は が き 通 信 Number.52---P1
POST CARD CORRESPONDENCE 1998.7.25

《ごあいさつ》

頸髄損傷者の自立生活は人件費がかさむので、今までは支援体制の整った東京や大阪でトライするのが普通でした。ところが、近々Yさんが東京を引き上げて田舎に帰り、県庁所在地でアパートを借りて一人暮らしにチャレンジします。
これが地方での福祉制度の充実を意味するシグナルであればいいのですが。もしそうなら、多くの身障者にチャンスがめぐってきて、夢見た「地方の時代」が始まるでしょう。             

編集委員 向坊弘道




新規購読をお願いします

私は現在33歳で、受傷したのは3年ほど前です。レベルはC4で、殆どの時間を自宅のベッドの上で過ごしています。
先日さる頚損の方が「はがき通信」を教えて下さいました。私にとって障害を負ってから初めての専門情報窓口です。単に受け手に回ることのないよう努力したいと思いますので宜しくお願いします。
スタッフの皆様ご健勝をお祈りします。

横浜市 MT



騎馬戦で頸損に

1987年、私が高校2年生の時に体育祭の騎馬戦に出場しました。私は前馬をやってまして、競技中に複数の馬ともみあいになり、頭から転倒しました。前馬ですから両手を後ろ馬と組んでおり、手をつくことができずに、そのまま頭を地面にぶつけてそれで首の骨を折りました。
障害のレベルはC4、5です。せき損センターに入院しておりました。

KMさんのホームページへ
また、僕のホームページを開設しております。自宅でとった僕の写真とか、車椅子や自家用車の事を載せておりますんで、お暇なときにでも覗いてみて下さい。感想とかあればメールでお聞かせ頂ければと思っております。

メーリングリストの件ですがこれはどういった経緯で運営されているんでしょうか?会員はどんな方を対象としているか等、教えていただけないでしょうか?これからもよろしくお願いいたします。
福岡県 KM : murai@j-pal.or.jp
重度四肢麻痺者のメーリングリスト

「はがき通信」52号でMさんが質問されていたメーリングリストは、僕が運営している「重度四肢麻痺者メーリングリスト」のことだと思いますので、簡単にお答えします。
主に、高位頸損者の情報交換のために立ち上げたメーリングリストです。対象は頸損者とそれに準じる四肢麻痺者、その家族、医療関係者、研究者、介助者、その他頸損者に係わる人です。インターネットメールを利用できる環境の方なら参加できます。より詳しい内容を知りたい方は、ホームページ
http://www.butaman.ne.jp:8000/~sakaue/sq/ここを押してね
をご覧ください。ホームページを見ることができない方は、sakaue@butaman.ne.jp までメールを下さい。簡単な説明を送らせていただきます。誌面を借りて宣伝をさせていただきました。「はがき通信」の関係者の皆さん、ありがとうございました。
兵庫県 TS : sakaue@butaman.ne.jp



スポーツ大会で頸損に


遅くなりましたが、「はがき通信」の購読を申しこませて頂きます。
私は、4年半程前、地域のスポーツ大会で相手チームの選手と衝突し、その弾みで転倒して頚髄の4・5番を損傷し、首から下全身に障害が残りました。妻と娘1人です。
現在、多少の歩行は可能で車椅子は使用していませんが、全身に痛みと痺れ感があり、連日悩まされています。痛みが激しいためリハビリでも無理が出来ず、少しオーバーワークになっても後に残ってしまいます。パソコン等にも挑戦していますが、痛みと年齢(58歳)のためか集中力がなく、遅々として進歩しません。
以上、簡単ですが現状を書きました。これから宜しくお願い致します。  早々
東京都 HY



医療ソーシャルワーカーになる勉強中


色鮮やかなあじさいの花が咲く季節となりました。このたびはお忙しいところ「はがき通信」を送って頂きまして、本当にどうもありがとうございました。早速拝見させて頂き、とても勉強になりました。深くお礼を申し上げます。
私は東海大学で社会福祉を学んでいる学生です。現在は、大学四年生です。今卒業論文に取り組む傍ら、リハビリテーション病院の医療相談室で医療ソーシャルワーカーの実習をしています。
実習をしている中で脊髄損傷の患者さんや家族の方達と出会うことが多く、家庭復帰に伴う様々な生活問題の複雑さに驚いています。また障害受容の難しさなど、実習をしながら常に感じています。この貴重な実習経験を卒業論文に生かそうと思い、脊髄損傷について学んでいる時、偶然「はがき通信」の存在を知りました。

学ぶことを目的に購読させて頂くことになりますが、それでもよろしいでしょうか。将来、医療ソーシャルワーカーとして福祉に携わっていこうと決めておりますので、今後の為にも是非「はがき通信」を勉強させて下さい。宜しくお願いします。   
敬具 平成十年六月八日  AK



私はこうして抗生物質をやめた


私は家族導尿→尿道留置カテーテル→膀胱ロウと『おしっこの王道』を歩んできました。(タッピングを経験していれば神道?) 
私が受傷した1985年頃の中国労災病院では、尿管理といえば自己導尿(家族導尿)以外は全く考えられず、感染予防にも、膀胱の為にも最も良い方法だと教えられました。一日に5〜6回はするように勧められたのですが、家庭の事情もあり、交渉の末?一日3回の導尿で、あとは自然にあふれ出るのをシビンで受ける方法で手打ちとなりました。
このあふれ出る前に膀胱圧が高くなる事が腎臓に悪影響を与えるというのはずっと後に知りました。
受傷から5年ぐらい経った頃から再々膀胱炎を起こすようになったので、医者の勧めにより抗生物質(バクシダール)を予防的に飲み始めました。この選択が後で私を苦しめる事となったのです。《抗生物質は長期的に飲む薬でありません!》

それから5年ぐらいは良かったのですが、その後、微熱が出たりしてスッキリしない日々が続き、ついには膀胱炎で入院する事になりました。バクシダールが効かなくなったのです。薬を色々変えてみたもの、長続きせず、体調も安定しません。
薬を飲まないと、尿が白濁して、体がだるくなり、目はうつろ、食欲なし。血圧も上が90を下回る事が再々ありました。また、膀胱の緊張が強くなって自然排尿が出来ず、膀胱に尿が溜まり過ぎて発汗したりと、とても耐えられません。

専門医や薬剤師に相談したところ、「気にするな、気にし過ぎるのが一番悪い」、「今さら抗生物質を止めるのは非常〜に難しい」、「無理に止めて腎臓を悪くするより薬と仲良くつき合う方法を考えなさい」と言うものでした。
こんな時に限ってNHK特集で放送された『耐性菌の恐怖』など観たりして、益々私を不安にします。そんな頃、浜松で行われた第2回『はがき通信』懇親会に出席し、悩みをうち明けたところ、多くの人からアドバイスを頂きました。

内容は、尿道留置カテーテルに変えて、水分を多く摂り、細菌が繁殖する前に尿(4000cc〜5000cc)で洗い流す事、電動車椅子で活発に外出し、震動を与え、膀胱の中を拡はんするというものでした。この方法だと2週間位は抗生物質を飲まなくても大丈夫ですが、「体調が悪くなったら薬を飲む」の繰り返しで安定しません。それでも家族導尿のときに比べるとずっと良くて、「これで行くか!」腹をくくっていたのですが、、、

ある日、近くの診療所の看護婦さんにカテーテル交換をしてもらった時、大量出血をして総合病院にかつぎ込まれ、入院。院長先生(外科)の「そりゃぁ、膀胱ロウにすべきじゃ、情報を集めるけんワシにやらしてくれぇ」と、当病院初の膀胱ロウ手術となりました。手術後5ケ月過ぎた今、傷口の状態も良く順調にいっています。 尿量は3000cc〜4000ccと少し多めかもしれませんが、抗生物質を飲まなくて済んでいるのが最大の喜びです。

《まとめ》

自己導尿(家族導尿)は最も自然に近い排尿方法で、滅菌や殺菌をしっかりして、導尿は一日に5〜6回は行い、水分補給も時間と量を決めて飲めばベストだと思いますが、中途半端にすると効果はありません。また、家族への負担が大きく、本人の行動も制限されます。
後記の問題は、尿道留置カテーテルや膀胱ロウで解決してくれますが、膀胱ロウのように、いざ手術となればなかなか踏み込めませんよね。昔、評判の悪かった尿道留置カテーテルを試してみるのもいいかも?
気軽に外出できる喜んびを味わえますよ。
東広島市 O : ohtake@enjoy.ne.jp



痛み止めの薬


私はT君紹介の内科から処方していただいた薬、エン酸モルヒネを痛み止めに飲んでいます。アナフラニール・リン酸コデインといったものでは効果がなく、その延長線上として、やっと処方していただいた訳で、アナフラニールは点滴をするため入院をしました。
それは、エン酸モルヒネを使うことへの理由づけをするためのものだったようで、3週間の入院でした。麻薬と言われているエン酸モルヒネを飲み1週間になりますが、まだこれといった効果はなく、来週にまた診察に行けば、量が増えるかもしれません。
ご存じの通り、普通は出してもらえない薬です。それを飲むことで少しでも痛みが緩和されるものならばとわずかながら期待していますが、現在の時点ではそう変化はなく、残念です。
エン酸モルヒネは、骨を腐らせたり禁断症状も引き起こしますので、誰にでもは勧められません。

非癌性疼痛に対するオピオイド使用のガイドラインは下記の通りです。
  1. あらゆる鎮痛手段が無効である場  合のみに考慮すべきです。
  2. 相対的適応:外物質乱用、重症の人格障害、無秩序な家庭環境の既往。単一の医師が治療の責任を負うべき。
  3. 治療開始の前にインフォームド・コンセント。真の依存の危険は少ない。モルヒネ単独又は鎮痛薬、睡眠薬との併用で認知の障害が起こりうる。身体的な依存が起こりうる。急な休薬では禁断症状の可能性もある。子供が出生時に身体的依存が生じる可能性。
  4. オピオイド療法は他の鎮痛薬やリハビリテーションの補助手段として考慮されるべき。
  5. 薬の貯め込み、他の医師からの薬の獲得、用量の増加がコントロールできない、他の異常行動の証拠は慎重に評価し、減量、中止が必要。薬物依存症の専門家のコンサルテーションも考慮すべきである。
匿名希望



現実に逆らって生きる


障害とつき合って、10年がすぎた。わたしの暮らす山間の施設には霧がたちこめている。わたしの意志で動くことのない二つの手と、二本の足が車椅子に座るわたしの眼下にみえる。
手の指は変形して、第二関節のところで曲がったまま伸びなくなった。彼らが何かの傷を負って血を流しても、虫に刺されて腫れ上がっても、わたしの脳はなにも感じない。
もし彼らが、わたしの眠っているときに、切り落とされてしまったら、わたしは出血多量で眠ったまま死ぬことができるだろう。そんな奇特な人間が福祉関係者にいてくれるなら、わたしは報酬を支払って、それをお願いするだろう。
わたしの手と足よ。わたしは、君たちに言いたい、君たちはわたしと繋がっているのか。君たちに言いたい、つながっているなら、親父に顔が腫れ上がるまで殴られても、弱音ひとつ吐かなかったわたしに、痛いと大声で叫ばせてみろ。車椅子のステップの上で一生を終わるつもりなのか。
君たちが、わたしの感覚の中からいなくなって、わたしは息をするだけの植物になってしまった。中卒のわたしにできる仕事は、体を思いっきり動かして働くことだった。今は自分のことでさえ自分でできなくなってしまった。
食べ物を口から入れてもらい、便は週に二度の摘便で指を使って出してもらう。尿は膀胱に直接穴をあけ、管を通じて袋の中におちてくる。それでもわたしは人間なのだ。そうそうであるはずなのだ。

わたしの生活する施設には、苑長が九州一と自負する生活指導員がいる。彼は背が高く顔も整っている。話はうまく、頭もいい。この施設に暮らすわたしたちは、彼の生活指導の下で彼の指示に従って、生活しなければならない。すべりのいい彼の口で。
威圧感のある彼のことばで、わたしたちは常に我慢を強いられてきた。生きるしかないわたしたちは自分で死ぬことすらできないわたしたちは、ただ我慢をすることだけを植えつけられて生きてきた。君は知っているではないか、わたしたちがどれくらい辛い思いをしているか。君は知っているではないか、手と足が動かないということがどういうことなのか。君があの日口走った言葉は、わたしの耳から離れることはない。あの時、あのダイアナ元皇太子妃が事故でなくなったニュースが流れたとき、きみは言った。
「頚椎損傷になって生き延びるよりはいいよ」わたしは耳をうたがったりはしなかった。君が言ったことだもの。君がいいそうなことだもの。ただ場所を少しわきまえて欲しかった。少なくとも頚椎損傷者の前でいって欲しくはなかった。だってわたしたちはこれからも、君のしたで生きて行くしかないのだから君のその冗舌に従って生きていくしかないのだから。

15の年に交通事故で授傷して、いまわたしは26歳になった。183センチあった身長も、長くてカッコイイと言われた足も、いまではもう邪魔にしかならない。自分の体を自分で動かすことのできなくなったわたしたちに、自分の体が邪魔としか思えなくなったわたしたちに、もうこれ以上、どうかこれ以上意地悪するのはよしてくれないか。福祉の名の下で、いじめるのはよしてくれないか。
こんな体のわたしたちにも、君と同じ色の赤い血が流れているのだから。わたしにどうか、現実に逆らって生きる勇気を与えて欲しい。君という福祉の悪魔にさからって!
匿名希望



心の自由を求めて


夢運び人さん、頚損の方の紹介ビデオを送ってくださり有難うございました。いつも気をつかって頂いて有難いと思っております。
ビデオの中で特に印象に残ったのが、石井フィアーナさんです。流産という不幸がありながらも二人の子供をもうけ、絵を描き、英会話教室で生活費を得る。公的な介助を受けてなにより、多くの地域の人々と密接にかかわりあって生きている。いっけんとても理想的な生活にみえます。しかし彼女は、夫と二人の夢を実現させるために家族でハワイへと移住する。そこで待っていた現実という壁。苦しい涙。それでも彼女は夫と二人、夢をあきらめない。やがて、少しずつ事態が良い方向へと向かっていく。彼女の、どんなに辛い状況であってもあきらめないで前向きな姿勢がとても印象的でした。ぜひ頑張ってほしいものです。

TVナレーターの「人はさだめの中で生きる。全身不髄という宿命を負いながら、ひとかけらの夢を追って生きてゆく。心の自由を求めて。」というナレーションは良かったですね。 
鹿児島市 RG



はじめまして


私は96年10月に交通事故で頚髄を損傷し、現在も大学病院に入院中です。C1レベルで人工呼吸器を使用しています。私の症状とほとんど同じアメリカの俳優クリストファー・リーブ(スーパーマン役で有名)が自分の事故と半生についての本「STILL ME」を今春出版しましたのでご紹介します。

訳したのは最初の5ページですが全体を象徴していると思われます。映画人らしく表現は映像的で冒頭の水夫のエピソードはミステリーゾーンのような不思議な雰囲気を漂わせています。おそらく彼は最新の治療を受けていると思われます。機会があればまたインターネットなどで調べ、ご紹介したいと思います。
東京都MY(47歳)
         

STILL ME by Christopher Reeve

(訳者註)−−−−−−−著者クリストファー・リーブは95年5月に落馬事故で頚髄を損傷し、四肢マヒとなったが奇跡的に命を取止めた。病院で意識の戻った彼に、妻のデイナは You are still you.(あなたはあなたのままよ)と言った。この本のタイトル STILL ME は彼女の言葉からつけられたものと思われる。STILL ME は「私は以前と同じ私のまま」という意味だが、STILLは「静止している」という意味もあるので「動けないけれど私は私のままだ」という二重の意味をもたせていると思われる。この本は彼が still you と妻に励まされたときから、自分自身が still me と自覚する精神の回復の過程を著したものといえる。
(原本はランダムハウス版ペイパーバックを使用)

(冒頭引用)
克服しなければならない障害があるからこそ、人生の体験の中から卓越した豊かさを得ることができる。頂上で過ごす時間のすばらしさは、そこに至る闇の谷間を横切ることがなければ半減してしまうだろう。
—— ヘレン・ケラー

謝辞(Acknowledgements)
妻のデイナ、友人のスピルバーグ、ロビン・ウィリアムスなど本書を書くにあたって協力してくれた人々に謝辞を述べている。

第1章

あの事故のほんの2、3ヶ月後に、私は夢の中に逃げ込んで生きている四肢マヒの男についての短編映画のアイディアを考えついた。彼は昼間は自分のベッドに横たわり動くことはもちろんできない。けれど夜には夢の中でなんでもでき、どこへでも行ける元どおりの自分に戻るのだ。この話は一生を水夫として過ごした男の物語である。
彼は水を愛し、大きな魚を引き上げる鉤ザオが装備された1本マストのボートを持っている。私が持っているグラスファイバーでできたモダンなボート「シー・エンジェル(海の天使)」とはまるで違っている。この物語では、彼のボートは時を経た美しい木でできていて、月明かりの中でかすかなニスのつやを放っている。
夢の中で彼は満月の輝く水路を航海している。おだやかな海風が吹き完璧な状況で、誰もが想像するロマンティックな夜の航海というわけだ。けれど、朝の7時になると彼はリハビリの病院に戻り、そして再びすべてが凍りついてしまうのだ。
夢はとても生々しい。時が経てば経つほどより現実味を帯びてくる。最初はただの夢だったのに、今ではまるで現実のように思えてくる。そしてある晩、突然本当にベッドから抜け出し、何度も通った病院の通路を歩き、階下に降り、ドアの外に出てボートに向かう。不思議なことにボートはそれほど遠くない所に係留されている。
そして彼はボートに乗り月明かりの夜に向かって長い航海を始めるのだ。航海は彼にとって現実そのもので、朝の7時に自分のベッドで目を覚ましたとき髪の毛はびしょ濡れになってしまう。看護婦が来て「ごめんなさい。昨日の夜あなたの髪を洗ったあとよく乾かさなかったのね。濡れた髪のまま寝てしまったのね。」と言う。
彼は何も言わないけれど、自分の髪は海に出たときしぶきで濡れたと思っている。一度など、しけのときに着る服を着たまま戻ってくるので看護婦たちがどこへ行ってたのかしらと疑わないように、病室のクロゼットにその服を隠すのだ。

彼の妻と家族、妻と子供たちのことだが、彼がマヒになって以来ずっと深刻な鬱状態から抜け出せずとても悩んでいる。彼は自分の人生から家族を閉め出している。子供たちは彼が以前の彼とは違ってしまったので、どう接してよいのかわからず怖がっている。彼は明らかに自分自身と折り合いをつけることができず自分の殻から抜け出ることができないので、妻は病院の医師や心理学者たちにどう対処するべきか相談をする。
しかし夢の中で航海を続けるうちに夢はより一層現実そのものになってくるので、彼の精神は立ち直り始め、見た目にも引きこもることが少なくなる。朝にはうつろな感じが少なくなり、少し話もするようになってくる。妻は変化に気づくけれど何故だか理解ができないし、彼自身も説明しようと思わない。どう表現してよいかわからないのだ。彼は自分が気が狂い始めたのかどうかもよくわからない。もしかしたら自分自身を失いかけているのかもしれないと思う。けれど家族は彼の精神的回復をはっきりと感じはじめる。夢は彼と家族の両方の心を徐々に癒していくのだ。
彼はテナントハーバーやそれに似たようなメイン州ののどかな海を航海する。そこにはなじみの年配の男がいて、彼が出港するときはいつも自分の船の船室の灯りをつける。その男はほとんど眠らずに、いつも彼が例の木製のボートで出かけるのを見守っている。時々男はドックまで来る。その男の羨望の眼差しから、ボートが自分の好みで賞賛しているのが見て取れる。男は羨んでいるわけではない。ただ、そのボートが月光の中を美しい姿で航海して行くのを眺める機会を一度たりとも逃さないのだ。

そして、とうとう主人公である彼が、航海は自分のマヒした状態から逃避する手段だと気がつくときがやってくる。その気になればもっともっと航海を気分よく続けることができたかもしれない——なにしろ彼は航海をとても愛しているのだから——彼は食糧などが底をつくまで、はるか外洋へ出て行くだろう。ただ航海を続けるだろう。そして、たとえ死んだとしても幸せだと思うだろう。月の明かりが照らし出す海の道を、ただただ行ける限り彼は行くだろう。すべての人とすべてのものを置き去りにして。
そして、とうとうある晩彼はその航海を始める。どこに行くか何も考えずに行けるところまで行くんだと決心する。永遠に航海し続けるのだ。しかし、まさに海に乗り出そうとするそのときに、彼は自分の人生で何を得たのか、妻や子供たちが彼に与えてくれたものにいかに感謝しているか気がつく。というのはこの辛い日々の間、彼は変わってきている。子供は彼を恐れなくなってくるし、それどころか一緒に遊ぶようになってくる。そして、妻とははっきりと愛情を確認することができる。彼は鬱状態から抜け出ようとし始めているのだ。そして、ついに彼は自分の最も愛している航海を始めようとする。この世界を忘れて航海しつづけようと考えながら。しかし同時に背後に残してきたものについて悟り始める。彼はボートを岸の方向に向け直し戻って行く。そして彼のボートをこよなく気にいっている年配の男のドックへ直行する。そのドックに自分のボートをしっかりと係留すると、年配の男が出てきて彼に挨拶をする、その時彼は「このボートはあんたにあげるよ」と言うのだ。彼はボートを放棄する。もはや必要ではないのだ。そして病院へ戻り、眠りから覚める。人生は再凍りつき彼は四肢マヒ に戻る。けれど彼の人生には家族とともに生きる未来、というまったく新しい展望が開け、そして快方に向かって行くのだ。
以上が物語の概要だ。この話はもちろん私の体験をもとにしてはいるが、私自身の物語ではない。私はこの男とは違っている。なぜなら私の家族は最初から私を支えてくれた。
もしも災難があなたに降りかかったとしたら、たぶんあなたは絶望して自分の周りの人間が見えなくなってしまうだろう。しかしこの解決方法は人間関係を通してのみある。みじめさや強迫観念から逃れる方法は、あなたのかわいい子供たちが何を必要としているか、あなたの周りの友人たちが何を必要としているかに、より焦点をあてることだ。
こんなふうに考えるのはとても難しいし、しばしば無理矢理にでもしないとそうできないかもしれない。しかし、そうすることが凍りついた人生という窮地に対する答えなのだ——少なくともそれが私の見出した答えだ。
しかしながら以前のように自由に動けて、再び生活ができるという夢はとても生々しく圧倒的な力を持って迫ってくる。特に私の場合、自分の状況に対して否定的なときはそれらはより強くなった。あなただって、朝目が覚め自分がどこにいるかに気がつくときはいつだってショックを感じるだろう。そこであなたは思う、こんなのは自分の人生であるはずがない。なにかの間違いだ。これを受け入れるには多くの心の葛藤が伴う。私はいまだにそうだ。けれど以前よりは今は徐々に少なくなりつつある。
私は朝目覚める。口を開けたまま寝ていたようだ。服用している薬と部屋の湿度が不足しているためにのどがカラカラに乾いている。ケイレンを起こして不愉快な状態になっていたのかもしれない。そのために首はしばしば痛みを伴ってねじれてしまうのだ。私は狭いベッドに一人で寝ている。妻のデイナとともに寝るにはベッドが小さすぎるからだ。けれど妻はいつも私と同じ部屋で寝ていてくれる。私の隣にシングルベッドを置いているので私たちはいつもそばにいることができ、話をし、目覚めればお互いを確認しあえるのだ。



NKさんとお話しできた日


今日は久しぶりに梅雨の晴れ間がみられ、真夏のような暑さでした。通信の皆様いかがお過ごしですか。温度差の激しいこの季節です。健康には十分気をつけお過ごしくださいますように。
平成10年5月28日、「はがき通信」NKさんより初めてお電話を頂きました。Fさんより私と亡きKの闘病生活、在宅介護のお話を聞き退院後の介護や生活面のことにつきお話を聞きたいということでした。
現在、東京府中市にお住まいで、息子さん(27)歳は、オートバイ事故により頚髄を損傷され(高部位)、事故より約1年経過、呼吸器を付けて療養中です。幸運なことに1日の内で5時間ほど呼吸器がはずせるほどに回復されたそうです。事故直後運ばれた病院の看護婦さんにより呼吸の訓練が行われ、このような良い結果が得られたのです。息子さんが大変幸運であったことを喜び、改めて事故後初期に行われる呼吸の訓練がどれほど大切かを痛感いたしました。それから尿意も感じられたそうですが、病院の方針で始めからカテーテルを入れ、自力自然排尿の訓練はされなかったようです。せっかく尿意が感じられるのに訓練がなされなかったことは、大変残念に思いました。
Kの時は、昭和医大病院の先生、看護婦さんによる協力的な排尿の訓練が行われました。自力で排尿ができるようになり、カテーテルが取れた喜びは大でした。呼吸器の管も取れ、呼吸ができることを願いましたが、どうしても呼吸器が取れませんでした。
病院側ではC3・C4を損傷すれば一生呼吸器は取れないと、初期からの呼吸訓練はされませんでした。各病院の対応の仕方の違いに驚きました。
初めてお話しするKさんでしたが、お互いに同じ苦しみを経験したお仲間です。お話は尽きることなく意気投合してしまいました。所沢リハビリセンター病院でリハビリを受け療養中ですが、病院側からは6月15日頃には退院して自宅療養するようにと、せき立てられている状態です。Kさん宅はまだ改造中でもあり、不安な気持ちで落ち着かない毎日を送っているというお話でした。

また、自宅へ帰ってからの介護も十分に習得しておらず、不安で不安でたまらないと話してくださいました。病院側は5時間も呼吸器が外されるのだから大丈夫、介護はヘルパーさんを頼めばよいと、人事のような言い方をするそうです。Kさんのお話を聞き、本当に慌てて退院して大丈夫なのかな? と不安を覚えました。
私が昭和医大で受けたような介護自習を何回か経験してから退院、自宅療養へと向かうのがベストのように思います。退院後の介護のこと、昼夜神経を使う生活面のことなどいろいろ参考となりそうなことをお話しすることができました。
その後のお電話で、6月22日に退院の日程が決まり、急に忙しく慌ただしい毎日を過ごされているようです。どうか慌てずにお身体に気をつけて1つ1つ準備をし、退院の日を迎えてくださいますように頑張ってくださることを願っております。
私は、Kの退院の日のことを、ついこの前の出来事のように思い出さずにはいられませんでした。どうぞ大切な息子さんのために頑張ってくださいますように、心より祈っております。
埼玉県 HK



トド懲りなく比行・秘話


大阪の好青年藤村君は元気かなぁ。与太郎(トドのセカンドネーム)は1畳ベッドの縄張りに侵入する蠅を睨み付け威嚇して過ごしています。

今回も懲りずに卑猥な話に堕ちいらず超真面目トド。数字のマジック? 1ペソ=3.4円で物価は安いと前回書いた。確かに安いのだが、どうも納得がいかぬ。その訳は1万円を両替すると3千ペソ強に。この1万円から3千ペソが頭では理解できても3千ペソの使い勝手がないように感じる。錯覚は承知だが3千から使用分を次々引くと、すぐ無くなりマジックにかかった感じがするから不思議だ。円換算では大変安価なのに現地通貨では結構な値段と思うのは貧困旅行の悲しさか。

物の値段、あちこちで買い物をした。買い物は値切れと聞かされて渡比したが、彼国では観光客相手の品物はたいがい高めに設定してあるらしい。ディスカウントOK?と聞けば即座に応じてくれ、2度目はためらいながら渋々と少しまけてくれる。3度目に出す値段は採算のラインらしく、これ以上は駄目という。物にもよるが大凡半額か。

子供が売っている物は値切る気がせず、言われる値段で買ったら介助の女性が「優しいのねっ」と。マニラ港から何故か明石丸で20時間、乗船には人の手で抱えてもらわねばならない。ポーター親方氏、抱え賃千ペソを要求。船賃は1食付き500ペソなのに無茶だよねっ。回りの若いポーター氏は安く抱えてくれそうな気配。

乗船間際に300ペソで若い人にて交渉成立。マニラ帰港時は乗ってる強みか200ペソ。彼らは私1人を抱えて日当になったろう。
丼勘定、外食は1人50ペソもあれば……と聞いていたが500・800の支払いは度々であった。その訳は現地の人は私の食事について来たら、私が払うものと信じて疑わない。タクシー(トライシカル)の運転手君もしっかり御注文なさっていた。
マッ イイカ、乗せるの手伝ってくれたから。遠慮しないで食べてねっと日本語は通じないみたい。みんな親切だから大判振る舞したが、誤解のもとかなっ?

トサカを食った話、天国に一番近い島とかのボラカイ島観光の際にS氏の奥さんの実家で鶏3羽を戴いた。1羽は帰りの船の中でと潰して弁当のおかずにしてくれた。
腹が減ってさあー食餌、介護の女性が口に放り込んでくれたが、お世辞にも旨いといえない物を飲み込んだ。トサカだという。初めて食べた。残りの2羽は「日本人身障者の家」GLIPに連れて帰って肥らせてから……。夜明け前の船内に鶏がコケコッコーと、南海の船内にて鶏の鳴き声で目覚めたトドでした。

夜逃げの物語、GLIPに仮住まいのO氏、30歳にして比国に新築された。私の滞在中に毎日電動車椅子で20分の建築現場に通い、完成したので引っ越しとなった。
\比国の敬虔なクリスチャンの奥様は満月の日に引っ越せば縁起がいいとか。あいにく3月13日は満月の金曜日で????嫌う日。その為に1ヶ月も引っ越しは延ばせない。そこで回りの人が引っ越した家で朝日を拝めばいいと言い、真夜中の引っ越しとなったとか。夜間の灯り事情が悪い彼の地も満月は明るい。夜逃げのような引っ越しも、新たな家庭の営みが始まるであろうと思った。新築の家は380万円とか、業者任せなら450は下らないとか。セメント、ブロック、タイル等々は自分で必要な量だけ、その都度工場に買い付けに行くのだそうだ。買い置きしておくと夜間に??溶けて???しまうらしい。O氏はしっかり現場監督をして3年分の生活費が浮くと、炎天下にも拘わらず意気???な頚損者なのだ。

O氏、S氏等4人の日本人頚損者が比国の女性と結婚し、家も手に入れている。書きたいことは沢山あるが、またいずれかの機会にて皆さんも是非に純な気持で行かれませ。酒は安いし……、灼熱の太陽が心の導火線に火を付けてくれるかも?
広島県 YS(トドのオッサン)




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