヒが結構重くてなかなか坐位をとるのが難しいんですが、とりあえずみんなで乗せて、一番後ろの席に横になってもらって、向こうに行って。向こうではプールサイドの椅子に座って、他の子が泳いでいるのを見てもらったりとかしていました。こういう子も旅行自体は楽しんだんじゃないかなと思います。それまで地域の中でバラバラに暮らしていた子どもたちがこの機会を通して知り合って、友達になっていくというのが、イベントを続けるうちに見えてきて、そこがいいのかなと思います。 それとお父さん、お母さん自身も知り合いになっていって、お父さん、お母さん同士のネットワークまではいかないですが、関係がイベントを通してできていくというのも見えてきたことです。お父さん、お母さんが最初は障害のあるお子さんへの意識がなかなか変わらなかったのが、イベントに出て子どもが生き生きして動いているところを実際に目の当たりにしたりすると変わっていって、ではもっとこの子どもをいろんな活動に参加させようというふうになっていったりするのも、このイベントをやっていることの意義かなと思います。 モビライザー活動の支援 でもイベントはイベントで非日常的というか、そんなに日常的な活動ではないんです。次のスライドですが、モビライザー自身はもっと他の活動もやっています。そのモビライザーの活動の支援の話をここから何枚かのスライドでしようと思います。 (1)モビライザー研修 一つには、当然ですけれどもモビライザーは研修をずっとやっています(スライド24)。役割分担としては多分、自分の役割が重くて、実際の研修内容や企画の部分はミルジャホン君、田中久美子さんと話し合いながら、しかも最近は、この7月くらいにはモビライザー自身も加わって、実際にどんなことを学びたいかということも聞きつつ内容を決めていっています。 あと、実際の研修の実施も私がやっています。実施の補助やフォローアップ、実施後に言われたとおりにやっているか、ちゃんと生かしているかというチェックはミルジャホン君や田中久美子さんがやっています。モビライザーの教育自体はこのモビライザー研修と、実際の家庭訪問やグループ活動の中で、オン・ザ・ジョブ的に訓練していく、その両方でモビライザーの養成を進めています。 写真は実際の様子で、左側の写真はおばさんたちが寄ってたかって小さい子をいじめているように見えますけど、身体障害のあるお子さんの体の計測をしているところです。いすを作る研修で、実際に障害のあるお子さんに来てもらって、その子の体の測り方をやってもらったのと、真ん中の写真は、クマの人形を使っていますが子どもの介助の方法に関する研修。一番向こう側はストレッチ体操の研修の一場面です。お話だけではなかなか身につかないので、こういうふうに実際に体を動かしてもらいながら研修をやっています。 (2)モビライザー家庭訪問 モビライザーの実際の日常の活動として、家庭の訪問というのが大きな仕事になります(スライド25)。その家庭訪問に、私がいるときには一緒に行って、どういうふうにお子さんを指導するか、デモンストレーションをしたり、最近では一緒についていってお母さんからの相談にモビライザーが返答に窮したとき、専門的な情報が欲しいときに助言してあげるということをやっています。ミルジャホン君と田中久美子さんにはこの後のフォローアップをお願いしていて、実際に行って、こういうふうにした方がいいですよと指導したことを、継続しているかどうかチェックしてもらっていますが、そのチェックをちゃんとやっているかのフォローアップをやってもらっています。 この後の実際の様子を見ると、特に家庭訪問という活動自体がサービスを提供する形の活動でもあるんですけれど、実際の様子を見てもそういうサービス提供っぽい活動は、私の職種柄どうしてもやりがちなんですが、モビライザーたちに強調している点は、とにかく継続的に訪問してくれと。行ってみて、お母さんたちの機嫌がいい場合もあるし、門前払いのようにちょっと話をして帰らないといけないときもありますけれど、とりあえず継続的に関わってくださいと。そうしないとなかなか人間関係ができないですからね。人間関係を作るというところからなので。そこが多分一番大事なので、継続的に関わりましょうねということ。あとは決して障害があるお子さんに関する相談だけではなくて、解決できるかできないかは別にして、あらゆる相談に耳を傾けて、ちゃんと聞いてくださいということをお伝えしています。 実際にモビライザーたちが今まさにやっていることは、例えば我々OTとかPTのリハビリの専門家が家庭訪問をして提供している家庭でのリハビリというよりは、訪問して相談をして人間関係を作っていくというところが中心になっていると思います。 実際、私が行っているときには、お子さんにどういうふうに遊んでもらうか。お子さんの機能でどういう遊びをすると発達にもっといいか、その遊び方を見せたり、お子さんの介助の仕方。真ん中の写真はCPのお子さんの座らせ方をどういうふうにするのかを見せてあげたり。それはお母さんにも見せるし、一緒に行っているモビライザー自身にも、こういうふうに指導してくれと手取り足取り教えるという形です。 あと、お子さんが日常生活に必要な技術を身につけてもらうのにどういうことを教えたらいいか。写真は、自閉症のお子さんにお茶を入れてもらっているところですが、それくらいのことはこういうふうに訓練すればできる。そういう指導の仕方を教えてあげたりしています。 (3)定期的グループ活動 もう一つモビライザーの活動の大きい部分は、次のスライド(次頁、スライド26)ですが、各マハラには事務所があって、そのマハラの事務所の中に必ずCBR用の部屋を準備してもらって、そのCBR用の部屋でなるべく定期的に子どもさんたちを集めてグループ活動をするようにしています。それがもう1つ大きな部分になります。定期的というとどのくらいかというと、まちまちで、週1回とか2回のペースで子どもたちが決まった時間に集まって、みんなで何かの活動をして帰っていくという活動です。 この活動自体は、実施しているのは当然モビライザーですが、活動に至るまでは私が研修ということで、こういう定期的にグループで活動することの意義について話をしたりとか、実際にどんな活動をするのかというのをデモンストレーションして見せてあげたり。特に初期の頃は、初めて活動しろと言われてもわからないですよね。多分日本でも一般の人はわからないと思うんだけれど。とりあえず部屋があっておもちゃがあって、子どもたちに集まってもらったんだけど、わーっと遊んで時間がたつと三々五々いなくなるという活動だったんですが、ある程度こういう枠組みを作ってやった方がいいですよということを助言してあげたりしていました。 現地の田中久美子さんはワールド・ビジョンで働く前にNPOで青少年活動をやられていたので、お子さんを扱うことに結構慣れていて、実際に集まった子どもたちに活動をデモンストレーションしてモビライザーに見せてあげたりという役割をとってもらいました。あとはフォローアップ。他の人と同じように私が助言した後に、ちゃんとそういうふうにできているかのフォローアップをやってもらっています。 モビライザーたちに強調しているのは、とにかく定期的、一定の期間の中には必ず、しかも継続的に実施し続けてくれと。まばらにやったり急にいっぱいやってやらなくなったりとかではなく、とにかく定期的にやろうと。子どもたちがそこに集まって何かをして、その中で友だちができたり。当然子どもについてお母さんが来たりするので、お母さんたちがその場で出会って話をしていくところに意義があるんだから、とにかく定期的にと。定期的に、継続的に、やり続けてくれということをお伝えしています。そこが特に強調されているかなと思います。 実際の活動の写真をお見せしますが、一番左はマネートレーニングをしているところです。お金の計算ですね。計算も全然できなくて、アカデミックな計算はできなくてもお金を使って物は買えますよね。でも、この子は計算ができないので買い物ができませんと思っているので、こういうふうにやればお金を自分で使って買い物ができるんですよというトレーニングの仕方のデモンストレーションをしたり。お子さんたちが集まってみんなで活動することを教えてみたりということをしていました。 (4)親の会、当事者の会 もう一つ、最近重みを増してきているモビライザーの活動として、親の会。障害のあるお子さんの親の集まりや、当事者の方の集まりの実施。それを特にこの数ヶ月、力を入れてやり始めています(次頁、スライド27)。これは1つのマハラに1人のモビライザーでやっても、なかなか力が及ばない。マハラが広すぎて。何かモビライザーを助ける人がいないと、活動が有効に機能しませんよということで、協力的な親御さんとか当事者の人を見つけてどんどん協力してもらった方がいいですよという話はしていたんですけれども、その中で、モビライザー自身から、協力してくれる人たちをもっと組織的に協力してもらうとか、力を出してもらうことをやりたくて、親の集まりみたいなものをやりたいんだけれどどうかという話が出てきて。そこでモビライザーたちとミルジャホン君と田中久美子さん辺りが協力して企画して準備をして、全体の運営をしてくれています。私自身はたまたま行ったときにそういう集まりがあれば出ていきます。現地の人たちが知りたい情報で私が提供できる情報を提供する。講師をするような感じの関わりをしています。 これもさっきのグループ活動のように、定期的に集まろうよと。定期的に集まって何でもいいから話し合うところから始めようというくらいしか言いようがないんですが、そういうことを強調しています。 写真は、上2つが親御さんの会でグループに分かれて討論して発表してもらったりしているところです。一番下は当事者の方の集まりです。当事者の集まりはなかなか説明できないんですけれども、APCDや中西さんのところから当事者の方が来てもらったりした機会に、現地で障害のある当事者の方をマハラにかかわらず集め、啓発やセルフアドボケートに資するようなイベントをやって、その中で当事者の人たちのつながりもできていって。今、当事者の人たちの中に、もともとこの事業の対象ではなかったのかもしれませんが、自分たちの住んでいるマハラでCBRをやってみたいという人が出てきたりしていて、次の動きにつながりそうなところが出てきています。 今の段階では、当事者の方が自分たちで集まったり、モビライザーが声をかけて集まってもらったりして、その中で話をしているといところですけど、今後、うまくいけば発展があるかもしれないと思っています。 モビライザーの活動概要 次のスライドは概念図です(スライド28)。モビライザーの活動の話を、今できる範囲で家庭訪問とグループ活動と啓発的なイベント、親や当事者の活動の促進というところをお話ししました。それぞれがどういうことを意識しているかというと、こんな感じの図になります。 一番上の「障害児・者の発見」というところは今回説明をしませんでしたけれど、基本的にはクチコミとかで、自分のマハラの中で障害のある人を発見していくわけです。 あそこにいそうだという話を聞くと、まず基本的に家庭を訪問してもらうことにしています。 家庭を訪問して話を聞いて、基本的には定期的なグループ活動に参加しませんかということを勧めることが多いです。特にお子さんの場合は。CBRポイントでこういう活動をしているので、ぜひ参加してくださいということです。それが定期的なので難しかったら、さっき言ったお祭り的な1泊旅行とかプロフ作りのような啓発的な活動やイベントに参加しませんかということをお勧めする。イベントに参加してもらったら、また定期的グループ活動に来始めることもあるんですけれども。何にしても集団で集まってもらって、そこでの活動の提供がメインというより、ここで出会いの場を提供して、ともに関係性を築き上げていったり、ともに自分たちの生活をよくする動きになっていって、親とか当事者の活動の促進とか組織化の支援になっていけばいいなということを考えながら、それぞれの活動を展開しているという感じです。 ここが力強くなっていくと、親とか当事者の活動がもう少し地域の中で自立的に行われるようになっていくと、CBRの活動としてはいいだろうなと思っています。ですから個々の家庭訪問で何を提供できるかよりは、そちらがメインになっていくかなと思います。 もちろん家庭訪問の中で、うまく定期的なグループ活動につながればいいですけど、つながらなくて、訪問を続けるというのは、想像できますようにモビライザーたちにはすごく大変なことです。私ができるとすると、専門家の人がたまたま来ると、何か助言ができるかもしれないと言ってもらって、実際に私が助言したことがためになれば、これは勝負ですが、ためになればその家庭の人たちも我々を受け入れて、モビライザーに対する受け入れも若干変わって、その後、他の活動に誘いやすくなったりするんじゃないかなということで、私が関わらせてもらっているというところが大きいかと思います。 成果 まだ始まってから1年ちょっとでもう終わりまで半年という状況ですけれども、今の段階の成果のようなものとして、モビライザーがどんな活動をしているのかというところを次のスライド以降でお話しします(スライド29)。 何よりの成果は、我々が何をしているかというと、CBRと言いながらモビライザーたちに投入しているエネルギーが一番大きくて、モビライザーを養成しているみたいな感じです。その中でモビライザー自身は、障害を持っているご本人であったりご家族であったりするということがよかったようで、モチベーションが高くて、自分たちでどんどん活動を発見したり、自分たちで工夫して活動していたりします。そこは多分いいことだし、成果かなと思っています。 例えば、マハラの中で障害のあるお子さんはなかなか幼稚園に行かれないんですね。あるモビライザーは直接幼稚園に行って、この子はこういう理由で障害があるけれども何とか幼稚園に入れてくれないかと園長と交渉して、成功して幼稚園に行き始めている。そういうところは、「こういうふうにした方がいいよ」と言葉ではアドバイスはしたけれど、我々は何も実際的な協力はできていないんじゃないかと思うんですけれど、モビライザーが自分で自発的に動いているというのは、すごくいいことだと思います。モビライザーが育っているというのは成果ではあるだろうと思います。 それから数値的なことで言うと、家庭訪問の活動は2009年1月から始まっていて、1月、2月、4月、7月、8月のデータしかありませんが、1月は5つのマハラで15回。それが2月以降は30回から40回台くらいはいっている感じです。5マハラなので、1マハラは8〜9回くらい。1人のモビライザーが週に2回くらい行っている感じです。家庭訪問はグループ活動につながってくれて、その中でお母さんと話ができるようになるとあまり行かなくなるので、このくらいの回数なのかなと。 グループ活動は定期的・継続的にやってくれと強調していて、結構やってくれています。1月は3回で終わったのが、今は30回前後のところで安定してきているので、1マハラ月に6回くらい。週に1回以上は何かしか定期的な活動をやってくれているということですね。延べ参加人数も最初は少なかったですけれど、その後着々と増えていって、8月で342人なので、1イベント辺り10人ちょっとの人が出ている感じです。それなりに人が集まる活動を定期的にやってくれているという状況に今はなっています。 もともとこのプロジェクトの目標で、それぞれのお子さんにIndividual Development Planというものを作り、それを200人分くらい作るという目標でやっています(スライド30)。これは個人としては高すぎる山なのかもという気がしますが、それぞれのモビライザーが自分が担当している子どもの支援のプランを立ててもらうことを目標に動いています。このフォーマットは私が勝手に作ったものですが、使いにくかったらまたモビライザーと相談しながら中身を変えていこうと言っているのですけれども。 ユリアというお子さんの例ですが、実際にあるモビライザーさんが作ったもの、そのものです。結構ちゃんとしたものを、一般の人なのに作ってくれました。工夫した点は、上半分は評価といか現状を書く欄です。現状の中で、日常生活がどうなっているかということと、社会的参加はどうなっているかということを記載してもらう。あとは本人とご家族と話してもらって、本人から生活の希望とか、生活の心配ごと、困りごとを聞いてもらって、現状と本人・ご家族の希望・心配ごとをかね合わせて、それぞれ日常生活上の目標、社会生活上の目標を考えてもらう。モビライザーと相談しながらですけどね。で、その目標を達成するための活動を考えてもらう。それを一定期間後に経過を見直して、うまくいっているようだったら次の目標を考え、うまくいっていなかったら目標からやり直すということをやっている。まさにリハの専門職のようなことをやってもらうわけです。 プランして実施して再評価するというサイクル自体は、もしかすると高すぎるんじゃないかという気がするんですけれど、この中の、せめて評価の部分とか目標設定の部分は、できるだけできるように書式を考えてみたつもりです。 皆できるかなとすごく心配をしていたんですが、それなりに、元ソ連圏ということで教育水準も高いんでしょうか、識字率も高かったり、こういうものに対応する能力があって、そういうところがよかったんだと思います。あと皆、モチベーションが高いんですね。こういうのもどちらかというとやりたくないんじゃないかとドキドキしながら提案したんですが、そういうのをぜひやりたいと言って、今、熱心に作ってきてくれています。どこまで機能するかわからないんですが、実際にこれが機能すると、どんなことをやったか、どんな効果があったかがわかることになっていくと思います。 事例 あとは事例の話になりますが、幾つか成果のあった事例の話、典型的なお話をして終わりにしようと思います。いろんなお子さんがいるんですが、3人ほど紹介させてもらいます。 (1) ユリア この子はさっきの、私と恋人のように見つめ合っていたユリアです(スライド31)。最初に訪問した頃は、2年間、家にいっぱなしという状況で、団地の家の中で1DKの間取りの中に、お母さんとユリアと、おばあさん。おばあさんはかなり高齢で多分痴呆症が出ているんですが、そういうおばあさんと3人で暮らしています。ユリアは夜はベッドで寝ているんですけど、起きたら基本的にソファーのこの位置にずっと座っているだけの生活です。行った当時は、ずっと座って、前後に揺れている。常同運動というんですか、そういう状況でずっと暮らしている。移動はできないんですが、セルフケア全般もできなくて、下にはビニールのカバーがあるんですが、おしっこもおもらしするという。お母さんの負担はすごく大きいだろうという状況のご家庭です。ユリアも当然大変で、生活のリズムも結構ガチャガチャになっていて、夜全然寝られなくて、ずっと朝の8時くらいまで起きていてそこから寝始めたとか、昼まで起きていて昼から寝始めたというようなことが日常的に起きている状況です。 今もそれはあまり変わらないですが。2年間出ていないというけど、とりあえず俺たちが出してみようかということで、初めて出して2年ぶりに外に出たというのがこの写真です。団地の2階なので階段があって、男が2人がかりで運ぶという状況で出してみたんですが、この写真はできすぎなんですが、出るといい反応をするんですね。うれしそうに。後で聞くと、ほとんどしゃべれず単語レベルしかしゃべれないんですが、散歩はロシア語で「グリアッチ」と言うんですが、「グリアッチ、グリアッチ」と言って散歩を要求したりするようになった。そういうのを見て、モビライザーは、彼女自身下肢に障害がある方でクラッチを常に使っていますが、初めてユリアの家に行ったときには、家の状況が結構貧しくて、しかもユリアもほとんどコミュニケーションがとれないのでものすごくびっくりして、びびっている状況でした。けれど我々がこうやって連れ出して、実際に出てみるといい表情をしたり、お母さんから後で聞くとまた散歩に行きたいと言っているという話を聞くと、これは頑張らねばならないと思ったんでしょう。この団地の階段にスロープをつけられないかということを提案してくれまして、今はまだお金があるので、セメントを買うお金は準備するよと。ただ当然スロープをつけるに当たって、この上に住んでいる人の許可をとったり、あとはマハラのリーダーの許可をとったりということをやってもらわないといけませんよと言うと、彼女は、ユリアのお母さんと話し合いました。彼女はマハラの長老に文書を出してもらうんです。許可しますと。それを持ってユリアのお母さんが団地を回って、それぞれの家庭を説得して、スロープを作っていいという許可をとっていった。実際に工事する人も、モビライザーがボランティアを探してきてくれました。さらに、そうは言いながらも角度がものすごく急なんですね。前は2人いないと運べなかったんですが、今も2人いないと運べないんです。ただ前より楽というだけで。お母さんは1人ですよね。おばあさんは認知症っぽくて身体的にも機能が落ちているのであまりあてにならない。他の人を探さないといけないんですが、地域の中でボランティアの人を探してくれました。それなら最初からボランティアでやってくれよと思いますけど、こういう動きがあって初めてボランティアを探すという活動につながったんでしょうね。ボランティアの人をお母さんと彼女が一緒に探してくれて、自分たちで外に出ているみたいですね。出てみると、近所の子どもたちが寄ってきて、2年くらい外に出ていなかったんですが、2年前までお母さんが連れ出していたんですね。その頃は一緒に遊んでいたんです。その2年前に遊んでいたユリアがまた外に出始めたということで一緒に関わってくれたりというように、いい感じのサイクルになってきているんです。セメントとかでお金がかかっているので、我々でいつもこんなことができるかというと、何とも言えないんですが、少なくともコミュニティの中でどうやって許可をとっていくかとか、ボランティアをどうやって探していくかというのを経験してもらえたのはよかったかなと思っています。 彼女は、ユリアを、今は団地の周りにしか出られていないんですけれども、何とかCBRポイントに連れてくるボランティアを探して、CBRポイントで他のお子さんと一緒に活動に参加させられないかということで目標を立てて、今、やっているはずです。 (2) ウトゥキル あとは、旦那さんの兄弟に反対されていてこの子をなかなか連れ出せなかったお母さんの話です(スライド32)。ウトゥキルという11歳なんですが、栄養状態が悪くてガリガリですごく小さいんですね。写真のこの子が5〜6歳のウトゥキルの妹なんですが、妹より小さいんですね。脳性マヒもあるけれど知的にも障害を持っている、日本で言うと重症心身障害児の分類に入るのかなと思います。この家も結構貧しくて、行ったときにはぎょっとしました。ウトゥキル自身は、座らせれば座れるんですけれども、座れると思っていない。自分では寝た状態で起き上がれないので、家ではずっと寝たきり状態で暮らしているんです。それを、多分ちょっとした環境設定で座れるよとお母さんに教えてあげて、こういうふうにやると座れるよ、座ると安定してあまり倒れないよという話をしてあげると、お母さんは熱心に聞いてくれて、その後、本当に一生懸命に座らせてくれたんですね。そうしたら確かにこの子は座れるということに気づいて、次に行ったときにはいすを買ってくれて、いすに座らせていました。この頃はクッションで完璧に頭を支えないとダメだったんですが、慣れてきてこのくらいのバックレストでも座れるようになりました。 こうなると両手もつかえるので、こういうことをして遊ぶといいよという遊び方を教えたり、それからスプーンは使えないけれども手で持って物は食べられるので、手で食べさせてみたらと助言したら、それもどんどんやってくれました。それから、なかなかうまくはいかないんですけど、ご家族を説得してときどきイベントに来てくれたんです。これはタシケントのテレビタワーという、東京タワーみたいなのがあって、そこに皆で行ったときの映像なんですけど、これもウトゥキルを連れてきてくれてとてもよかった。他のお子さんと一緒に食卓を囲んでご飯を食べたり。 その後も親族の反対は強いので、お母さんが説得できるときとできないことがあるみたいですけれど、全体の活動に来てくれるということが増えていきました。ウトゥキル自身が持っている能力を発見してあげたといえるでしょう。だからといって彼の生活自体がどう変わったかはわからないんですけれども、少なくともお母さんの意識は何となく前向きな方向に変わって、ウトゥキルの生活も、お母さんの意識の変わり方のおかげで若干変わったのかなと思う例です。そうは言っても難しいですけどね、ご家族の中の問題は。 (3) ビグゾット あとは、これは自閉症の20歳の男の子(スライド33)。知的な障害があるんですけれども、本当に貧しい家で、この子の家を見てアドバイザーが、何でこの子を施設に入れないんだということを言っていたんですが。基本的には家でずっと座ってテレビを見ているという暮らしをしていたんです。身の回りのことはほとんどできないんです。多分、教えられていればそれなりにできたはずなんだけど、何も教えられていないのでできないんです。で、こういうふうにやったらと、例えば服の着替えの練習の仕方とか、身の回りの家事の手伝いの訓練の仕方を教えてあげたりしました。ここも、関わっていく中で親御さん、特にお父さんは彼を外に出すことにすごく反対していて、あの男を外に出しても何もわからないし何も楽しくないんだから無駄なんだと、外に出すことに全然賛成してくれなかったんですが、ここにいるモビライザー、この人は子どもが結構重い障害を持っているお母さんなんですが、このモビライザーが継続的に関わってくれて、お父さんの意識も若干変わって、このように地域でプロフを作る活動に出てくれている。 彼は家にいると本当に何もしなくて、ずっと「チョイ」、お茶という意味ですが、「チョイチョイ」とずっと言っている、あとはひたすらテレビを見ている感じで、本当に役に立たないとみられていたんです。でも、出ると、できることは少ないんですけど、よほど他の子よりはちゃんとしているんです。こぼさないし、静かに座っているし。それなりに楽しみもできていて、すごく参加してよかったなと思うんですが。 こちら側の男の子は脳腫瘍のある知的障害の男の子で、15〜16歳だったかな。彼は怖いおばさんとかには近寄っていかないんですけど、自分より弱いと思ったら近づいてきて、顔をこのくらいの距離でレロレロレロ…と言う。私なんかも弱いと思われているのか、寄ってきてレロレロレロ…とやられたりしたんです。ビグゾットもこの男の子に早速見つけられて、近づいてこられてレロレロレロ…とやられたんです。強烈だったんでしょうね、このイベントが終わった後に、この男の子はドニという名前なんですが、ビグゾットはお母さんに、「ドニ、レロレロレロ…」と言っていた。だからどうということでもないんですけど、彼にとってはインパクトとして残っている。友だちというほどの関係ではないかもしれないけれど、友だち的な人を発見したような感じになっているんだろうなと思うんです。 彼らはその後、1泊旅行にも出会っているんですけれど、特に2人で何を話し合うわけではないけれど、ビグゾットはドニを見つけると、「ドニっ!」と遠くからニヤッとうれしそうな感じだったりしているんです。よくわからないですが、関係ができ上がることができたのは、モビライザーがすごく関わってくれて、お父さん、お母さんが外に出してみようという気になってくれたところが大きいんだろうなと思います。 政府との協働、マハラとの関係の難しさ うまくいった話ばかりしている感じですけれども、うまくいかないところもいっぱいあります。それを簡単に次のスライドで説明していきます(スライド34)。ここだけは短めに言いますけれども。 一つは、政府のポジションペーパーを作る予定で今も進めているんですけど、なかなか政府側の担当者の異動が多くて、進捗が遅れ気味になっています。政府との関係は難しいですね。このプロジェクトの場合、労働福祉省がカウンターパートになっているんですが、ウズベキスタンの政府全体の労働福祉省の力というのはすごく弱くて、なかなか進まないということもありつつ、さらに担当者の異動ということもあって、政府のポジションペーパー作りは遅々としている感じはあります。 もう一つ、実際は作るしかないので作るんですが、発達支援マニュアルを作ろうとしています。そのための作業もしていたんですが、一つには国の機関以外の者がマニュアル的なものを作って配布するということはなかなか許可が出ないんです。それは国の独裁的な感じが強いというか、統制がすごく強い国だということもあるんでしょうけれど。政府系機関の協力を得ながらやるしかなくて、政府系のリハビリテーション機関と協力してマニュアルの編集を進めてきたんですけれども、その協力機関というのが、政府系なのだけれど政府との間でトラブルが起きてしまいました。 ウズベキスタンというのは基本的に国際NGOはほとんど追い出されているんです。ワールド・ビジョンだけが唯一残っているみたいな感じなんです。この政府系の協力機関とリハビリテーションセンターが何かのイベントをしたときのパンフレットの中に、ハンディキャップ・インターナショナルの事務所も一応あって、人もいたのでその人に協力をしてもらったんですが、ハンディキャップ・インターナショナルのロゴをつけちゃったんです。それが政府に見つかって、なぜ公に認められていない機関と一緒に活動しているんだということになって、ちょっとごちゃごちゃしてしまいました。それで一時滞っていたとか、やろうと思っていた部分を一部カットしなければいけなかったりということが起きてしまいました。まあ、縮小しつつとりあえずこのマニュアルは作られていくんだろうと思いますが。 それからマハラとの関係が、やはりなかなか難しいこともあって、マハラの長老が選挙で決まるという話をさっきしましたけれど、5つあるマハラのいくつかが長老が選挙で交代してしまって。長老の意向次第でどうにでもなるところはあるので、一部のマハラがこのCBR活動に非協力的になったりということはあります。マハラの事務所の部屋を使わせてもらえなくなったりということが起きています。それはモビライザーが頑張って近くに別の場所を探して活動自体は続いているんですが。そういうマハラとの関係がぎくしゃくしているところも、マハラによってはあるというところが、あまりうまくいっていないところかなと思います。これもクリアしていかなければならないところです。 今後の課題 最後のスライドになりますが、今後の課題について(スライド35)。 一つにはコミュニティ・モビライザーに大分投入して訓練しているという要素が、このプロジェクトは大きいんですけど、そのコミュニティ・モビライザーをサポートする仕組みというのが今のところないので、先ほどの親の会とか当事者の会がモビライザーと協調しながら活動してくれる何かを作らないといけないだろうなと思っています。今、ある程度協力してくれる親御さんとか当事者の方がいらっしゃるので、そうした人たちを集めて、もっと力を結集していけるようなことをしないといけないと思っています。 もう一つは、我々が養成したコミュニティ・モビライザーがこの先、リソースとして次の人たちに教育や訓練をしていけるようにならないと、この活動は持続的にならないんです。現状では自分たちのマハラでCBRをやってみたいという当事者の方が複数いるので、その人たちに、どういう活動をどのようにやっていくかというのを伝達する、情報を提供するような機会をこれから作っていく。その中で、どういう部分で何を伝えるかということをコミュニティ・モビライザーに教えたり、実際にサポートしながら経験してもらうということをしていって。私が伝えたことが当然スケールダウンしてコミュニティ・モビライザーが実施して、それが次に伝えられるときにはもっと小さくなっていくんでしょうけれど、それでも何かしら次につながっていくようなことが習慣になるといいなと思うんですね。新しい人に何かを伝える、それを次の人にやってもらうということを習慣化できるための関わりを、残りの期間で少しでもできればなと思っています。 あとは、これまで話していてわかりますように、なかなか現地の教育関係、小学校・中学校とか、あるいは労働関係の人たちと関われていないというところがあるので、そういう部分の協働を広めていくのも必要かなと思います。 これは初期の頃から気にはしていているんですが、なかなか難しいです。労働福祉省が主体になっているんですが、さっき言ったように労働福祉省の力が弱かったり。あと、ウズベキスタンの政府の中で省ごとの縄張り意識がすごく強いんです。こっちの省がやるんだったらこっちはやらないとか、労働福祉省の人に、CBRは教育の分野とか保健の分野が必要だから、保健省とか教育省に入ってもらいましょうよということを言っても、それは必要ないじゃないかみたいなことを言われたり。なかなか他に広げてもらえないという難しさはあるんですが、ここがつながっていかないと活動としてもっと実のあるものになっていかないので、そこのところをもう少し広げていければいいなと思っています。 以上、とりあえず伝えたいことはこのとおりでバラバラと大量にお話をしてしまいましたけれども、まとまらない部分もあったかと思いますが、私の話題の提供はこんなところで終了です。ご清聴ありがとうございました。(拍手) あと25分ほどあるので、何か質問があればそれにお答えします。あと、いろんな人がいらっしゃっているので、議論できることがあればともに議論できればと思います。何か質問のある方、いらっしゃいますか。 会場 浜松大学でリハビリテーションの教育をしております渡邊と申します。河野さん、ウズベキスタンのCBRの実際的なお話、どうもありがとうございました。基本的なところを二点お伺いしたいと思います。一点は、河野さんがウズベキスタンに行かれて、障害あるいは障害者という言葉を使われるときに、ロシア語、ウズベク語にそれに該当する言葉があるのかないのか。そして、その言葉には差別的な意味があるのかどうか、もし何か感じていらしたのならお伺いしたいと思います。 二点目は、マハラについてもう少しお伺いできればと思いますが、マハラの規模は大体どのくらいなのか、構成人数はどのくらいなのか。それからマハラと非障害者の関わり方であるとか、非障害者への働きかけなどがありましたらお伺いしたいと思います。 河野 ありがとうございます。障害という言葉がロシア語、ウズベク語にあるかどうかというお話なんですが、わからないです。多分あると思うんですけど、特にロシア語にはあると思いますが、ウズベク語で何というかというのは、言われてみれば確認したことはなかったです。その言葉に差別的な響きがあるかどうかはわかりません。 マハラについてですが、マハラの規模は数千人から1万数千人くらいです。マハラというのはとても強力な自治組織だというお話をしましたが、その強力ぶりもマハラによって違って、マハラの中にも平地(ひらち)のマハラというか、一軒家が多いマハラと、団地やマンションのようなところがたくさんあるマハラ、マンション1棟が1マハラみたいなところもあるんですが、当然、マンション1棟1マハラのようなところは、住んでいる人も都会的な感じだったりするので、マハラに対する意識がそんなに高くなかったりします。平地のマハラでも、お金持ちがいっぱいいるところは、マハラでの得はないので、マハラとの関わりがないということはあります。でも一般の人、特に貧しい人にとってはマハラの存在は結構大きくて、障害があるなしにかかわらずマハラの活動に協力的だったり、マハラのリーダーにはよく従ったりしているようです。 会場 ありがとうございます。そうしますとマハラというのは行政組織ではなくて、何か利害があるから何かしないといけないという価値があって、それで1つになるんでしょうか。選挙というのは国のような公的な選挙ではないということですね。 河野 マハラに利害があるかというよりは、まさに日本人的な感覚なんだと思うんですが、そのマハラに住んでいてマハラの言うことを聞かなかったら、実際は住めなくなりはしないんですけれども、住めなくなるような感覚はあるみたいです。ただ、お金があるとそういうことは関係ないので、気にしないみたいなことを言っています。 会場 そうしますと、ここですと新宿区戸山とか、そういう住所とかですね。 河野 そうです、住んでいるところですね。 会場 ありがとうございました。 河野 場合によっては障害者の話で言うと、政府の手続をするときにマハラリーダーの文書が必要だったり、マハラの推薦が必要だったりするために、マハラと利害があるときもあるみたいですけれども、でも一般の人はどちらかというと、その地域に住んでいると、村八分ではありませんが、何となくそこにいられない感じになってきてしまうということを言っています。 会場 非障害者への関わりとか働きかけとかは何かございますか。マハラのコミュニティ・モビライザーが非障害者への関わり、マハラの非障害者への関わりとか。今、主に当事者とか家族との接点があるということだと思いますけど、行事では非障害者の方もいらっしゃりますか。 河野 はい、そうですね。活動の中で非障害者の人を巻き込んでいくようなときには非障害者も関わっていることもあると思います。その辺は、マハラのそれぞれのモビライザーによって違うかもしれませんけれども。 会場 お話ありがとうございました。盲人伝道協議会の金澤と言います。質問が二つあります。一つはウズベキスタンのこのワールド・ビジョンのプロジェクトが、ワールド・ビジョンが取り組んでいる総合的な地域開発、世界中で取り組んでいると思いますが、その中の一つの、全体的な地域開発をウズベキスタンで取り組んでいて、その中の障害者の分野なのかというのが一つ。というのはこの題「開発とリハビリテーションの協働の試み」というのを読んで、私は開発というよりそっちを思い浮かべてしまったんですね。でもお話を聞いているとそうでもないような感じもして、そこで言われている「開発」というのがどういう意味なのかというのを尋ねたかったのが一つ。 それからもう一つは、「はじめに」の方で「CBRを構成する活動とリハ専門職の必要度」という表の「大分類」「中分類」「内容」というのがこのプロジェクトのすべての活動を表しているのかどうかということをお尋ねしたいのですが。 河野 ありがとうございます。まずタイトルのことを言うと、開発とリハビリテーションの協働みたいな大きいことを言っていますけれども、要は開発分野で働いている人とリハビリテーションで働いている人の間で働いているくらいの内容だなと、確かに今ご指摘されて思いました。 ワールド・ビジョン自体はウズベキスタンで大きな開発をやっている中での話なのかどうかというのは、今西さんが説明された方が。 今西 ワールド・ビジョンは他の途上国では地域の総合開発、農業とか協力とか総合的な活動をしているんですけれども、ウズベキスタンはそういう活動はやっていません。このプロジェクトはもともとCBRをやろうと思って目的として立ち上げたわけではないんです。河野さんの話に障害者の入所施設が2つあるという話があったと思うんですが、マーシーハウスという施設で、もともとレスキュープログラム、つまり危機にある子どもたちをどういうふうに救うか。その目的は、ソビエト時代には障害を持った子どもたちというのは家庭から離されて施設に入れられて一生そこで過ごすと。ソビエトの場合は社会福祉がかなりしっかりしていたのでそれなりの一生を暮らせたんじゃないかと想像するんですけれども、ソビエト崩壊後、民主化になって社会主義経済が壊れてとなると、こういう施設にはいわゆる社会福祉の予算がだんだん削減されて、場合によっては非常に栄養状態の悪い子どもたちがいっぱいいるというところで、それが子どもが危機にあるということで、それを救うための活動をやって、最終的にはそこにある施設入居の子どもたちが家庭に戻って家族と一緒に住むことを一番の目標として、先ほどの話にあった障害の入居施設2つに、そこにある子どもたちの状況をよくすることから、例えば栄養状態の改善をするための食料支援もしていますし、リハビリテーションの施設の改善、あるいはリハビリのためのプールを作ったりということもやっていました。ただ、その最終的な目標は、そこの子どもたちをコミュニティ、家族に帰すということだったんです。そこから始まって、そのために何をすればいいかと考え始めて、このプロジェクトを考え始めたと。最初の頃は、施設にある子どもたちをどうするかということで、かなり我々はメディカル的な検討をしていたんですが、いろいろ考えて、戻すためにはどうすべきかということで行き着いたのがCBRということがあって、このプロジェクトが立ち上がったという経緯があります。 ですから質問にあった、地域の総合開発の中の位置づけのプロジェクトということではなくて、むしろソビエト時代からの施設にある非常に厳しい状況にある子どもたちをいかに救うか。その救う目的としては家庭に戻すというところから始まったとご理解いただきたいと思います。 河野 ありがとうございました。 それからこの表が我々の活動をすべてカバーしているかというご質問でしたが、最初にこの活動を始めるときに、実際に我々はCBRは何をするんだろうという話を現地の2人としまして、その中で2人と共有するために作った表です。見ていただくとわかるように、他の活動も行われています。例えば政府のポジションペーパー作りというのは多分、この中には位置づけにくいと思いますが、そこに投入しているエネルギーというのもありますし。ここで全部カバーしきれてはいないかもしれません。 会場 アジア経済研究所の森と申します。非常に興味深いお話をどうもありがとうございました。またウズベキスタンではいろんな成果があがっているという事例を具体的にお話しいただき、ありがとうございました。 質問は二つあります。一つ目は、ワールド・ビジョンのお話についてなのですけれども、地域でバリアーを無くしていったという話がありました。先ほどの河野さんのお話によると、プロジェクトは2年間と非常に短いとのこと。それが終わった後、元の状態に戻ってしまうのではないかという危惧があります。プロジェクトの継続性について考えましたときに、今のお話を聞きますと、例えばそれぞれの家庭の子どもたちや障害を持った大人が、少しずつよくなりつつあることはわかったと思うんですね。そこで気になるのは、環境、周りの人たち、コミュニティが変わったかどうか。イベントや1泊旅行とかをしたのはわかりました。地域の人たちがそれを支援するようになったか、プロジェクトから何かを学んだのかというところ。それで支援を続ける環境ができてきているのか、地域は変わったのかどうかというところをお聞きしたいと思います。 二番目の質問は、現地ウズベキスタンからも2人が関わっていらっしゃいますね。上野さんとの関わりの中で、バングラディシュの場合は、専門家事業と障害者専門家の事業が協力し合ってCBRづくりをしているということがありました。先ほどの現地の2人の方はウズベキスタンで必ずしも専門家ではないということでしたが、どんな立場なのかよく見えませんでしたもので。河野さんがいらっしゃるのはわかりますが、地域の人たちがいて、その間で、メディエーターみたいな立場なのか、お二人の役割がどんなふうなのか、ご説明をお願いできればありがたいと思います。 河野 ご質問ありがとうございます。最初の、この活動を継続していくときに、地域の一般の人たちが今までの活動で変わってきたのかというご質問ですが、端的に言ってしまえば、もしかしたら地域の一般の人たちはそんなに変わっていないかもしれない。地域の一般の人たちの受け入れか変わっていくのが一番いいんですけれども、その前の段階で、障害を持っているご本人とか、障害を持っているご家族の意識が変わっていったり、行動が変わっていくというところに、多分我々の事業は焦点が当たっていたんだろうなと、お話を聞きながら自分でも整理ができた感じなんですけれど。ただ、地域の中で暮らしていくときに、多分この活動自体は地域の障害のある人とか障害のあるご家族にすごく焦点が当たった活動になっているんですけれども、その人たちが一緒に地域の中で自分たちの暮らしをよくするために動いている中で、地域の他の人たちとの摩擦があるのかわからないんですけど、何かが起こって地域の人たちの意識が変わっていくということを期待しているというくらいのレベルなのかなと思います。具体的な例を挙げると、地域の人たちの意識が変わっている細かなことというのはなくはないんです。マハラによっては、マハラリーダーの意識が変わって、とても協力的になってくれたマハラというのもありますし。ただ全体で言うと、地域全体が変わったかと言われて「変わりました」と言えるような段階ではまだないというのが現実だと思います。何とか変えたいと思っています。 あともう一点、現地にいる2人の役割ですが、基本的に私も含めて現地の2人も、地域から見るとすごく外部の人。私もものすごく短い期間で去っていく。現地の2人も、1人は日本人でもう1人はウズベク人ですけれども、ウズベキスタンのワールド・ビジョンにこのプロジェクトのために雇われているだけで、メディエーターを一時的に果たせるかもしれないけれど、持続的に彼が地域の人たちをファシリテートしていくという段階には、まだないと思います。どちらかというと、我々はモビライザーを探していますが、モビライザーの役割が地域に残りながら、地域の資源を結集しながらやっていくという人たちになるんだろうと思うんですが、そのモビライザーたちの教育・養成を、今はずっと続いていくとは言い切れない段階かなと思います。少しでも先に進めていけるように考えてもらわないといけないなと思っているんですが。お答えになりましたか。 会場 ありがとうございます。もう一つよろしいですか。 地域の方々はまだ変わっていないというお話ですけれども、先ほどおっしゃった場所は、タシケントの町会みたいなところでしたよね。都会の中ではCBRが非常に難しいことがあると思います。また途上国の都市部であれば、なおさらという気も致します。そこでCBRをやる場所としてそこを選んでよかったのかというところが気になるんですがいかがでしょうか。 河野 選んだのは私が答えようがないところもあるんですが、でも、タシケントはすごい大都会ですけれども、大都会でありながら、マハラの力がすごく強くて、地域という意識はすごく強いので、都会の中では比較的CBRの活動に合っているのかなという印象は持っています。でも確かに大都会ではありますし、マハラによってはいかにも都会っぽい心を持っている人が住んでいるところもあるみたいなので、このCBRの試みがタシケント全土に適用できるものなのかというのは、できるかもしれないし、できないかもしれないというのはあるように思います。 会場 ありがとうございました。 上野 リハビリテーション協会の上野です。今日は大変貴重なご報告をいただきましてありがとうございました。質問があります。森さんと金澤さんから出ていた質問と重なるんですけれども、継続性についてお伺いしたいんですが。 今の発表では、当事者団体やその家族の団体が中心的になるのが重要ではないかというお話に対して、私はやはり、開発の中でどうとらえられていくかということも大きなポイントではないかと思いました。質問は、マハラの機能は非常に重要ではないかと思いますが、マハラの中に、例えば自治組織として自分たちの状況を自分たちでよくしていこうというような、他の国ですとよく、開発委員会のような機能はあるのかどうか。継続性を考えると、この2人のスタッフが個人的に続けていくのか、あるいは何らかの組織がマハラの中にあって、そこに組み込まれていくかどうかというのは、継続性のために非常に大きいのではないかと思いますので、その辺をお伺いしたいと思います。 先ほど今西さんから、ウズベキスタンでは総合的地域開発としてはワールド・ビジョンとしてはやっていらっしゃらないということだったんですが、それがなぜなのか。開発についての展望はあるのかないのかというところに関わってくるのか、今西さんからお伺いできればと思います。 河野 大きい話から話してもらった方がいいですかね。 今西 ウズベキスタンで、なぜワールド・ビジョンが他の国でやっているような地域総合開発をやっていないかという理由は、仕組み的なもので、ワールド・ビジョンはチャイルド・スポンサーシップというプログラムを通して地域開発をやっていますので、ウズベキスタンはまだそういうことがやれる状況にないということが大きな理由としてあります。 それと、先ほど言いましたようにウズベキスタンでは地域開発というよりは、ウズベキスタン、あるいはタシケントというところは、経済的にはかなり他の途上国より上なんです。だから総合的な教育レベルなどが低いということではなくて、その中で、マージナライズされた、特に子どもを救うというところから焦点を当ててやっていますので、その一つのプログラムの中でこのCBRのプロジェクトがあると位置づけているとお考えいただければと思います。 河野 ありがとうございます。マハラの委員会の話ですけれども、開発に対する委員会ではないんですけど、マハラの中のいろんな活動とか今後の方向性を決めていくマハラ委員会というのは、あるにはあるんです。そのマハラ委員会に所属している人の意向が住人の意向だと言えるかもしれないんですが、上意下達の仕組みになっている要素がすごく強くて、上の方の行政、国とか市のレベルの話を下に下ろしてくるだけの機能という要素がすごく強い感じになっている。なかなか下々の人たちの意見を吸い上げる仕組みには、今のところなれていないという部分はあるかもしれません。 ただ、おっしゃるようにマハラにどうやって飛び込んでいけるかというのは、地域で何かするときにはすごく重要になってきて、今後もしこの活動をタシケントでいろんなマハラに広げていくにしても、そのマハラの中でどういうふうにこの活動を取り入れてもらうか、どういうふうに理解して取り入れてもらうかというところがカギになるとは思います。 マハラ自体にどうやって話を通していくかというと、これがウズベキスタンの仕組みはよくわからないんです。行政の仕組みはあるんですが、マハラにはマハラ・ファウンデーションという全国組織があるんです。そのマハラ・ファウンデーションの委員会とか、ディストリクトのレベルの事務所があって、さらにその下に一つ一つのマハラがそれぞれ入っているという仕組みになっていて、マハラ・ファウンデーションの上の方の意向をどうやって変えていくかというのはすごく大事なのだろうなというのは、実際に活動が始まってみてわかったというところはあります。政府の労働福祉省が何かを言って動くものでもないんですね。横の連携は皆無というか。もしかしたら最初からマハラ・ファウンデーションに入れていると、もうちょっとやりやすかったのかもしれません。政治的にいろいろ難しいところが多い国ではあります。 会場 今日はどうもありがとうございました。難民を助ける会の板垣と申します。私ども、ミャンマーでCBRの事業をやっているのと、今後、もしかすると不発弾の関係で障害者を含めてCBR関連で事業化できればと考えております。私もあまり経験がないものですから、実務的なことをお聞きしたいんですけれども、例えばそのモビライザーの方々は完全にボランティアなんでしょうか。ボランティアだとしたら、どうやって家庭訪問をやっていくことが可能なのか。もしくはボランティアではなくて日当なりのものを支払っていった場合に、ワールド・ビジョンが抜けた後にどうやってフォローできるかということ。あとは、グループアクティビティをやるときに、遠くに住んでいる障害者や家族の方がいらっしゃると思うんですけど、そのときにどうやって参加が可能になるのか。パワーポイントの中でも、貧しい家庭の方々がいらっしゃるというお話だったんですけれども、そういう方々をどうやって定期的に来ていただくことが可能になるのか。交通費の支援とかをされているのかということ、教えていただければと思います。 河野 ありがとうございます。モビライザーについてはお金を払っています。CBRのやり方によってなのか、お金を全然払わないでCBRボランティアとかCBRワーカーを任命しているところが、今もあるのか、私がマラウィでやっているCBRはまるっきりボランティアだったんですが、ボランティアだと大変です。言葉は悪いですけど、全然抑えがきかないというか、言うことを聞いてくれなくなります。お金は多分払った方がいいんだろうなと思います。ただそうすると当然、このプロジェクトが終わったらどうなるんだという質問が出るのは当然だと思います。お金がなくてやってくれるかどうか、そこにかかっていくという感じになっちゃうんですよね、ざっくばらんに言うと。今回選んだモビライザーたちは、という言い方になってしまいますが、障害当事者であったり、障害のあるお子さんを持っていたりと、もともと自分の地域内の障害者にまつわることに関しては関心のある人たちではあったので、きっと何かしら続けてはくれるんだと思うんです。ただそれが果たしてどれくらいの長さで続けられるかというのは全くわからないんです。それぞれ個々の関心と状況によって、続けていく期間とか規模というのは変わってしまうんだろうなと思います。そうならないためは、ボランタリーで動いてくれた人ではなくて、その人の動き方を見て学んで、その地域の中で「こういうふうにやればいいのか」とやってくれる人が増えてくれるといいなと思っています。それが多分、モビライザーの代わりに協力的な親の人や当事者を探したりというところにつながっているのかなと思います。そういう人が見つかって、地域の中で1人でも多く、自分でできることをやってくれる人がいれば、ちょっと違うかなと思います。 あとは交通費の話がありました。タシケント市内の今のプロジェクトに関しては、マハラ自体がそんなに大きな規模ではないんですね。なので、マハラの中のCBRポイントにお子さんたちが来て活動するというところについては、徒歩で通える範囲というところがほとんどで、交通費を出さなくても済んでいます。ただ、マハラを超えてマハラ合同で何かをしようとすると当然、何かしら交通手段を考えないといけないというのはありますが。地域の規模によりますね。地域の規模によって多分、交通費のこと、移動のことをどう考えるかという工夫も必要になってくるんだと思います。幸い、タシケントの場合はマハラの規模が地理的には小さくて済んでいるので、そこの問題はないんですけれども。 大体時間を過ぎたので、まだ質問があるかもしれませんけれども、私の担当の話はこれでおしまいということで、どうもありがとうございました。 以上 講師紹介 河野 眞(こうの まこと)氏 国際医療福祉大学保健医療学部 講師 作業療法士、医療福祉経営学修士 東京都立大学人文学部、国立療養所東京病院附属リハビリテーション学院を経て、国際医療福祉大学大学院医療福祉学研究科博士課程(後期)単位取得退学。 青年海外協力隊としてマラウイ共和国で活動。帰国後は、カンボジアの地域精神保健活動、ウズベキスタンでの地域に根ざしたリハビリテーション、栃木県の特別支援教育事業など国内外を問わずCBRの実践に取り組んでいる。 2009年度 第2回「CBRと開発」研究会 ―ウズベキスタンでの事例からCBRの課題を学ぶ― 2009年10月11日(日) 報告書 作成日 2010年3月末日 発行者 JANNET(障害分野NGO連絡会) 〒162‐0052 東京都新宿区戸山1-22-1 財団法人日本障害者リハビリテーション協会内 TEL:03-5273-0601 FAX:03-5273-1523