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原告 さいたま・中村英臣さん 補佐人・斎藤なを子さん


障害者自立支援法訴訟 さいたま地裁第1回口頭弁論  意見陳述
     原告 中村英臣 補佐人 斎藤なを子  さいとうさん


1)中村英臣さんとの出会い
私が、原告の中村英臣さんとはじめて出会ったのは、今から27年前、1981年のことです。
英臣さんは13歳、埼玉県立盲学校の中学部1年生、私は社会福祉専攻の大学4年生でした。

そのきっかけは、重い障がいをもった子どもたちの学校卒業後の行き先がない、という厳しい現実です。

障がいのある人に、ひとりぼっちの在宅生活を送らせたくはない、働く場が欲しい、そうした切実な願いに国の対応は冷ややかでした。
「自らの手で何とかしなくては」、全国各地で作業所づくり運動がひろがったのです。英臣さんたちや私も加わることとなりました。

2)貧しい社会資源・障害者施策と「バザー人生」
「バザー人生」。
英臣さんのお母さんがよく話される言葉です。
お母さんは、みんなで作業所づくりを決議した日から、69歳となる今日までの20数年間、資金作りのバザーをし続けています。

障がいのある人の地域生活をささえる作業所などの社会資源の絶対的な不足。
公的補助金制度の水準の低さ。
自治体ごとの著しい格差もありました。
作業所が法人格を得るためには土地の自己所有など莫大な自己資金が必要です。
一人ひとりの状況に即した支援をおこなうには基準どおりの職員では足りません。
本来は、公の責任で整えられるべきことを、関係者の必死の努力で補い続けて今日まできたのです。

「バザー人生」とは、この国の貧しい社会資源と障害者施策の裏返しの姿です。

3)障害者自立支援法が突き崩したもの
それでも私たちは、みんなでがんばることで行政の理解も進み、
少しでも安心できる将来につなげることが出来ればと、苦労を力に変えてきました。

その力の源は、あらゆる場面での介助と発作の見守りを欠かせない英臣さんが、
ゆっくりではあっても、英臣さん自身の力で生きる世界をひろげていこうとしている、作業所やホームで見せるいくつもの事実です。
英臣さんは親元を離れたかえでホームのトイレでウンコが出来るようになるまでに3ケ月近くかかりました。
環境が大きく変わるなか、座して自ら力めるようになることは人間にとって大切なことのひとつです。

しかし、こうした私たちの努力を根底から突き崩したのが障害者自立支援法です。

応益負担は、乳児期に病院で受けた「このお子さんはひどく異常です」という宣告以上に、
人として生きることを否定したも同然のことではないでしょうか。

また、英臣さんは、発作の変化などで年に何回か体調を崩してしまうことがあります。
障害者自立支援法の日払い方式になってから、
作業所を休むたびにお母さんたちは施設の収入が減ることを気にして「申し訳ない」と頭をさげるようになりました。

実際、あざみ共同作業所は、急激な減収となり、職員の賃金カットや退職者の補充を非常勤にせざるを得ない事態に陥りました。
施設が倒れたら英臣さんたちの行き場が失われてしまうという危機感は、今もなお深刻です。

4)法の誤りを正してほしい
ひとつの法律がこれほどまでに生身の人間を苦しめ、その生活をゆさぶり、明日への夢をしぼませ、
将来への計り知れない不安をかき立てることがあっても良いのでしょうか?

突然作業所を辞めていった知的障害の男性と親御さんの後ろ姿は私の脳裏に鮮明に焼き付き、決して忘れることは出来ません。
「な・さ・け・な・い」、失語症となった30歳代の女性が絞り出すように発したこの一言に凝縮されています。
障害があることから来る不自由さを補う支援を“益”として金銭の支払いを請求されるたびに、
障害があることへの自責の念にかられてしまう政策がとられたことは、断じて誤りであったと言えます。

私たちは、障害のある人たち一人ひとりの、かけがえのない一度きりの人生を少しでもより良いものにしていきたいとの思いで、
英臣さんといっしょに歩んできました。

障害者政策の根本を、この裁判で正していただくことを心より切望します。
「親より一日でもいいから先に死んでほしい」と親御さんたちに思わせずにすむように。
そして、障がいのある人が安心して、自分らしく生きていけるように。