は が き 通 信 Number.35
POST CARD CORRESPONDENCE 1995.9.25
COUNTER
《ごあいさつ》

8月下旬、リハビリテーション工学カンフアレンスでは大阪の会場で、はがき通信の会員同志のすばらしい出会いがありました。頚損は外出しにくいと思いますが、色々な機会をとらえて、お互いに会うようにしましょう。
1995年9月25日 向坊弘道


頚損の心境

佐賀県 TN

34号を読んでKさん、Fさんとあとがきに、ハツと我に返らされました。ケイソンはみんな同じような心境の推移をたどるみたいですね。一体いつまで繰り返してゆけばよいのでしょう。
たとえば山の中の施設から出て自活すれば、誰はばかるところなく、福祉を語ることができ、人にもハツパをかけられるのか。それ以前の煩悩の時期に語られたり、書かれたりしたものには、何の値打ちもないのか。腑に落ちません。
どうやら私の役どころはそういう地方の肉声を掬いあげてゆくことに決まってきたみたいです。 1995/8




最先端の頸損プログラムにびっくり!

神奈川県 HS


雨が降らず、暑さが厳しい夏となりました。皆さん、いかがお過ごしですか?
私は体調をくずさずにいますが、どうも食欲がありません。このまま夏を乗り切りたいものです。
さて、仕事をやめて自宅へ戻ったことで一番よかったことは、今まで足の痛みのために飲んでいた、痛み止めと睡眠薬をやめたことです。特にこの2種類の薬は、効かなくなるとさらに強い薬へと依存する傾向が強く、長年の服用による身体への副作用・悪影響をとても心配していました。以前、はがき通信にも載っていた脊髄への電気ブロックも考えたのですが、治癒の可能性が低いことなど、他のデメリットもあり、結局やめました。痛み方は徐々に変わってきましたが、痛み自体は全く変わりません。夜の睡眠妨害は相変わらず苦痛ではあるのですが、ではなぜやめたのか・‥?

やめられることができたくらい、やめられない人より私の痛みがたいしたことがなかったかもしれません。痛みを測るバロメータはありませんから、個人の痛みの比較はできません。家に戻り、仕事に行かなくても済むようになり、『それなら夜、何も無理に寝ようとしなくてもいいんじゃないか、疲れたら昼間でも横になればいい』と痛みと正面から歯をくいしばって対時するのではなく、気楽に考えるようになったことが、薬をやめられるようになったきっかけです。今は排便のための下剤以外、常用している薬はなくなりました。

そんな折、前号のはがき通信のバンクーバの報告をとても興味深く拝見しました。特に頚損の自立とは、精神面や生活のみではなく、医療的な依存からも自立させることなのだと痛感したという部分に、ハツとさせられました。どうしても、体が麻痺している不安を優先しがちです。同じ頚揖なのにカナダの方たちは、なぜ頸揖特有の問題をかかえていないのでしょう? 病院で指導され、膀洗はしなくてはならないものと思い、毎日セッセッと続けてきたのはいったい何だったの?!という感じです。でも、しなくても大丈夫とわかっただけでも、またひとつ楽な気持ちになれました。この身体面で楽な気持ちになれるということは、本当に本当に大きなことです。それにしても急性期の褥蒼が稀だというバンクーバ・‥。急性期のケアと自立を目標としたリハビリテーションの充実に、びっくりとまたまたため息をつくばかりです。

私も、頚損による身体的トラブルをコントロールできるように努力したいと思います。何よりもまず自己の健康管理が一番です。全身状態が悪くては、何もできなくなります。今後の内容報告に熱い視線を注いでいます。
これから待ってましたの秋の到来です。 1995/8/19




バッティリーのリチャージ

バンクーバ  KU


はがき通信の皆様、暑中お見舞い申し上げます。
バッティリーについて書かせていただきます。と云ってもくわしいことは何も知ってなくって、一つだけ友だちと話している時に教えてもらったことです。バッテリーはチヤージするとき、完全にリチヤージしてしまうまでチャージしないと次から途中でやめたところまでしかリチャージしないそうです。だから長い間、電動車イスを使う前の日は忘れないようにフルにチヤージしています。
以前は1、2年でほとんどダメでしたが、今のは2年を過ぎたのですが、まだ遠くまで行けます。
20年以上も電動車イスを使っていて知ったことです。 1995/11




向坊さんを訪問して

福井県 ST


東京訪問ですっかり自信をつけて(調子に乗って)、今度は6月の5日から2泊3日で、北九州市の向坊さんをお訪ねしました。今度は、福山にいる学生時代の先輩に介助を頼んだ関係で、広島駅でのぞみに乗ってもらい、そこまでは単独で行くことにしました。乗車拒否を少し心配しましたが、無用でした。ただ、車イスの場合、電車の乗り継ぎの時間を最低でも20分はほしいということで、電車を変更せざるを得なかったり、付添が途中から合流する場合の乗車券の割引は効かない、などといったことはありました。

さて、向坊さんのお宅は、Fさんの「夏に行くといい所」という言葉通り海岸のすぐそばで、ちょっとした別荘地へ来たような優雅な気分になりました。その夜、遠く沖合いのイカ釣り舟の漁火を眺め、波のざわめきを聴きながらいただいた夕食はまた格別でした。

6日はお天気にも恵まれ、別府にある国立重度障害者センターと太陽の家へ出かけることになり、向坊さんとヘルパーさんも同行してくれました。
国立重度障嘗者センターは、社会復帰に向けてのリハビリが中心で、必要な技能を身につけるため様々な訓練がなされていました。HKさんにもお会い出来たり、出前で本場のトンコツラーメンが食べられたりで、幸せな気分になりました。頸損の若い人たちがはとんどで、とても活気がありました。ただ、経験のある方も多いかと思いますが、暗黙の入所条件として、自分で車イスがこげる、身の回りのことがある程度できることなどがあって、私自身も以前入所を断られました(静岡、伊東市で)。

太陽の家は、広い敷地にソニーとタイアップした工場(33号Gさんの通信で紹介)、福祉ホーム、療護施設、モデルハウスなどが建てられていました。一軒7、8坪の居住空間でしょうか、車イス用に設計されたアパートがズラツと並んだ「福祉ホーム」にはとても興味を持ちました。全国に15箇所くらいあるそうですが、ご存知の方いらっしゃいますか。先のセンター同様、職員の方がとても親切に案内して下さいました。

帰宅は8時半を回っていたかと思いますが、向坊さんはその後も何本もの留守番電話などにきちんと対応され、お忙しい様子でした。手紙の返事など、夜のうちに打ち込んで朝ヘルパーさんが来てから印字するといったことも日課だそうです。夜から朝にかけて、全くお一人で過ごされるのが10数時間というだけで、今の私には気の遠くなるような長さですが。ベッドの横のパソコン、無線機、電話にファックス、AV機器のリモコンのはか、多くのスイッチ類などを自由に操り、今はご自分の研究のビデオソフト制作にも取り組んでいらっしゃるとのことです。

いつも新しいことに挑戦され、そのことを楽しそうに話される向坊さんは、本当に若々しくエネルギッシュです。最初、お会いしてしばらくはやや緊張しましたが、向坊さんとヘルパーさんの、飾ることのない、暖かいお人柄に接する中で、次第に肩のカが抜けていくのを感じました。おこ人の駆け引きともいったやり取りがおもしろく、今思い出しても笑ってしまいます。そして、改めて介護者との呼吸がいかに大切かを感じました。お言葉に甘えて二晩もお世話になりました。

私にとって、Fさん、向坊さんとの出会いは「邂逅」ともいうべき大きなものでした。お二人の著書を読んで大いに刺激を受け、今回実際に「自立生活」を拝見させていただき、感激を新たにしました。地域にしっかりと根を下ろし、各方面で活躍されているお二人がとても大きく見えました。自立生活を始めるには、それなりの責任やリスクを伴うでしょうが、今後、より具体的に自分なりに自立の在り方を考えていきたいと思っています。
皆さん、これからもよろしくお願いいたしま。  1995/6/20

追伸:STことKTです。8月8日に施設を退所したので、今後本名で投稿させて碩きます。21日より住民票を東京多摩市に移し、26日から新居で一人暮らしを始めました。いよいよ夢にまで見た自立生活のスタートです。しばらくは事務手続きや荷物の整理などあわただしい毎日で、今回はこれで失礼します。なお9月28日から渡米し、その後九州へ5日間出かけますので、不在です。




夢がひとつ実現(2)

熊本県 KI

AJRでの乗降の不安

まずは各駅にエレベ−夕があるかどうかが一番の不安でしたが、ある本にて読んでいたとおり、新千歳駅も札幌駅も各プラットホーム毎にエレベータがあり安心しました。でもその位置が、新千歳駅では札幌駅に向かって一番後ろにあり、札幌駅では一番前にありましたので、プラットホームの端から端まで車イスを移動させるのは少し注意が必要ですし、人が多い時は危険な感じがしました。切符は録の窓口で障害者手帳を提示し購入し、エレベータの使用をお願いしました。男手がいっぱいあった為でしょうか、列車への乗降の手伝いはありませんでしたが、多分手伝いのお願いをしたら親切にしてくれそうでした。しかし、列車とホームの間はあいてるし、入り口は狭いし、段差は高いしで、スロープがあると楽で安心なのにと思いました。

街中の交通アクセス手段

予定が決まっているところには、姪に調べてもらった札幌のリストタクシー会社に電話して、すべて予約しておきました。観光の時は、人手があったので助手席のリクライニングできるタクシーにしました。でも何度も抱えての乗り移りは面倒で半分は車内からの観光にしました。

ホテル内での移動、ベッドと車イスの移動

ふつうのビジネスホテルにしました。最初は駅に近くて車イス専用のあるホテルを採しましたが、兄弟みんなも泊まるのであまり高いのは迷惑をかけます。さらに調べますと、車イス用ではないが、ツインの部犀があること、夜車イスで押して行けることで“すすきの”にあるホテルに決めました。また、荷物を持っての移動や、帰りの出発時間などを考えて同じホテルに3泊すろことに決めました。

普通の部屋より8千円高かったのですが、とてもいい部屋でした。ホテル内の移動で困ることはありませんでしたが、ベッドへの移動と着替えはどうしても人手がいります。またベッドはギヤツジアップしないのは当然ですが、何かと不便です。

大量な荷物

体位交換用の座布団やクッション、生活用具ー式、結婚式用一式など揃えた結果、なんと60cm四方の箱2個になりました。荷物は1目1日前にホテルに着くように送り、ホテルに確認しました。お土産はなるべく買ったところで自宅に直送し、その他はまた箱に梱包して、出発の朝ホテルより自宅に発送しました。
移動時は、ナツプザックが2つ、一つは賓イスに掛け、もう一つは妻がかつぎました。

体調の維持

悩むと知恵熱が出ます。心配して抗生剤や解熱用座薬などいろいろ準備していきましたが、何事もなくいきました。何よりでした!

一番心配な排便と排尿の管理

排便は3日に一度、座薬と浣腸の両方を使います。大量のチリ紙や余分に薬を荷物と一緒に送りました。別に問題なく自宅と同様に出来ました。
排尿は1日約4回、妻に導尿してもらいます。300ccくらい溜まると自尿が出ますが、量が多かったり急激に溜まったりすると、油汗が出て苦しくなり、導尿が必要です。また私は座った状態では導尿しにくいため、横になってします。
今回の旅行は抱えてもらうことが多く、コンドームと蓄尿袋は外れたら困るので、尿取りパッドにしました。漏れたら尿取りパッドをとります。そして、お昼の水分を控えめにして夕方より多めの水分を取るようにしました。このように水分調整して、朝9時より夕方5時の間は導尿しないでいいようにしました。また万一のため導尿セットはいつも拐帯しています。羽田の医務室で焦った以外はうまくいきました。
以上がすべてではありませんし、逆に些細なことも書きましたが、私の臆病さと心配性が少しは払拭できた楽しい旅行ができました。

ただし妻と二人だけでなく、もう一人介護者がいると安心して旅行ができるということも確認した旅であったようにも思います。
妻も久しぶりの流行に大喜びでしたし、私も体力的には自信がつきましたので、二人とも癖になるかも?
それではまた‥・さようなら 1995/7/2




東武ワールドスクェアヘ

群馬県 TETSU-YA


CDのレコーデイング予定がかなり具体的になっていました。3週に分けて計6日間で16曲をクリアしようと思っています。このあいだは2枚しかプレスしないって言ってたんですけれど、100枚プレスしようと思っている。よかったら聴いて下さい。
あと年内に演奏会が県内と所沢であります。しばらくやっていなかったので一丁頑張りましょう。
ってことで、元気イーっ!! こんにちわ。
23日から25日まで大阪のリハ工へ行ってきました。内容しかり今までtelでしか話せなかった方々と会えて良かったね。ホントいろいろお世話になりました。また何処かで会いたいです。お元気でしょうか?
俺は初めての新幹線、あれだけの遠出で結構疲れました。あっち−し。蝉の死骸多いしさ(笑)。でもあんな疲れっていいですよね。いろいろあったけど結果オーライ。

で、リハ工の内容のことは誰か詳しく蜜書くと思うので、その2週間前に行ってきた日光のことを書くぞとっ。
時は8の月の初旬にnear日光にある“世界の遺跡と建築文化を守ろう”の東武ワールドスクェアに行ってきたぜイ。1日目は宇都宮まで行って一泊したんだけど(車で行きました)、その日の夕方に行った市内にある八幡山公園内の散歩が良かった。なんか人も居なくて広い敷地を2人だけって感じでGOODよ。
結構高さのあるタワー(名前シラン)にも昇れて景色を見渡し一日目が終わった。文がシンプルだって? カットされるからな(笑)。
で、次の日は開場と同時に東武ワールドスクェアに LET US GO!!
内容は俺らが25倍の視点に立って空間、国境を超えて色々な世界の時代を反映した遺跡や建築物を見られるってモノ。凄く細かく出来ていてすっげ−ピックリ。14万人の人の模型も同じ人がいないそうです。そして3、4時間炎天の下(凄く広い敷地で外にある)、最後の日本ゾーンへ入ったくらいで俺のメータはレッドゾーンへ(笑)。DowntoLow・‥後はYちゃんの写真に任せたぜ!。
(ペアルックの写真、とても素敵ですが、刺激が強いので今回はカットします:松井)

で、その後復活して今度は中禅寺湖へ(湖を見おろした景色は最高だね!)、そこで日光名物“ゆば”を初めて食べ、帰りに華厳の滝によってきたざんす。滝を真正面からよく見える所まで坂を下って行けたのは LUCKY!!
ってことで、最後はTOMMY星野美術館の隣にあるドライブインで夕食を食べて帰り(オッと、強引に締めだね−つ)・・・。
そ一して今でも上州松井田にある家でず−つと熟睡したとさ。チヤンチヤンっと。
ここで、まんが日本昔話の終わりの歌“人間っていいな”をフェイド・インで歌ってもらえりゃ Nice Endingです(笑)。
さようなら。また来週?!! 1995/8/30




向坊さん主催の焼き肉パーティー

福岡県 MM


通信の皆様いかがお過ごしでしようか。
昨年に続き今年の夏がまさかこんなに暑い夏になろうとはピックリしたなモーです。さすがに8月の下旬あたりからはいくらかばててきました。しかし条件は皆さんも同じですね。
8月の5日から10日までFさんが若松の向坊さん宅へこられると連絡がありました。たまたまうちへ東京から遊びに来てた弟一家(5人)と共に6、7日一泊させてもらい、6日の夜にはFさんとそのポラの人たち、それに夜Fさんに会いに来られたSさんとで結構話し込みました。

7目には向坊先輩が焼き肉パーティを開いてくれて、その日TさんやHさんなど車イスの方も10名ほど集合して暑かったけど楽しい時間を過ごさせてもらいました。
通信が届く頃には涼しくなると良いですね。私も頑張ります。皆さんも頑張って下さい。 1995/8/31




いい男性たちと出会えて

福岡県 KM


トゥルルル〜トゥルル はいMです。「こんばんわ向坊ですが、お元気ですか」
8月6日タ食を終えて間もなく向坊さんから電話がありました。「実はM君が今乗っているワゴン車のリフトの改造費のことだけど」、ワゴン車に取り付ける電動リフトの改造費について調べているようだ。とにかく高い。僕の場合、車体価格の半分が改造費にかかった。
車種はトヨタのハイエース(座高が異常に高いため普通サイズでは無理)。頚椎の損傷を負っている人の中にも自分で運転している人も居られるが、その場合、車の改造費には補助金が出る。しかし僕のように運転を人に任せている場合は銭の補助金も出ない。おかしな話しだ。それだけ重度の障害を負っているというのに。緩助が受けられないなんて。

いろんな人の知恵を借りて福岡県の社会協議会という福祉法人の生活福祉基金を利用した。最高額200万円まで低金利で借りることができる。6年間で返していく、利子は133,833円。1ケ月3万円近く返していくことになる。しかし手続きが面倒?というか、細かい。財産をすべて明らかにして利用目的も明確に証明していかなければならない。どこかの芸能人じゃないが好きな女の子に200万円の指輪を買ってプレゼントてな訳にはいかない。父も母も年老いているので少しでも楽にと思って電動のリフトをつけたがたいへん便利になった。ドライバーはお袋だ。ー大決心の末、53歳を過ぎてから免許を取得した。お陰で行動範囲も広くなったし、本人も車を運転することでボケ防止になっている様だ。

話しは変わりますが、「明日、何組かの車イスの人たちが集まってバ…ベキューします。良かったら来ませんか」と向坊さん。今までも何回かお誘いの電話が‥・(お花見やJRで博多へ繰り出そう!)。しかし今まで一度も参加できずにいた。明日はデイサービスの日。う〜ん休むか!それでは風呂に入りそびれる。週に2回風呂に入っている。月曜のデイサービスと金曜の入浴サーヒナスを利用して。だからここ数年自宅の風呂に入っていない。あのプロレス好きでお淑やか?なHKちゃんも来るらしい。うん!行くしかないな。翌日、風呂と昼食を済ませてから午後3時ころデイサービスを脱走、おふくろに連れて行ってもらった。もう何粗か帰ってしまったらしいが、10数組ほど、古くからの顔見知りの友だちが居たり、初お目見えの仲間が集まっていた。TSさんとMSさんに逢えたことも本当に嬉しかった。人生の先輩であり、開拓者であるお二人と僅かな時間でしたが、とてもたくさんのことを学んだような気がします。それにお二人とも本当に穏やかな素敵な方です。僕は女性が大好きで男には興味がありませんが、次々といい男の出現には戸惑います。宗旨替えしようかな。
東京から来たFTさんとの出会いも初めて、向坊さんとお会いしたときの驚さに近かった。「Mさん東涼に来ませんか。私がなんとかしますよ」と言われた時、にわかに心が騒がしくなるのを感じた。白髪の父と母のすねをいつまでもかじっている訳にもいかない。家に帰った後も気持ちの高ぶりはなかなか納まらなかった。その晩、向坊さんに電話する。Fさんに明日、時間をとっていただけないかとお願いしたら快く引き受けてくれた。
翌日は九州と本州を結ぶ関門橋をみに行くようになった。2台のワゴン車と乗用車1台に向坊、S、T、F、Iさんが乗り込み、総勢13人で出発。

僕のワゴン車にはS夫妻とT夫妻が同乗した。お二人の熱々ぶりにエアコンも用を足さなかった。平家と源氏の戦いの舞台でもあった壇ノ浦の展望台でひと休み、Fさんと話しをすることが・・・。関門橋を真下から見上げ関門海峡の海流を眺めながら。僕はこの場所が好きでときどき来る。あの日の僕の胸の内も大きな波が押し寄せていた。僕の甘っちょろい考えにFさんの手厳しい言葉が‥・。人間らしく強く生きようとしているFさんとの違いですね。福祉の窓口で前例がないと言われては蹴られ、規則にないからと外され、それでも世間体を気にして目立たず出しゃばらずに生さてきた自分。

Tさんたちからも今日という日を大切に生きるようた励まされた。同じ重度の障害を持ちながら奥さんと子供さんを幸せに導いているSさん、Tさんは本当に凄い。今の自分に取り巻いている環境でどれだけのことができるか分からないけれど、地域に根ざして努力していくつもりです。最後のー秒まで人間らしく自分らしく。
夏の疲れが出る時期です。お体をご自愛下さい。                     
1995/8/20




医学部学生に講演

鹿児島県 RG


先日、鹿児島大学医学部で講演してきました。知人の薦めですが、「ひまわり電車」や「天の川伝説〜星空遊言コン〜」など、社会活動による成果だと思っています。講演の内容を紹介します。

こんにちわ! RGといいます。
医学を志す方は命、あるいは個人に対して誰よりも尊い気持ちを持っていると考えています。皆さんを前に少し緊張していますが、とても光栄です。
私は今28歳、大学1年のとき、交通事故で頚椎を損傷し四肢麻痺となりました。以来10年になります。現在、家族とマグレツトハイツというマンションに住んでいます。家族の介助と市のホームヘルパー制度を利用しています。外出や外泊は、市のガイドヘルパーや大学ボランティアサークル、また知人の社会人の方へ介助をお願いしています。今日一緒の方は経済大学福祉学科の学生さんです。ボランティアサークルに所属しています。学生さんとはよくカラオケやお洒を呑みに行って楽しく過ごしています。

私の仕事ですが、これは両親に感謝せねばなりませんが、父はマンションを経営しています。そこで私は「事務局」の肩書きを与えられています。内容はパソコンを使って会計などマンション管理を行います。ただ、いま他にやりたいことがあるので、まだ勉強中といったところです。また県内に限らず、障害者団体や福祉関係の方から原稿を依頼されたり、こちらから投稿することもあります。

つぎに事故後の経過を精神面を中心にお話しします。
今日、ここにいらっしゃる皆さんもおそらく同じだと思いますが、私は高校時代、大学生活に憧れていました。また夢を持っていました。幼い頃、よく田舎で自転車に乗り、海や山へ出かけていました。高校へ進学し、もっと気楽に遠くまで行けるオートパイへと興味を持ちました。そのころよく書店へ行き「オートバイ旅行記」や雑誌を読んで、「バイクで世界一周したい‥・」と思っていました。そして高校を卒業し、すぐにバイクの免許を取得しました。
しかし大学1年で、突然のバイク事故で全身麻頼の重度障害者となりました。事故の直後は病院で、「まさか、俺の体は一生治らないのか? そんな筈はない、そんなことがあってたまるか!」と感じていました。それまでは障害者に特に興味もなく、頚椎損傷という言葉さえ知りませんでした。やがて現実を受けとめますが、同時に全てに絶望しました。ただ不思議と、心の底はいつも「このまま終わってたまるか‥・」という強い意志がありました。

お陰で今の私があるように感じています。
事故から5年後、約5年前に現在の自宅に退院しました。しかし何の知識もなかったため、この先どのように生きれば良いのか全く分かりませんでした。私は一人、ベッドの上で天井を眺めて悶々とした日々を過ごしていました。ある晴れた日です。なにげなくマンションの屋上へ上がり空を眺めていました。すると、頭上に広がる青い空に体全体がスツと包み込まれるようなすがすがしい気持ちに満たされました。また空に漂う雲をじ−つと見ているうちに、「ー度しかない人生だ。自由に生きたい‥・」と覚悟が生まれました。

その後、積極的に情報を集めると、同じ頸損の友人をきっかけに車イス使用者を中心とした全国的な会合へ参加しました。そこで私は、障害者でもそれなりに生きていける世界があることを知りました。また私にしかできない生き方があることに気づきました。
私には、社会に対して何者にも束縛されたくないという強い信念があります。家族に負担をかけたくないのはもちろんですが、主体的な人生を送りたいと考えています。
つぎに社会活動についてお話しします。
何度か新聞やTVで取り上げられたため、ご存じの方がいらっしゃるとうれしいのですが、昨年、鹿児島市で「ひまわり電車」という催し物がありました。ふだん外出の難しい障害者のために、路面電車三両を借りてボランティアさんと掛中を走るという企画です。私は実行委員の一人でしたが、当日は参加者200名、資金90万円を集めてたいへん盛り上がりました。また先日、「天の川伝説」という「スターランド姶良」へ、一泊して、コンサートやバーベキュー、キャンプフアイヤーを囲み夜の星を眺める催し物がありました。当日が近づくと会議も増え、体力的にも介助者の確保にも追われ、一時はたいへんでした。しかし当日は障害者の家族、スタッフを合わせ800名近い参加者となり、私自身いろいろと勉強になりました。毎年主催する予定ですので、興味のある方は参加してみて下さい。あと、よく東京などで開かれる全国的な会合へ参加しています。

ところで障害者のネットワークは国内にとどまらず、世界中に広がっています。国際的な催し物もいくつか開催されています。障害者団体は、アメリカやカナダなどと盛んに交流しているようです。私も個人的に交流したいと、週1回英会話教室へ通っています。
最後にお願いがあります。私は呼吸器を付けていたため、病院へ5年はど入院していました。その病院との係わりで、つらい思いをしたことがあります。そこで皆さんはぜひ、患者の気持ちを大切にできる医師になって下さい。
                       
1995/9/3




平凡な日常の情報交換

横浜市 KY


48歳、男性、1990年11月、ミニバイクで仕事の帰り道、制限速度30キロの車道を右折するとき、130キロで暴走してきた青年の乗用車にはね飛ばされる。頚髄損傷(C3/4)完全麻痺、アパート経営
横浜市大救命救急センター、横浜市港湾病院、横浜市立総合リハビリセンター、労災病院で、治療とリハビリを受けて退院。
MIさんの紹介、他の頸損団体に入会して会報を読んでいますが、頚准頸椎の上位損傷者には内容が活発すぎます。「痛みへの対処、経験談や日常生活に発生する平凡な不都合を解消するアイディアや経験談」を読みたくて参加を希望しました。




私の生きざま

東京都  MO


はがき通信いつも楽しみにしています。「自己紹介」まだですので、全脊連東京支部の新聞に寄稿した文章を引用して書きました。
私は昭和49年2月、29歳で受傷。横浜市保土ヶ谷総合グランド、ラグビーの公式戦前半の終了まぎわだった。救急車のサイレンがこれほど待ち遠しく、そして頼もしく思えたことはない。完治すると思っていた。一生、下肢、上肢とも使えないと知ったとき、その落差は大きかった。正直、何度も死にたいと思った。時が私を図太くさせた。繊細な私を鈍感にさせる? その頃、絵をそして文章を書いていた。もちろん、今のようにパソコンなどない。従って口にペンを加えて書く。おもしろい物で、慣れてくると手で書いた時と同じ様な字体になる。
当時は今のように障害者が気楽に参加できる団体がなかった。移動の手段も少ない。ましてや障害者同志で町に出て喫茶店&カラオケボックス等、考えられない。そのころの障害者、みんな結構孤独だったように思う。だから、みんなで集まってわいわいやろうと元気のいい障害者が集まって色々な団体が出来た。
私は仕事をした。コンビニを焼き肉屋を弁当屋を。親から反対された。「車イスに乗ってやっと生きているのに仕事などするな」と。反発した。絵を捨て文章を書くことを辞めた。怪我をして、9年後に母が死に、18年後に父が死んだ。いったん仕事を辞めた。また復帰しようかと思っている。障害にかこつけて日々惰性で暮らしたくない。1年のうちにそんな日があってもいい、だけど何日かは「よし、今日はこんな事をやった。ああ、こんなに素晴らしい事があったのか、生きていて良かった」と言える瞬間が、そんな日が欲しい。自己満足でもよい。それが生きると言うことだと思う。そのために、私は多くの人に出会いたくて仕事をした。人との出会いは感動を呼ぶ機会を増やしてくれる。生きる選択肢を広げてくれる。

私の生きざまを、私なりの生きるポリシーの一端を書いた。マウスティツタでキーボードを叩く、首が疲れる。
(以下、次号へ)
*RGさんへ
この通信を読んでいつも元気で頑張っているなと安心しています。電動車イスのチンコントロールはうまくいってますか。将棋頑張ってください。私も受傷後少々ですが、へぼ将棋をしています。次に会う機会があれば教えて下さい。




心にふれる絵画

倉敷市 HK

初めまして
簡単に自己紹介します。僕は、中学を卒業する年に、クラブ活動でマット運動の練習中に転落事故により、頸髄(C4、5)を損傷しました。
退院後は、自宅で主に母親の介護のもとで、将来はしっかりとした職業につきたいと思い、凝りもせずに続けている絵画製作に取り組んでいます。
まさかこの自分の体が不自由になり、その事がきっかけとなって絵描きさんを夢見る様になるとは、人生とはなんとも不思議なものだなとつくづく思っています。そして、どんな状態であっても、自分らしく自己表現できる事に、心から歓んでいます。

創作について最近つねに感じるのは、絵を描く描き手の生きざまそのものが表現されなければ、人の心に触れるような作品は生まれないだろうと思い、自分自身の生きる姿勢や絵に対する取り組み方を改めて見直す日々です。
外出する行動範囲は、わりと美術館や買い物など近くが多く、宿泊込みで出かけることは稀で、ここ最近はありませんでした。この夏も、相変わらず絵を製作しながら近くの花火大会へ出かける程度で、遠出することなく過ぎようとしていましたが、はがき通信がきっかけとなって、向坊さんから声をかけてもらい、初め二人で出かけるのを不安がっていた母親を何とか説得して大阪へ出かけました。

大阪では初めての方々と出会えて、親しく声をかけてもらい、自宅でのんびりやっている僕には色々と刺激になる話しが出来たことを嬉しく思っています。外出には常に多少の問題はあっても、やはり積極的に出かけて行くものだなと、今現在の僕にとってとても良い励みになったように思います。それぞれ各地で暮らしていても、僅かでも共有した時間を過ごし、友人が一人増えたことで自分自身の小さな世界が波紋のように拡がっていくようです。
3日間の族でしたが、僕にはとても収穫の多い時間でした。
向坊さんには、失礼を顧みず僕のような知識の貧しい者の一方的な問いかけにも、色々と話しを聞かせて頂き、心から感謝しています。マンガン君、金さんにも感謝!。
麩沢さんとも良い共通の思い出(向坊さんはー人痛かったけど)ができましたね。松井先生、ゆっくり話すことはできませんでしたが、本当にお疲れさまでした。TETSU-YA君、CDの完成期待していますね。皆さん、ありがとうございました。                     
1995/9/5




家族通信:定さんのフェレット

大阪府 NM定さんの絵


定さん張り切って炎天下の中、散歩に行っています。前のことを思えば、自分で運転してくれるので、私はアンビューバックを押すだけになり、すごく楽になりました。ただ、スピードがけっこう出るので、私はアンビューを押し持って、小走りでついて行っています。それでももっとスピードが出てほしいと言っています。暑いのでついて行くはうが疲れます。それから定さん、顔は汗をかくので、アゴの操作する所がズルッとずれて行くのです。まあそれを除けば、久しぶりの車の運転を楽しんでいる様です。

息子さんが頚損の親御さんを何例か知っていますが、私のような妻の立場と違って、本当に一生懸命なのでびっくりしています。私と違い、妾の立場でも懸命にされている方もいますが、やっぱり子供というのは特別なんだと思い知らされました。

私は私の人生もあるのだからと、付添さんがおられる間、私はフラフラと買い物へ行ったり、バイクで走りに行ったりと、気分転換、悪くいうとさぼってしまうのです。定さんが入院し始めた頃は、定さんがあんなに若しんでいるのに私だけ友人と食事に行ったりするのはすごく罪悪感がありました。しかし今では定さんに理解があるのをいいことに、あちこち出かけてしまいます。定さんも私がいない方がスツとする時もあるようです。私がいない間、あちこちに電話して(付添さんに受話器を持ってもらう)友人に遊びに来てほしいとか、勝手に決めるのです。なんか、私の知らないことをするのが楽しい様です。

でも私が出かけるといっても夕方5時ころまでには帰ります。付添さんが体力のない方で、泊まりは無理なのです。それに、3度の食事も作らなければならないし、最低することはしています。ご安心下さい。夜中に3回くらい起こされるのが一番しんどいですが、今はもう慣れました。

フェレット大阪市は、定さんの様な介護が必要な在宅の重度の障害者に月153時間付添費を負担してくれるのです。最近になって知ったのです。もっと早く知りたかったと思います。福祉は自分から言わないと向こうから「こんな制度がありますよ」と言ってくれないので困ります。福祉の遅れている大阪市でもこういう制度があるのだから他はもっと進んでいるのでしょうか。

最近、定さんにイタチのフェレットという動物を飼わされました。私に猫がいるのだから、俺も何か飼う!というのです。最初は犬がいいと言っていましたが、散歩が無理なので、諦めさせました。

できれば、これ以上、私は忙しくなりたくなかったので、新しく動物を買うのはイヤだったのですが、根が好きなのでとうとう折れてしました。で、人にも慣れて飼いやすいフェレットになったのです。猫とうまくやれるか心配でしたが、ゲージで飼っているので今の所大丈夫です。
思ったよりずっと可愛いので安心しました。定さんもまあ目の中に入れても痛くないはど、可愛がっています。一日3回は定さんのお腹の上にのせてあげます。いまにうちは動物園になってしまうかもしれません。 1995/7/10




追悼集:6年間の記録を脱稿

埼玉 HS


皆様、如何お過ごしでしようか。今年も昨年同様暑さの厳しい夏でしたが、水不足もなく安心しました。
私は亡き建二の事故から6年に渡る闘病生活の記録を書き続けています。6年間の記録は膨大な資料と日記に記したノート10冊以上におよぶ記録を基に書き出しました。文章を書くことに慣れない私にはたいへんな作業でしたが、皆様に励まされ一生懸命頑張りました。この6年間には、裁判も行われました。重度障害となった建二を抱え、あまりにも負担のかかる日々でした。この記録を書くことにより、あらためて事故の重大さを再認識することができました。また、毎日の記録を読み返して、同じ様な障害を持つ方に少しでも参考となり、役立ち、励ましにもなれたらと思って書きました。
昨年10月から書き始めて9月に入り、やっと書き上げることができました。印刷がスタートしています。もう半分以上できているそうです。たいへんでしたが、最後まで書き上げることができました。今はほっとした嬉しい気持ちでいっぱいです。後は校正を待っています。B5版で約350ページの予定です。
季節の変わり目です。皆さん、お体を大切に。
                     
1995/9/6
(HSさんからはがき通信用にと2万円分の切手カンパをいただきました)




広報部だより

大阪一人旅:リハ工学力ンファレンスに参加  麩澤


毎年、8月に開催されるリハ工学カンフアレンスが今年は大阪で開かれ、私は参加するチャンスを得ました。初めは知り合いの大学生と行こうと思いましたが急に行けなくなりました。向坊さんに相談すると介助者、宿泊先を見つけてくれるとのこと。“これは電動車イスで1人で行こう”決心し? 電動車イスを階段などで持ち上げてもらいやすいようにレバーを付けたり、充電器用にカゴを付けたりと、体調面以外でもいろいろ準備をしてきました。
8/24、父にJR熊谷駅まで送ってもらい、上越新幹線で東京へ、乗り換えのため、皆さんご存知の薄暗い地下通路を走っているとき、突然電動車イスが止まってしまい電源が入らなくなってしまった。案内をしてくれていた駅員さんに見てもらうと、ソケットが外れやすくなっており、ガムテープを持ってきてくれ応急処置でその場を凌いだ。ここで引き返す事も考えたが、みんなに会いたいし、自分で決めたことでもある。会場まで行けば何とかなると思い、迷うことなく大阪を目指した。「のぞみ」の車内でも電動車イスが心配だったが、それよりも身障用個室は暑い。車掌さんも私のことが気になるらしく何度も声をかけてくれ、グリーン車用のおしぼりで顔まで拭いてくれた。名古屋を過ぎたあたりで暑さも限界となり、冷房の良くきく客車に入れてもらい、やっとほっとした。新大阪から在来線を乗り継ぎ、会場のある森ノ宮へ。正直言って皆さんの顔を見たときは全身のカが抜けるくらいほっとした。

今河のリハ工学カンフアレンスの参加は、頸損当事者の発表を聞くことはもちろん、やはり皆さんと会って話をすることにある。24日の夕方開いている部屋を借り、頸損や関係者十数名が集まり、パソコン・車イス・尿路管理のなど情報交挨をして再会を祝った。その晩の介助は、向彷さんの介助で北九州から一緒に来た、ネパール人のマンガルさん、そして松井先生にお手伝いいただいた。
25日、事務局の用意したバスで渋滞の市街を抜け再び会場へ。頸損者のビデオ講演を聞いた後、電動車イス3台と数名の介助者で大阪城へ出かけた。階段が多くて道に迷い、あたりもだいぶ暗くなってきたJRの駅に行く帰り道、歩道と車道の段差で向坊さんが電動車イスから大きな音と共に地面に落ちた。(向坊さんこんな事、書いてすいません)私は驚いたと共に、地面に横たわる向坊さんを見て、ほっとした。「この人も私たちと同じ頸損なんだ」と。そして大したケガもなくけろっとしている向坊さんは、本当に凄い人なんだと改めて感じることでもあった。(とても私には真似できない)

26日、宿泊先から買い物に向かう向坊さんと別れ、会場へ戻る松井先生に、JR大阪駅まで送ってもらい改札で別れた。帰りの指定券を新大阪で購入し、時間があるので駅前をひと回り。心配していた電動車イスもその後、トラブルなく東京行きの「のぞみ」に乗り込んだ。来るときは暑さと緊張で景色など目に入らなかったが帰りは余裕が出て、社会福祉を勉強しているという大学生と東京まで話をして過ごした。

「はがき通信」を通じて頸損という同じ障害を持つ皆さんと知り合い、紙面だけではなく公共の交通機関を利用して、顔を合わせることが出来るなんてとても素晴らしいことだと思います。
今河、少々無謀かと思われた私の大阪行きでしたが、今パソコンに向かい振り返ると、行って良かったと改めて感じております。
向坊さん、松井先生を始め、お世話になった皆様、本当にありがとうございました。またひとつ私にとっての「自信」になりました。これからもよろしくお願いします。 1995/9/4




お知らせ


★トランスファー用ボード
前回の通信でのポータブルリフターの情報こついて。全く同様の商品が下記の会社で輸入され、日本でも販売されています。リフターというよりトランスフアー用ボードと言ったはうが正確だと思います。値段は6万円弱と聞いています。
連絡先:日本オートランニングシステム(株)
TEL:0426−52−4610(児玉さんへ)

★車イス用のレインコート

「車イス用のレインコート」(電動用もある)がアウトドアグッズのメイカー「エレダッシュ」から発売された。かなり丈夫な素材で出来ていて、ファッション性もある。価格は12,000〜16,000円だそうです。
連絡先:(有)ピックマウス TEL:048−725−5200
以上、MOさんの情報

★ふれあい絵画3人展(HKさんより)

9月11日から17日まで、倉敷市役所展示ホールにて

★34号でSさんが紹介した車イス登山がテレビで紹介されました。「北海道への夢実現ーある障害者登山会の記録」です。Sさんが生き生きとした表情で登場しています。




最先端の頸損プログラム(2)

システム化された頸損プログラム : 松井


急性期に褥蒼を創ったのは、私が聞き取りをしたなかで、ワンさん(C2)のみでした。受傷後5日間入院していた病院で創ったようですが、間もなく治り、受傷後2ケ月で車イスの訓練を始めています。彼のように、受傷直後、脊損専門の急性センターに転送されなかった人は、BC州ではごく少数です。BC州のどこで被災しても脊髄損傷であれば、急性センターに転送する。受傷直後から専門的な集中治療によって状態を安定させ、早期にリハビリテーションセンターに移行、それが州の医療行政としてシステム化されているからです。
1990年初めの報告によれば、毎年発生する外傷性脊揖の95%以上は受傷4時間以内に急性センターに運び、集中治療を受けているそうです。驚異的な成績です。脊損医療の先進国の英国でさえ、受傷当日に専門病院に運ばれるのは4%という報告で

すから。世界で最も優れたシステムとBC州の専門家が自負するのももっともでしょう。
そのシステムは1975年から始まりました。当初、急性センターはUBC大学病院に設置されましたが、現在はバンクーバ総合病院(VGH)にあります。
ワンさんは、受傷5日後、大学病院に転院しました。ベンチレータ24時間使用ですが、家族が病院採しに奔走する必要はありません。専門家の仕事になっているからです。ワンさんの受傷は、1990年、当時、ベンチレータ使用者を受け入れるリハビリ施設はBC州にありませんでした。しかし、彼はすでにベンチレータ使用者専用のグループホームで生活する希望を持っていました。その入居の条件は、自己管理能力でした。その能力を身につけるのがリハビリです。そこで彼は米国サンノゼのリハセンターに行きました。受傷後4ケ月です。移動はBC州の専用機が使われました。費用もBC州の兵担です。

同じ費用をかけるならより質の高いケアサービスがBC州の原則です。ベンチレータ使用の頚損者にもその原則が適用されます。1993年、高位頚損専門のリハビリテーション施設がバンクーバ市内に開設されました。Uさんが「頸損として生きていく生活の基本ケアを学んだ」というGFストロングセンター内にです。
GFストロングは脊損専門のリハ施設です。そこでのリハビリテーションは、自己管理能力を開発することでした。その能力は健康な自立生活に不可欠と考えられているからです。ワンさんは、サンノゼで4ケ月半リハビリ後、グループホームに入居する前、7ケ月ピアソンセンターで生活しています。定員263人という巨大な生活施設です。ベンチレータ使用者のみならず、GFストロングでリハビリを受けてきた頸損がたくさんいます。彼は、その人たちとの交流でも自己管理能力を身につけたようです。グループホームに入居したのは受傷後1年半です。ベンチレー夕24時間使用の頸損が1年半で自己管理能力を身につけたことになります。

実際、ワンさんは身体面での不安はまったくないと言いきります。2時間ていどの外出は一人です。介助者は付きません。車イスでも30分から1時間くらい自力呼吸できるから、ベンチレータに万一のトラブルがあっても処理する自信があるそうです。電動車イスとベンチレータのバッティリーは共有、レジュレイトパワーという特製バッティリーを使用する(写真下参照)。夜充電すれば、一日中、ベンチレータも使用できる。右手は全く動かないが、左手が僅かに動く。その指を使って、彼は電動車イスを手で操作する。アームレストの先端に取り付けたコントローラを操作する。アームレストの溝が深いので、腕が下に落ちる心配はない。姿勢の矯正も車イスのリクライニングで調整する。
彼は痙性が強い。とくに午前中。筋肉痛もあるが、薬は使わない。マッサージで対処する。排便の座薬以外は薬を使っていない。排尿はサンノゼ滞在中まで留置カテーテルだった。ピアソンセンターでは留置よりもコンドーム式の方が好評だったので、切り替えた。受傷から5年経過後、膀胱感染は一度もなく、結石もなし。排尿時に腹部のクッピングも必要ない。水分は1日4千CC、仕事として飲むそうだ。月1回、気管カニユーレの交換に訪問ナース、月2回、呼吸療法士の訪問で、パルスオキシメータで動脈血ガスの測定する以外、定期的な検診はない。ベンチレータ使用で検診なし。納得しかねる私に、自立生活者は患者ではないから医療的な処置は必要ないと言います。

私が会った翌週、市内でパソコンフェアがある。そこで音声入力のパソコンの機種を決めてくる。パソコンを導入したら、料理の本を書くそうです。受傷前、彼はフランス料理レストランのシェフだったから。
帰国後、GFストロングから一冊のマニュアルを送ってもらった。タイトルは“Yes,You Can!”、脊髄損傷の人々を対象としたセルフケアのガイドブック、入所者の教育マニュアルです。リハビリテーションとは教育です。潜在能力をいかに引き出すか、それが課題だという。
次号は、高位頸髄損傷専用リハビリテーションユニットについて報告します。




車イス雑記帳(2)

★21世紀の身傷者 : 向坊


21世紀は身障者と老人に注目が集まる社会になってはしいものです。37年前の頸髄損傷のころ、身障者は自分の命の維持のために全力を費やし、自分のことにかかりっきりだったので、社会のことまで考える余裕はありませんでした。
しかし今日、車イスをはじめ、身体障害の状態を緩和するさまぎまな機器が開発された結果、重い障害があっても、社会への完全参加と平等を目指して、力強く生きていくチャンスに恵まれるようになりました。教育、産業、医療、芸術など、あらゆる面で不十分ながらも身障者の活躍できる場は広がりつつあります。今までとは違う角度で障害者が社会に貢献できる可能性が増えつつあります。

人類の祖先が農耕を知らなかった原姑時代には、思わぬ事故で障害を負わされていた人々が狩や戦のために戦術を練り、芸術や詩に専門的な能力を発揮していたのです。アルタミラの壁画からマハーバーラタの叙事詩に至るまで、身障者だからこそできと思われる偉大な芸術的業績は数多く遺されています。二十一世紀に向けて、障害者によるハード、ソフト両面にわたる研究開発が強く望まれているゆえんです。今のところ、頸髄損傷者の三種の神器と言えば、電動車イス、電動リフター、パソコンでしょうか。これらが揃うと高位の頸髄損傷者でも偉大な力を発揮します。

★身障者はムダめし喰いか

釈尊が遊行中に百姓が言いました。「あなたは何もしないでウロウロしているが結構な身分ですね。なぜわれわれのように額に汗して働かないのですか?」
釈尊は悠然として答えました。「あなた方は大地を耕している。尊いことです。しかし、その前に心を耕さなければ、本当の実りはないでしょう。私はその心を耕すために働いているのです」。
今日の社会はあまりにも物質主義に片寄り、拝金主義が横行しています。オーム真理教のように金集めのためには人殺しをも厭わない宗教がはびこります。しかし非生産者のように見える障害者や周囲の人々は、実は社会の風潮におもねることなく、人生の苦悩と将来への希望を最も強く抱いている平和な人々のグループです。不自由であるが故に真の平和と平等を求める姿勢を常に持っています。
障害者が困難をのりこえて、自立を志向する強い意志カを発揮しようとする現場では、ソフトの面で人間と社会の完成への諸条件を探る大きな実験が行われていると見るべきです。パソコンを操る障害者の友人の中に、いち早くウィンドウズ3・1を導入したり、マルチデイアに参加している例が多いのに驚きます。哲学も宗教も大切なソフトですが、ソフトはハードを駆使し、ハードはソフトを助ける、二つのことは実は一つなのです。






あとがき



*「人との出会いは生きる選択肢を増やしてくれる」、「自分の小さな世界が波紋のように広がっていく」など、出会いの感動が伝わてくる通信が多く寄せられました。8月下旬、東京以上の酷暑と感じた大阪に通信の仲間が10数人集まりました。通信のお陰で、初対面とは思えない親密な交流が出来るようになっています。私も約1週間、向坊さんと行動を共にして、彼のタフさに驚嘆しました。路上で車イスから転げ落ちた向坊さんを見て「この人も同じ頸損なんだ」とは麩沢さんのみならず、同行した人たちの率直な実感でしょう。頸損歴37年、いくら若くみえても年には勝てません。若い皆さん、大事にしながら交流して下さい。
*Mさんの心臓を騒がせた人も、つい数年前まで「車イスに乗って何するんですか」って終日ベッド上で開き直っていました。Nさんのご指摘のように、人それぞれの生き方があります。いろいろな生き方ができてこそ、頸損も人並になったとは云いすぎでしようか。選択肢が増えることは人生を豊かにすると大浜さん、さすがベテラン頸損ですね。

*ただいま通信の入力は一人体制です。ワープロ、パソコンの長文通信はフロッピィーで送って下さると助かります。また神経研のファックスは、所内共用です。必ず、社会学、あるいは松井宛にして下さい。
*BCPA(BC脊損協会)から機関誌が届いています。神経再生研究、ニューモベルトなど最新の医学情報が掲載されています。できれば次号で紹介しましよう。

*待ちに待った秋になりました。夏の疲れが残っている方も、焦らずにじっくり体力をつけて下さい。

石ッコロ

鳥取県 NF

自分を石に例えるならどんな石だろうか
きらぴやかな宝石ではない
汚れがいっぱい付いた見かけの悪い
どこにでも転がっている「ただの石」が自分だろう
でも、「ただの石」で良いから
汚れを落とし、きれいにしてやりたい
宝石のように輝かなくても良い
これから少しずつ汚れを落として
「ただの石」に見合った輝きを持ちたい
  





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