は が き 通 信 Number.33
POST CARD CORRESPONDENCE 1995.5.25
COUNTER
《ごあいさつ》

暖かい季節になりました。戸外に出て多くの人と接するチャンスです。
福岡市では去年から引き続き給水制限が行われており、外出には好都合ですが、地球の砂漠化も心配です。人生、自然、福祉などについても広範囲なご意見をお寄せ下さい。
1995年5月25日 向坊

HSさん、お疲れさま!
              
夢運び人
夏が近づくにつれて、だんだんと蒸し暑い日が多くなってさましたが、はがき通信のみなさま、お元気でお過ごしでしようか。
車イス、それも頚損であるにも拘らず、仕事をされていたHSさん、お疲れさま。
脊損や胸揖で働いている車いすの身障者は沢出いますが、頚揖となりますと、レベルが軽くないと無理と思いがちなのに、健常者と同じに働くSさんの記事を読んで、いつも感心していました。残念ながら、3月いっぱいで辞職されると云うことでした。もう辞められて、仕事へのプレッシャーがなくなった分だけ、ホッとされていることでしょう。
私たち頚損は、健常者がする動作、寝返りをうったり、腕を肩よりも高く上げるぐらいで、ハアハアと息切れを起こすぐらい疲れるのに、事務職をなされていたと聞くだけで驚いてしまいます。そのことは、健常者には理解できず、同じ障害を持った人なら理解に苦しむことはありません。
装具を付け、手紙を一通書くだけで、1週間もかかる人もいるぐらいです。手紙さえなかなか音けない人が大半なのに、休む間もなく、働かれていることは、私たちからすれば、表彰もので、足の痛みと万年寝不足が原因の一つと書かれていますが、よく解ります。
頚損の場合、3人に2人は寝ることさえ難しく、みんな薬を使って無理に眠ろうとしています。同じ薬ではすぐに効果がなくなります。私は、定期的に薬を替えています。ハルシオンは、出してくれる医者とそうでない医師がいます。アルコールと一緒に服用することによって生じる幻覚症状を楽しむ為に、若者が暴走しており、ハルシオンの取得が難しい昨今、それに替わる薬をいつも求めている私です。
また、脊髄を痛めたことによる痛み、疼痛がひどいのも眠れない原因となっています。はがき通信のなかで、アルトリプチリンやカルバマイゼピリンが紹介されていましたので、最初はアルトリプチリンを5ケ月はど使用しましたところ、痛みの効果はありませんでした。つぎにはカルバマイゼピリンを服用して3週間になりますが、疼痛に対する変化は全くありません。
話しはそれましたが、頚損であるのに働いておられたことに自信を持たれ、次に何をするかをこれからゆっくり見つけて下さい。
目標の一つに車の運転を上げていますが、私の友人であるT君は、頚損なのにソアラを運転しています。怪我した時点で、免許は持っていましたので、視力検査と簡単な内容変更で済んだそうです。どうしてソアラなのかと云いますと、ソアラでないと乗れないのです。ソアラなどの高級車は、シートが電動ですから、乗り込む前にいちばん後ろの位置にしておき、乗り込んで、車イスを車内へ入れたら、シートを運転しやすい位置まで移動させ、ステアリングに付いたノブに手をマジックテープで巻き付け、それで運転するのです。ハードトップではない、4ドアセダンになりますと、乗り込むためのスペースが狭いので無理、改造には15万ほどでできるそうです。普通の車イスさえなかなか漕げないのに、愛車ソアラを運転しているT君のことをも応援していきたいと思っています。

頚損にとっていい季節はなく、冬はとてつもなく寒く感じ、夏はやはりとてつもなく暑く感じます。部屋から出られない頚損の辛さは大変で、信じられないぐらいにストレスがたまり、そのことで疲れ易くなります。Sさん、これから先もどしどし町へ出て下さい。できるものなら、可山さんのように、頚損の方々を勅ましに行かれるのはいかがでしょうか。
夏、今年の夏が去年のように暑くない夏であることを願っています。
梅雨になります。皆さま、どうか身体に気をつけて下さい。1995/4/24




 
仕事をしていた時のこと−アレコレ話−
HS

巷の喧喚をよそに、仕事をやめて静かな時間を過ごしています。
仕事をしていた頃は、毎日「今日は何日、今日は何曜日」と自分にハツパをかけていました。やめてから1ケ月ちょっとしか経っていないというのに、曜日の感覚がすでになくなってきています。(これが現実?!人間、楽な方にはすぐ流される・‥)

復職した日々を振り返ってみて、つれづれなるままに(?)今回は書いてみたいと思います。『車イスを知らないっていうことの実感!のいくつか(会話風にまとめてみました)』

エレベータにて

  1. 私:「スミマセーン、降りマ〜ス」後ろ向きに降りたら、周りの人の目がテンになっていた(車イスってバックできないと思っているみたい)。
  2. 「車イスって静か(動くのに)なのね。もっとガラガラ音がするのかと思った」
    私:そうですヨ!歩ける皆さま。足音もしないから、歩いている人より静かかも‥・(よく廊下で鉢合わせしました) 
  3. ある日のエレベー夕内での会話(全然知らない人から、これがまたよく声をかけられるのです。やっぱり珍しいのかな〜)「足の骨、折ったんですか?」
    私:「エエ・‥。イヤその・‥、折った場所がチョット違うんですけれど・‥」
    「ハツ?」(車イスは足の骨折の時にしか乗らないと思っている)
  4.  「(車イスで)毎日大変だね」
    私:「ハア‥・そうでもないですけど(ほとんどあとは愛想笑いの世界)」これが一番多い!
    それから「頑張ってるね」
    私:何が大変そうに見えるんだろう? 全然頑張ってるなんて気ないのに‥・。(懲戒免職になるヤツよりまし!くらいの感覚です)
    ある日ハタと気がついた。これは車イス者への社交辞令なんだ!でも、部内の人はみんな親切でやさしかった。

ハプニング!?

「ウイナール袋が破れた!」仕事中‥・「ナンカ臭うゾ…(独り言)」スラックスを触ったらピッチャ濡れ!さすがに両親に着替えを持って来てもらうしかありませんでした。感覚がないことの不便さは限りないけれど、おならが突然プッ(そういうカワイイモンならまだいいけれど)と出ちゃうのも、職場で女性としてかなり蹴ずかしいモンです(そういう体なのだと説明しても赤面します)。さすがに便失禁はありませんでした。完全なコントロールが必要です。

職場のつき合い

職場で飲み会に行くのも、最初はひと騒動(?)でした。何がひと騒動かって、全然車イスを扱ったことのない人が私をタクシーに乗せ、車イスを畳んで(もちろん畳み方もわからない)トランクに入れる。そして繁華術の人や車がたくさん往来する店屋の前で、私をタクシーから降ろし、はとんどが段差のある狭い入り口の店に入り、席につかせる。慣れない人がこれをやるだけで“騒動”になっちゃうのです。
一度、二次会にカラオケスナックに行こうということになって、屈強な(?)若い男性2人とタクシーで先発したのです。ところが着いたその店がナント2階!その上階段も狭くて、車イスに乗ったらとてもサイドを持てません。往来するたくさんの人の注目の中、一人の男性が私を抱きかかえたままウロウロオロオロ・‥。「エエイ!このまま中まで行くっきゃない!」ということになり、もう一人の男性が階段にけっつまづきながら、私のバックと車イスを持ち、私は抱きかかえられたままお店の中に突入!

ママさんからあらまっ!なんて声を上げられたけれど、そんなロマンチックなムードのある状態には程遠いのです。私は落とされないように、彼に必死でしがみついていたんですから。とにかく、お店に他のお客さんがたまたまいなくてホントによかった!ふだん態度の大きい私ですが、さすがに微妙に伝わるものです。ハネムーントランスなんて、彼女にだってなかなかしないですよね。申し訳ないと思ってマス。ハイ。
(でも、特権カナなんて思ったりもして・・・。まっ私も、オバサンと呼ばれる領域に入ってきて図々しくなりました)

伝授法のノウハウ

仕事をしていてつくづく感じたのは、手伝ってはほしいこと、頼みたいことをはっきり、細かいことまで正確に伝えることですね。相手は、ツーカーでわかる家族ではないことの再確認です。頼むタイミングも難しいのですが、私は言葉に出す前にどうも目が訴えているらしく、側を通る人が「Sさん、何か用?」と、よく聞いてくれました(きっとジロツと見た目がプレッシャーかけているのでしょう)。最初、高い所の書類を取って下さいと頼んだら、普通なら当然ですよね、私の手に渡してくれて、前にのめったことがあります。それから、「膝の上に載せて下さい」の一言を忘れずに添えるようにしました。

こんな些細なことの繰り返しで、何をどう手伝ったらよいのか全然何も分からない相手への、伝授法のノウハウみたいなものを覚えていきました。

最後にこれから先、健常者の中で仕事をするようになる方の参考に

車イス者を雇用するのですから、それなりの配慮はしてくれると思いますが、その前に身体的、物理的に絶対譲れない部分の、きちっとした確約を取っておくことです。通勤の足である駐車場の確保はもちろんですが、屋根がない場合、雨の日対策は必要です。私は、生理休暇を取らせてもらえることと、昼休みに少しでも横になって休めるスペースを確保してもらうことでした。特に後の条件は、私の頚損クラスには、褥蒼予防のお尻休め、午後の仕事への疲労とりに不可欠でした。実際希望がかなえられ、身体的に仕事を続ける支えとなった貴重な時間でした。

自分の健康管理対策はとても重要です。ある仕事を持つ男性頚損が長期の入退院を繰り返した結果、職場でも信用を下げたと聞いています。彼日く「自己健康管理ができないヤツは、あてにできない、社会的にあいつはダメだと評価されてしまう。この信用を取り戻すのに何年かかるかわからない」と。私もその通りだと思います。これが厳しいかな、体にいくらハンディキャップがあるとはいっても、なかなか理解されないのが現実の社会です。頚損クラスの就労は、ある窓味では仕事以上に気を使わなくてはならないことです。とくに長期入院につながるジョクソウは作れませんでした。(私にはローホクッションが効果的でした)
冬には風郊を引かない予防、尿管理、不用意な怪我、火傷への注意、普段の食生活等など‥・。具合が悪くなったら絶対無理せず、早めに手を打ち休むなり、お医者さんへ行くこと(無理したことで、1日で済む休暇が2日、3日となる)。

私も一応見た目は車イスですが、それ以外は普通に見られます。病人に見られるよりそりゃいいと思いますが、この“普通”に見られる辛さは、頚損にはホントに辛い!と思う時があります。普通、仕事が暇でボーツとしているのは楽ですが、頚損はそうじゃありませんものね。

いちいち細かいことまで自分の体の説明を、介護してもらう人でもない人に話すのは抵抗があります。知られたくないことも正直あります。私はこうなんです!と職場の人にも、もっとアピールした方がよかったのでしようか・‥。私にはわかりません。たとえば頚損で外に仕事を持ち、収入を得、なおかつ不規則で偏食に陥りやすい一人暮らしをするとしたら、それは自立と呼べるかもしれませんが、極端な言い方をすれば、命を削る行為に思われてなりません。誰かの助けなしでは、両立はとても無理とわかりました。

つれづれなるままに、長々と書いてしまいました。こうしてみると、健常者の中で、とてもたくさんのことを勉強できた復職だったと思います。期間的には短いものでしたが、私にはある窓味でとても長く、そしてやはり生涯忘れ得ぬ思い出となりました。 1995/5/4




 
頭の異常なカユミから脱線!

ナカジュニア
知っている人は知っている、4月2日に東京ドーム、20日に武道館で第2回バーリトオードジャパンオープンをリングから5メートルの距離で見て、興奮して眠れぬ夜を過ごしている(4月24日現在)ナカジュニアでございます。ご無沙汰しております。
ひよんなことから知り合った障害者の人たちと作った、「わしらにもプロレスを観せてくれてもいいんではない会」(俊名)ができてもう4年目になる。会員は7〜8名で、2ケ月に一度くらいの割で都内の会場にどかどかぞろぞろと足を運んでいる。おかげで主要な会場、後楽園ホール、東京ドーム、武道館、国技館など計10回以上観戦することができた。

20日の武道館にはおいらと兄と兄の会社の後輩、テンキン君(青森県出身、東京に出てきて4ケ月目の1年で2回転勤させられた男)の3人で観に行った。この興業は個人的に行ったものなので、「わしらの‥・会」とはあまり関係なくなってしまうけど。

いつもは1階席(6千円)が多いけど、今回は奮発してリングから13列目、1万円のチケットを買ったのだった。しかしそこは雛壇になっていて車イスでは上がれなかった。すると係員がリングから5メートルと離れていないところに席を作ってくれた。そこには席が縦に2人分(おいらが前で兄が後ろ)しかなく、かわいそうにテンキン君は13列目で一人で見ることになってしまった。

席に着き、しばらくして後ろの兄が「おい、あの相撲取りなんつったけ、ほらあれ」、どれどれと振り向くと、おいらの席の左斜め後ろ1.5メートルのところで、パイプイスを2つ使って座っている武双山が付き人?たちといるのを発見、おいらは相撲に興味がないからたいして何も思わなかったけれど、これは相撲ファンにしらたたまらないことなんだろう。
しかしその貫禄に溢れた身体のデカさには驚いた。おいらは「ちょっとお相撲さん、確か僕は君と同じ年だと思ったんだけれど、この差(身体の大きさと人生の)はいったいなんなんだい。ちょっと不公平すぎるんではないかい」と云って、マゲをむんずと掴んでやろうと思ったけど、このよれよれの手じゃどうしようもないからやめた。顔の大きさなら負けていないから頭突きでも食らわしてやろうとしたけれど、張り手でも食らってまだあの世へ行きたくないし、ましてや無双山関に罪はないのだった(あたりまえだ)。そこでおいらは試合が始まるまで、黙ってその巨体に向かい、ぎろぎろと羨望の眼差しを送っていたのだった。
試合が終わり、興奮状態の中、一般人は入れない廊下に係員が誘導し、入っていくと(車イスの特権なのだ)、またまたすごい人物がいた。今度はクリクリ目玉の小錦の出現だった(なんで相技取りばっかりなんだ)。廊下で外人選手と写真を撮っていた小錦の巨体を間近で見たテンキン君は、口をポカンと開け、言葉を失っていた。
しかし、今月(4月)は、月に2回も観戦に行ってしまい、飲食代を含めて小遣いを使い果たしたため、無芸大食男改め無芸大食浪費男になってしまったのだった。

という悲しい現実に帰り、今日はこの辺で終わりたいと思います。さような、あ、あら、ちょっと待った。今日はこんな話しではなかったのだ。「季節の変わり目における、頭の異常なカユミと真夏に降る白雪の謎!についてのはずだったのだ。なんてことだ。ついつい調子に乗り書きすぎてしまった。しかたない。それでは「季節の・‥」は、次号、いや次々号?までに書けたらと思っています。
それではまた・‥

P.S 情報下さい
おいらは今度、ノートパソコンを買うつもりですが、マウスティツクでやるのに使いやすいものを探しております。マハー0ーシヤー以外のもので、良いものがございましたらご一報下さいませ。1995/4/28




 
岡山駅にて
HT
頚損稼業28年、老骨に鞭打ってサロンパスを貼りながら元気に第4コーナを回っています。
さて4月15日新幹線を利用して岡山へ行ったときのことを一言。
岡山駅に降りて、案内の人に車イスを押してもらい改札口を出るまでに、エレベータを2度乗り換えますが、その2カ所とも小さな手押し単に段ボール箱を4、5個積んだ業者の人(kioskか自動販売機)が、一緒に乗り込もうとして2カ所とも案内の人が同乗を断りました。
業者と同乗してはいけない規則でもあるのかと案内の人に尋ねましたら、「荷物と一緒には乗りたくない」と文句を言った車イスの人がいたそうです。

「エ?そんなことで‥・」と驚きました。
確かに岡山駅のエレベータは荷物用で古くさく、ホーム下の地下道を通ったりして快適とはいえませんが、小型トラックも積めそうな大きなものです。案内の人がいて心配なことはないと思います。荷物扱いにされるのがよはどいやだったのか。これでは逆差別ではないでしょうか。もっと業者(他人)を思いやる謙虚さがあってもよかったのではないでしようか。

はがき通信の読者には、このような心の狭い人はいないと思うのですが。それとも荷物と一緒には乗らんと、つつぱねる方が正論でしようか。
少しばかり心にひっかかる旅でした。1995/5/2
追伸:哲也さん、由子さん、お手紙と写真をありがとう。素敵なミュージックを作ってください。




 
酔っぱらい運転の車いすだぞ
佐賀県 NT

皆さん、お花見には行かれましたか。あの桜前線というものにつき従って、南から北へと桜の名所をあちこち訪ねて回るのも面白そうですね。リフト付きキャンピングカーなんかがあれば便利でしょうし、好きな人と一緒なら言うことありません。きっと熱にうかされたような1、2ケ月が送れることでしよう。
私は過日、地元嬉野町の身障者協会の総会に出席した折、旅館やホテルの立ち並ぶ轄野川河畔の満開の桜並木を、一人でぶらぶらと眺めてすっかり満喫してきました。温泉は冬場がいいですが、春の眺めもなかなか見事なものがあります。
その帰り道、昼の弁当に出たカップ酒でいい心地になり、10km離れたわが家まで電動車いすでいつものようにドライブとしゃれこみました。ところが、意外な花冷えの寒さに酔いと疲れが重なり、運転しながらこくりこくりと居眠りが出て、ついにガードレールの支柱にフットレストをぶつけて目覚めました。「酔っぱらい運転の車いすだぞ」というのは自作の俳句です。季語はなくても俳句は育つ?いやはや、危ないところでした。皆さんもどうか酔っぱらい運転や居眠り運転にはご注意を。
さて、「障害者の文学」のため収集している資料の中から、今回は私のおすすめをご紹介しましょう。作者の山崎方代(ほうだい)は戦争で片目を失い、のち「放浪の歌人」として山頭火・方裁と並び称されています。今話題の上九一色村の近くの原野でプレハブ小屋に住み着き、妻も子もなく短歌と酒と煙草を愛して過ごしました。
「お粥の上に採りたてのペンペン草の青をふりかけてたべていると、冷えきった体も心もほがらかに温まってくる。罰があたりはしないかと思わずあたりを見回してみたが、だれもいるはずがない」(山崎方代「青じその花」かまくら春秋社)。1995/5/3




 
日本縦断の旅
鹿児島 RG

出発

94年夏、両親とリフト付きマイクロバスで鹿児島から北海道へ日本縦断の旅に出た。
94年8月3日午前11時、居間から父の「お〜い、出発するぞ!」と、準備を急がす慌ただしい声が飛んだ。母は、普段と変わらないのんびりしたペースで、身支度をすすめていた。私は自分の部屋のベッド上で忘れ物がないか頭に思い浮かべていた。「着替え、ジョクソウ防止用円座、予備の収尿器とアキシール、電動車イスの充電器・・・」
今年の夏は異常気象といわれている。雨が降らず、水不足のため西日本を中心に断水が行われていた。幸い鹿児島はまだ実施されていない。そのうえ猛暑のため各地で戦後最高気温を更新していた。
私は両親にバスタオルごと抱えられて、ベッドからチン(顎)コントロール電動車イスへと移った。快適に過ごせるベッド上とは1ヶ月間お別れである。部屋を出る直前に、母に旅行中会う知人の電話番号を再度確かめさせた。自宅を出るとバス後部にあるリフトで者内へ入った。車内中央の右側に車イスを固定した。車の中は前5座席を残して、私の後ろが流し台。左側が一人分のベッドに収納棚となっている。母たちの寝台は座席間のスペースに一人、あと車イスを移動して作る。

今日の空は、出発にふさわしくとても良く晴れて南国の太陽らしく日差しがかなり強かった。父が運転席からエンジンをかけて、「忘れ物はないか。さあいよいよ出発するぞ。いいかー」とかけ声をかけた。母は目をつぶって「無事でありますように・・・」と、祈っているように思えた。私は「多くの人と会ってみたい。誰でも皆共通する心を持っていると感じてみたい。せまい世界を飛び出して自由をかんじたい・・・」

別府「太陽の家」

車は鹿児島から北へ行く高速道路へと向かった。今日は、熊本を通り大分(別府)まで行く予定である。
鹿児島を発った翌朝、ベッド上で朝食を済ますと、母は近くの公衆電話から今日会う予定の私の知人へ電話をかけた。
夕べは別府の海岸道路沿いにある海浜公園で車を止めそこで一泊した。公衆トイレからそう遠くない場所だ。今日は、別府「太陽の家」を見学する予定である。以前障害者活動を通して太陽の家に勤めている人と知り合うことが出来た。その彼(S)へ、今日午後二時に見学に行く旨伝えた。もう一人、事故当初、別府の病院でお世話になった理学療法士(I)へも電話をした。彼女と待ち合わせて一緒に行動する予定である。

予定より少し遅れて「太陽の家」へ着いた。すでに入り口で電話のS(脊損者)と案内係の二人が待っていてくれた。車内からリフトで降り、両親、I(PT)と一緒に案内されるまま応接室へと向かった。部屋の中で、ビデオを見ながら施設ができるまでの歴史と建物内部の説明を受けた。聴くと、広大な敷地にある巨大な施設に「SONY」や「三菱」などいくつかの一流企業がそれぞれの工場をつくっている。一般の会社同様、一定のノルマがある。食堂やフィットネス設備も完備され、働く場が少ない障害者にとって理想的なところに思えた。

工場内の圧迫感

つぎに工場内へと案内された。ところが、場内に入り、見慣れない光景にある種の異様な空気を察した。体全体が押しつぶされそうで、今にも前進が拒否反応を起こしかねない、すぐにでも逃げ出したくなるような圧迫感だ。働いている人はほとんど車イス使用者か、身体に何らかのハンディを持っている。しかし皆一様にそれぞれ一点を見つめわき目もふらずに流れ作業を続けている。次々と他の部屋も見て画った。それぞれに内容こそ違うが、無機質で画一的な機械音がうるさく響き、新鮮で澄んだ空気を感じさせない密室の息苦しさみたいなものが漂っていた。一心不乱に作業を続けている彼らを見ていて、私はだんだん悲しくなっていった。と同時にやるせない気持ちでいっぱいになり、今すぐにこの場から立ち去りたい強い衝動にかられた。
Sの職場へ案内された。彼は数少ないシステムエンジニアの一人である。他の職場と比ベオフィスにはゆとりを感じた。私はその場所で、はっと一息つくと、少し落ち着いた。

歯車の一部では?

見学を終え、Sの新居へ向かった。彼は去年親元を離れ、一人で生活するために近くに建てた家である。彼は、自宅の前で近所の人と楽しそうにおしゃべりした。その寡囲気がとても良く、印象的だった。家の中に入ると、車イスでも不自由がないように最新の設備が備えてあった。彼が生涯「太陽の家」と共にすることを感じ、思い切って「後悔されていませんか‥・」と聞いてみた。
少し困惑した様子で、「過去を振り返ってもしょうがないし、まあ、良かったと思いますよ‥・」と答えた。
私たちのバスがある駐車場へ帰る途中、Sが後ろから思いがけず私の左肩を強く掴み、「それじゃあ、元気で」と言った。なぜかその響きが無性にさびしく感じた。

リフトで車へ移り、窓から走り過ぎていく別府の夜街を眺めてSのことを考えた。「強く掴まれた肩の感触がまだ残っている‥・。確かに施設は素晴らしかった。しかし何か違う。彼は幸せを感じることがあるだろうか。そんなことはない!でもこれが現実か・‥」
チヤツプリンの映画「モダン・タイムス」を思いだした。
「歯車の一部か‥・。これが社会の縮図か。彼らは今でも夢を持っているだろうか。」
働けない。あそこで働きたいという障害者はたくさんいる。あれは理想的なのか?違う?そんなことはない!」
私白身は父のマンションの運営を手伝う予定でいる。だがまだやりたいことがたくさんあった。
「人生には素晴らしいことがたくさんあると信じている。大きな宇宙に比べると人間なんて泡みたいなもの。いつ何が起きても不思議ではない。そのときその時を精いっぱい生きていきたい。
常に人生を切り開いて、大空へ向かって体全体で翼を広げて‥・ただまっすぐに、ひたすら自由へと、真実を求め続けて歩きたい」
私は、次第に自分に関わるもの、とくに育ててくれた両親に心から感謝したい気持ちが湧いてきた。
車は、九州を離れ北上する高速道路の入り口に着き、中国地方とを結ぶ関門大橋を渡った。広島を縦断して大阪へ向かう。 1995/5/5




 
家族通信:夢運び人さんへ

HS

先日は、松井先生を通じて、お手紙を頂きまして、嬉しく拝見致しました。Kの突然の死より、一年半の月日が過ぎました。貴方のお手紙は、胸の熱くなる思いでした。サッカーの三浦カズ選手が大好きだったKに優しい言葉をかけて下さり、その上、カズ選手の大切な写真を三枚も頂き、誠に有り難うございました。天国に召されたKもきっと喜んでいることと思います。Kも外へ出ることができたら、呼吸器さえつけていなければ、きっとカズ選手の試合を見に行けたのではないかと思います。それが叶わなかったKは、もっばらテレビ観戦に夢中になっていました。カズ選手がゴールを決めると、笑顔いっぱいで喜ぶKの顔が今でも目に浮かびます。
お手紙によりますと、カズ選手は、派手なことは好まず、お金に左右される人ではなく、苦労を重ね、自ら人生を切り開いて行く強い精神カがあり、思いやりも忘れない素晴らしい方だそうですね。Kが元気で居りましたならば、お手紙に感激し、きっと貴方と良きペンフレンドになれたのではないかと、残念でなりません。
生きてさえいれば、楽しいこと、うれしいこと、素晴らしいことがたくさんあります。余りにも早すぎた19歳の死でした。

私は、今、Kの6年間の闘病記録を残したく、毎日原稿書きに頑強っています。雑事に追われ、思うように時間がとれませんが、皆さんに励まされ、書き続けています。
頂いた写真は、Kの遺影の側に飾ってあります。きっと喜んでいます。
どうぞお身体には気を付けてお過ごし下さいますように。 1995/5/7




 
小旅行と博多の街

福岡市 ST


はがき通信の皆さ−ん、こんにちわ。
頚損歴12年目に入った主人と共に、7号から思いだしたように、投稿させていただいている博多のおばちゃんです。
今日は、5月3日、私たちの住む博多の街で「博多どんたく港祭り」が始まり、今年も全国から、約二百万人の人出が予想されています。街中に出れば、あちこちに舞台があり、大勢の人が歌や踊りに楽しんでいるようです。
4月、はがき通信が縁で、知り合った熊本の石川さんのところへ、花見を兼ねて、遊びに行ってきました。近くの自衛隊通りには、道の両側数キロ?に渡り、それはみごとな桜並木です。年に2回はど、遊びに伺っていますが、桜の時期にぜひというお誘いに甘えて、満開の時から少し遅れて行きました。それでも素晴らしいお花見でした。甘えて一泊させていただき、お互い夫婦だけの生活ですので、夜は4人で近くのスナックへ繰り出し、カラオケに、お酒にと、楽しいひとときを過ごすことができました。ふだん、家にいることが多い私たちにとって、いろいろな面で、良い刺激になりました。

帰りは、熊本港からフェリーに乗って雲仙に渡り、普質岳の火災流あとを見て、改めて自然の恐さを知る思いでした。車に乗っている時間が多い一泊二日の旅でしたが、それでも九州三県を走り回り、春を満喫したこ日間でした。
今、福岡の街にダイエーホークスの本拠地・福岡ドームのお隣に地上36隋建てのホテルがオープンしました。ドームで野球を観て、ホテルに泊まってというパックができてるそうです。ちなみにダイエーファンの私たちですが、主人はまだ一度もドームに行ったことがありません。車椅子でも観戦できるそうです。今年こそ二人で応援に行こうと思っているところです。今度、いろいろ調べて報告致しますね。

散歩にしても、旅行にでるにしても良い季節になりました。さわやかな風、美しい新録と仲良く過ごしたいものですね。 1995/5/6




 
呼吸器をリヤカーに電動車椅子

NM

すっかり暖かくなりましたね。東京ではお世話になりました。
バーンズ先生はとても良い方でしたね。楽しい時間を過ごさせていただきました。TETSU-YA君やHさんと仲良くなれて良かった。帰ってから定さんに報告すると、「不可能じゃなければ、いつか行きたいナー」と、相変わらず楽観的な感想でした。心肺機能がひっかかるかもよ、と言っても、なんだか希望を持てたみたいで、納得しているようです。
今、定さんが楽しみにしているのは、労災から支給される電動車椅子です。首を長くして待っています。もう出来上がって、あと労災の検査を通すだけですが、それがなかなかはかどらず、イライラしています。大阪の監督署では、呼吸器を使っている人が電動に乗るのが初めてらしく、わざわざ定さんの状態を見に来られました。注文先も呼吸器付きというのが初めてらしく、呼吸器を乗せる設備を作るのがたいへんそうでした。何回も来て頂き、寸法を計ったり、不都合があると直したりでしたが、やっと出来上がったので、定さんが試乗しました。コントロールはもちろんアゴです。呼吸器は大きすぎて、車椅子に乗らないので、なんと、うしろにリヤカーのように牽引することになりました。トホホ・‥。そのためバックができにくいのです。それに、カニューレが付いていてどうしてもアゴに近いので、バック繰作で、アゴを引かないとだめで、カニユーレに接触し、苦しむのです。
そういう困難もものともせず、うれしそうに操作していました。初めて乗ったのに奥の部屋から玄関までぴゅーっという感じで、呼吸器を引きずりながら進んでいけたことにものすごく感動したのです。最初、正直言ってあちこちポコポコ激突し、車椅子から転げ落ちるのでないかとヒヤヒヤしてたのですが、そういうこともなかったし、さすが、大型2輪限定解除取っただけある、と感心したのです。関係ないでしようか?
とまあ、近況はこういう感じです。文だけ読むと仲の良い夫婦だとお思いでしょうが、そんなことありません。ケンカばかりです。私は短気なところがあるので、けっこうキツイことを言ってキズをつけたりします。特に寝不足の時などイライラします。なにかに没頭しているとき(真剣に本を読んだり、ピアノの練習など)、「これしてくれ、あれしてくれ」と言われると、「もうっ!」とか、思って、つっけんどんになったりします。私の通信を読んで「奥さんはエライ」とかいうご意見をいただきましたが、とんでもない。少しでも楽をしたいと考えているぐーたら主婦です。本当に家事をしながら介護するのは、大変です。

文句を言えばキリないので、今回はこれまでにします。それではお互い身体を気をつけて過ごしましよう。さようなら。 1995/5/6/
PS今、安定しているからいろいろボヤキが出るんでしょうね。定さんが元気なのがなによりです.




 
海外情報“PEERS PROGRAM”セミナーに参加して

−医療関係者の立場から− 作業療法士・YH


私は、総合病院でOTの仕事をしています。リハビリテーションに携わる者として何か吸収できるものがあれば‥・と思い、3月16日の講演会に参加しました。ビデオを含めた講演はたいへん興味深く、感想をまとめてみました。
まず、「立つこと」「歩くこと」を強調しすぎているように感じました。確かに「立つこと」は、骨格や筋肉、心肺機能、腎機能などに良い影響を与え、そのことにより健康状態が改善して、精神的な健康も得やすくなると考えられます。しかし、1クールのリハビリを終えた後はどうなるのでしょうか?
本人と家族が継続できない内容であれば、そこでの改善は一時的なものにとどまる恐れもあると考えられます。ビデオによると、一日に6時間もの厳しい訓練を行い、歩くことだけが目標、歩くことそのものが生活になっている人が数多くいるようでした。ドクターはそれでも彼らがHAPPYならば良いと云っていましたが、彼らにはもっとやりたいことがあったはずだろうし、様々な社会参加をしていくべきなのではないかと思います。何をよしとするかは、人によって違うと思いますが‥・。

次に、私は立場上、上肢の訓練について知りたかったのですが、具体的に何も説明されず、物足りなさを感じました。質問には、すべての人に効果があると答えていましたが、本当にそうなのか疑問が残ります。上肢や体幹へのアプローチ方法も具体的に知りたかったと思います。

電気刺激を用いての麻痺筋の使用は日本でも研究されていますが、トラブルが生じたりコストの面から実用化には殆ど至っていないようです。一定期間の電気刺激によるリハビリでその後も持続的に効果が続くのであれば有効でしょう。しかし絶えず電気刺激を必要とするのでは、経費や安全面からも持続的に使用でき、かつ本人の意志によりコントロールできるものでなければならないと思います。

と、一方的に疑問点を記してしまいましたが、VTRを見て、感心させられた点もあります。胸髄損傷者が、特秩装具と電気刺激をコンビュータ制御で併用して驚くほど滑らかに歩くことです。日本では、多くの人が歩くことを初めから諦めさせられ、車イス生活を余儀なくされているのに、「可能性」にかけている姿勢がすばらしいと思いました。また、実際に車イスを使わず、歩いて生活するようになった女性のVTRもあり、実生活に役立てられるものとして存在することを知りました。

講演を聴き、このプログラムには適・不適があるのではないかと感じました。大切なのは、治療者、家族、本人‥・すべてプログラムに関わる人が同一の目的を持って取り組むことだと思います。「全身の健康状態を高めるため」「泌尿器系のコントロールのため」「食事動作改善のため」「歩行確立のため」など目的は人それぞれ様々だと思います。本人に最も合った目標は何か、そして期待することが得られそうなものであるのか、よく検討したうえでプログラムを受けるか否か決定していくべきでしょう。

講演の後、いくつか質問した内容を報告致します。

電極はどのようなものを用いているのか?
→ 表面電極、場合によって針を使用。

このプログラムに実用性を求められるのか?
→ 実用化できる。歩いて買い物、立って料理、高い所の物がとれるなど。

リハビリのゴール設定はどのように行うのか?
→ 1週間の評価で、リハビリテーションチームで行う。医師、PT、技師装具士、エンジニア、家族、患者など。

(当日のセミナーは神経研主催ですが、会場は都立補装具研、市川先生にたいへんお世話になりました。また当日、通訳のマオ氏が出席できず、急遽、成瀬正次氏が通訳して下さいました。夜、雨にも拘らず、多数の方が参加しました。以下は、当日、参考資料として配布した拙訳です)

PEERS PROGRAM とは

脊損者の歩行訓練に新しいアプローチが、Dr.Roy Douglas と Dr.Paul A.Bernsによって開発されました。それは、最新の理学療法と脊損者用のデイパイスを活用するもので、再び歩くことができないと診断されていた脊損者に有効な訓練法です。
改良された治療法は、多くの医療保険や労災保険、さらに英国医療サービスでも保険適用を受けています。通院による訓練プログラムはリハビリテーション中の患者にとって積極的な接近方法です。期間は、毎日3時間から6時間の治療訓練を2〜6ケ月継続します。患者は、運動、強化とバランスを身につけるプログラムをやり遂げますまた泌尿器や性機能を含めた全身的なケアもフォローします。

マヒの患者は、訓練中競技者のように扱われます。患者は、数日間、臨床的な諸検査(レントゲン、臨床検査、心肺機能、神経所見、心理所見など含む)を実施後、ピアーズ・プログラムの訓練適応者となります。車椅子から自立すること、生活の質を向上する機会を求めるような意欲的な人が、プログラムの対象として適応のある患者です。

Dr.Douglasは、LSU医学枚の元助教授、LSURGO プレースの開発者です。それはすでに10年以上、数千人の患者に使用されています。さらに最近、Dr.Douglasは、新DouglasRGOプレースを開発しました。それは機能的に改善され、効率的に患者の歩行を助けることができます。大半のケースで、数分で使用できるようになりますし、数時間、困難なしに衣服の下に身に着けていることができます。

Dr.DouglasとDr.Bemsは国際バラプレジア医学会と米国バラプレジア協会の会員です。二人はPEERSプログラムの講演とデモンストレーションのため、全米とヨーロッパの多くの国を訪問しています。Dr.Douglasはさらに全米リハビリテーション協会承認のWL Falksおよび全米脊損協会承認の Gil morrisを授与されています。

Dr.BernsはLSC医学枚のメンバーです。二人はイスラエルのHebrew大学の医学部に所属しています。
PEERSプログラムは脊髄損傷(完全マヒ、不全マヒ)、二分脊椎、筋ジス、脳性マヒ、多発性硬化症を含む多くの神経疾患に有効です。
D
r.Douglasはthe“hybrd system”を開発中にプレースに機能的電気刺激(FES)を結び付けることを学びました。そして彼は共同開発者の権利を獲得しました。新RGOプレースとその関連の理学療法プログラムはdR.Douglasと彼の同僚の許可を得たときのみ使用することができるのです。

PEERSプログラムのスタッフの信念は、脊損者が車椅子から離れて歩けるか否か選択するチャンスを持つべきということ。立つことのメリット、すなわち褥蒼、骨そしょう症の予防、腎機能の改善などを含めて。RGO使用者にとくに高い評価を得ていることは、立って、健常者と対面することの心理的なメリットです。

PEERSプログラムは、全米脊損協会の LAChapterと共同で、イスラエルWeitzman研究所Dr.Michal Schwartzの科学的な研究をサポートしています。その神経細胞成長に関する研究は高く評価されています。現時点では、The Douglas RGOシステムを使用するオーストリアThe Royal North Shore病院で新しい臨床プロジェクトが開発中です。




さらに詳しい情報と診察の予約を必要とする方は、下記にお問い合わせください。

The PEERS Program at 8912 olympic Blvd.,Beverly Hills,CA 90211,(310)553-4833 (松井訳)




 
カナダ脊損者の会の機関誌を読んで

HW

バンクーバーの上野さんから、現地の脊損者の会の機関誌を送っていただきました。一誌はカナダ脊損連合(canadiaN Paraplegic Association)の機関誌”Caliper”で、もう一志はバンクーバーが属するブリティッシュ・コロンビア州の脊損連合(British Columbia Paraplegic Assocaiation)の機関誌“Paragraphic”です。
いずれも年4回の発刊で、手元にある最新巻は”Caliper”は49巻、”Paragrphic”は37巻です。おそらく”Caliper”は第二次位界大戦直後に創刊されており、どちらも長いこと脊損者の間で愛読されてきたものと思われます。

中味を見てみますと、二誌にはそれぞれ特徴があります。全国誌の”Caliper”には、カナダの障害者施策・制度の紹介、国際ニュース、それから、研究者の読む専門誌に投稿される論文に近いもの等が、掲載されています。一方、”Paragrphic”は、「はがき通信」の交換市のような「あげます・ください」情報や、地域に密着した情報やイベントなどに、多く紙面を割いています。
今回は”caliper”の49巻1号に掲載されていた記事を、少しご紹介したいと思います。法制度面では、障害者の交通機関アクセスを改善するために1995年1月に発効された、公共輸送機関職員の訓練に関する新しい法律が掲載されていました。また、1960年代からの障害者運動の展開を外観し、本家アメリカの自立生活運動との類似性はあるものの、適切な収容施設などについて論じている論文も、掲載されていました。これなどを読むと、運動・実践面だけでなく理論面で活躍している障害者がまだ殆どいない日本との違いが、感じられます。

それから国際ニュースとして、西アフリカの国リベリアの障害児への援助活動の記事がありました。これはカナダ脊損連合が古い車椅子を修理して、これまでに計16台(電動車椅子2台を含む)を贈ったというものです。リベリアでは公共輸送機閑を運営する資金がなく、車椅子が長距離を移動する唯一の手段となっているようでした。(フィリピンの障害者の状況についても、向坊さんの著書『よみがえる人生』から窺い知ることができますが、発展途上国では車椅子自体がまだまだ珍しいようです。)そのため、学校に通学できない35人の障害児のことを現地の修道女が手紙に書いてきて、会のボランティア・メンバーが援助に乗り出したのでした。

個人的には向坊さんたちもフィリピンに中古の車椅子を寄贈されていますが、日本の障害者組織の活動はあまり目立ってこないように思います。日本でも障害者施策はまだまだ十分でなく、欧米の国々からいろいろなことを学んでいます。そんな中でも、より厳しい状況に置かれている発展途上国の障害者に目を向けていく必要性を、昨年の日本社会福祉学会で「社会福祉における国際化」がシンポジウムのテーマとされたことなどとも重なって、痛感しました。

以上、カナダの機関誌を概観してみました。興味深い記事があったら、また取り上げて紹介していきたいと思います。




 
『フィリピン日本人障害者の家』訪問記

TF

博物舘を見学

GLIPでの生活も最後の日となり、ルセナからジープニーで2時間くらいの所にある、博物館あり、プールあり、レストランありの広大な高級リゾート地へ連れていってもらった。見学のみで275ペソという高額で、ここは庶民というより、海外の観光客のための施設らしく、フィリピン人以外の人たちが目立ち、博物館も宗教的なものが多くて良くわからなかったが、世界中の昆虫や獣のはくせいから民族衣装までたくさんのものがあった。フィリピンの人たちからすると3日分もの労働賃金にも値する所で、マヴックとマリサも入園したことないと言っていた。今回のアテンダントのお礼として、私が2人の入園料をプレゼントした。園内はとても広く1日では回りきれないくらいで、時間があっという間に過ぎた。
GLIPに着くとすでに暗くなっており、GILPでの最後の夕食を食べながら別れを惜しんだ。前半の緊張から来た疲れも落ちつき“もう少しフィリピンにいてもいいかなあ”なんて思いつつ、トランスフアーをした。

「障害者の家」を後に

初めは“少し長いかなあ”と思った旅行も最後の日となり、7:00にマニラに向け出発。向坊さんを始め、皆さんとても良い方で別れがつらかった。
今回の旅行で、色々な事が勉強になった。パスポートの申請からフィリピンの物価まで、そして自分の語学力のなさ、体力のなさも実感した。語学は勉強すれば良いのだが、体力はそうはいかない。私の今の障害からではしかたないのかもしれないが、せめて同行した人たちに迷惑をかけないくらいにはなりたい。ルセナに来るときは、夜で景色が見えなかったが、広大な田園、農場があり、町に人が多いのも目立った。マニラに近づくと道幅も広く車も多くなり、ルセナではジープニーが多かったが、マニラでは乗用車タイプのタクシーが多く感じた。

マニラ市内は「メトロマニラ」と言われるはど大都市で、高層マンションやオフィスビル、ホテルなど、まるで東京都心を走っているかようだ。エアコンがないので窓を開けていると、車の排気ガスで空気が悪いのと、クラクションなど騒音がものすごい。

今回の旅行の、みやげ購入と昼食をかね、エスエム・メガモールという巨大なデパートに立ち寄った。そこは5階建てくらいだが、横に400mくらいあり、映画館、スケートリンクもあり、地下街がそっくり地上に出た感じで、ブランド品などの高級品が目立ち、ガードマンが各人りロに立っていてなんだか物々しい。車椅子の人は見かけませんでしたが、エレベーターには“車椅子優先”マークがあり、トイレも“障害者用”と分けることなく障害がある人でも使えるようになっていて、想像していたのとだいぶ違っていました。

疲れや、朝早かったこともあり、市内観光は車内からとした。リサール公園、マニラ大寺院などを見学し、今夜宿泊のホテル「ハイアツトリージェンシー・マニラ」に到着。マニラ湾に面した最高の場所で、日本で言えば最高級のホテルですが、ツインで95USドル+税(約1万円)という料金、フィリピンだから泊まれるのだろう。支払いは格好良くカードで済ませた。ホテルの中にはプールあり、フィットネスクラブありで、みやげ物を見ていたら性界一と言われるマニラ湾の夕日を見はぐった(ああ残念‥・)
夕食はホテルのレストランで、イタリア料理を食べた。生バンド演奏の中、本格的なワインとピザ(やはり宅配ピザとはちがう)は忘れられない。

帰国

最終日。8:50発の飛行機のため、5:00起床。予約しておいたタクシーでホテルを後にする。早朝だというのに、市内は車やバスで相変わらずの大渋滞。
マニラ国際空港も飛行機の発着ラッシュなのか、たくさんの人で騒然としていて、その中を車椅子ですり抜けカウンターへ。やはりフィリピンからの出国はチェックが厳しい。同じように航空会社の機内用車椅子にのりかえ搭乗。帰りは満席ということで、ビジネスクラスとはいかなかった。
定刻を少々遅れ、ノースウエスト航空 006便成田行 離陸

やはりエコノミークラスだとシートが狭く、リクライニングもわずかしかしなく、頚損者は料金のこともあるがビジネスクラスの方がいいかもしれない。来るときは夜景がきれいだったが、窓から外を見るとたくさんの小さな島々がはっきり見えたり、雲が下に見え、なんだか不思議な気分。機内食を食べた後は、疲れもあったせいか着陸前まで寝てしまった。

成田空港に14:10到着。スムーズに出られるかと思ったが、なぜか荷物の乗せ降し用のリフト(車椅子用なのかも?)でいったん外へ出た後、それから改めて空港内へ。入国手続きの後、自分の車椅子や荷物を受け取り“やっと日本に帰ってきた”て感じ。
JRも考えたが、来いし荷物もあるし、レンタカーを借りて帰ることにした。東関東道一首都高一外環道一関越道を飛ばし、途中夕飯を食べた後、カーサ・ミナノに19:00到着。

長いようで短い、初めての海外旅行も終わった。
11年前、交通事故で頚損者となり、死ぬことしか考えられない時から“生きていて良かった”と思ったのは何度もありましたが、成田空港を離陸した瞬間は、初めて頚損連絡会の総会に参加したとき以来の、私にとって特別な時間でした。今回のフィリピン旅行が、20歳代最後の素晴らしい思い出になったのはもちろんですが、フィリピンという国の考えが100%変わった旅行でもあり、今までの反省や、これから生きていく上での道しるべが見えて来たような気がします。

最後になりますが、今同の旅行に同行してくれた方を始め、向坊さん、マヴック、マリサ、そしてフィリピンのみなさん、皆様の優しさは一生忘れません。
楽しい思い出をありがとうございました。心より感謝申し上げます。 1995/4/28




 
3年ぶりのフィリピン

松井

向坊さんと麩沢さんの誘いを受けて、3年ぶりにフィリピン、ルセナ市を訪問しました。
前回、マニラ空港に到着したとき、自分の眼がおかしくなったかといぶかるはど、空港内が薄暗かったのに、今回はたいへん明るくなっていました。迎えの車も外見はジープニーではなく、“TOYOTA”と書かれたバンタイプの車でした。電動車椅子のSさんが奥さん、ご子息と一緒にマニラまで出迎えてくれたのには、感動しました。往復6時間、日帰りのコースです。Sさんにとって体力への挑戦だったそうです。途中の道路に信号が全くないのは3年前と同じ光景でしたが、行き交う車の多くが乗用車タイプには驚きました。

マニラを出発したのが夜10時半過ぎ、ルセナ市のGLIP(日本人障害者の家)に到着したのは2時頃だったでしょうか。Tさんの奥さん、向坊さん、ヘルパーのマリッサとマピックもその時間まで起きていて、私たちを待っていてくれました。
赤銅色に日炊けした向坊さんの逞しさ、口髭を付けたSさんの貫禄にも圧倒されました。結婚後のSさんとは初対面でしたが、一家の主としての重みが参み出たような風貌でした。奥様のノリさんはしっとりした落ち着きと優しさを醸し出し、見違えるように明るくなったご子息と、結婚が家族みなに好ましい影響を与えている様子でした。

出発前、お正月ルセナに滞在していた長野の脊損者から、現地の蠅や蚊のひどさを脅され、たいへん不安でした。3年前はホテル住まいでしたが、今回、ホテルはマニラだけ、ルセナではGLIPでお世話になります。食事もトイレも心配でした。私はとくに食事の適応力が乏しいので、正直どこまで耐えられるかと不安そのものでした。できれば私だけ別の宿にと喉元まで出掛かりましたが、他の人たちが生活しているところでわずか5日間過ごせないようでは、社会調査の専門家に値しないと、自分を叱咤激励して現地に乗り込みました。
GLIPに到着して、リビングの整理整頓ぶりにはっとしました。部屋全体がたいへん清潔でした。私のベッドルームはSさん一家の隣室のゲストハウス、ベッドが2つありました。新築のため母屋よりも壁や窓のブラインドもきれいでした。

滞在中、水道はいつでも出ていましたし、停電は一度もありませんでした。心配していた蝿や蚊も脅されたはどではなく、食事は絶帳がわりのざるをかぶせておくので、それはど気になりませんでした。
食事は他の人たちのようにスムーズとはいきませんが、2日目くらいから普通に頂けるようになりました。S夫人・ノリさんの手料理、スライスしたにんにく入りのチヤーハンや豚肉の揚げ物はとても美味しく頂きました。薄さんのお宅でご馳走になったスパゲッティ・ナポリタン、バーベキュの鳥肉もたいへん美味しくいただきました。
前回、Tさんが「食事が喉を通るようになればここで生活できます」と言われたように、私も今回の滞在でちょっと自信がつきまIした。ルセナの市場でおいしいパン屋さんも見つけました。そのパン屋ではないようですが、Tさん宅にホームステイさせていただいた甥も、「美味しい」と朝食のパンを平らげていました。

食事についで問題となるのがトイレです。GLIPのトイレは水洗です。水タンクも付いていますが、水量が乏しいせいか、流れはやや不十分です。不足分はトイレの側にあるタルに溜まった水を使って流します。一度そんなにカを入れたつもりはなかったのに留め金が外れたのか、タンクの水が流れなくなりました。「フィリピンのは壊れ易いからカは加えないように」と云われても後の祭でした。後でN(向坊さんの養子)君が修理してくれ、その後は故障がなくなりました。

蛇口をひねれば水やお湯が出るのが当たり前の私たちは、ここはルセナ、24時間お水が出るのはたいへんなことと、どんなに意識しようとしても、水を浪費してしまうようです。滞在中、向坊さんやSさんはさぞやきもきされたことでしよう。
買い物についても同じことがいえそうです。薄さんのお宅で夕食の招待を受けた日、西瓜とパイナップルをお土産に買いました。ノリさんは二つで十分と云われますが、二つで30ペソ、約120円です。4人で夕飯をご馳走になりに行くのに、120円のお土産とはなんだか申し訳ない、日本だったらバカにするなと云われそうとつい考えてしまうのです。

前回、はとんど記憶にない自転車を市内でしばしば見かけるようになり、Sさんのご子息も持っていましたが、まだかなり高価なようでした。バイクやバスも頻繁に見かけるようになりました。日本でほとんど姿を消したホルクスワーゲンをルセナの市内でたびたび見かけました。缶ジュースも出回り、3年前と比べて、一見豊かになったという印象を受けましたが、経済格差は相変わらず大きいようでした。
今回、私たちの滞在をとくに楽しくさせてくれたのは、マピックとマリッサの存在でした。「今年は優秀な新卒のヘルパーが2人待機しています」と出発前の向坊さんのはがきのように、若くて美人で機転が効き、底抜けに明るい2人のお陰で毎日がとても華やいでいました。二人はGLIPの近くにある看護学枚のクラスメートで助産婦学校も卒業しているそうです。さすがの向坊さんが若い二人に押され気味でした。二人は向坊さんを「ヒロさん」ではなく、「パパさん」と呼び、冷やかしたり、からかったり、陽気そのものでした。ルセナの「新人類」ヘルパーと向坊さんの駆け引きもなかなかの見物でした。

私たちの滞在中、マリッサは向坊さんのヘルパー、美人コンテストに出場したというマピックは麩沢さんのヘルパーでした。食事の介助、清拭、衣服の着脱、マッサージ、四肢の機能訓練など若いのに見事な介助ぶりでした。遊ぶ時は陽気に遊び、仕事はてきばきとこなし、時間があると、夕ガログ語で書かれた恋愛小説を読んでいました。そのうち同年代の私の甥と親しくなり、彼がくると、二人はなにやらタガログ語を熱心に彼に教えていました。マピックやマリツサと楽しそうに話している甥を見ていると、若さの特権でしょうか、乏しいはずの彼の英語力が少しも障害になっていないようでした。
今回、ルセナ訪問の私の目的は、ルセナの頚損者に再会することと、大学生の甥に日本とは違った、それも経済格差の大きな国の生活に触れさせ、そこから何か学びとってはしいという想いでした。GLIPから徒歩で10数分離れたTさん宅に甥だけホームステイさせていただきました。Tさんから折にふれてルセナ市の経済、生活、文化など貴重な話を伺えたようです。そのうえ、到着した翌日、日本人とフィリピン女性の結頼式に甥はTさんの厚意で出席させて頂きました。

3年前、独身でプレイボーイぶりを発揮していたTさんもすでに2児の父親(6歳と3歳)、すっかり落ち着かれた様子でした。上のお嬢ちゃんは幼稚園で留守でしたが、下の坊やはとても人懐っこい可愛い盛り、朝、Tさんのベッドに上がってひとしきり遊ぶそうです。「父親の感想は、如何ですか?」と尋ねると、「ええ、可愛いもんです」との答でした。奥さんも精いっぱい歓迎して下さいました。
TさんやSさんの写真を見た人は、みなお二人の逞しさを感じるようです。結婚と同時に子供を含めた家族を持ち、そのうえ奥さんの親戚の子も当然のこととして扶養を要求される、Sさんでなくとも、なぜ自分がそこまでするのかと拒絶したくなるでしょうが、そうした要求に鍛えられていくなかで重度障害を感じさせない風貌が滲みでてくるようです。日本にいる限り、独身で重度障害のお二人にそんな重荷を背負わせようなどと誰が考えるでしようか。

頚損者と初めて接した甥の反応にも大きな変化を感じました。出発前、成田でいきなり麩沢さんの食事介助を命じられ、初体験の甥は仰天していました。ところがルセナで甥は頚損のTさんに面倒をみてもらう立場となりました。彼の部屋にはミネラルウォータの大ボトルや夜中のおやつまで用意され、外出にはTさんからペソの小遣いをもらい、奥さんには下着の洗濯までしてもらう、まるで息子のような気配りでした。しかも英語とタガログ語を流惨に駆使しながら一家の主としてテキパキと指示するTさんは、重度障害を感じさせない人生の大先輩と甥には映ったようです。

フィリピンの日本人についてはさまざまな悪評が流れています。その煽りを受けてGLIPも「日本人を利用している」とか「現地人を利用する金満日本人の奢り」などと無責任な悪評を流す人もいます。
3年ぶりに訪問して、GLIPは日本の重度障害者にとって自立生活の選択肢の一つ、それも身体障害に伴う社会的な差別を払拭できる希有な選択肢というのが私の実感です。なにより心を打たれたのは、現地で真摯に生きようとしている人たちの姿勢です。GLIPは今後、貴重な生活体験の場として障害者のみでなく、日本の若い人たちにも機会を与えてほしいと痛感しました。





あとがき


*夢運び人さん、貴方の優しさがSさんのガードをすっかり取り去ったようです。お二人の通信は、医学書では得られない生きた知識を提供してくれます。ナカジュニアさんの通信もいいですね。プロレスファンの佳代さんにはさぞ羨ましいことでしょう。

*Gさん、見出しはアレで良かったですか?「太陽の家」の見学の感想、私も同感でした。“理想的”といわれるだけに悲しかった。折角、よみがえった人生ですから、焦らず、じっくりと道を見つけて下さい。「日本列島縦断の旅」続編を楽しみにしています。

*Nさん、ミスプリはありませんか? FAX通信は不鮮明な文字があります。またお叱りを受けるのではと、入力には緊張します。

*Tさん、HTさん、Sさんのご家族からも通信をいただいております。Tさん、Hさんはこれから本格的なリハビリ開始、ベンチレータ使用のSさんは、在宅に向けて準備中です。大阪のMさんは16日のセミナーに参加、最前列の席で食い入るように聴く彼女に、バーンズ先生も感銘を受けたようでした。

*海外情報を連載して下さっていた黒山宏志氏が結石手術のため、今回お休みです。また今後ヘルパーの確保が難しいので、しばらくお休み状態になるかもしれません。替わりに今回、YHさんにピアーズ・プログラムについて専門家の立場からセミナーの感想を寄せて頂きました。

*“TETSU-YA&Y”のビデオができました。相変わらず揺れの激しい映像ですが、音は明瞭ですし、なによりモデルがステキです。コンピュータミュージックに関心のある方には参考になるでしょう。

*マピックに髭を剃ってもらい、ご機嫌の魅沢孝さんですが、スキャナーの調子が悪く写真が不鮮明です。いろいろと工夫するのですが、どうにもうまく行きません。寡囲気だけでも感じとって下さい。

*KSさんの追悼集を命日の11月を目標に準備中です。2回目のバンクーバ調査の準備の合間に原稿を読ませて頂いていますが、すでに600枚を超える勢いです。お母さんのすさまじい気迫に庄倒されています。

*まもなく梅雨です。皆さん、お元気で、また7月末にお会いしましょう。
(松井)



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