は が き 通 信 Number.43
POST CARD CORRESPONDENCE 1997.1.25

《ごあいさつ》

明けましておめでとうございます。ハガキ1枚でもあなたの情報を発信して下さい。きっと誰かの役に立つはずです。今年も呼吸器を使用する頸髄損傷者を中心にホットな情報をお寄せ下さい。お待ちしています。

向坊



この私が講演!?

はがき通信の皆さん、ご無沙汰しております。この私が、講演するようになりました。知人からの紹介で、横浜周辺の情報誌にエッセイを書くようになり、3年が過ぎました。文章を書くのが苦手なので、とても苦労しています。

最近は、外出すると見ず知らずの人から、「エッセイ読んでますよ、頑張って下さい!」と、声をかけられるようになり、励みになっています。少しテレくさい気持ちですが、嬉しい事です。

また、激励の電話やFAXを戴いたり、自宅まで会いに訪ねて来られる方もおられます。元気でいても、人それぞれ悩みがあるものですね。私が書いたエッセイで、少しでも元気になられたらと思っています。

頚髄損傷になられた家族の方からの電話もあり、いろんな情報や体験などを話させて戴いています。
ある日、私のエッセイを読んでいた、中学校の先生から講演の依頼がありました。「この私が講演!?」突然の話にビックリしましたが、とうとう断れきれずに、講演を承諾しました。「失敗しても良い、私の大きな身体を見て貰うだけで良いではないか」と思うと、気持ちが落ち着き、開き直れました。

生徒 500人の前で、緊張しながら何とか話しました。電動車イスの操作の仕方から入院生活、リハビリ、退院後のC4レベルの頸髄損傷者の生活などを話しました。無事、話が終わると緊張も無くなりスッキリしました。
大勢の前で一方的に話すのは難しく、また、貧血との戦いでもありました。もっと分かり易く、面白く話せたらと思いました。久々の緊張感と解放感を味え、素晴らしい一日でした。生徒の皆さんは、最後まで静かに聞いてくれました。そして、後日、講演の感想を全校生徒から貰い、1枚1枚、心のこもった感謝の手紙を読んで、とても感激しました。本当に、生徒の皆さんに話をしてよかったと思いました。それがきっかけとなり、色々な所から講演の依頼がくるようになりました。未だに話は上手になりませんが、これからも、何事にも挑戦する気持ちで望みたいと思っています。

横浜市 MI


激痛をどう克服?

当方44才になる男です。私は二年前に通勤帰りに飲酒をして帰宅途中、自転車で転倒し、頚髄損傷になりました。以来車イスの生活です。勤めは中学の教員でした。

現在はリハビリセンターに入所して1年半になりました。私の一番の悩みは、後遺症で腰から下が非常に痛むことです。生きているのがつらいです。どんなに調べてもいい解決方法が無く、必死に耐えてきました。そこへ同室者にMI君がおり、彼から「はがき通信」を借りて読み、同じような悩みを抱えている人の文章を読み、是非自分も購読したくなりました。

というわけで是非「はがき通信」を送ってください。
現在、「MSコンチン」というモルヒネ錠剤を服用し、それ以来痛みがかなり軽くなり、何とか我慢しています。病名をわざと脊髄腫瘍として処方してもらっています。「はがき通信」の41号に東京都八王子市のOさんの通信がありました。ご主人がやはり痛みで悩まれているとのこと、痛いほど良く分かります。

同じ悩みで苦しまれている人、ひっそりと我慢している人がまだ大勢いると思います。是非お互いの情報を交換して、いい方法が得られればと思います。よろしくお願いします。

【 自己紹介 】

・年齢44才 ・性別 男 ・身長172cm ・体重55kg

・症状 頚髄損傷(C5−6の不全)による、四肢麻痺と体幹麻痺

・経過 事故より二年たち、改造自動車に乗れるようになる。ただし全身症状は思わしくなく、日常的に疲れ、むくみ、発熱、食欲不振、だるさ、眠気、健忘症、排泄困難がある。

・既往症 過敏性大腸炎。尿路結石二回。低血圧(高い方が約90)

・飲酒、喫煙は20年来毎日続けた。今は全く手を付けない。というより飲めなくなってしまった。

・住所 (情報交換誌「はがき通信」に記載しています)


どんな場所でも行くことが出来る

先日、強い姉と、母の誘いから、浜松のシンポジウムに行く決心がついたのは、本当にその日が近くなってからでした。しかし浜松のシンポジウムに行って松井先生、向坊さん、Fさん、Oさん、Sさん、他参加されていた、たくさんの頚損の人々やボランティアお皆さんに優しくしてもらいありがとうございました。

ホテルの部屋も一番大きい部屋をとっていただいて、大変感謝しています。
やはり一番嬉しかったのは、C2レベルで人工呼吸器をつけていても、しっかりと準備さえしておけば、どんな場所でも行く事が出来る事を教えてもらいました。もちろん自分一人では行く事は出来なかったと思います。母、姉、先日他界したMさんの奥さんの協力があり一緒に行けたので、今度の浜松のシンポジウムに行けたと思っています。

今回のシンポジウムで一番勉強になった事は、皆さんが、それぞれいろんな工夫をして本当に苦労して生活の中で戦っている事が解りました。僕も皆さんに負けないように生きていこうと思いました。

松井和子先生や皆さんに優しくしていただき、いったかいがありました。又、たくさんの本や呼吸をうながす器具をもらいありがとうございます。つらかったのは、二日目の講演の時長く車いすに座っていたので、足がつった事と、皆さんがうなぎ屋で食べたのに僕だけ食べる事が出来なかった事と、駅でFさんに話しかけられても近くに通訳してくれる人がいなかったのが残念でした。

しかし、懇親会に行って良かったです。たくさんの人々に励まされました。今年も参加したいです。この手紙にかえてお礼とさせていただきます。

大阪府MU


3歳の子供が頚損に!

私は札幌に住んでいる38歳の二児の父親です。
実は私の不注意から、今年の7月に交通事故を起こし、同乗していた娘(T 3歳)が頸損となりました。娘は事故直後心停止していたものの救急救命士の処置のおかげで蘇生し、最初に運ばれた病院(脳外科)で、腫れ止めを投与されたことから、二次損傷に至らずにすみました。その後市立札幌病院(道内の救急部でははトップクラス)に運ばれ、治療を受けたのですが、診断は頭蓋骨線状骨折、第二頚椎骨折、不全四肢麻痺等でした。幸い脳への障害はさけられたのですが、自発呼吸は全くみられず、左足にかすかに反射がみられる状態でした。

受傷後約一ケ月間ICUにいたのですが、そのときに担当の先生から渡されたのが松井先生の著書(頚髄損傷)でした。この本により頚髄損傷がどのようなものであるか、また受傷した人がどのように生活しているかが、認識できるようになりました。

1ケ月後、一般病棟に移され、看護体制が手薄となることから24時間付添による看護となりました。頚損に対し、知識の乏しい私たちにとって、先生の著書はバイブルのようなものでした。またその後松井先生にコンタクトをとって、アドバイスを頂くとともに「はがき通信」のバックナンバーを送っていただきました。“子供の頚損は対処したことがない”という病院内において、子供を守るためにはどのようにしたらよいのかと暗中模索する中で、先生の著書や「はがき通信」に書かれていた体験談等は非常に参考になりました。

受傷後4ケ月が経過しましたが、@事故後の対処がよかったこと、Aまだ人間としての未成熟期〈0〜3歳)にあったこと、B損傷の程度が致命的でなかったことなどから、現在では自発呼吸によるウイーニングが10分程可能で、両足と左手がある程度動かせるようになりました。しかしこれまで、夜中にカニューレがはずれたり(看護婦さんが病室の前を通りかかったときに苦しんでいる娘に気がついたり、かすかな声で叫んでいる娘の声で目が覚めたりして難を逃れる)、カニュ一レに痰がつまり十分な換気が行われずCO2がたまっていたなどのアクシデントもあり、やはり死と背中合わせの日々でした。そのようなときには、やはり経験談による知識が助けとなります。

「はがき通信」に書かれている内容は、私たちにとって貴重な財産です。
是非とも購読したいと思いますので、入会よろしくお願いします。

札幌市RS

大勢の会員と出会えて

1996年10月12日、13日と、電動リクライニング車いすで、浜松での「はがき通信」懇親会に参加しました。13日、帰りに、『ワーキング・クォーズ』執筆者のSSさんの家と、Sさんの職場である賃貸マンションの管理事務所を宝塚に訪ねました。 

行きは、早朝5時過ぎにタウンエースで博多駅に、博多から、新幹線のぞみで名古屋まで行き、そこからこだまで浜松まで行きました。こだまの中から浜松タクシーに電話し、リフト付きタクシーでサンピア浜松に着きました。 

帰りは、Sさんと一緒に、こだまで新大阪まで行き、地下鉄で梅田駅まで、梅田から宝塚までは阪急で行きました。阪急の駅からSさんの家までと、Sさんの家から新大阪駅までは、Sさんのお父さんが運転するリフト付きハイエースに乗せていただきました。新大阪から博多まではのぞみで、博多駅から天神までは福岡市の地下鉄で帰りました。JR浜松駅では、短い時間でしたが、MUさん(C2、人工呼吸器付きスズキ電動車いす、高槻市)、NMさん(大阪市)と新幹線の駅で、初めてお会いすることができ、とてもうれしかったです。Uさんと一緒に、TFさん(C4、手動式車いす、多摩市)、MOさん(C4、イマセンあご操作電動リクライニング車いす、東京都)たちとも再会できました。ひじょうに幸運でした。

会場のサンピア浜松では、HSさん(C7、Eフィックス電動車いす、横須賀市)、TMさん(C5、手動式車いす、普段は電動リクライニング車いす利用、横浜市)、TKさん(C4、手動式車いす、福山市)、MGさん(C5不全、スズキ電動車いす、姫路市)たちと、初めて会うことができました。また、松井さん(浜松市)、向坊さん(C6、スズキ電動リクライニング車いす、北九州市)、Oさん、THさん(C6、スズキ電動車いす、呉市)、SSさん(C5−4不全、スズキ電動リクライニング車いす、宝塚市)、TFさん(C4、スズキ電動車いす、埼玉県)、HFさん(C5−4、スズキ電動リクライニング車いす、倉敷市)、MMさん(C6、スズキ電動車いす、福岡県)、TSさん(C5−4、スズキ電動リクライニング車いす、群馬県)、YHさん、NGさん(C5、スズキ電動車いす、北九州市)たちと再会できました。HTさん、SIさん、HSさんとは、日程が合わず、お会いできませんでした.。MHさんが参加できなかったのも残念でした。

会場では、電動リクライニング車いす、電動車いす、手動式車いすが行き交い、とても和やかな雰囲気でした。宝塚では、Sさんのマンションの大きさにびっくりしました。浜松、宝塚、新幹線で、『ワーキング・クォーズ』執筆者の人たちと一緒で、話を聞くことができ、楽しかったです。 皆さまにもよろしくお伝えください。
これからもよろしくお願い致します。敬具

福岡市 KS


只今勉強中

私は福祉機器の製作をしていますが、先日、福岡県飯塚市の総合せき損センターの井手先生のところへ勉強に行ったところ「はがき通信」を紹介していただきました。私も入会したいので宜しくお願いします。

私は、ALS協会大分県支部に参加して福祉機器の製作のお手伝いをしたり、地域リハビリネットワークの会に参加して福祉機器の製作の仕事をしいます。色々なナースコールをその人に会わせて製作したり、人工呼吸器の脱落警報器を製作したり、「目で打つワープロ」の設置や操作指導をしたり、書見台を作ったりと電気や機械関係を製作しています。

仕事を始めたばかりで、色々なところを訪ねて勉強している状況です。親身になって相談出来る福祉機器の仕事をしたいと取り組んでいます。

「はがき通信」を読んで色々と勉強になりますので、入会したいと思います。宜しくお願いします。

大分県 徳永装器研究所 ST : BXR01464@niftyserve.or.jp

「はがき通信」懇親会 今年も盛大に

昨年10月10日・11日・12日13日の4日間、初めての試みとして、静岡県浜松市で「はがき通信」の懇親会が行われなした。はがき通信の購読者はご存知の通り重度頚損の方なので、どのくらい集まれるか正直なとこ心配でしたが、全国から20人以上の購読者と、ご家族の方、ボランティアなど、たくさんの参加がありました。

10日夕方より続々と集まり始め、18:00 より自己紹介の後、バイキング形式の夕食会が行われました。終了後もロビーや部屋で話に花が咲き、深夜まで話が尽きないようでした。

11日は頚損特有の低血圧も考えて, 10:00 よりみなさんのスピーチがはじまり、自分が書いた絵を紹介したり、ビデオを使ってのスピーチや自分の失敗談などもあり、時には笑いもおこる和やかな雰囲気であっという間に時間がすぎました。
16:00 からは、広い“天竜の間”に移り、松井先生の講演とシンポジウムが行われました。浜松医大の学生さん・地元の保健婦さん・静岡頚損連絡会の人達も来てくれました。シンポジウムでは驚くような体験談や共感できること、私にはちょっと考え込むような話もありました。懇親夕食会には TETSUYA &ampYUKO のミニコンサートもあり、大変盛り上がりました。圧巻はやはり、携帯用呼吸器をつけて出席した大阪のMUさんで、みんなの注目を集めていました。彼は日本の頸髄損傷者の歴史に新しいページを開いたように感じました。

12日も, 10:00 より参加者のスピーチがはじまり、昼食を挟み、16:00 には全員のスピーチが終了しました。さよなら夕食会までの時間、みんなでいろいろな情報交換ができました。全体的にスケジュールに余裕があり、頚損の私達には身体的にも大変楽な懇親会として、初めての試みでしたが大成功に終わりました。

最後になりましたが、幹事さん、ボランティア、現地でお手伝いをしていただいたみなさん、お疲れさまでした。そして参加して下さったみなさん、ありがとうございました。
また今年の10月10日、浜松での第2回懇親会に元気な顔でおいで下さい。
お会い出来ることを楽しみにしております。

埼玉県 TF : VED01101@niftyserve.or.jp

また浜松で!

はがき通信愛読の皆さん、お変わりありませんか。
私は去年10月、「はがき通信」購読者の「浜松で会いましょう」会に参加させて頂きました。参加された方の発表を聞き、色々勉強になりました。私はほとんどの方と初めてお会いしたのですが、皆さん、親しみやすく話をして下さり、嬉しく思いました。それと、皆さんの頼もしさに元気づけられる思いです。

是非これからもこういう機会があれば参加させて頂きたいと思います。幹事の方々はじめ、ボランティアの方々に色々お世話になりました。皆さんと又会う機会を楽しみにしています。今年10月の「はがき通信」懇親会で購読者の方々ともお会いできる事を今から楽しみにしています。

福山市TK


TO DEAR

こんにちわ!!てつやDEATH!! 浜松の交流会、楽しかったです!!またまた色んな出会いがあり、いい刺激を受けました!!向坊sanの旅行記とか聞いていて楽しいですね。部屋の本棚には、いつの間にか、松本人志の隣に向坊弘道が3冊も並んでいました(笑)。

“はがき通信”第1回の交流会は、結果オーライ大成功だったと思います!!だらーっ!!って感じ。夜の名菓もキたね。!!俺らの演奏も今のところ、あんなもんです。みなさん、歌って頂きSPECIAL THANXでした。また次回もよろしく!!車で片道9時間の長いロードは疲れたけどねーっ。でも、道中も楽しい事いっぱいあったね。てつやの卑怯な歌しりとりとか(笑)。

ま、3日間楽しかったさ!!GOD SAVE THE“はがき通信”!!!!・・・・・SEX PIST
OLS観に行きてー今日このごろ。
話は変わって、部屋ではハムスター飼ってるんですけど(その名はコロコロ★コロン)、かわいいね。身体の臭いのハーモニーがいい。まあ、臭いせんけど(笑)。ホント手がかからないんで(水とかトイレ砂はしばらく替えなくてOK)、身障者には身近な動物か。部屋に放し飼いにすると、踏むね。120キロク゛ラムで(笑)。

あと来年はオリジナル曲入りCDをつくるぜイ。またまたよろしく!!ってな感じで、また何処かで会うのを楽しみにしています!!んじゃ、また!!CHECK IT OUT!!ウオンチュッ!! SEE−YA!!!!

群馬県TS


パソコン通信を利用されている方へ


1. ノーマネット利用情報 11. 福祉マップ
2. メールを読む 12. 雑誌・文庫情報
3. − 13. 電子図書
4. ノーマネットナビ 14. 文字放送
5. 行政情報 15. ゲートウェイ
6. 医療情報 16. 団体情報
7. 福祉機器情報 17. 企業情報
8. 福祉施設情報 18. 防災情報
9. ボランティア情報 19. 国際情報
10. 文化・レクレーション

「障害者情報ネットワーク(ノーマネット)」へ簡単に接続できるようになりました。

ノーマネットは、厚生省の委託により財団法人日本障害者リハビリテーション協会が運営にあたり、災害緊急時や日常生活において障害者が必要とする幅広い情報を効率的に収集し提供するとともに、利用者同士が必要な情報交換をすることにより、障害者の自立と社会参加の促進をはかることを目的としています。


障害者情報ノーマネットが提供する情報の種類(平成8年9月1日現在)

トップメニューの所で>GO NORMA で、接続可能です(NIFTY-SERVE)。

下記の商用パソコン通信でも接続できます。

NIFTY-SERVE ニフティ株式会社
PC-VAN 日本電気株式会社
PEOPLE 株式会社ピープル
ワールド

ノーマネットで、またみなさんの情報収集や意見交換に役立てばと思います。なお、ご利用に当たっては各自、利用方法・規約を確認してください。

広報部 麩沢孝 : VED01101@niftyserve.or.jp

車いす用の駐車スペースについて

今年も残り少なくなりました。ところで皆さん、車いすマークのついた車いす用の駐車スペースというのは、いろいろな場所で使用されることがあると思います。
少し前になりますが、市内のデパートの駐車場の車いすスペースに入れて降りようとしたところ、(私は運転ができませんので、その時は友人が運転をしていました)若い警備員がやって来て、ここに停めるのだったら車いすだと証明できるカード(おそらく駐車禁止除外指定車カードのことを言っている)を出さなければダメだと言うのです。

その時は友人の車だったので持っていませんでした。私はそのことを言い、実際車いすなのに納得ができず言い返しました。そこの車いす用のスペースは、セイフティコーン等は置いておらず、行くといつもほとんど満車状態です。車いすの人が実際止めているのかどうかは疑問。一応無人で、出入りはセンサーが感知する駐車場で、混雑する時は誘導や料金の支払いに警備員がいます。きっと投書でもあったのか、車いすでない人間が停めていないかどうか、チェックをしていたのかも…。

私が突っ込んで聞くとその警備員の男性は、マニュアル通りのことしか言わずシドロモドロ。そのうち無線で呼ばれ、結局話が解決しないまま行ってしまいました。

後日、知り合いの車いすの友人に憤慨してそのことを話ました。彼は車の運転ができます。『介助者がついている人は、他の場所でも大丈夫なわけでしょ?』という彼の一言を聞いてハッと気がついたのです。私は介助者がいても自分が車いすだからということで、どこでも当然のように車いす用のスペースに停めていました。自分一人で車を運転して来る人達のことを深く考えていなかったのです。明らかに車いす者ではないとわかる車が車いす用のスペースに停めてあって、頭に来た経験は誰でもあると思います。

日本はまだ罰金制度がありませんから、人々のモラルに任せられています。配慮不足という観点から見れば、介助者のいる車で来た車いす者が一人で運転して来る人のことを考えず、車いす用の駐車スペースに停めるのも同じと言えないでしょうか。

『早々来るはずないさ』と考えるのは、一般の人が『車いすなんて滅多に来ないさ』と考えるのと同じです。確かに車いす用のスペースは広くてトランスファーしやすいですし、入口やエレベーターの近くのことが多いですが、駐車場に停める前に降りれば済むことで、介助者がいれば少々遠くても押してもらえます。それ以来、車いす用のスペースに停めることはやめました。でも、すべてということではありません。時と場合、そして場所にもよるでしょう。

車いす用の駐車スペースはあっても、一般車が入れないように置いてあるセイフティコーン等の“邪魔もの”達…。自分で運転して来る人達は、さぞかし不便だろうなァと思います。モラルや法律的強制手段がない限り、これしか方法がないのでしょうか?車を運転する人間の心理なのか、黄色や白の斜線(普通は通行禁止や駐停車禁止を示す)が引いてあって車いすマークのついているスペースをたまに見かけますが、停まっている車が少ないように思います。

この手紙は年内に書いています。それでは皆さん、良い年の瀬&新年をお過ごし下さい。12月6日

神奈川県HS


小学校に戻る事が出来ました

はじめまして、「はがき通信」をお送りくださりありがとうございます。今年8月倉敷にスバクバクの会(呼吸器をつけた子の会)の中国大会で、HFさんにお会いすることができ、はじめてこの情報誌のことを知り、その他いろいろな情報をお聞きすることができました。 

早々、情報誌を毎回送って頂いていたのに日々の忙しさにかまけて、お礼が遅れてしまい失礼しました。HFさんにも、きちんとお礼のお手紙もさしあげず、もう新しい年が目の前に迫ってきている次第です。 長男 S(9歳)は、H6.4.23交通事故でC1.2の圧迫骨折にて重傷を負いながらも、病院スタッフの皆様、学校の先生方の協力を得ながら、H7.2末から地元の学校の自分のいたクラスに戻ることができ、現在は病院及び自宅(毎週末外泊し)からほぼ毎日通学しています。 

うるさい母親と離れられる学校生活はいごこちのいい場所で、友達と一緒でとても生き生きしています。 これからのSや看護する私たち親にとって「はがき通信」は心強い支えとなっていくと感じています。今後ともよろしくお願いします。 
益々、寒さが厳しくなってくる時期です。お身体御自愛ください。

広島市SK母


障害者は障害者の本を読まない!?

寒中お見舞い申し上げます。
先日、かかりつけの医院に薬をもらいに行ったときのことです。玄関のスロープを電動車いすで高速のまま勢いよく駆けのぼったところ、前車輪がふわっと浮き上がりそのまま車いすごとアッという間にうしろへひっくり返り、後頭部をしたたか打ちつけてしまいました。あのまま一回転していたらと思うとゾッとします。今まで電動車いすから身体のほうがずり落ちたことは何度もありますが、頑丈な電動車いすそのものがひっくり返るなんて初めてのことで仰天しました。 

このスロープは私が院長に手紙で要望して取りつけてもらった鉄板製ですが、スペースがないのでかなりの急勾配になっているのです。今まで数回は中速で難なく上っていたものですから、ついつい横着になっていたようです。幸いその場は待合い室から飛び出してきたお爺ちゃんやお婆ちゃんたちに助け起こしてもらい、たんこぶができただけで済みましたが、みなさんもどうか気をつけてください。

私は役場や医院や銀行や図書館や公民館やコンビニや酒屋など、自分の身の回りの用事はすべて一人で出かけてゆきますから、たまにはこんなアクシデントもありますよね。出先ではもちろんお金や書類を相手に取り出してもらわねばなりません。しかしそういうやりとりからいろいろな人との触れあいが生まれます。外国を飛び回っているような障害者たちの行動力にはとてもかないませんが、私には足元の生活を介護者任せにせず自分でつとめることのほうがよほど行動力と行動半径の広さを必要とするのです。そういう積み重ねの中から自立への出会いも性愛の機会も生まれてくるのではないかと期待しています。

はからずも前々回の通信で、RSさんが「普通の通信を読みたい」と言っておられましたね。彼の言う「普通の通信」とは何でしょう。この頃のはがき通信を読んでいると、何となく察しはつくような気がします。「たとえばエイプリルフールか何かに、NHK七時のニュースで愛人タイプのキャスター嬢が、『東京都のケイソン凸山凹雄さんは長らく便秘で悩んでおられましたが、友人から漢方薬のセンナを勧められて試してみたところ、今朝六時五〇分、六日ぶりで立派なうんこが出たそうです。よかったですねえ』などと読み上げてくれたら、日本じゅうの茶の間が一瞬ぽかんと口を空いたあと、ほがらかな洪笑の渦へと包まれてゆくことだろう」(「障害者の文学」から)。

さて、そのSさんからは、私の「障害者の文学」(脊損ニュース連載中)に対して毎号のようにご意見をいただいて、感謝しております。その中で彼は「自分は障害者の本を今までに十冊も読んでいないんじゃないか」と苦笑されていましたが、これは他人事ではありません。私だってあの評論を手がけるまではろくすっぽ読んでいなかったのですからね。

「脊損ニュース」や「頚損」や「はがき通信」が届いてさえ、まず机の端っこに積んでおいて、あらためて手に取る気になるまで一月くらいかかるのはざらでした。他の人に聞いても似たようなものです。

はてさてどうして障害者はこうも障害者の本を読まないのでしょうか。一つにはもちろん肉体の制約が多いから、二つには自分の怠けぶりが糾されて憂鬱になるから、三つには障害者の本自体がつまらないから、四つには障害者同士に近親憎悪があるから、などいくつかの理由が考えられます。
また、ある程度読んでいる人でもケイソンはケイソン以外の障害者の本はあまり読んでいないようです。視野を広げるためにも、こういう不毛は少しずつ乗り越えていかなければならないでしょう。 

私の場合は「障害者の文学」を書く上で250冊ほど読みましたが、これはもう仕事として読まざるをえないと割り切ってから、肩の力が抜けたような気がします。そのうち楽しむこともできるようになり、こんなに克服できた例は自分でも珍しいです。なお、いちいち買っていたらとてもお金が続きませんから、たいていは町の図書館に希望リストをFAXで提出しておいて司書の方に取り寄せてもらい、村の公民館まで持ってきてもらい、後日受け取り・返却に行っています。

しかし率直に言って、(私のも含めて)障害者の本は玉石混交です。皆さんがそこで貴重な労力を浪費されるのは忍びないですから、私の読んだ本のうち、ケイソン関係以外で是非薦めたほうがよいと感じたものをご紹介させていただきます。何かの参考にしていただければ幸いです。きっと新しい世界を広げてくれると思いますよ。

なお、中には絶版になったり品切れになったりしているものもありますから、お近くの図書館に問い合わせてみてください。私の持っている分はお貸ししてもよろしいです。それではお風邪など召されませんように。

★「母よ! 殺すな」(横塚晃一著、すずさわ書店、1975年)
★「病棄て 思想としての隔離」(島田等著、ゆみる出版、1985年)
★「青じその花」(山崎方代著、かまくら春秋社、1991年)
★「合同歌集・虹」(虹の会著、斉藤編集事務所刊、1993年
★「自閉症だったわたしへ」(ドナ・ウイリアムス著、新潮社、1991年)
★「神への告発」(箙田鶴子著、筑摩書房、1977年)
★「スカヤグリーグ」(ウィリアム・ホアウッド著、角川書店、1991年)
★「無手の法悦」(大石順教著、春秋社、1968年)
★「ハートで描く心のメッセージ 平成六年入賞作品集」(牧口一二ら監修、NHK出版、1994年)
★「ハゲの哲学」(金子勝昭著、朝日文庫、1995年)
★「障害者が恋愛と性を語りはじめた」(障害者の生と性の研究会編集、かもがわ出版、1994年)
★「狐憑」(中島敦著、新潮文庫「李陵・山月記」から、1989年)
★「豆腐屋の四季」(MM竜一著、講談社文庫、1983年)
★「中条ふみ子歌集」(中条ふみ子著、国文社現代歌人文庫、1981年)
★「もうひとつの太平洋戦争」(仁木悦子ら編集、立風書房、1981年)
★「LOVE」(牧口一二など聞き書き、長征社、1983年)
★「ダウン症の子をもって」(正村公宏著、新潮社、1983年)
★「ドグラ・マグラ」(夢野久作著、ちくま日本文学全集、1992年)
★「灰色のバスがやってきた」(フランツ・ルツィス著、草思社、1991年)
★「アフリカの白い呪術師」(ライアル・ワトソン著、河出書房新社、1983年)
★「犠牲(サクリファイス)」(柳田邦男著、文芸春秋社、1995年)
★「臨死のまなざし」(立川昭二著、新潮社、1993年)
★「車椅子からウインク」(小内山美智子著、文芸春秋社、1988年)

佐賀県TN


ズボン???制作、その後

以前「はがき通信」で紹介いただいた外出時の着替えを簡単にするズボンの制作に、皆さんからいろいろアドバイスいただきありがとうございました。

皆さん着替えにはそれぞれ工夫されているようですね。たとえば、向坊さんは寝袋を利用する方法とか、前号ではKFさんから女性の巻スカートのようにする方法とか、貴重なご意見をいただきました。 

その他の皆さんは外出時の着替えをどのようにされているのでしょう。私たちには、排尿・排便、褥そうなど多くの問題を抱えています。気軽に出来る方法があれば、ぜひお聞かせ下さい。 

さて、私たちの制作イメージとして女性のロングスカート?を考えています。

今後は試作品を制作し着心地を確かめながら、外出時の着替えの負担を軽くする方法を追求していきたいと思います。
今後も皆さんからのアドバイスをお待ちしています。

上浮郡 KS


素晴らしい出会い

10月10日体育の日、半年前から計画され、「はがき通信」のお仲間が初めて全国から浜松サンピアホテルに集まりました。私はこの日を大変楽しみにしていました。毎回「はがき通信」を通し、皆様の声を読ませていただいています。けれどもお顔は分かりません。でもこの出会いに皆様とお会いできるのです。嬉しさと大きな期待に長男Mと一緒に参加させていただきました。

東京駅より「こだま471号」午後3時40分発に乗りました。東海道新幹線も浜松行きも私にとって初めての旅行です。今迄旅行すると云うこともなくただ無我夢中で過ごしてきました。車中でお弁当を食べお茶を飲み、飛ぶように移り変わる景色を眺め、東京から浜松まで新幹線の止まる駅はいくつあるかと教えたり、本当に楽しい2時間を過ごすことが出来ました。丁度8つ目の駅が浜松駅でした。

浜松駅よりタクシーに乗り、浜松サンピアホテルに着きました。ホテルのロビーには松井先生、向坊さん、Fさん、府中から来られたTさんと息子さんにお会い出来久しぶりの出会いにご挨拶したり、お話ししたり楽しい一時を過ごしました。

夕方7時よりホテル大広間にてにぎやかで楽しい夕食会が始まりました。私とMはTさんのお隣に席を取りました。松井先生のお話から始まり自己紹介のマイクが回ってきました。ほとんどの方のお名前とお顔が一致しません。

私は自己紹介の後、何をお話しして良いのかとまどいましたが、次男Kが鉄棒事故によりC3,C4の頚損になり呼吸器が付き6年間の闘病生活中に又、呼吸器事故により19才で亡くなってしまったこと、その6年間の闘病記録「あの子の笑顔は永遠に」を出版したこと、朝日新聞夕刊「窓」で紹介され、全国各地より大きな反響があった事、多くの方からお電話、お手紙、ハガキを頂き、多くの方とお話もでき大きな輪が広がったこと、このようなことをお話ししました。

それから呼吸器事故でご主人を亡くされたMさんにお会いすることが出来ました。私はMさんの突然の死に大きなショックを受け、お手紙を書くこともできなかったことをお詫びし、お互いに辛かった思いをお話しすることが出来ました。月日の流れと共に、少しづつ心の痛みも癒やされていくことと思います。

又、大阪からは呼吸器をつけて参加されたIさんにもお会いできました。お母様、お姉様に付き添われ御家族の手厚い介護に見守られていらっしゃいました。私は、ふとありし日のKの姿を思い出し、色々と介護をしていたときのことを、少しでもお役に立つことが出来ればと、心の通じたお話をすることが出来ました。 

10月11日、今日は朝10時より一人30分スピーチが行われました。福祉機器についてビデオを使い説明するTさん、パソコン通信、交通機関での移動、「自分から進んで行動できるようになろう」と積極的に頑張るTFさん、初めてお会いできました「福祉施設からでたい、自立したい」と努力されているMGさん、「脊随基金」についてお話しされたOさん、皆さん本当に明るく、お元気で、活動的に力強く熱弁される様子に感動いたしました。

少し遅れて駆けつけたSさん、前にお手紙を頂き、どこかでお会いしましょうとお約束していたことが実現しました。それからCDを作り聞かせて下さったTSさんにもお会いできました。夕方4時から浜松医大と「はがき通信」会員のシンポジウムが開かれました。私はシンポジウムとはどのような事をするのか大変興味深く思っていました。浜松医大の松井先生、松村先生によるお話、大きなスライド画面を使ってビデオによる呼吸器離脱へ向けてと、鏡を使っての呼吸の訓練方法など初めて見る光景です。

私は我を忘れ引き込まれるように見入っていました。まだまだシンポジウムは続きましたが、急ぎ6時2分の新幹線に乗り帰らねばならず本当に残念な思いでした。又お会いできる日をお約束し皆様と名残惜しいお別れをしました。本当に短かった出会いではありましたが、素晴らしく楽しかった集いに感謝して居ります。Mも良い勉強になったことを喜んでおりました。皆様有り難うございます。又お会いできる日を楽しみにして居ります。

埼玉県HS


がべちゃんの自分史③(4回連載)

大学時代はバイトと学生運動に明け暮れた。仕送りがないので、バイトは生活費を確保するために当然の事だった。学生運動への参加は、朝から晩まで働いているにもかかわらず、暮らしが楽にならない両親のことがあった。学生運動が、その答えを教えてくれるような、そんな気がしていた。そのころの学生運動は、ヘルメットをかぶったり、マスクやタオルで顔を隠したり、ましてや角材を持ったりはしていなかった。でも戦闘的な学生運動家だった私は、処分を受け1年留年する結果となった。

4、5回生は所属の研究室に欠席することなく通った。それも朝早くから。隣の研究室の教授が「曽我部君、君は見かけによらず真面目で、しっかりしているんだね」と思いもかけない褒め言葉をもらうほどだった。しかし、学生運動をしたことは、その後の私のものの考え方に大きな影響を与えている。

就職の時期が来て、不本意ながら教師の採用試験を受けた。いわゆる「デモ、シカ教師」の1人だった。デモ、シカ教師といっても今の若い人にはわからないと思う。「教師デモしようか」「教師にシカなれない」教師を意味したいやな言葉だ。いやな言葉であろうと私にとっては事実だった。教員採用試験を受けるしかなかった。そして、大阪市の中学の採用試験に合格した。でもいくら待っても内定が来なかった。「学生運動をやっていたことが原因だろう」と学生課の職員は言った。私は大阪市の教育委員会の職員課に行った。

「なぜ採用してくれないのか」を聞いた。そのときの職員の顔は忘れたが、言葉は今でも忘れることができない。「故郷で、内定の知らせをゆっくりと待つような人でないと教師には向きません」と言うのだ。それを聞いて私はびっくりした。と同時に怒りが込み上げて来た。我慢できなく、言い返した。当然言い争いになった。そして私の大阪市の教師になる道は断たれた。いや近畿圏の教師への道は断たれた。

食べて行かなければならない。企業内高校の教師の募集に応募した。兵庫県の高砂にあった、大手の紡績工場だった。そこの寮に住み3年間数学を教えた。いつどういうきっかけでA市に来たのかはすっかり忘れてしまったが、思い出せるのは、臨時教師としてA市に来ていたことだ。
最初に私が赴任した学校は荒れていた。市内で、転勤したくない学校のワ−スト3に入っていた。しかし、荒れていたのはこの学校だけではなかった。全国的な状況だった。私はこの学校でさまざまなことを学んだ。教えてくれたのは、荒れた様子を見せる子供達と、その子供達を指導している教師だった。ベルがなっても教室にはいるのに、10分も15分もかかっていた子供達が、ベルと同時に教室にはいる教科があった。楽しくて、良くわかり、本当の愛情に裏うちされた厳しい教師の授業がそうだったのだ。「楽しくて、良くわかる授業をすれば、子供達は授業の中で心を開く」これが第一に子供から学んだことだった。

そして「授業は教師の本質的な仕事である」ということも学んだ。私は必死で楽しく、良くわかる実践をしているサ−クルを探した。なかなかそのようなサ−クルには出会わなかった。でも常にそのことを念頭に置いておれば、出会えるものだ。「求めよさらば与えられん」ということだ。私は求めていたサ−クルに出会えた。そして今もそのサ−クルで、仲間とともに学びあっている。この学校には、被差別部落があった。そして在日韓国、朝鮮の生徒も多かった。保護者や子供達から、差別の厳しさを教わった。差別の現実を知ることとは、差別をなくすために、行動するということだった。荒れた様相を見せていた子供達だったが、感受性の鋭い、やさしい子供達だった。私はこの学校に赴任して、本当によかったと思っている。「デモ、シカ教師」だった私に、教師としての誇りを持たせてくれた。いや、本来あるべき教師の姿だけでなく、人間としてどう生きるかを教えられた。

月日は経ち、転勤があった。どの学校でも、自慢たらしく聞こえるかもしれないが、私の授業は子供達から歓迎された。授業は苦しかったが楽しかった。子供達は面白く、かわいかった。私の生活は充実していた。しかしこの充実した生活は永久には続かなかった。というのは、私が事故にあったからだ。1989年、45歳のときである。事故はアフリカで気球に乗っていて起きた。着陸に失敗して私は首の骨(C4という7本ある首の骨のちょうど真ん中)が折れた。その結果、全身マヒの障害を負ってしまった。(つづく)

兵庫県 SK



ひとくちインフォメーション

◆ アパートでの福祉機器の導入は難しい点が多いのですが、建物を損なうことなく機器を設置しているHTさんは朝帰りから入浴まで無難にこなしています。その実態をビデオに編集して発行部・向坊に送ってこられました。また、ドイツ製の折り畳み式電動車イスのビデオも収録されています。


ご希望の方は向坊宛か下記の本人宛にご連絡下さい。(詳しい連絡先は情報交換誌「はがき通信」にて)

HT


◆ベッドの上でもシャワーできます

シャワーヘルパースタンダードタイプSH20S

上の図は下半身用のものですが、他にも洗髪用、全身用のシャワーシートがあって、目的に合わせて使えます。
泡が発生して血行を良くする足浴ホースなどもあるので便利です。 【お問い合わせ先】

発売元 (株)ケアテックサービス
製造元 岩井商事 (有)
TEL 093-961-0506 / 093-963-1805
FAX 093-962-4386

◆ 出版コーナー

『見えない絆』TM著、エフェイ出版、¥1300.頸髄損傷者となった著者が20年間の入院生活、その後2年半の施設での生活、劇的な結婚による家庭生活を通じて、多くの人たちとの出会いを描く。感動のドラマです。

◆ 編集後記

昨年の「はがき通信」の購読料収入は購読者303人のうち、144人が年間購読料千円を納められました。年末現在、合計301、580円(切手納入も含む)の手持ち資金があり、当分の間、「はがき通信」の発行に支障はありません。なお、その中には寄付金が153、500円も含まれており、1万円寄付された方が9人もおられます。

編集部としては購読者の激励に応えるべく、今年もがんばっていきますのでなにとぞよろしくお願いします。


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