は が き 通 信 Number.16
POST CARD CORRESPONDENCE 1992.7.25


《ごあいさつ》

暑中お見舞い申し上げます。だんだん暑くなってきましたが、調子はいかがですか。体調を整えて暑さを乗り切って下さい。

向坊

排尿困難症が治った


5月に脊損センターに入院して三カ所を手術し、10年来の排尿困難症が治りました。昔から「頸損が重病になる時は尿が関係している」と云われてきましたが、よく考えてみると、私もこの10年の間に何度かあの世に行きかけました。


さて、私の手術の図を示します。


①のトンネルのような所は肉をまわりの3分の1くらい削り

②は出て邪魔になっている部分を取り

③は一カ所に切れ目を入れる


という手術でした。


それで術後は約1ヶ月間、血尿が出ました。詳しいお問い合わせがあれば電話でどうぞ。夜は11時まで起きていますのでお気軽に.。

向坊



自己紹介①:MSさん


私も早いもので、今年の7月で頸損生活10年目を迎え、今まで生きてきたうちの3分の1程を頸損として過ごしたことになります。はがき通信を№13から読ませていただいておりますが、なかには私よりも頸損生活の長い方もおられるので、今後の生活で何かの参考にさせてもらいたいと思います。

私は高校2年生の時にラグビーの試合中に頸損になりました。怪我をした当時は、まったく動かない手や足も、時期になればだんだん動くようになるのではと思っていましたが、結局C4のレベルまでしか回復しませんでした。横浜市大、七沢と約1年間入院生活をしたあと、高校へ留年という形で復学することができました。校舎にスロープを付けてくれたり、控え室を用意してくれたり、クラスの仲間たちが介助用の車椅子から電動車椅子への移動や、ノートのコピーなどをしてくれたおかげで、なに不自由なく高校生活を過ごせました。

その後大学を受験したわけですが、受験ずるにあたって大学側の許可をもらうため、幾つもの大学を訪れましたがほとんど受験の許可すらしてくれませんでした。その中で2校だけが許可してくれ受験したわけですが、1校はレベルが高かったのと受験日当日に泌尿器のトラブルが起きてしまい不合格でしたが、もう1校は運よく合格することができました。

大学へ入学後は、母が送り迎えから教室移動、ノートの筆記までずっと付き添ってやってくれました。わが家は父と母と私の3人家族なので、母は大学から帰宅してから夕食の仕度をしたり、私の洗髪をしたり、夕食後には排便をしたり、その他にも主婦としての仕事をしなけれはならなかったので、大変忙しい毎日を4年間送りました。

大学では経済を専攻しましたが、これは在学中に何か資格でもとろうという気持ちがあったからです。しかし結局のところなにも資格はとりませんでした。大学をでればなにかしら仕事に付けるのではないかと、甘い考えをもつようになってしまったからです。大学を出れば仕事に付けるという考えは健常者に言えることであって、私たちには当てはまらないことでした。障害を持つ大学生の為の就職説明会があり、そこへも行きましたが、はっきりと就職は無理だといわれてしまいました。在学中に資格を取っていればと大変後悔しました。

もしかしたら資格をとればという考えと、大学を卒業して行くあてもなくなってしまったので、川崎市で行っているコンピュータ講座へ行くことにしました。そこでも母の付き添いが必要であったことは言うまでもありません。その講座では情報処理と簿記の資格をとることが目標になっていました。その講座は障害者の為の講座なので、私以外にも頸損の人が受講しました。月、水、金の週3日、朝9時30分から夕方4時まで、頸損の人が外へ出かけて何かをやるには、ちょうどいいくらいの負担であったのではないかと思います。

約1年間通ったわけですが、終わりの3ヶ月は月曜日から金曜日まで毎日開講されるようになりました。その間は自分自身も家族もさすがに厳しかったです。大学の授業ならちょっとさぼることもありましたが、この講座は受講生が10人だけだったし、無料だったということもあってさぼれませんでした。本当は休みたい日もあったんだけど、母に無理矢理に連れて行かれたというのが事実です。

講座に通っている間には簿記の資格しか取れませんでしたが、その後自宅で勉強を重ねてなんとか情報処理の資格も取れました。しかし残念なことにその資格はいかされずじまい、最近ではちょっと腐ってています。このような資格は取ったけど、ただ取っただけという頸損の人が何人かいます。結局は障害が重いとダメなのかなあと、少しあきらめ気味になってきてしまった今日この頃です。

最近は毎週木曜日に七沢に通っています。七沢に行けば誰かしら知っている人に会えるので、気晴らしになるからです。他の日にはドライブをしたり、ビデオをみたり、ちょっとだけ情報処理の勉強をしたりと、少しのんびり過ごしています。こんな感じで9年間があっという間に過ぎてしまいました。あんまり手紙を書いたりするのが得意ではないのでご勘弁ください。今日はこれくらいでおしまいです。それではまた。

川崎市S


この通信後、Sさんはお母さんと一緒に神経研に見えました。大きめの手動車イスは座席ごと自動車の助手席に乗せることができ、その移乗がお母さん一人で介助できるように改造された自家用車でした。




自己紹介②:Kさん


初めまして。小生、ダイビングの失敗で第5,6頸椎圧迫骨折してほぼ40年になる者です。下半身付随及び両上肢マヒが残り、さらに座位での生活が苦痛になるほどの大きな癒痕が残る褥蒼を仙骨部に作ったため40年間の大半の時間を腹ばって生活しております。幸いなことに知覚神経が残存していた排便・排尿は健常者並に自由にできました。しかしこの自由も1991年9月血尿を見るに及び、バルーン留置33日間後に尿意が消え、排尿が自力で不能になり、現在は導尿パックにつながる生活を余儀なくしております。

名前でお解かりのように( 表題で「キムさん」を「Kさん」と表記させていただきました:編集部注 )小生、日本の国籍を持っておりません。1934年釜山市郊外で生を受け、赤ん坊の時に日本に移り住み、以来日本の社会に解けこんで日本人の多くの友人知人となじんだ生活をしております。

生来の楽天的生格が幸いしたのか、受傷後40年も生きているのにシーラカンスのようにとまでは云えないけど、自分でも驚く程静かに生きてきたように思えます。これからはもう少し活性のある生き方をしたいと色々構想をめぐらせております。先ずその第一歩として腹ばった状態でストレッチャータイプの電動車イスを自由に使いこなせるようになること、次にその電動車をワゴン風に改良して全天候型に仕上げ、時には公園などにも出かけ雨の散策なども楽しみたいと夢をふくらませています。

はがき通信の仲間たちと,同様に障害に挫けず小生も一日一日を楽しく生きる為に集中したいと考えております。前に進むことで必ず何かが(それが何かは解りませんが)産まれると、小生は確信しております。皆様の御健闘を祈って新参者の報告を終わります。よろしくお引き立ての程お願いします。

1992.7.5

追伸:ストレッチャータイプの電動車イスにお乗りの方の参考なる御意見を寄せて頂ければ有り難いです。



Kさんは病院で通信を読み、「頸損者のたくましい生き様に胸をうたれました。小生も受傷後40年頸損として生きてきた者ですが、恥いる思いです。多くの頸損仲間の強い生き方を学びたく思います。皆さんと一緒にそうです。仲間として生きたいのです」というお便りを6月初め神経研に寄せられました。




リハ工カンファレンスに参加して


初めてこのカンファレンスに参加しました。30日の最初のセッションに体験談を発表させていただいたのです。大変に緊張しました。かってこれるまどに緊張したことと言えば・・・、高校の時に友人が生徒会役員に立候補し、その応援演説をして以来のことです。カンファレンスについてはある程度の想像はしていたのですが、いざ会場に到着してみるとその大きさに肝を抜かれてしまいました。“鉄の鎧”は多くの人が着ています。自分も着て行って良かったとは思うものの、平素に着なれていません。どうにも身体が締め付けられます。もともと人前で話しをするのは得意ではありません。嫌いでもないですが下手なのです。返ってガチンガチンに緊張させる原因であったように思います。ちなみに“鉄の鎧”とは“背広”と世間一般で呼ばれています。

話しは少し逸れかけましたがもどします。その苦手意識はスピーチ会場で多くの人の目の前にすると、さらに倍加してしまいました。結局、発表は声が震えているのが自分でわかるのですがどうしようもなく終わってしまいました。原稿はできるだけ見ないようにしようと心に誓っていたのに・・・・・。終始視線は1枚の紙切れに釘付け。鳴呼、いま思い出しても情けない。反省点は準備不足です。ほとんどの人がスライドなどを使い分かりやすい発表を心がけています。スライドのことは本などで、そういう方法もあると知識あっても体験がありません。衝撃的でした。人前で話すことの難しさを思い知らされ、本当に貴重な勉強ができました。このことだけでも参加する意義は大きかったのです。・・・がしかし、それだけではありませんでした。

多くの人との出会いがあり、嬉しい再会がありました。第7回大会は玉津リハ・センターが中心になって開かれました。玉津リハには8年前に1年ほど入院し、電動車イスや電動ベッドの事などを教えてもらいました。現在の私の生活様式はこの時に完成されたものです。お世話になった多くの先生に再会できたのです。挨拶はごくありふれた言葉なのす。しかし、その言葉の繰り返しが胸をわくわくさせるのです。不思議です。各種の集会に参加するたびに思うのですが、人との再会には特別の感動があります。そんな感動が大好きな私は改めて来て良かったと思うのです。ところで8年前は若かった先生も白髪まじり、思わず「フケたなあー」と言う言葉をグイッと飲み込む私でした。「親しき中にも礼儀あり??」名言だ!

また、頸損仲間との情報交換ならぬ、実は単なるおしゃべりも楽しいものでした。リハ工カンファレンスでほ常連であるKS氏やKU氏は同じ頸損です。同じ障害と言うだけで妙な仲間意識があります。何気ない話しに思わぬ収穫があるのです。また彼らをみていると自分の非力さを反省させられます.U氏は「私は日本一幸せな障害者です」と自らを語られます。普通は正反対です。多くの障害者ほ自分ほど不幸な人間はいないと考えています。被害妄想の魂イコール障害者としても決して過言ではないように思います。自信を持って生きるというのは難しいものです。まして、自分が日本一幸せなどとはなかなか言えません。私は未だに自分の目標が持てずふらついた人生を過ごしています。単に環境が違い、彼らは幸運の星に生まれているだけなのだろうか?ふと、そんな事を自問自答したりします.自分とは違う何かを持っている??幸運を呼び込む力。どう表現して良いかよくわからない魅力。自分にはあるのだろうか?自分にはできるだろうか?う−ん、何だかじっとしてはいられない気持ち・・・・・。

最後に残念だったのは3日間を通して行われたこの大会に最終日の1日しか参加しなかった事です。理由は付き添いがいなかった事に、宿泊したときの費用や1ヶ月前から少しですが崩れている体調に不安があった事でした。3日間もの数多い講演の中にはかなり興味を引かれるものも少なくありませんでした.日帰りでは情報交換(おしゃべり)をすると言っても、限界がありどうしてもあわただしいものになります。ゆっくりとした参加であれば、またあらたな人との出会いもあったかも知れません。考え直すと、距離的に近かった神戸大会はそのチャンスでした。N氏のねらいもそこにあったかも知れない?N氏は今回のの紹介者。締めくくりは師であり、友へのやはり感謝の言葉。ありがとうございました。

TT


Tさんの発表はSさんが収録されたビデオで聞くことができました。背広姿のTさんは一瞬人違いかと思いましたが、発表はご本人が気にされるほどあがってはいません。むしろ度胸があるなと感心したくらいです。時間切れでカットされてしまった報告部分と通信原稿をお願いしたところ、早速送って下さいました。



新曲ができました:TETSU−YA


こんにちわ。自分は TETSU−YAというものです。

この前ださせていただいたんですけど、誰も覚えてねーっつーことで、そ一なんですよでたんですよ。

で、そのときパソコンで音楽やりてーっていってたんですけど、おかげさまでカッコぜんぜんお世話になってねーってで、今、やってるんですよ。あー今は、沢渡病院を退院して家にいます。まだ新しい家もできていないんですけど、病院にいてもしょーがねーなってことで退院しました。ほとんど音楽にハマッてるかなっていうかよーは、それしかやることがねーってことですね(笑)。

めざせ音楽界のトミー星野かなー(笑)。星野さん、すみませんです。

それでー、4曲入りデモテープができたんですよ。で、今回いいたいのは、みなさんにぜひこの四肢麻痺、超重度身体障害者のつくった曲を聞いていただきたいと。

費用は一切かかりませんってことで、よろしくおねがいいたします。

吉報を待つと。さようなら。

TETSU−YA


こんにちわTETSU−YAです。

テープ送りました。題は、ししまひと読みます。

But音は余りよくないんでずよ。パソコンからの音はCDなみ、カッコ自慢なんですけど録音したラジカセが友達から買った7年もんですから(笑)。ま−、デモテープっぼい音質っつーことでこれもアりだなと。そのうちCDだから(笑)。

言い訳ですね。ハイ

あ一、あと曲ねー!。これハッキリいってねー普通の人は受け入れられないと思う。

俺、ケガする前メンタル、ビジュアル、全部、気イ狂ってたから(笑)。

ま−、そこは四肢まひ、スーパー重度障害者がやったんだぞと。

あと歌は今度、友達に入れてもらう予定。やっぱ歌詞エレー重要ですよね。

これも言い訳だな。つーことは俺は満足してね一な?

ってことでいっぱい宣伝してエー(笑)よろしくおねがいしますで、

あ−、あとAさんによろしく言っておいて下さいませ。

さようなら ××××

TETSU−YA


この手紙を読んでどんな狂った曲かと思って聞きましたが、たいへん明るいリズム感のある曲でした。IAさんには来週届けます。 TETSU−YAさんは写真も送って下さいました。少年の面影が残る好青年でした。この通信で使っても良いと解釈しましたがコピーでは暗すぎて、結局諦めました。次回はコピーに耐える鮮明な写真を送って下さい。お願いします。




泌尿用自動開閉弁の試作品できる:HKさん


Kさんは一昨年の米国自立生活調査でプライアン・ホーガン氏を訪問した際、介助者の手間を省くために頸髄2番損傷の彼がお小水も一人で捨てられるように尿収器の自動開閉弁を使用していたのにたいへん関心を持たれたそうです。手の効かない頸損者が一人で外出するとき、この自動開閉弁があればたいへん便利と思い、関係の技術者に依頼したところ、その試作品ができました.錆留め用の材質を使用するため価格は2、3万とやや割高になっていますが、数が増えれば価格も下げることができます。

QWF03274@niftyserve.or.jpPOST

問い合わせ先(Kさんの住所・電話番号は情報交換誌「はがき通信」に掲載しています)



暑中お見舞い申し上げます


梅雨も明け暑い日が続き体調を維持するのも大変です。みなさん如何お過ごしでしょうか。先日宮崎県身体障害者卓球大会が都城で行われ私も初心者の部で出場し余りの暑さに試合どころではなかったのですが、なんとかがんばって2位に入ることができました。

暑さだけにはどうしても勝てません。

7月16日 宮崎県 KM



TFさんの新生活①


今年4月より施設(療護)の入居者としての生活が始まりました。

私が頸随損傷者として生きてきた約8年間を振り返ると、当時はけがによる痛み、将来の不安や、動けないはがゆさで、人と話せる精神状態ではなく看護婦さんを始め、両親や回りの皆さんに、冷たくあたってしまった事がつい先日の事と感じます。

その頃からみれば身体的には、車椅子をこげるようになったわけでも、自分で食事ができるようになったわけでもありません。でも四肢麻痺という障害を受け入れ、電動車イスでの移動、マウスティツクを使いパソコンやアマチュア無線、障害者団体への入会など、現在の生活の基礎となっています。楽しい事をしている時は、時間の流れが速く感じますが、今思うと今までの8年間は楽しかった思い出と感じています。

(施設へ)入居までは、医療設備万全の所で生活してきただけに、その辺が少々不安でしたが、それも看護婦さんたちの頸随損傷者に対する事前の学習でトラブルもなく過ごしています。日常の生活ですが、週3回の入浴、サークル活動など日中はいそがしく、自分の趣味であるパソコンに向かえるのは、深夜になる時もしばしばです。パソコン・テレビ・ビデオ・電話など全部マウスティックで操作できる位置にセットし、日中は電動車イスに乗り、食事・入浴など時間になりしだい、自分でその場に行くという感じです。私の部屋は個室のためか、職員の休憩所代わりで毎日にぎやかに過ごしています。

ノーマライゼーションが叫ばれ、在宅生活へ戻る事が一番の社会復帰であり、リハビリテーションのゴールと言われています。しかし私は家には帰らず、施設の中で様々な障害者と地域の福祉活動や、地元ボランティア育成などに力を注ごうと考えています。

今こうして快適な生活をおくれるのも、いろいろアドバイスをしていただいた皆様のおかげと心より感謝いたしております。

私の部屋に電話が入りました。今流行(SANYO TEL-L770)の手に持たず、話せ、コードレスですので、電動車イスでもベッドでも出られるので何時でもOKです。

皆さん、これから梅雨も明け、本格的に暑くなります。体調をくずさず夏をのりきりましょう。

TF

追伸
6/28日新幹線で秋葉原に行ってきました。トラックボールと3.5インチのドライブを買いに行きましたが、ドライブは高くて買えませんでした。トラックポール(ロッタ付き)は買ってきました。手動車イスで行きましたが何しろ日曜日で混んでこんで大変でした。

数日前からローホークッション(5センチ)を使っています。リクライニングとの組み合わせで、乗車10:00から23:00もOKです。




お知らせ


①KSさんが就労問題研究会の活動や2度目の米国調査をもとにまとめられた論文「脊髄損傷者の就労など社会的到達目標:脊髄損傷(ポリオを含む)による重度四肢麻痺者の生産活動参加過程に関する日米比較研究とハイテクの活用による新しい可能性」は専門医学雑誌「脊椎脊髄ジャーナル」1992.7VOL.5NO.7の特集「脊髄損傷のリハの到達目標」に掲載されました。

この中で日中ニューモベルト、夜間は横隔膜ペースメーカを使ってアパートで独り者らしをしているC2のブライアン・ホーゲンさんの生活の模様が詳しく紹介されています。


②向坊さんの2作目の著書「よみがえる人生」が樹心社(電話:0925−77−2778)から8月20日に出版されます。出版社に渡す前の原稿を読ませていただきましたが、向坊さんの生い立ちや受傷後の心の葛藤、自立の過程などがたいへん分かりやすく感動的に書かれています。定価は1600円ですが、10部以上になると割引があるそうです。


前号で紹介したカナダの自立生活プロジェクトは、現地に行かれた全脊連の成瀬氏が近く全脊連の機関紙「脊損ニュース」の特集で紹介して下さるそうです。また人工呼吸器の使用者でも通常の音声で初対面でも不自由なくコミュニケーションできたということです。その点について今問い合わせていますので、情報が入りましたら、紹介します。


あとがき


*7月中句、博多、飯塚、北九州と回り、Sさん、Kさん、Mさん、向坊さん、Tさんたちにお会いしてきました。

16日の午後には向坊さんの屋内運動場で頸損歴40年80歳の方も加わり大勢でバーペキューをご馳走になりました。車イスの方が6人参如していましたが、狭さを感じさせないスペースで、また駐車場もひろびろしていて、バーベキューの支度ができるまで、皆さんゆっくりと歓談し、情報交換を楽しんでいました。

*はがき通信は文字が多くて、読むのに疲れるけど、TETSU−YAさんのような通信があるとほっとするそうです。また松戸市立病院整形外科の藤塚光慶先生から「はがき通信は楽しいばかりでなく、貴重な体験談、最新のニュースなどとても尊いものと思います」と励ましのお手紙もいただきました。群馬のKさんからワープロを導入したというお知らせがありました。

*梅雨明けと同時に猛暑がやってきました。皆さんお体を大切に、9月下旬この通信でお会いしましょう。

松井



HOMEPAGE ホームページ E-MAIL ご意見ご要望