はがき通信ホームページへもどる No.78 2002.11.25.
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私の尿処理方法の歴史

46歳。C4。頸損歴10年め。施設6年め。夜間と作業時人工呼吸器使用。電動車椅子

 「頸損は尿にはじまり、尿に終わる」——「はがき通信」で見た先達の格言です。最近の掲示板にも尿処理方法の情報提供を求める書き込みがあり、頸損である限りこの悩みはずっと続くのでしょう。私も種々経験してきたので、参考になればとまとめてみました。
  1. 病院は「留置カテーテル」

     受傷直後の救急病院から病院では、ずっと留置カテーテルでした。病院にいる限り、これが最も健康管理(色、にごり、量)および尿処理(2回/日)に優れます。しかし、必ず尿詰まりor/and尿漏れが発生するものと覚悟しなければなりません。私の場合は、3ヶ月に1度程度の頻度でした。尿詰まりについては経験してみないことには、その実感をつかむことすら難しい。吹き出る汗、あの頭の締め付けられるような痛み、この症状が自覚される時はすでに血圧は、通常の2倍以上の200を越えています。普段の起立性低血圧もなんのその、この時ばかりはベッドのギャッチを高くしてもらって何とか痛みを紛らわしつつ、導尿してもらうのを待ちます。
     尿さえ出してもらえば、後は嘘のように症状が消えてしまいます。最少で500ml程度、最多で1400ml貯めていたことがありますが、1400mlの時は膀胱壁からとおぼしき血液も混じっていました。こんなことがあると急激な尿の貯留を防ぐために、水分摂取を控えようなどと考えてしまいます。しかしご注意、水分制限は尿を濃くして詰りの原因になってしまいます。 
     一方尿詰りに比して尿漏れは、着衣からシーツまで交換の手を煩わし申し訳ないことこの上もないのですが、行き場を失った尿が貯まることなく漏れてくれた結果であり、身体症状をもたらさなかったことにむしろ感謝すべきでしょう。
     受傷1年半後、泌尿器科で膀胱機能検査を行なってもらったところ、「膀胱が小さくなっていて留置カテーテルを抜くと頻尿になってしまうので抜くことはできない」との判断でした。長期間膀胱に、尿を溜める仕事をやらせなかったのですから当然の結果でしょう。

  2. 在宅は「昼は紙おむつ、夜間は尿瓶、時に収尿器」

     受傷2年2ヶ月後、F病院に転院した直後にカテーテルを抜き、昼は紙おむつ、夜間は尿瓶を当てることになりました。F病院は「在宅」準備のための入院であり、在宅ではカテーテル管理が難しいと判断して抜いてくれました。前記泌尿器科の判断と食い違いますが、病院間のこの種の見解の相違は、状況や立場に応じてよくあることです。カテーテルを抜いても尿詰まりor/and尿漏れは、F病院と退院後の在宅生活とその後も、3ヶ月に1度程度の頻度で発生しました。
     受傷2年半後、在宅生活開始。尿詰まりは導尿で対処するのですが、在宅時は問題です。一応導尿方法を父母に教えてもらったのですが、入院中の導尿の機会はあまりに少なく、高齢の父母に覚えていてと言うこと自体無理と言うべきです。いざとなったら頭が痛くても、私が逐一指示してやってもらうしかないと覚悟を決めて退院しました。
     在宅8ヶ月間において尿詰りは発生せず、事なきを得たのは幸いでした。夜間の尿瓶は頸損のためまったく動けないことを利用したもので、体位交換のたびに尿を廃棄してもらいますが、当て方の失敗や稀に痙性で尿漏れすることは覚悟しなければなりません。オムツ代の節約と、それよりも陰部を乾燥させる効果がありました。またプラスチックよりも、ガラス製の尿瓶のほうが自重のおかげで収まりがよかったようです。
     一方、F病院では、在宅での外出を想定して「収尿器」を紹介してくれました。コンドーム式で、500ml容量の尿袋を膝部にとめるものでした。しかし、在宅生活では最初2〜3回使ったきり、ほとんど使うことはありませんでした。第1にペニスの大小は当然ながらコントロール不能で、使用中に必ずはずれるものと覚悟しなければならなかったこと、第2に付けてもらうことに特に幼児期にさえおむつを替えてもらったこともなかったであろう父親に、どうしても精神的負い目を感じてしまうことによります。
     精神的といえば、在宅時は父母のみに尿処理をしてもらう申し訳なさから水分量を意識的に制限してしまったこともありました。もちろん、水分制限など大きな間違いです。受傷3年4ヶ月後、排尿のたびに発汗、頭痛がしばらく続き、G病院で検査してもらったところ、「膀胱結石」を発見、手術で除去。

  3. 施設は「カテーテル」

     受傷4年3ヶ月後、施設に入居し、当初は紙おむつと尿瓶を継続使用していました。しかし受傷6年1ヶ月後、腸炎を発症、排尿も困難になり留置カテーテル再挿入を余儀なくされました。その2ヶ月後、朝晩1週間留置カテーテルのままでの残尿を検査したところ最高値が400mlあり、カテーテルが妥当と診断されました。
     施設では昼間看護師さんが常駐し、夜間もポケベル出勤体制をとってくれています。一度尿詰りを自覚し、夜勤の寮母さんにお願いして看護師さんを呼び出してもらい導尿してもらったこともありました。またカテーテル交換も2週間毎に看護師さんが行なってくれました。施設ではカテーテルがよいようです。
     受傷7年後(留置カテーテル再挿入11ヶ月後)、カテーテルが入りにくくなり、時には出血もあったため、J病院の泌尿器科を外来受診、その場で「尿道内の砂」を発見、除去。しかしその9ヶ月後くらいからカテーテル交換の3回に1回はシーツ交換が必要になるくらいの多量の発汗、違和感、頭痛を経験。
     留置カテーテル再挿入2年7ヶ月後、上記の自覚症状はカテーテル自体を刺激とする自律神経過反射によるものという仮定から、天然ゴムからシリコンに材質変更してもらいました。材質変更によって、この後のカテーテル交換は2週間毎から4週間毎に変更になりました。

  4. 「膀胱ろうカテーテル」

     受傷8年10ヶ月後(留置カテーテル再挿入2年9ヶ月後)、施設でカテーテルを交換した夜に、夜勤の寮母さんが血尿を発見して看護師さんを呼び出し、さらに救急外来に駆け込みました。結局、J病院で尿道狭窄を処置、「つっつけば血が出る」とのコメントでした。その2週間後、膀胱ろう造設術(といっても実質3分手術)によって、膀胱ろうカテーテルになりました。お腹に穴をあけることに精神的抵抗はありましたが、これしかないと言われれば否めません。カテーテル交換は4週間毎の外来受診でドクターが行ない、膀胱ろうの消毒は週2回の入浴後看護師さんが行なってくれます。
     受傷9年10ヶ月後の現在まで、膀胱ろうカテーテル1年で尿トラブルとしては尿漏れが数回/月でしたが、カテーテル側が詰まると元の尿道側が閉鎖していないので漏れてくれるらしく、尿詰りは皆無でした。

  5. 最後に

     「膀胱洗浄」は、受傷から現在まで如何なる尿処理方法の時も、医療機関によって多少の方法の違いはあったにせよ、週2回ずつ一貫して続いています。在宅の時は訪問看護師さんが行なってくれました。水分摂取について、毎日2リットルのペットボトルにお茶をいれてもらい、昼間の水分とは別に夜間これを飲むことをノルマにしています。これをはじめてからは尿詰りは起こっていません。
 内容に誤り、考え違い、今後のご助言等ありましたら、ご指摘下さい。

新潟県:TH th36th@hotmail.com 




 夢のバリアフリー温泉への旅 

 さみしい湯があふれる(種田山頭火、昭和7年、嬉野温泉にて)

 山頭火が嬉野で詠んだ句は七つほどあるが、この句はあまり引用されない。「さみしい」が町のイメージを暗くすると思われるのだろう。しかし嬉野がさみしいと言っているのではなく(それどころか「うるさいくらい」と日記には書いている)、漂泊の人生に重ね合わせられているのである。よしあしはともかく、いかにも山頭火らしい。
 山頭火は時雨が嫌いであった。行乞をしていたので身体に応えたらしい。はてさて、そんな時雨が通りすぎ木枯らしが吹きはじめると、山頭火のように温泉場が恋しくなるのは日本人ならではの性情であろう。それは障害をもつ人たちだって変わりない。
 わがふるさと佐賀県嬉野温泉もかきいれ時となるわけだが、うちつづく不景気風にあおられて、六十数軒の旅館やホテルも苦境を強いられているようだ。嬉野の特産を活かして露天のお茶風呂やお茶会席料理、湯豆腐まつり、シーボルトの足湯、巨大有田焼の湯壷、桜ウォークラリーなどなど、あの手この手の懸命な工夫がなされている。その苦労がしのばれるにつけ、お世話になっている町民の一人として私たち障害者も何かのお役に立ちたい。
 そこで過日、某新聞のコラムで「熱海の温泉が苦戦しているのは男性客の宴会を中心にしてきたから。それにくらべて湯布院が好況なのは女性客を大事にしているから。男性客目当ではもう駄目かもしれない」と辛口な意見がのっていた。それに付け加えさせてもらえば「身体の不自由なお年寄りや重度の障害者も大事にすれば、そのうち有望なお得意様となる」と言えるだろう。なにしろ灯台もと暗しと言おうか、嬉野町内に住みながら私は障害者になってから二十八年、まだ一度も旅館やホテルの湯につかったことがない。野趣あふれる露天風呂など夢のまた夢である。
 そのため、インターネットで他県の障害者から「嬉野温泉に行きたいが、(電動)車いすでもアクセスのいい露天風呂を教えてほしい」などと問い合わせがきても、おいそれとは答えられないのが恥ずかしい。むしろ彼らからあとあと感想や使い勝手を教えてもらったりする始末である。 
 たとえば広島県の頸髄損傷で通称ゾロさんは大の温泉好きで、電動車いすでヘルパーさんと各地の名湯をめぐりその写真をホームページに掲載したりしている。専用の首枕(百円ショップ製)をつけ股間には桶をかぶせて大の字に浮かんでいる姿は痛快である。
 私だってもちろん子どものころは、「古湯」や「元湯」という大きな公衆浴場に毎週末のように家族連れでつかりにきていたし、障害者になってからも入院先の国立嬉野病院の名物となっている温泉リハビリプールで浮き輪につかまってぷかぷか泳いでいたりはした。また訪問入浴介護のサービスでは温泉の湯が使われてもいる。
 だから嬉野の湯そのものについては知り尽くした気になっていた。ところがいざ退院してみると、重度の四肢マヒ者が電動車いすでも気楽に出入りでき、各種の設備がととのい、介助を気がねなく頼めるような旅館やホテルを探すのは難しい、という現実に呆然とさせられた。
 健常な人にはなかなか気づきにくいだろうが、電動車いすでいく場合チェックポイントとなるのは、玄関のスロープ、廊下の段差や階段や曲がり角の幅、エレベーターの広さ(電動車いすは意外とかさばる)、トイレの装備(ウォシュレット付きが望ましい)、露天風呂までの足場と距離、電動リフターのあるなし、浴槽まで抱えてくれる人、着替えのとき介助してもらうノウハウ(家族が付き添ってゆくにしても、一人では抱えきれないから)などである。
 それらが完備しているところは残念ながらまだまだ少ない。というのも昔ながらの旅館の造りや日本庭園や岩風呂など伝統的な様式美と風情を売りものにしているところが多いから、現代的なアクセスとは相容れない局面がどうしても出てくるのである。そのジレンマには私たち障害者自身だって悩むときがある。
 しかし先進的な他県の障害者たちの活躍にくらべられると、私たち地元の障害者がいかに働きかけを怠ってきたかと責められてもいたしかたない。後につづいてくる障害者たちからも「先輩たちは何をやってたのか!?」と笑われるだろう。
 そのため、昨年から開いたホームページに「嬉野温泉だより」として、今までにイベントなどで訪ねた数軒の旅館と観光課などから聞き集めた主な旅館のアクセス情報を一覧したり、嬉野温泉と吉田の焼き物の歴史をずいそうにして雑誌に発表したり、町政への投稿ボックスや知り合いの旅館主などに改善をお願いしたりしている。先日は高校卒業三十周年の同窓会が「和楽園」で開かれたので(ふだんはあまり出席しないのだが)、いい機会だと思いアクセス調べをかねて館内を見て回ったりした。
 できれば全旅館・ホテルを訪ね歩き、電動車いすの足で調べた細かなアクセスのもようを冊子かホームページにして、全国の障害者たちに利用してもらいたい。しかし自分の原稿書きに追われてきたのと、年々身体の具合が思わしくなくなるのとで、ついつい後回しになってしまっている次第である。
 そんなときメール仲間から耳寄りな情報をいただいた。熊本県の山鹿温泉の「かんぽの宿」には電動リフターを備えた温泉があり、実際に訪ねた障害者たちによると大変バリアフリーで使い勝手がよく、人頼みのストレスを感じることもなく、生まれて初めてと言っていいほど気持ちよく湯治を楽しめたと、感激の声々を伝えてきてくれた。私もいつか訪ねてみたいと思っている。
 わが町の旅館組合や商工会や町議や観光課の方々もぜひ視察に出かけられて、良いところはどしどし取り入れてほしい。そしてとりあえずはモデルケースとなるような施設をどこかに設けてほしい。理想としては、四肢マヒ者が電動車いすで一人で行っても、ちゃんとヘルパーや看護士の資格をもった職員に衣服の着脱や清拭を手伝ってもらえる、そんなレベルまで念頭に置いておきたい。電動リフターが無理なら入浴専用の手押し車いす(アルミ製のシャワー椅子のようなものでもよい)を常時用意しておき、それに乗ったままスロープ付きの浴槽に入れるような工夫も楽しいではないか。
 『そんな手間ひまのかかる設備を誰が好きこのんで……』と最初は相手にもされないだろう。しかし何事も慣れてしまえばそれが新たな常識となってゆくものである。日本中には温泉好きな障害者(とその家族)もたくさんいるはずだから、採算としても十分将来性があると思う。現にこの私がいちばんまっ先に出かけたい。今なら先進地となって取材や視察客なども望めるだろう。
 そんな夢のあれこれを思いめぐらしているうちに、思わず『ああいた、嬉野の露天風呂にどんつかって、ゆたーっと手足ば伸ばしたこんな、褥瘡てん赤味てん痙性てん胃痛てん、一発でぴしゃーって治るやろうばってん……』と呟いている私だった。これがそれほど身のほど知らずな願いだろうか。

 ★今月号の二連発ギャグ★
 タマちゃんの痣らしい、武庫川のこちら側

佐賀県:中島虎彦 nakaji@po.saganet.ne.jp




 思い立っての京都行き 

 今年の4月から、呉駅のホームにエレベータが設置されました。それもあって日帰りでいいから、と思い、日曜になって京都懇親会に行くことにしました。呉駅から広島駅までは、ノンストップで行く安芸路ライナーという快速電車に乗りました。各駅停車がないので余分の重力がかからず、快適でした。京都駅に着くといつもの調子で姉が先頭を行くので、私の方向音痴はいつになっても直りません。
 会場に到着すると、案じたごとく誰もいません。正確に言うとYさんはひとり残られていたので、お話ししました。やがて、散策をされていた人たちが戻ってきました。案内してあげようと言うので、近くでいい、と言いました。
 案内されたところは島原でした。江戸時代には江戸の吉原と並び称された遊郭。所々に史跡の立て札がありました。印象に残ったのは、島原住吉神社の近くの銀杏の樹でした。その昔の遊女も、この樹を見上げていたのではないかと思いました。その後、会場に戻り、三々五々帰ってこられた方とお話ししたあと、家路につきました。

広島県:TH fwga7256@mb.infoweb.ne.jp



 懇親会に初参加 

 「はがき通信」懇親会に初めて参加しました。どこで懇親会が開かれても、参加することなどできないと考えておりました。京都で開催されると知って、ローカル線とはいえ、わが町から智頭急行「スーパーはくと」が出ています。乗り換えの必要もなく行けそうです。

 でも、着いてからの介助者もない、(どうする)大きな問題がありました。大阪在住の子供たちに連絡すると長女は(28日仕事・29日は運動会)30日しか行けないと言い、次女は29日に1〜2時間ならとの返事。結局、介助者なしで参加を、相談するような気持ちで向坊氏にメールで2泊の参加希望を出しました。「はがき通信、懇親会お申し込みの手続きは無事に完了しました。介助スケジュールを立てましょう。」と嬉しい返事をもらい、参加の決意はしましたが、実際に切符を買ったのは出発の1週間前でした。
写真
 年の差はあるにしても、同じような悩みを持つ仲間に会える楽しみと喜び、そして不安、乗り込んだ列車は狭いながらも車イス指定席で4時間足らずで、京都駅に着きました。駅を出るとすぐに、ボランティアの学生さんが声を掛けてくれました。観光の都、京都もわが町と歩道の整備は変わりなく、電動車イスでは走りにくい街です。聞法(もんぽう)会館までは20分ほどで着き(じつは、聞法が読めず娘たちにも何と読むのか? と聞かれて……?)、エレベーターで3階に案内されて広い会場に入りました。当たり前ですが、知っている人はひとりもいません。

 落ち着かないまま1日めは終わり、夕食は個人個人で取り、同室で介助もして下さったボランティア・チーフの本村さんと部屋に帰り、落ち着きました。娘たちに、「もんぽう」と読むのだと携帯でメールを出している時に、1階のロビーに集まって話し合いが持たれていると聞き、あわてて降りて行きました。顔と名前が一致する人は5〜6人です。でも、この時に懇親会に集まった人たちの温かい心の内がわかり嬉しかった。10時過ぎになって外出しておられた方々も帰って来られて私は部屋に戻り、ボランティアの学生さん3人にベッドに上げてもらいました。

アイリーンさん写真 翌日は、お昼前に次女が会いに来てアイリーンさんのお話が済み、フロントで福祉タクシーに電話してもらうととんでもない高い値段を聞かされ、諦めて昼食に出かけました。妻、娘、孫との食事は初めてです。貴重な経験をしたものです。1時過ぎにホテルに帰りましたが、もう誰もおられません。そこに「広島から今、来ました」と、T.Hさんに出会います。「向坊さんと瀬出井さんに会ったら、また広島に帰る」と言われる。本当に珍しく、前輪駆動の電動リグライン椅子に乗っておられました。お話をしてみると、同じ年の8月〜9月の違いで頸損になっている。こんな奇遇な出会いをさせてもらい、最後は長女親子に送られて無事に帰りました。
 「はがき通信」を、陽、陰、で支えておられる向坊さんをはじめ、本村さんご夫妻、ボランティアの皆さんに心から感謝です。懇親会 in 京都でお会いした皆さんにも感謝です。またどこかで再会しましょう。

 鳥取県:HY hy0025@ncn-k.net


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