はがき通信ホームページへもどる No.69 2001.5.25.
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新世紀の幕開け、夢が叶う幸せのおすそ分け!


  2001年1月26日金曜日、ドリカムのコンサートに行ってきました。なかなか抽選に当たらないチケットが、やっと今年当たったんです。私以上に熱狂的なファンの娘たちと、チケット1人1枚限定につきパソコンと携帯で先行予約。しかし、当たったのは私1人だけ。
 「普通ね、母親なら“私はいいからあなたたち行ってきなさい”と言うもんよ。」……ゴメン! これだけは娘といえどもゆずれない。パパはどうしても仕事が休めないため、知人に泣きつき年休だかボランティア休暇だかわからないけど、2時間取ってくれてたどり着いたコンサート。
 しかし……コンサートが始まるとみんな立ってしまって前が見えない。仕方ないのでかろうじて見える端っこの通路に移動。不満に思ったけど、「これただけでも幸せ!」と気分取り直しすっかり溶け込んだ私。今日のコンサートはドリカムの意向で、客席は時折電気がついて明るく、アットホームな感じでした……。
 あっという間の3時間。アンコールも済みこれでもう終わり、と思っていたら「どうしても行きたいところがあるの」と吉田美和さんがステージから降りてきて、「今日はありがとう!」と抱きしめてくれたのです……。マラソン前の緊張感の中聴いたドリカム、入院中自分に負けそうになったとき一生懸命聴いたドリカム、いつもいつも勇気をくれるドリカム……ありがとう。
 ドリームズカムトゥルー……夢が叶う……。そんなわけで、みんなにも幸せのおすそ分けです。夢が叶いますように……。

 <写真2枚…写真説明>

 広島県可部線安野駅です。
 私の部屋から真正面に見えます。
 駅だけではなく当たり一面花花花……。
 連日、県内外からのカメラマン、スケッチ、観光と大にぎわいでした。
 昨日から花は散り始め、もうすぐ太田川の風物詩、鮎釣りと変わります。
 この写真は4月4日に撮りました。
広島県 :MK hello-mari@enjoy.ne.jp



 緊急避難 


 「吸引は医療行為なので、ヘルパーの吸引行為はやってはいけないとされている」と言う方がいますが、吸引は医療行為ではありません。いわば、医療「類似」行為です。医師法には、明確に医療行為の範囲を規定していません。法律論では通常、法律に書いていないことはやっていいことです。これが明確に法に明記されている医療行為であれば、警察・検察が動き出します(たとえば、手術を行うヤミ医者行為など)。

 A:「法律的にやってはいけない」ということと、
 B:「ヘルパー制度でやってはいけない」
 ということはまったくの別物です。Bの例では(介護保険ヘルパーでは)草むしり、大掃除、車の洗車などがあります。吸引はこのBに入ります(法律で禁止されてはいません)。Aの例には、ヘルパーが泥棒をする、ヘルパーが手術をする、などがあります(そんな人いない?)。こちらは警察出動です。厚生省管轄ではありません。警察庁です。

 吸引をやってはいけないという説明のさい「法律違反だから」という人は、よく法律を知らない方です(鵜呑みにしないで下さい)。やってはいけないのは、ヘルパーに金を出している厚生省が「国の金でやってはいけない」と言っているからです(ですから、自分でお金を出してヘルパーを雇う分には、吸引も草むしりも自由にできます。自治体が単独でお金を出している制度の場合も、吸引OKが多いです。これらは法律違反ではないからできるのです)。
※注:厚生省がやってはいけないと言うのは、いいかげんな一般ヘルパー事業者に解禁したら死人がたくさん出るからです。全身性障害者の自薦の介護人が障害ヘルパーや介護保険ヘルパーの場合は、厚生省医事課は「違法ではない」「やめなさいとは言わない」と言って、容認しています(当会も入った2000年3月の人工呼吸器利用者のいる8団体合同交渉で確認)。 

第7章 犯罪の不成立及び刑の減免

<緊急避難>
 第37条 自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。ただし、その程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。
 前項の規定は、業務上特別の義務がある者には、適用しない。
 これは、ヘルパーと障害者が乗った船が遭難して、救命ボートで医者がいなくて手術した……といったときに免責で使う項目です(交渉にはこの規定は使えました)。

【医療類似行為関連の厚生省交渉の報告(下記HP・2000年3月号より)】

 2月7日に医療類似行為関連の交渉を7団体合同で行いました。

<参加者>
 厚生省からは、健康政策局医事課(医師法の考え方の担当)の法令係長、老人保険福祉局老人福祉計画課法令係主査(今回の総務庁勧告に対する回答取りまとめ担当)と、障害福祉課身障福祉係長に出席していただきました。

<背景>
 最近、ヘルパーの医療類似行為に対して、一般ヘルパー業界や民間事業者からの規制緩和の声が出ていますが、そんな中、総務庁から「どこまでがヘルパーのできる行為か具体的に示せ」という勧告が出ました。人工呼吸器利用者の吸引などは、長時間介護に入る自薦ヘルパーには簡単でも、たまにしか派遣されない一般ヘルパーに担わせるには問題が多く、「具体的に示し」たら「だめです」という回答になってしまうことが明らかでした。

<結果>
 まず、交渉に参加した人工呼吸器利用者(単身24時間介護)2名から生活状況の説明をし、次に、ベンチレーターネットワークの人工呼吸器利用者の生活資料を見せ説明しました。さらに、吸引等医療類似行為は、全身性障害者の一人暮し運動がはじまった70年代から自薦介護人が行っており、さらに、「本人の手のかわりとしてやっている」「不特定多数に対してやっているわけではない」という2点を説明しました。また、訪問看護婦や訪問医は人工呼吸器の設定を間違えて帰るが、障害者と自薦ヘルパーがそのつど直しているという事例を出して、長時間介護に入っている自薦ヘルパーは一般ヘルパーとは違うので切り離して考えるべきだと説明しました。
 医事課は、「今までもグレーゾーンということでやってきた」「今後もグレーのままがいいと思う」「はっきりとは(総務庁には)回答できないと思う」と話し、老人計画課も、吸引などについては、はっきり書かないことには異論はないようでした。
 何一つ回答しないわけにはいかないということので、「薬やガーゼ交換程度はいいですよ」とだけ書けばいいのではないかと提案しました。総務庁への回答が3月末のため、まだ回答方針の検討に入っていないということでしたが、ほぼ同じ認識になったので交渉を時間内に終えました。(自治体が吸引OKの方針でも、国はダメとは言わないということも確認しました。但し、自治体が厚生省に問い合わせたら、一般的回答としてダメと言われます) 
全国障害者介護保障協議会:大野直之 kaijo@anet.ne.jpメール
全国障害者介護制度情報ホームページ: http://www.kaigo.npo.gr.jpホームページ
制度係(相談) TEL: 0422-51-1566<11時〜23時>



肺血栓塞栓症で入院 


 僕が2月に患った「肺血栓塞栓症」について書きます。
 2月1日の早朝5時ごろ、胸に何かのっているような圧迫感と息苦しさで目が覚める。10日くらい前から風邪をこじらせていたためその影響かと思ったが、呼吸があまりにきつかったため、母屋の母と訪問看護婦に電話。その後、救急車を呼ぶ。
 救急車でW病院に到着(5:30)。外科医が診察。レントゲンの結果、胸にうっすら白い陰(僕も写真を確認)、軽い肺炎で心配ないとの診断。呼吸が苦しいという僕の訴えに、酸素マスクをつける。8時には内科医が来るからそれまで待てとの医師の指示。母とそのまま8時まで内科医を待つ。やはり呼吸は苦しい。
 その間訪問看護婦はどうしていたかというと、T病院で僕の到着を待っていたらしい。というのも、僕はT病院から毎月定期的な往診を受けており、T病院がかかりつけである。訪問看護婦はそのことを救急隊員に話していた。だが、今日の当番はW病院だからと、救急車は僕をW病院に搬送したのである。訪問看護婦はかかりつけではないものの、とりあえず僕が病院に搬送されたことを確認し帰宅。
 8時ごろ内科医が来る。やはり診断は肺炎。だが、僕が定期の往診をT病院で受けていることを話すと、それならT病院で治療を受けたほうがよいと救急車を呼び、T病院に転送される。
 5分後T病院到着。連絡を受けていたのだろう、院長をはじめ顔なじみの医師が数人出て来る。レントゲン写真を見たのち、CT撮影を指示。CTを受ける。これにより肺血栓が見つかる。これは後に訪問看護婦から聞いた話だが、このとき院長もレントゲンで肺炎と診断したらしいが、僕が異常に呼吸困難を訴えるため念のためとCTを撮ったらしい。
 とにかく、検査の間も呼吸がだんだんきつくなり医師から病名、治療の説明を受けた段階まで覚えているが、次に目を覚ましたときは4日後の2月5日だった(これは治療のため薬で眠らされていた)。何がどうなったのか看護婦に聞くと、僕はすぐ気管内そう管され、人工呼吸器をつけられたらしい。その後血液を柔らかくする(血栓を溶かす)薬を点滴で投与。これが著しく効いたおかげで助かったのだという。また、なによりも血栓が片肺だけだったことが幸いした。しかし、薬の効きが遅いようであれば、そう管から気管切開に切り替えるとか、大学病院への転送とかいう話しもあったらしい。
 今回は本当にどうなることかと思ったけど、血栓が溶けた後は順調に回復。結局、22日の入院で無事退院。先日退院後1ヶ月のCT撮影に行って来たが、結果は良好とのこと。
 それで肝心の原因だが、はっきりしたことはわからない。ただ僕の生活状況を紹介すると、僕の場合、かかとが浮くようふくらはぎの下にクッションを敷き、仰向けに寝ている。昼間は午前午後と、絵を描いたりパソコンをしたりして過ごす。そのときは電動ベッドの上半身を起こし、オーバーテーブルにパソコンやイーゼルを乗せ、専用のスティックを口にくわえ作業する。だから昼間は体位交換はしない。マットはスウェーデン製の褥そう防止マット(¥80000)を使っているが、褥そうができたことは一度もない。
 僕は、家の離れの別棟に基本的には一人で生活している。母屋には69の母と84の祖母がいて、夜7時半ごろ母が洗面に来るのだが、あとは翌朝7時まで一人で過ごす。したがって、夜も体位交換はしない。僕の体が動かされるのは週に3回の風呂のときと、週に2回のベッド上でのリハビリのとき、毎週土曜日2時間ほど車椅子に乗るときだけである(車椅子は週に1回乗るだけ)。この状況から考えると、原因は運動不足といったところだろうか。水分は、カテーテル留置のためたくさん摂っている(1日3500㏄前後)。
 退院後、インターネットで肺血栓について調べていたら、「明日の友」という雑誌のバックナンバーに「今多い肺血栓塞栓症と肺梗塞」という特集記事があることを知り、取り寄せて読む。その中に「この病気はレントゲンや心電図には現れにくいところから、見落とされやすい」「また、医師にもこの病気はあまり浸透しておらず、医師が『息苦しい』という患者の訴えから、この病気を導き出してくれれば幸いである」というようなことが書かれてあった。
このことから、最初に救急車で運ばれたW病院での誤診、次のT病院の院長の診断も最初は「肺炎」であったというのも頷ける。しかし、T病院に転送されず、あのまま「軽い肺炎」という診断でW病院で治療を受けていたら、いつ肺血栓に気づいてもらえたか(肺炎を併発していたのも事実です)。
 これが今回僕が患った「肺血栓塞栓症」の顛末です。


 

 黒木さん、片肺だけの塞栓で幸いでしたね。皆さん、忘れていらっしゃるようですが、松井が編集していた当時のはがき通信にエコノミー症候群(ECSと略)について紹介したことがあります。

カエル 「はがき通信」20号の記事です (編集者注)

 大学院時代の友人2人がほぼ同時期発症しました。一人は肺血栓塞栓症まで進展し、呼吸器専門の都立病院ICUに緊急入院し、一命をとりとめました。もう一人は当時、医科歯科大助教授で国際会議出席のため、ウィーンの空港に到着寸前に下肢の激痛で現地の病院に緊急入院し、助かりました。その彼、K氏は、ご自分の体験からECSの調査を始め、日航など航空会社に予防対策の申し入れをしていました。彼から資料をもらって、脊損、頸損者たちにも密接な合併症なのではがき通信に紹介しました。頸損者にとってECS、エコノミー症候群と環境制御装置の2つともたいへん重要です。たしか「もう一つのECS」とかいうタイトルで紹介しました。
 下肢の血行障害と水分不足から血液の濃縮、血栓の形成、その血栓がはがれて心臓から肺や脳へ運ばれ、血管を詰まらせてしまう障害です。
 術後、長期臥床が予測される患者さん、たとえば整形外科系の入院患者さんには、予防 対策を学生の看護計画にも取り入れていました。水分をたくさんとること、血栓予防効果のある食品を摂取すること、たとえば青みの魚、鰯やさんま、納豆も良いそうです。一般的には中高年のハイリスク障害です。

(メーリングリストより抜粋)
※血栓の再予防の参考本『血栓の話』青木延雄 著 中公新書

宮崎県 :Kurotaka kurotaka@mx6.tiki.ne.jp



With You、友、遊、勇、悠……

 「はがき通信」の皆様、いかがお過ごしでしょうか。こんにちは。北海道からPONPOKOです。日本中、お花見に春の訪れを感じている今日このごろ、こちら北海道の南端ではようやく平地の雪が消え、フキノトウが顔を出しました。
 さて、私は1995年から、「はがき通信」を拝読してきました。最初のころ、2回ほど投稿もさせていただきましたが、やけに気負っている自分の文章が活字になるのは恥ずかしく、以来、御無沙汰しておりました。
 6年余りの沈黙を破り(?)、今日は現在、私と仲間が活動をしている『With You〜中途重度身障者の会〜』を紹介させていただきます。私が1993年に罹ったロシア春夏脳炎は難病には認定されず、町の社協の身障者福祉協議会は比較的軽い障害を持つ高齢者の集まりで、同病の士もいない私には話し合う仲間もいない状態でした。そこで、私が居場所を求めて、1998年5月に立ち上げたのが、With Youです。「特定な疾患に限らず、健常者と障害者が同じ目の高さで隣り合い、フォローしあう中で、『街の風景に、障害者の色が溶け込む日を願って。楽しもう、外に出よう、With You!』をメインにして、楽しめる会にしよう」というコンセプトを元に始め、現在では上磯町を中心に函館市など近隣から14人の障害者(小脳血腫、頸損、脳梗塞、他)を含み、賛助会員も加えて計50人のメンバーから成っています。
 With Youでは、バーベキュー、食事会、ドライブなどを通して、障害者が自主的に外出し楽しむと同時に、自分たちの存在を何気なくアピールしていこうとしています。また、私たちは、健常者の会員をボランティアとは考えていません。障害者の会員は介助を必要としますが、会設立から3年経って少しずつ家族以外の介助も受けられるようになってきました。手を出しかねていた家族以外の健常者も、次第に自然に接することができるようになってきつつあります。
 私自身、四肢(特に上肢)麻痺、言語障害を持つ身なので、家族以外の人に介助を頼むということに大きな抵抗がありました。けれど、スムーズに言葉が通じないという不安からは、回を重ねるうちにほんの少しずつ解放されてきました。ただし、With Youの活動中、私の横には常に相棒の夫がいます。障害者とその家族との微妙な関係におけるストレスも、解消していけたらと私は考えているのですが……。これは、ナイーヴな問題です。
 また、一昨年とその前に、With Youコンサートと称して、ハープ奏者の池田千鶴子さんと社会福祉法人「侑愛会」(知的障害者施設)の近藤弘子先生のご理解とご協力を得て、ハープコンサートを開きました。健常者と障害者が同じ空間で感じる心は皆同じ、という呼びかけに2回とも500人以上の人が集まりました。今後も内容を考えながら、With Youコンサートを続けていきたいと思っています。
 大都会から離れた地域に暮らす障害者は、必要以上に遠慮深く口を閉ざす傾向にあると思います。少しずつでも、「いるんだぞ」ということを世間にアピールしていくことで、人の心のバリアフリーを進めることが私が今、考えているもくろみです。たとえば、車椅子マークのある駐車スペースに健常者ドライバーが置くとか、元気なおばさんが車椅子専用トイレに入ってゆっくり化粧直しをするとか、そういうことをごく自然に「恥」と考えられるような人が増えてくることを願っています。
 障害を持ってから7年半が経ちました。気負っているのは最初のころとあまり変わりません。ちょっと押せば倒れてしまいそうな自分と、この現実に「負けたくない」という気持ちが私を支えてきたことは確かです。鼓舞し続けることをやめてしまったら、自分を失いそうな気がします。そして、忘れてはいけないのは、障害の有無に関わらずお互いに影響しあえることを自覚し、自他共にその尊厳を尊重することであると考えます。
 ただ、かたくなに突っ張り続けるだけでは、やってはいけないことをWith Youを通して知りました。障害を持ったために、うつむいて暮らすのは不本意この上ないと思う気持ちを共に持ち、自分の問題として真剣に考えていく仲間を持ち得たことに感謝しています。
 身近なところから、できることをと思います。ホントにささやかですが、悩みながらできることをやっていくつもりです。  2001.5.15
北海道 : PONPOKO ponpoko@hotweb.or.jp


 自立を夢見たが 


62歳、C4.5、交通事故、頸損歴42年、電動車イス使用、独居自立生活、私的ヘルパー毎日9時間


 フィリピンで3ヶ月間の越冬をするようになって19年、今年も安全に帰国できると思っていたら、いろいろな事故に遭いました。
 去年からの排尿不調のために、フィリピンでバルーンカテーテルを入れました。それが原因で、尿路感染、血液感染を起こし、そのために激しい痙性と高熱に見舞われるようになりました。帰国を4日間延期して、3月10日にやっとマニラ空港に行きました。頭もぼんやりしていて気づかなかったのですが、荷物が10㎏オーバーしているから83ドル出せとのこと。「それは電動車イス用の充電器や変圧器、医療品であり、今までは無料であった」と説明するけれど、マネージャーまで出てきて「払わなければ乗せない」と言う。実は無一文だったので、隣の列に並んでいるエグゼキュティブ・クラスの男性に、福岡に到着したらすぐに返すからと、借金を申し込みました。すると、「それは私の荷物にしましょう」と親切に手続きをしてくれたので、結局は無料になりました。
 無事、座席にすわって激しい貧血を我慢していると、今度は車イスを横付けにして「今から降りてくれ」とパーサーが言ってきました。フィリピン航空では、車イスの身障者の一人旅は受け付けていないと言うのです。「そんな噂をを聞いていたので、私はちゃんとカウンターで申請書類を出してきたのだ」と言うと、パーサーははるかに遠いカウンターまで調べに行って、「確かに書類は出ているが、あれはコピーだからダメだ」と、何が何でも私を引きずり降ろす構えです。「私は医師による一人旅の許可証も持っている」と言うと、「それじゃ、フィリピン航空の医師を連れてきてチェックする」。間もなく現れた医師は、私の体に触りもせずに証明書だけ見てOKと言う。
 このころになると、心配顔のスチュワーデスや関係者で黒山の人だかりです。「ここで降ろされても、私を見送りに来た人たちはとっくに田舎に帰ってしまった。いったいどうすればいいんだ」と私はわめきました。でも、パーサーの固い意志は変わりそうにありません。その時に、重量オーバーの荷物を親切に引き受けてくれたお客さんを思い出し、「実は私は一人じゃあない。仲間がいるんだ。しかし、彼はエグゼキュティブの席だから、今は一緒にいないだけだ」と出任せを言うと、「じゃあ、その人を連れてきてくれ」と。ところが、顔は良く覚えているが名前はぼんやりです。歩いて見に行くこともできないので「さあ、困った」。「とにかく、エグゼキュティブの乗客名簿を持ってきてくれ」と頼んで調べてみると、「あった、あった。これだ」。確かに重松という名前にぼんやりと記憶がある。スチュワーデスがそのお客さんを連れてきた時、私は早口の日本語で「私が貴方の連れだと言って下さい。でないと、私は降ろされるんです」。彼はすべてをとっさに理解してくれました。彼は二言三言、係と話していましたが、結局、彼が離陸と着陸時に私の横のエコノミーにすわるなら、私は降りないで良いことになりました。
 そのゴタゴタの間に飛行機の出発は1時間遅れ、他の乗客にはたいへん申し訳ないことでした。車イスの身障者を単独で乗せない差別的な航空会社は、フィリピン航空と香港のキャセイパシフィック航空です。それにしてもなんという時代錯誤でしょうか。
 帰国して2日め、激しい痙性のためか、ベッドから転落。夜9時。電話は手が届かないので助けは呼べません。こんな田舎に夜訪ねてくる人はいないので、助かる見込みはありません。これで終わったな、と思うと、過去のことが走馬燈のように頭を過ぎります。朝は0度くらいのこの時期に裸でコンクリートの床の上に寝ていれば、まず凍え死ぬでしょう。頭がだんだんぼんやりしてくるに従い、人生に対する後悔がなく、むしろ多くの人に対する感謝の気持ちが大きくなったのは意外でした。昔の雪山の経験では、冷たくなって死ぬのは気持ちのいいものです。顔を殴られて目を覚ますと、「余計なことをするな」と怒りたくなるほどです。だから、体が冷たくなるのは気になりません。
 そのうちに電話が鳴り出しました。そうだ、手は届かないでも「ハイ」と大きな声で返事をすればつながる市販の電話機に買い替えていたのを思い出し、力一杯「ハイッ」と声を出しました。おかげで結局、助けを呼ぶことができました。そうでなかったら、今頃は49日の法事をやっているところです。
 自立生活は難しい。どんなところに、地獄への穴がポッカリ口を開けて待っているかわかりません。たとえ、自立生活が維持されていても、それは自分のおかげではないでしょう。夢の自立生活はいつかは終焉を迎えるにちがいありません。私の痙性と発熱はいつ治まるのかわかりません。それよりも、痙性と痛みに24時間苦しんでいる多くの脊損患者の辛さをほんの少しだけ覗いて、普通の頸髄損傷者がいかに恵まれているかがわかります。

     福岡県 : 向坊 弘道(編集顧問)

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