は が き 通 信 Number.50
POST CARD CORRESPONDENCE 1998.3.25
COUNTER
《ごあいさつ》

社会が豊かになり、生活水準が向上すればいいことづくめのようですが、実際は身障者にとっては不便な点も多くなります。制度や基準が厳しくなり、安全性という大義名分の名のもとに身障者の行動が制限され意欲は無視されます。シンガポールや香港など進んだところでは全く電動車椅子を運ぶ手段がなく、また運んでくれようともしません。

1998年3月25日 向坊



近況報告


「はがき通信」へ投稿するのは久しぶりです。約1年ぶりでしょうか。私はめったに風邪をひきませんが、珍しく今年早速、ひいてしまいました。体力と相談しながら、マイペースで過ごせということなのでしょうか。久しぶりに近況を書いてみます。
 近くは、4月末に鹿児島アリーナで風船バレーボール九州大会があります。健常者3人、障害者3人でチームを作る風船を使ったバレーボールです。全員がボールに触れなければいけないため皆が主役になれる競技で、想像するよりハードです。私が代表を務めるチーム「BigWing」はメンバーが若いこともあり県内ではトップクラスの実力です。

鹿児島市 RG:nifty-GED03005



北海道ふれあいの旅(最終回)


北海道旅行も最終日の宿泊地、札幌東武ホテルに着いた一行は、手荷物を各部屋に整えロビーに集合した。ロビー内は、夕張メロン・海産物等の夜市で買物をする人、団体客でにぎやかだった。さて、われわれ団体は夕食のため、ススキノ繁華街に出て、各自海鮮料理や札幌ラーメンを堪能するのだが、案内役が変わったために、不思議な体験をしたのです。
出発前、私はフロントの職員より、道案内をするためススキノまでの略図をもらって用意していた。ところが、会員のAさんより、札幌に在住する親戚の方Bさんが来られ紹介された。そして、そのBさんが案内されることで安心だと思っていた。ところが、図面では玄関を左折するのが、右折したので気にしながら後についたが、先頭は青信号を渡っても後を気にせず進んでいた。赤信号のたびに列がとぎれ、ネオンが鮮やかにひかっていた。

時間にすれば、ススキノに着くころだが、職員の説明とは違い、最初はホテルの位置を気にしながらついてきたが、方角がわからなくなった。まもなく、アーケードのある狸小路(飲食街)についたが、先頭は両側の飲食街を歩いていた。あと何分ぐらいとたずねると、15分はかかると言われ数人の方が飲食街に消えた。まもなく、一緒だった1人が連絡もなく不明になった。もし倒れでもしていたら大変なことであり、責任者の私と車イスを押す妻は、進むわけにはいかず、100メートルほど後に戻ったが、人通りの多い繁華街のため簡単に見つかるものではなく、再び後を追った。それからが不思議な体験となった。……先頭グループはどこに行ったのかと、進んでは捜すも会員の方は見当たらなかった。

そのうち、妻からもぐちが出、腹の虫までが怒り、ホテルに帰るにしても方向がわからない。それにしても食堂どころか、ラーメン屋も見つからない。そのうちに、周辺の明りも消え、信号と車のライトの灯りがまぷしい中、前方のネオン街に向かったが、行けども行けども明るいどころか消えるのです。これはおかしいぞと後を振りむくと、後のほうでネオンの灯りが見え、さきほど通ったのになあ〜、もしかして、狸か狐にでもだまされているのでは、そんな時は、マッチに火をつけなさいと、子供のころ聞いていたが、そのマッチもない……。

このまま行ったり来たりでは夜が明ける、タクシーでホテルに帰るかと思った時、店じまい寸前のラーメン屋を見つけ、札幌ラーメンを2杯注文した。ところが、お客さん当店は竜王ラーメンです、札幌ラーメンなら、ラーメン横丁に行きなさいと言われたが、470円のラーメンを食事した。あのラーメンなら地元で食べられるのに、札幌の夜を楽しみにしていただけに悔みきれず、会員の方は、どんな食事をされたかな、ホテルではどんな話の花が咲くだろうか、とにかく全員が無事に帰ることを祈りながら、たずねたずねでホテルに着いた。

部屋に戻り、手荷物から狐の飾品を見るなり苦笑いした、できればもう1泊したい気持ちだ。いよいよ明日は空港に向かうのですが、事前に要請していた、札幌社会福祉ボランティアセンターより、5人の方がお手伝いに来られることになっている。どんな方かな明日が楽しみだ。

外はいつしか雨が降りだした。
札幌の朝は小雨が降っていた。ホテル内は海産物等の朝市があり、それぞれ買物しては宅配の手続きをするなか、時間通りにボランティアセンター(:011-241-3976)より、男性2人女性3人計5人の方が来られた。ロビー内でミーティングの後バスに乗車9時10分ホテルを後に千歳空港へと雨の中を走っていた。
車内では、ガイドさんから、どんな感想でしたかとたずねられた。すると、ある方はウニ丼・ホッキ貝やカニ入りラーメンを食べられ、全員の方がそれなりに堪能されたが、夕食代として1人10,000円の予算にしていた家内と私は、行ったり来たりの運動の上、470円のラーメンでしたが、後で気になる血糖値でしたが、考えようによっては、皆さんが楽しまれたのと、暴食でない私にとっても良かったと狐に感謝です。

夢にしていた北海道の旅から、はや6ケ月去りましたが、人情あふれるボランティアの方々には、感謝の気持ちと湧き出る温泉と香りは忘れることはありません。厚くお礼を申し上げます。乱文乱打。

北九州市 KT



彼女のかわりに私は怒ってます


ちょっと前のお話しですが、車いすの友人が某テレビ局の某番組のスタジオ見学希望のハガキを出しました。後日担当者から連絡をもらった際に「車いすなんですが大丈夫ですか」と聞いたところ、「エレベーターがないので」という返事でその場はあきらめて電話を切ったそうです。せっかくなので友人に譲ろうとその話をすると、「持ってあげるから一緒に行こう」と言ってくれたので、再度電話をくれた担当者に電話をして「介助者がいてもだめですか」と尋ねると、「こちらでは何かあった時のケアができないので」というような答えが返ってきたそうです。申し込みには女性に限るとだけあったとのこと。(まっ、車いすはお断りなんて書けないだろうけど)

テレビ番組のスタジオなのに、社員や荷物運搬用のエレベーターも付いていないのか不思議です。車いすと聞いただけで、ただ面倒くさいと思ってるだけのような気がします。それともテレビになんぞ写られちゃ困るのか、彼女はやさしいので引き下がってしまったけれど私は納得がいきません。日本の国は、人の手を借りて持ってもらうという善意の好意にも、車いすの障害者が外に出たければ何かあった時のリスクは、自分で負う覚悟がなければ出られないのが現状です。

それに何かあった時って何があるんだろうって思います。地震や火事といった突発的な災害も万が一には起こりますが、(そんなこと言ったら車いすじゃどこにも行かれないヨー)上記の会話のニュアンスから階段を持ってもらっていて、落ちて怪我してもしらないよと読み取れます。ベランメェ調に言わせてもらうと「じゃあ何かい、お宅は社員や見学に来ている人たちがもし体の具合が悪くなったり、階段でけっつまづいて怪我してもほっとくのかい? エエどうなんだい」何か起こるのは健常者だって同じだと思うのです。

ここのテレビ局、「愛は地球を救う」なんていう番組も毎年恒例でやってます。彼女ったら、日頃からボトルに小銭を集めて募金してたそうなんですよ。すごい灯台下暗しの出来事だと思いませんか? 何か白々しくなっちゃって……。スタジオ見学したい障害者は救われていないゾー。声高に障害者も町に出ようとかチャレンジしようとか言う前に、行きたい人が誰でもスタジオ見学できるように、まず自社のスタジオがある建物にエレベーター付けて下さいよ。彼女のかわりに私は怒ってます。

横須賀市 HS



フィリピンへ行くぞ!


トドっ気! トドっ気! この熱き思いよ。トドめの一分としたせいが、1月には載らず寂しいこんころもち。気を取り直して向坊氏を追っかけ比国へと思いは熱き心なのだ。国民の1割以上が渡航する昨今、カントリーなオッサンも気軽に一っ飛び! 気楽に旅行会社へモシモシしたら早々と面倒臭そうな書類がトドく。施設の事務のヒトに書き込みを依頼して気分はルンルン頭は錆付いたアルファベットの I am a penとかなんとか。

ところが、浮かれてばかりはおれない事態。パスポートの残存期間が少なくて更新しなければならないとか。5年前に取得したまま未使用で妻からは「行く、行く、言ってて何のこっちゃ。このオオカミジジイめっ」と。追い討ちをかけるように旅行会社から単独搭乗はダメだっちと御連絡。何で? どうして? と、問い詰めても重度障害者は単独搭乗拒否の一点張り。またまた、行く、行くと空砲の海外旅行かいなっと冷ややかな目つきが約1人。

紆余曲折の中に渡る世間に神のお導き、向坊氏を比国に訪ねたいとの人を引き合わせていただきました。嬉しいじぁア〜リマセンカ! 天の助けか思召しか渡りに船か悪運か。ともかく、何とか渡航の段取りは付いたのでアリマス。アジアの経済危機も円安も気にせず同伴の藤村さんを紹介して下さった方々に感謝。まずは貧困旅行に出かけて来た前のお話。まじめな避寒の旅なのよっ。なのに、トドの回りにはいかがわしい発想の奴らが純な妻に何やら吹聴して困るの心。

広島に「はがき通信」のグループ活動が芽生えつつある。英知を傾け広島地域に福祉充実・向上に一石が投じられれば、みんなの胸にこの熱い思いもドドくかもね。取りあえず、5月のフラワーフェスティバルに照準を合わせようではア〜リマセンカ! 古いギャグと側で蔑視の眼が気になりますね。では、またね〜っ。

広島県 YS



平成10年2月を迎えた私


「はがき通信」の皆様お元気ですか。今年もよろしくお願いいたします。昨年末より、長引く風邪やインフルエンザが蔓延しておりますがいかがでしょうか。安じております。私はついこの間、珍しく風邪を引き(普通の風邪でした)体調をくずしておりましたが今は元気になりました。

今年も2月・3月は、毎週1度、市の介護教室へ参加したりで忙しく過ごしております。今年で2年めを迎え、役員さんになってしまいました。病院の看護婦さんを先生に介護の初歩的技術、ベッドメーキング、衣類の着替え、清拭の仕方、車椅子の介護、移動の介護、排泄の介護等をテーマに学んでいます。家族の中に介護を必要とする人が出た時に役立つことを目的としています。6年間に及ぶ健二の介護を通して、何かお役に立つことができたらと始めました。新しい知識を得ることは、たいへん勉強になりよいことと思います。しかし、皆呼吸器をしている人が対象です。呼吸器を付けた人の介護が、いかに精神的の面から見て大変なことであるかということを実感いたしました。

いろいろと市で行われることに参加したり毎日が忙しく月日の流れの速さに驚いております。このような私にも楽しくワクワクすることがありました。それは、2月7日から16日間にわたり熱戦された7競技68種目の20世紀最高の冬季長野オリンピックを応援できたことでした。自然を守り、人類の愛と平和をテーマに日本文化の素晴らしさを表現した開会式でした。円形舞台と、客席が近いことから、たいへん迫力のあるものでした。日本的な演出でよかった「お相撲さん」の登場も良かったと思います。また、立体的に表現された「おん柱」もすごい迫力のあるものでした。それから世界5ヶ国を結んだ「第9」の同時合唱も素晴らしく、まさに世界が一つになった感動の長野オリンピック開会式でした。

私が特に興味深く応援したのは、やはりスピードスケート500m1000mに出場して五輪新を記録した清水選手の滑りでした。日本人初の金メダル第1号を獲得したのです。涙ぐましい努力と多くの人たちの支え、家族の愛による支えにより勝ち取ったのです。清水選手の言葉の中に「皆様のおかげで金メダルを取れました」「金メダルに負けない生き方をしたい」と、金メダルにふさわしい立派な言葉を残しました。本当に感激と感動を与えた清水選手に拍手を送りました。

女子500m銅メダルを獲得した岡崎選手も素晴らしい滑りと素晴らしい笑顔を見せてくれました。

モーグルスキーの金メダル里谷選手、ダイナミックな美しい演技に拍手しました。次いで7位入賞の上村愛ちゃん、今までで一番良くできたと、喜びの笑顔一杯が印象的でした。

ノルディック複合の荻原兄弟も、個人団体と、全力をつくし頑張りました。あと一歩、メダルにはとどかず、本当に残念の一言でした。“メダルをひとつあげたかった”そんな思いの私でした。これがオリンピックなのでしょうか?

白馬村で行われた五輪9日め2月15日は、いよいよスキージャンプのラージヒルです。猛烈にふぶく雪の中を船木選手は、最高の満点飛行を披露してくれました。とにかく美しく、最高な大ジャンプでk点120mを飛び金メダルに輝きました。原田選手は1回めのジャンプに失敗し、2回めは、決死の大ジャンプでした。最高の風に乗り何とジャンプ台記録の137mを記録しました。そして銅メダルを獲得しました。原田選手の喜びの笑顔に「ああ、よかった!」ほっとする私でした。とても嬉しく暖かな気持ちになれました。船木選手は、個人で金メダルとノーマルヒルで銅メダルを獲得しました。

2月17日五輪11日めラージヒルジャンプ団体が行われました。1回めは4位に付けていました。2回のジャンプで4選手はk点120mを越える大ジャンプを見せ、逆転で1位となり、世界最高の優勝、金メダルとなりました。今まで張りつめていた緊張が一気にほぐれて、ワアーと大きな歓声と共に4人で抱き合う姿は金メダルを喜び、4人で力を合わせて勝ち取った最高の喜びでした。原田選手の涙、感激の涙に共に涙した一瞬でした。きっと記録に残る出来事となることでしょう。

2月18日、オリンピックの後半に入りました。今日からはフィギアスケート女子シングル・ショートと、20日から女子シングル自由が始まります。注目されるのはアメリカ人の2人の選手、15歳のリピンスキー選手、17歳クワン選手の競いです。2月20日、シングル自由でクワン選手に逆転勝ちをし、15歳のリピンスキーは、最年少金メダリストとなりました。氷上の天使のように軽やかに笑顔を見せて舞う姿には、心打たれる思いでした。

2月23日、16日間にわたる弟1回冬季長野オリンピック、雪と氷の祭典は、「ふるさと」の歌声と、500発の夜空を色どる打ち上げ花火と共に多くの思い出を残し閉幕しました。

どの種目に出場の選手も力一杯がんばりました。メダルの数も、金メダル五個、銀メダル1個、銅メダル4個、計10個と、今までにない最高の数です。入賞者(8位以内)も33名と素晴らしいことでした。全国民が応援した大きな力によるものと思います。私に、勇気と感動をあたえてくれたオリンピックでした。

埼玉県 HS



呼吸器をはずせました


春一番も吹き、ふきのとうもぽっくり芽を出し空気はすっかり春色。やっとのんびり外出ができるようになると思うと、遠足前日の子供のようにウキウキします。ほんとに『も一すぐ、は〜るですねえ〜』風邪が大流行でしたが皆様お変わりないですか。
以前、呼吸器を外せた情報があればご一報をとあったので、少しでも参考になればとお話します。

「これは首のけがだからこのまま座らせて運びます。なるべく振動の少ない道路を通って下さい」
レスキューの声が聞こえる。その時のことは外傷もなく意識はあり、しっかり覚えてます。とにかく寒さと首の激痛と呼吸がどんどん苦しくなる……それから4日後、自発呼吸ができなくなり人エ呼吸器を着けることになりました。

骨折の部位は4、5なのに腫れが延髄近くまで上がって来たからだそうです。その間ほとんど眠り続け記憶がありません。ときどき夢の中で先生に「くるいさ一ん。呼吸器を外す練習をしますよ」と起こされます。手足の関節のリハビリも受傷後4、5日めから始まったようです。

そんな中約1カ月後、意識が戻り呼吸器も外れました。あの時の何とも言えない心地よさ、今でもはっきり覚えてます。だけど日によりとても息苦しくなるので「やっぱり呼吸器を付けて!」と思うことも。

とにかく呼吸器が外せたことには先生方も看護婦さんも大変な驚きでした。長期または一生呼吸器は外せない予定でしたから。最悪の場合はこのまま植物人間に……。だけどそれでも少しの希望に先生は努力して下さり、「早いうちからしないと外せるものも外せなくなるから」と言われ、意識ももうろうとしたなか練習の毎日でした。呼吸器が外せない場合装着したまま話ができるようにもと思案して下さったそうです。

それからもう1つ大きな課題がありました。喉には自力で痰を出せないため穴があります。これをなんとかふさぎたい。でも先生たちは“肺活量がずいぶん落ちてるからね”と確信の答えはない。だめもとで挑戦してみることに。痰出しの練習と1週間置きに喉のボタンを小さいのにすることにより2カ月後ふさぐことに成功(慣れるまで誤飲、痰出しがうまくできずで何度か呼吸が止まりそうになったことも)。あれから3年過ぎましたがずいぶんたくましくなりました。

私は救急車で病院に運ばれ、そこでたくさんの先生方の的確な診断のもと、早期治療を受けられたことにより今の私があると感謝しています。けっこう無理も言って先生方に迷惑をおかけしましたが。

今回は慣れないまじめな話となり緊張しました(フー……)。少しでも参考になればと無い頭を精一杯使ってみましたが、うまく伝えられたでしょうか。誤字脱字誤文(?)ご不明な点があれば御一報下さい。

広島県 MK



向坊さんの旅日記


=@=

1月13日にインドのカルカッタに入りパトナーをへてラージギールに来ています。カルカッタ以来インドの不衛生さとインド人との駆け引きの多さに悩まされています。電動車椅子で動くにも「ウンコ」をよけて走るのは大変なことです。
このラージギールに来て霊鷲山(りょうじゅせん)の釈尊の宝座におまいりするのが今回の旅行の最大の難関だと思っていましたが、12年前はじめて私が訪れた時と違い「カゴかき」がホテルのほうまで勧誘に来てくれ低額料金(1,500円)であっさりと私を山頂まで運んでくれました。



なぜならば釈尊の宝座の上の峰に日蓮宗がストゥーパ(仏塔)を作りそこにケーブルカーを引いたために今はそちらに行く人が多く霊鷲山は閑古鳥が鳴いています。したがって「カゴかき屋」さんは廃業寸前に追い込まれており、12年前私から6,000円巻き上げたカゴかき屋のボスも他の仕事に転職していました。
その人の顔は忘れていましたが「2度めの今回はハンモックでなくてカゴで上れたんだねえ」と言って向こうから握手を求めてきました。「12年間あなたのことは1度も忘れたことはないよ」と言っていましたが、私もあの時の無愛想な彼の態度を忘れたことはありません。しかし12年の間に人もインドもずいぶんと変わりました。

=A=

日本では大寒だと思いますが、インドのブッダガヤでは日本の5月ぐらいの気候です。インドに入国して2週間です。パトナーでは車椅子のために6軒のホテルを断られて3時間夜の町をさまよい、この先どうなることかと不安になりましたが、旅がすすむにつれて要領をおぼえてきて少々楽になりました。
ここブッダガヤに入った日はダライ・ラマが説法に来て3,000人のラマ教の信者が集まっており、どのホテルも2週間は満室で泊まれないという状態でした。やっと見つけた村外れの安宿では、若者が朝まで騒いでいて一睡もできずに寒さも加わり体調をくずしました。
でも翌日から大乗教という寺院の住職に助けられ、本堂の1階の部屋を貸してもらい食事も出してもらうようになりました。体調のほうも回復し、橋が去年7月にできたため行くのが楽になった前正覚寺にも登ってきました。ここはお釈迦様が6年間修行したという洞穴があり今シーズンより各国の大勢の人が参拝できるようになりました。
これから2月に入るとベナレス→サール・ナート→クシガナル→サヘート・マヘート→ルンビニと北上していく予定です。

=B=

定価がなく品物は交渉しだい、タクシーに乗るとボラれる。銀行でお金をゴマかされ、道を歩くと妙な男がガイド料を要求してくる、道端でどなり上げるも再々、窓を開けると薫風……と思いきやどこからともなく漂ってくるウンコの臭い、駅で、街で、通りでつきまとう乞食の群れ、10億の民が便所もないこの国で毎日通りで用を足すのを責めることはできないが、電動車椅子という四つ足の厄介な代物はどうしてもこれらを踏まずに進むということはできない。「糞尿の山をかき分けインドかな」という実感は食欲喪失、睡眠不足となって襲ってくる。
ネパールに入国する前の1日20回の下痢もネパールに着いてからの3日間の寝汗も長かった地獄物語の完結編としてはあまりにもあっけなく過ぎた。しかしそのインドに原子力発電、ロケット、コンピューターというような近代的なハイテクがそろっているという事実をどう考えたらいいのだろうか?
インドに入って何ヶ月にもなりますと言う若者のバックパッカーにチョイチョイ出会う、みんな自分なりの尺度でインドをのみこもうとするが、それはまったく不可能なようだ、1人のつぼにおさまるほどインドは小さくもなく単調でもない、また、歴史も長い。いろいろ思案なげ首の状態で思いつめていると、昔絵本で見たインド人が現れてくる。ターバンを巻いた色黒の男は道端にすわって笛であやしげな曲を吹いている、曲に操られてコブラが壷から現れ頭を振って踊る、じつはコブラを躍らせているのは笛の曲ではなく地べたをリズミカルに打っている男の足であるということだ。
不可解不可説の大陸インド、実際私はこの躍らされているコブラかもしれない。

=C=

インドでの30日間の後2月14日にネパールに来てあまりの寒さに体調をこわしていましたが、ようやく回復しつつあります。ネパールに来てみると人々はやさしく、騙す人も少なくインドとは天と地の差があることを感じています。
インドでは悪徳商法ダマシの手口がごく普通でいくら契約していても途中でどんどん値を吊り上げられます、ベネレスではわずかのお金に何時間でも付きまとう男に電動車椅子で脅し帰れとどなったら通行中のインド人が彼をどついていました。
こんなことはたびたびでしたから日本人は孤立しないことを自覚して言うべきことは言うのが良いのですが、なかなか個人旅行の難しさを痛感しました。そこで観光局の役人やタクシー会社の社長、その他親しくなった人と話し合って6大仏蹟全部をタクシーでのんびりとまわる方法を考えてみました。これが意外に良く、福岡〜ホンコン〜カトマンズの最短距離を飛びながらアショカホテルクラスの政府系ホテルチェーンを利用して、15日間22万円という旅行コースの計算が成り立ちました。
「ぜひ生きているうちに仏蹟参拝を」と言う体力の弱い高齢者の夢もかなえられそうです。(詳細は後日お問い合わせ下さい)

北九州市 向坊 : BXE06432@niftyserve.or.jp



中島虎彦著『障害者の文学』書評


タモリは片目を失明してるんだってね。知ってた?中島虎彦さんの『障害者の文学』(明石書店、3,800円)を読むまで知らなかったよオレは。障害者の文学というのは、要するに障害者の生きかたってことなんだろうね。

障害者の文学

「障害者の文学」 中島虎彦著
明石書店 03(5818)1171

著者は1953年生まれ。1974年佐賀大学生のとき、器械体操で頸損になった。受傷原因も受傷年齢も、それに詩が好きなところも、星野富弘さんに似ている。 

中学2年の夏休みに三島由紀夫の『仮面の告白』を読んで文学にめざめたというから、根っからの文学好きだ。まあ、むかしは本しか娯楽がなかったけどね(笑)。

ドストエフスキー、大江健三郎から松本清張、水木しげるにいたるまで、障害者について書かれたものと障害者自身が書いたもの合わせて239の作品が取り上げられ、論評されている。巻末のリストが壮観だ。今までこんな本はなかったんじゃないかな。もしあったとしたら、このリストに載らないわけがない。本邦初の試みといってもいいんじゃないの、この本は。

新聞やテレビで「障害を克服して」なんていうのを見ると、チェ、またかよって思うだろ(笑)。それと「白衣の天使密着24時!愛と感動の90分!!」なんてな。自分のつくった作品を自分で「感動の」ってほめてりゃ世話あない。テレビ業界では病人・障害者ひっくるめて「難病モノ」って呼んでるそうだ。お手軽な分野なんだ。

障害者モノを読みあさっている中島さんは、いわばこの方面の目利きだから、「お涙ちょうだい」や「ドッコイ生きてる」には飽き飽きしてるのね。たとえばある障害者が書いた本にレモンちゃんがこういう推薦文を寄せてるんだけど。
《私たちに、少女ジョニイは、“生きること”の、重みと深さ、そのずっしりとしたてごたえを教えてくれる。それが、どんな惨めな辛く苦しい生であろうと、生より美しい死はないのだと……。不自由になった両の手のかわりに、口に絵筆をくわえ、絵を描くジョニイ。ジョニイのその姿勢こそ、何よりも雄弁な生命の讃歌の一幅の絵そのものなのだ。どんな暗い夜にも、必ず朝がくると……》


それを中島さんは《冷静に読むと大根役者のような文章だが、》だって。もうバッサリ(笑)。でもすぐそのあとに《推薦者としてはほかにどんな言いかたができよう。》とつづけて、レモンちゃんの味方をする。かと思いきや、《闘病記の帯にはほとんどこの手の賛辞が惜しげもなくくり述べられている。それはうるわしいばかりだろうか。なにやら「ほめ殺し」などという言葉を思いうかべてしまうのは、私の老婆心にすぎないだろうか。》と、やっぱり否定するのね。どっちなんだよはっきりしろとじれったくなる。すぐ反省しちゃうひとなんだ(笑)。のたうちまわる文学(笑)。


それと顕著なのは星野批判ね。随所に出てくる。


《常に詩と画がセットになっていて、詩としての自立ができていない、という恨みがある。》《現代詩人たちは「思い出」「私の心」「風」「旅」「愛」「季節」などという手垢にまみれた言葉たちを、いったんバラバラに解体して、その残骸の中から予断に毒されていない「素」の言葉たちを拾いあげては、入念に再構築していくのである。(中略)障害者である星野とて、文学史の成果を無視していいという法はない。》《(クリスチャンの女性と結婚したのは)彼はもしや信仰と引きかえに結婚を手にしたのではないか、という怪訝も出てきたりする。》


なるほどとも思うし、なにもそこまでとも思う。近親憎悪てんですか(笑)。
ビシッと厳しいことを言ったかと思うと、すぐつぎの行で逆の見方もしてみせる。文学歴30年、頸損歴23年ともなると一筋縄ではいかない。なにもかもわかってるから、スパッと断言しにくいのね。


この本の根底に流れているのは、《障害者の文学についてみんなが遠慮なく批評しあえるような雰囲気が少しでもかもし出されれば》というねがいだ。志は高い。

「はがき通信」のことがちょくちょく出てくるから、われわれには特に親しみがもてると思うよ。

東京都 KF:CQN03007



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