は が き 通 信 Number.15
POST CARD CORRESPONDENCE 1992.5.25


《ごあいさつ》

今、膀胱括約筋を切開するために入院しています。排尿の調子が良くなりそれが排便の好調にもつながると友人の頸損の人は言っています。どうなりますか。

向坊

皆さんの体験談も寄せてください


皆さん、お元気ですか。先日、病院の外来で久々に病棟の方に顔を出して見たのですが、ベッドの空きもなく頸損・脊損で一杯でした。看護婦さんと話している時に、突然、女性が大声で怒鳴っているのを聞いてびっくりしました。看護婦さんに話しを聞くと、最近受傷して精神的に不安定な為に付ききりの母親に怒鳴っていると聞いて、『どきっ』としました。なぜなら私にあ心当たりがあるからです。受傷当時を忘れていたことが、次から次へと思い出されてきました。皆さんも心当たりはありませんか?

私は、13年前マット運動の失敗でC4番を脱臼骨折し、大学病院に入院しました。手術後、徐々に体力も回復しICUから病棟の個室に移りましたが、気管切開し機械で呼吸をしていたので、自分の声が出せず伝えたいこともなかなか伝えられずにいらいらしていました。械城がとれ自発呼吸ができるようになり、声も出せるようになったとたん、一気に爆発です。看護婦さんに当たり散らし喧嘩ばかりしていました。

元気になるにつれ、手足が全く動かせない自分にいらいらし、悔しいやら情けないやらで、落ち込んだり当たり散らしていました。ある時、仕事を終えた妻が、2時間かけて毎日毎日、病院に面会に来てくれて頑張っている事を考えました。声をかけ明るく接してくれる姿をみて、反対ではないか、と気が付き、今まで自分自身の事しか考えていなかった自分が、恥ずかしくなりました。それからの私は心を入れ替え、看護婦さんにも思いやりをいつも心がけ明るく感謝の気持ちで『ありがとう』と言えるようになりました。

それから月日が経つにつれ、手も足も動かない私は生きていてもしかたないとか、死んだ方がましなどと考えてしまいました。ある日、風邪を引きタンが喉に詰まり何回も出そうとおなかを押してもらっても出ないので吸引機で口から差し込んでも出せません。だんだん呼吸が苦しく窒息しそうになったとき、医者が飛び込んで釆て気管切開で閉じようとする喉に吸引機の管を無理矢理に突っ込んで助かりました。その時、私は、生きようとしていました。無事にタンがとれて楽になりましたが、私の心は複雑でした。このことがあってそれ以来、私は一生懸命生きて行こうと心の中で誓いました。

現在、私は、妻と妻の両親にお世話になっています。私が、毎日明るく、元気に暮らせるのは、妻や妻の両親、そして皆さんのおかげだと思っています。とても感謝しています。これからも感謝の気持ちを忘れずに頑張って行きたいと思います。

はがき通信の皆様も、ぜひ体験談を書いてもらえないでしょうか。今、苦しみ悩んでいる仲間や家族の為にも色々な話しが参考になると思います。宜しくお願いします。

1992/4/4 横浜市 MI



自己紹介: SIさん 31歳


はじめまして。私は17歳の時に交通事故でC5のケイソンになり、現在は家で両親に世話してもらっています。七沢を退院して家に帰ってきたらテレビとラジオの生活しかありませんでした。しばらくして、警察無線や消防無線が受信できるトランシバーを購入したのが、今私がアマチュア無線にどっぷり浸るきっかけとなりました。もちろん、楽しかったので同じC5のケイソンにも勧め、10年以上も彼と144Mhzで定期交信しています。数年後に第4級無線からモールス信号の第3級無線の免許を収得して、外国とハムで交信をする為に英語の勉教も始め、これが毎日の日課となっています。

先日、生まれて初めて新聞の投稿欄に意見を書いたら、運良く掲載されました。ケイソンのC4、C5ですと外出できませんので、特にベッド上の時など頭の中で色々と考える事はかりで、精神面も健康を保つのが困難になりがちです。投稿の目的は、頭の中で考えたことを人に理解してもらえるように書けるのだろうかと心配になったからです。投稿は今年から始め「福祉都市の制定」「電気自動車の導入」「いじめに損害賠償」の三つが掲載され、今「人工授精」「安楽死」「死刑制度」などについて自分の意見を書いています。ちなみに、読売新開の「気流」にFAXで投稿しています。

14年のケイソン生活で感じる事は、1日の内に2、3時間はケイソンを忘れて何かに熱中できる時間を持つ事が大切だと思っています。

もし、皆さんの中にハムについて興味がある方はご連絡下さい。

*Fさん、新しい生活に慣れましたか? 今度、箱根か大島のレビータを使って交信しましょう。 

1992/4/26 神奈川県 SI



初めての便り:熊本のKIさん


初めてお便りします。以前「はがき通信No.12」にて、妻の手紙を紹介いただきましたKIです。あれから5ヶ月たち、やっと気持ちのうえで、手紙を書けるようになりました。又、ワープロも装具をつけた右手を、アームサスペンションで吊って打てるようになりました。まだまだ遅いし、すぐに疲れますが・・・

私は、H3年3月に交通事故で受傷しました(C4)。歳は40歳になりました。まだ気持ちが不安定で、落ち込む事も多いのですが、はがき通信を読んで励まされています。

今後、在宅生活を計画しておりますので、みなさんのアドバイスを、よろしくお願いいたします。

熊本県 KI


KIさんの奥さんからお便り


つつじの花が窓の下で満開です。いつも「はがき通信」楽しみにさせていただいています。ありがとうございます。機器にたよりながら右手を使ってワープロをうつようになりました主人が手紙を書きましたので同封致します。

私たち在宅生活の準備にはいりますのでアフターケアを考えて地元の熊本市の病院へ転院致しました。住所の変更をよろしくお願い申し上げます。(新住所の詳細は情報交換誌「はがき通信」を御覧ください:編集部より)

熊本県KIさんの奥さん



フィリピンから便り:STさんの自立生活


5回目のフィリピンの正月を過ごし、4月の今夏の真っ只中、5月の終わりから降り始める雨を待ちこがれています。

なぜフィリピンなのか!!とよく聞かれますがその答は障害者にとって日本の冬の不自由さ、経済的に自立がしたかった。そんな時に向坊さんと出会えたことです。

今振り返って見て一つのチャンスを物に出来た事を幸いと感じ感謝の気持ちでいっぱいです。では、ここでの生活に問題がないのかと言えばそうではなく苦労の連続です。たとえば文化、言葉、食事、考え方、愛、宗教など。

しかしそれらを日本的に変えてもらうのではなく、私自身がこの世界に溶け込まなければならないということです。時間はかかりますが理解できるようになってきました。3月り終わりに向坊さんのGLIP(注:フィリピン日本人障害者の家)から独立し、これから真の自立生活が始まろうとしています。苦労は覚悟の上です。それ以上に日本では味わうことのできない楽しみもたくさんあります。障害者を差別なくやさしく受け入れてくれるこの国の人達も好きです。人間の機能障害は大小異なってもだれしも有るもの、悩みなどは後がつきないので最善は尽くすものの成り行きにまかせる。

人間として今、生きている喜び、きびしく言えは今日とも明日とも知れぬ我が命に気付いた時に私の第二の人生が始まりました。それは向坊さんを通じて仏教と出会え生きるとはどういうことか!死ぬとはどういうことか!を教えていただいたことで障害者である悩みや不都合などは生きる上で些細なことであると感じられるようになってきたからだと思います。

感謝、感謝、あらゆる物に感謝する毎日です。


追伸:ここで読むはがき通信は何か考え深いものがあります。日本では障害者が障害と闘う厳しさがあり、私はここで生活と戦っています。

Lucena City,Philippines ST



訪問記:HIさん


Iさんのお宅はJR名古屋駅からバスで約20分、新しい家が立ち並ぶ一角、1階が車庫でIさんの居室は3階、サンルームのようなガラス張りのたいへん明るい部屋ですが、残念ながら周辺の家々の屋根に遮られて外の景色はあまり見えません。そのためか、先日名古屋までお母さんと一緒に行き、喫茶店や本屋さんに入った、テレビでみているのと街の色が違う、とても感激したと話されていたのが印象に残りました。

HIさん、昭和36年4月生まれ、31歳。家業を嗣いでお寿司やさんを経営していましたが、友だちの車の後部座席で寝ていたとき、中央分離帯の電柱に衝突され、頸椎3番脱臼、2年間8カ所の病院を転々として寝たきりの状態で自宅に退院、4年間の自宅生活のあとリハビリテーションと尿路変更の手術のため中部労災病院に入院し、そこでUさんと知り合いました。

1年ほど前、Uさんから「少々理屈こきですが、とてもいいやつです」と紹介されてこの通信をお送りするようになりました。今年になってからIさんはワープロを使っていないので手紙が書けず申し訳ないと電話を下さり、中部労災で折角車椅子に乗る訓練を受けたのにまた寝たきりになってしまった、もう一度訓練を受けたい、良い病院があったら紹介してほしいとのことでした。「受傷後、病院が転々と変わってそのつど頸損の扱いに慣れていない病院で、説明するだけで疲れきってしまった。県立の総合病院でも胃が痛いと言っても神経が麻痺しているのに痛いはずがないと取り上げてくれなかったり、膀胱にカテーテルを挿入されたとき、膀胱に完全に入りきっていないのが自分には分かっていたので、入っていないと言っても感覚がないのになぜ分かるかと怒られてしまったが、結果的に挿入が失敗し、出血で後始末が大変だった・・・」と入院中の体験を話されていました。

Iさんは電話で受けた遠慮がちな弱々しい印象とは全く違って、写真のようにたくましい好青年で、初対面の私にたいへん気持ち良く接してくれました。頸損になって病院での苦痛な体験だけでなく、受傷原因の事故が友人の車で、それも任意保険に未加入の車だったので、その補償交渉でもたいへん苦労されたようでした。そのせいか、人の痛みがよく分かり、とくに人工呼吸器で6年近く生活しているIAさんを気遣って、これから暑くなると、呼吸器から送られてくる空気が熱くて辛くないか、冷却装置がついていればいいけど・・・と心配されていました。

名古屋市HI



カナダのケアハウス・ノーブルハウス訪問

−成瀬正次・全脊連副会長に聞く−


カナダで人工呼吸器で生活する高位頸損者のケアハウスが創られたことは1987年の文献で紹介されていましたが、詳しいことは分かりませんでした。昨年10号の脊損ニュースで海外の脊損事情・カナダからの手紙が掲載され、そこでカナダ脊損協会・ブリティッシュ・コロンビア支部活動の一つとしてそのケアハウスが紹介されていました。脊損ニュースの編集もされている成瀬さんは一昨年秋「パーフェクトバスを走らす会」で阿部勇さんのお母さんにお会いして以来、人工呼吸器を必要とする高位頸損者のことがずっと気になり、カナダ脊損協会の活動にたいへん関心を持たれたそうです。

成瀬さんほ今年4月カナダで開催されたインデペンデント92’に参加され、会議終了後ブリティッシュ・コロンビア支部ノーマン・D・ハウ氏を訪ね、氏の紹介で2番目に建設されたケアハウス・ノーブルハウスを訪問されました。先日成瀬さんのお宅でその訪問記を伺い、また貴重な報告書と資料をお借りすることができました。以下はその概要です。

まずハウ氏の事務所でカナダ脊損協会が高位頸損のケアハウスに係わるようになった経過とその考え方について伺った。40年前、脊損協会は障害者に対する国の事業、住宅や職業の斡旋、生活相談なども請け負い、事業を行ってきた。協会内にリハビリテーション部があり、ハウ氏はその部長、病院との連携も良くとれている。頸損の社会参加から出発して、ついにずっと病院に縛り付けられている呼吸器をつけている人たちの社会参加まで係わるようになった。最初行政関係の人たちに交渉しても相手にされなかった。病院と協同で初めは実験的に電動車椅子にレシピレータを取り付けることから開始した。

1985年8月、4年の準備の後に、ピアソン病院に入院中の6人の高位頸損者が地域に設立されたケアハウスで共同生活を開始した。6人中5人F呼吸器使用者であり、このプロジェクトはカナダでも、恐らく世界でも最初の試みであり、その運営はカナダ脊損協会、ピアソン病院、行政当局に6人の居住者が加わった。そして専門家に委託してケアハウスの生活を2年間、費用、健康状態、ケアの質の3基準で分析した結果、病院と比較して3基準ともケアハウスでの生活は極あて良好な成果が得られた。その成果を実績として、つぎに設計の段階から入居者が参加して1990年2番目に設立されたのがノーブルハウス、そこを成瀬さんは見学された。

ノーブルハウスは入居者7人、うち6人は呼吸器使用、建物の2階に7つの居室、それぞれが60へーベーくらいの広さ、それぞれの居室にゲスト用を含めて寝室が2つあり、他に共同で使用する談話室とキッチン、介助者専用の寝室がある。エレベータの他にスロープがあり、マイコン付き電動車椅子、電動車椅子からもベッドサイドからもコントロールできるECS、吸引操作でドアの開閉、ステレオ、テレビ、電話、電動車椅子を操作する。各居室にはお花が飾られ、家具調度などそれぞれの個性が生き生きと感じられ、居室に案内してくれた女性は30数年問も病院に入院していた人だというのに、入院中の病院でも個性が生かせていたのではないか。

場所も成瀬さんが泊まった下町のホテルから6ドルで行けるところ、海岸、劇場、レストラン、パブやショッピングなど地域の中心街にある。

成瀬さんが滞在中、ベンチレータの警報が突然なりだした。すぐ常駐の修理係りの人がきて調べたが原因不明で、予備の装置を置き、病院で検査することになった。ノーブルハウスでは緊急事態に対応できるように万全の配慮がされているから入居者は心配なく生活できる。

ノーブルハウスはノーマン・D・ハウ氏の夢の実現だそうですが、一つの事業を仕上げたら、分析評価して報告書を作成し、それを新たな要求の実績とする、障害者団体がその仕事をしており、彼らが将来のビジョンを持って活動していることや人工呼吸器を使用しながら生き生きとしていた人たちに成瀬さんは深い感銘を受けているように感じました。また成瀬さんは呼吸器を使用している人とも声は少し弱かったけど普通に話しができたし、誘われてお食事もご馳走になってきたそうです。

なおお借りした報告書と資料に社会復帰の理念、具体的な費用やケアの内容などが詳しく書かれてあります。次号で紹介しましょう。

松井



本の紹介


村松建夫著「見えない絆」エフェ出版 1300円


新聞やテレビで本書を知り、ぜひ読みたいと思っていました。本屋で探していても見あたらず、先日神奈川のHKさんに出版社を教えていただき、やっと読むことができました。

本書は、ありのまま記録大賞授賞作品を原本とした、受傷、入院生活、施設入所、施設で知り合った女性と結婚、奥さんとそのお子さんたちとの交流を記録した作品です。

前半の箱根療養所の生活は脊損者の歴史からみて興味深い記録ですが、本書の特徴は「諦めが希望に変わった」、「障害という厚い氷に閉ざされていた私め心が少しずつ溶けて、やっと一人の人間として生き始めたのかもしれない」という結婚生活であり、家族生活です。

義理のお子さんと一緒の結婚生活は障害がなくてもむずかしいのに、また全介助を必要とする頸髄損傷者の受け入れは地域でも施設でもむずかしいというのに「好きになった人がたまたま障害をもっていただけ」と奥さんにさらりと言わせ、尾瀬の家族旅行で男の子が「鳩街峠から山の鼻までの3・3キロの険しい山道を、私の車椅子の先棒を受け持ち、3時間をかけて汗みづくで踏破してくれた」、また女の子は「妻が私の身の回りの世話をしているのを見るうちに、いつの問にか食事の介助やオシッコの世話まで、見よう見まねで器用に手伝ってくれるようになった」と書かれています。

頸髄損傷、なかでも高位の頸損者は脊損専門書に“やっかいな存在”と書かれたり、“頭がはっきりしているだけに困る”と医療関係者に言われたりする障害です。そのような障害を持つ著者を家族として受け入れ、しかもその生活を公表できるということは、著者夫妻とお子さんとの家族関係がそれだけ安定したものに築き上げられているからでしょうか。

本書の著者村松氏はご自身の魅力についてはなにも語っていません。しかし「人は偶然に愛されるのではない。その人自身の力が愛を生み出すのである・・・人を生産的に愛するということは、その人の生に対する責任を感ずるということである‥‥生産的に愛するということは、受け身であることならびに、愛する人の生に対して傍観者であることとは両立しない。それは愛する人の成長に対する、労働と注意と責任とを意味するのである」(「人間における自由」エーリッヒ・フロム著、谷□・早坂訳)とあるように、著者ほ奥さんやお子さんから生産的な関係を引き出すような力を備えている方にちがいないと思いました。

松井



G・Wはどう過ごされましたか


はがき通信のみなさん、こんにちわ。G・Wの真っ只中どのようにお過ごしでしょうか。私は親戚集まって庭で焼き肉パーティーで盛り上がりました。天気もポカポカ陽気で今の時期が一番過ごしやすいですね。

「フィリピン日本人障害者の家」のビデオを見ました。ここで暮らしていらっしゃる皆さんがみな明るく生き生きとしていること、とても前向きなこと、行動力があって力強さを感じました。現地のボランティアの人ともコミュニケーションがとれていていい雰囲気を感じました。

話変わって、4月から私ほ都城にチームがある車椅子バスケットボールと卓球を始めました。

バスケットの方は毎週水曜日の19時30分から21時30分まで2時間のハードな練習が続きます。脊損が中心で頸損は私一人です。九州には大分、長崎、熊本に頸損のチームがあるそうです。練習を始めたばかりなので体力が劣り持久力もまだまだなのでがんはって試合にでれるようになりたいと思っています。卓球は毎週木曜日の19時30分から21時30分まで楽しく練習しています。

これらのスポーツを始めてストレスも解消でき、とても爽やかな気持ちです。ずっと前から誘われていましたが、なかなか踏ん切りがつかず断ってばかりいましたが、やってみて早くからやっておけばよかったと思ってしまいました。

1992/5/4 KM



MTさんのお便り


新緑の美しい季節になりました。皆さんお元気ですか? 超寒がりの私にとっては嬉しい初夏め訪れです。

体温調節の苦手な私たち頸損者の中には私のように体のどこかが冷えると、ケイレンやシビレ、あるいはこわばりや痛みを覚えるも少なくないと思います。そんなとき周囲の人に比べて厚着になって、余りオシャレではありませんが、ヤセガマンをせず、保温に気をつけると、結構快適に過ごせるようです。特にこれからの季節、冷房には注意が必要です。冷えすぎなのに、暑く感じたり、発汗することもあるからです。

毎日できるだけ楽しい気分で、生きていきましょう!ごきげんよう。 

埼玉県 1992/5/19 MT



あとがき


MさんやTさんのお便りのように、緑の美しい季節になりました。今が一番良い季節と、私も年々感じるようになってきました。

Iさんにはこちらからの注文に応える形で通信をよせていただきました。皆さんに本音を聞かせてほしいとお願いしながら、私の意見がないとお叱りもありました。自分の本音を表現するのは恥ずかしさもあり、勇気もいり、だんだんむずかしくなるような気がします。でも本音をぶつけ合えるような交流が望まれているとしたら、この通信も皆さんの中に定着してきたことかなと考えたりします。如何でしょうか。

松井



HOMEPAGE ホームページ E-MAIL ご意見ご要望