はがき通信ホームページへもどる No.125 2010.10.25.
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も く じ
ballごあいさつ 広報委員:麸澤 孝
ball「はがき通信」からのお知らせ(会計監査人紹介)
ball最近の苦労話(骨格の変形)/短歌1首 佐賀県:K.N.
ballお別れ会に参列して 広島市:M.H.
ballさよなら迫やん!また逢う日まで 広島県:Y.O.
ball頸損になってからの出産体験、そして子育てについて 島根県:A.T.
<特集!起立性低血圧>
☆起立性低血圧の改善法 千葉県:T.D.
☆起立性低血圧について 新潟県:T.H.
☆低血圧 宮崎県:H.F.
☆毎日、起立性低血圧で苦労 福岡県:K.M.
☆脳に血をもどす 東京都:F川
☆私の起立性低血圧対策について 鳥取県:MAYUMI
ballどたばた、パパ!(その3)『あ〜、ど・ど・どうしよう!』 パパさん
ball全員参加企画 いいモノ見つけた!〜4〜 神奈川県:M.I.
ball『臥龍窟日乗』私にとっての9・11@ 千葉県:臥龍
ball私の排便時の工夫 匿名希望
ball腰折れ俳句(16) 熊本県:K.S.
ballたんの自動吸引が現実に 大分協和病院 山本 真
ballひとくちインフォメーション


ごあいさつ


 今年の暑さは異常でした。今これを書いている9月中旬も東京で34度以上あります。毎年8月末のリハ工学カンファレンスが終わると秋風が吹き始め「今年の夏も終わりだな〜」なんて思うのですが、今年はやっぱり違うようです。
 先日も駅からの帰宅途中、いつもと違う(?)頭痛がしてその後、寒気がして気分も悪くなりました。頸損ですと、まず「おしっこかな?」と思うのですが、いつもと違う症状です。帰宅してエアコンの効いた部屋で水分補給をして、しばらくリクライニングを倒していると治まりました。もしかして熱中症?? わかりませんが、今思うと大事に至らず本当に良かったです。早く秋らしい秋になることを願っています。皆さんも季節の変わり目、どうぞご自愛ください。

広報委員:麸澤 孝



 「はがき通信」からのお知らせ 


(1)3人目の編集委員の募集について
 編集委員を募集いたします! 現在は、瀬出井・藤田の障害当事者による2名体制ですが、どうしても体調不良など、四肢マヒ者ゆえの不安があります。不慮の事態にも対応するためにも、編集委員を3人体制にして安定した編集体制を目指したいと考えております。
 編集委員は大変なときもありますが、とてもやりがいのある役割です。障害当事者で、電子メールの送受信ができるパソコン環境で、ある程度ワープロソフト(一太郎orワード)が使え、何よりやる気のある方が条件になります。自薦・他薦を問いませんので、募集いたします。裏表紙の「はがき通信」スタッフまでお気軽にご連絡ください。


(2)会計監査人のご紹介

 ※紙面版の未掲載




【特集「四肢マヒ者のデジカメ撮影法」原稿募集!】


 最近は、多種多様な動画も撮影できるデジカメや携帯電話が出ていますが、私たち四肢マヒ者のカメラ撮影は、至難の業です。介助者に頼むと思っていた写真と違うことも多々あり、なんとか自力で撮影できたらいいのにということがあるかと思います。また、カメラ撮影が趣味で工夫しながら撮影されている方もおられると思います。そこで次号・126号の特集のテーマは、「四肢マヒ者のデジカメ撮影法」です。
 自力で工夫しながらカメラを撮影する撮影法や苦労話や事例、介助者への要領よい頼み方、流用できたり掘り出し物の役立つ器機、うまく撮影したお気に入りの写真の掲載も含めまして、カメラ撮影に関して情報交換のために知恵を出し合いましょう! ぜひドシドシお気軽にご投稿ください。よろしくお願いいたします。


 締め切り:11月30日まで!





 最近の苦労話(骨格の変形)/短歌1首 

C3・4・5不全、頸損歴21年、男

 最近、特に今年になって顕著になった。体幹が左へ大きく湾曲し、車イスのキャスターを見下ろすほどである。自然にそうなるので気分的には楽なのだが、体感的にはきつい。その姿勢では何もできないので、左腕で身体をグ〜ッと右へ倒してまた元に戻るまでの間に何ごとかの作業をするという有様である。右に傾いている間は体感的にはストレッチしてるようで非常に心地良い。
 湾曲の原因は明らかである。退院後3年ほどは、家族の介助で体位交換していたのを夜中の労力を思い巡らし、エアーマットにして左側臥位のみにしたことである。
 以来15年間、22時の着床から9時の離床までを体位交換せず左側臥位で通している。これは、稀有なことに褥そうを作らなかったのが幸いであったが、今後加齢につれての心配事ではある。
 先月、思い切って、湾曲矯正を期し2例を試してみた。
 まずは右側臥位。左側臥位と同じように両脚の間にクッション(いわゆる「体交マクラ」)を挟み尿器をセットし、背面に背もたれ用のクッションをセットして寝る。急性期入院中も肩の痛みで2時間おきの体交を待てず、ナースコールを押し看護師に迷惑をかけた。案の定未明から肩甲骨部から肩先端部にかけて痛み出し、終夜悪夢の連続であった。加えて、ベッドに接している右脚外側に擦過傷を作っていた。多分、苦し紛れに動かしていたのだと思う。
 次は、仰臥位。尿器に替えて吸水量の多いオムツを着け、脚の両膝の裏に屈伸予防用のクッションをセットして寝る。脚の膝は屈曲して左右に揺ら揺ら、こうなると眠れず伸ばそうとする行為の繰り返し。さらに、オムツの排尿部周辺は尿で飽和状態になると吸収力がなくなり排尿し辛くなる。その影響でか、ガスも出難く陰部に近い下腹部に強い違和感を生じ、過緊張のような頭痛まで伴ってきた。待ちに待った起床時間、ヘルパーの血圧測定では、通常100(h)前後なのに168(h)と高圧であった。
 結局、試行2例はいずれも二度と味わいたくない苦痛に終り、現在は元の左側臥位で寝苦しい夜を送っている。
 以上、最近の苦労話でした。

 ○短歌

 黒髪の 長き娘の見舞いくるベッドの若者の 未来を思う

 急性期入院病室、4人部屋の窓側のベッドは週末になると、決まってカーテンが閉まる。長い黒髪がよく似合う若い娘が訪ねてくるのだ。中でどんな言葉が交わされているのか知る由もないが、時折り明るい笑い声が聞こえる。廊下側のベッドの私は一人想いを巡らせていた。

佐賀県:K.N.



 お別れ会に参列して 


 突然の訃報、当会(広島頸損ネットワーク)の設立発起に、ご尽力を頂いたSさんが亡くなられ(享年62歳)、8月23日に悲しいお別れをしてきました。遺影の玉葱(たまねぎ)さんは、あの笑顔で迎えてくれ、一度に悲しみが込み上げてきました。ご本人は、安らかな寝ておられるようなお顔でした。
 妹さんは「やっと楽になったね、お兄ちゃん、頸損33年ずっと頑張ってきたから、もう、ゆっくりしてね」と言われていました。
 奥さんのTさんは、気が張っておられるのと気配りされて「ありがとう」と皆さんに挨拶して気丈にされていました。私も何も言えず、ただ挨拶するのがやっとでした。
 皆の為に考え、行動し続けた人柄を表すように会場に入りきれない弔問の人でした。皆さんの分も「ありがとうございました」と焼香しました。
 これからは、Sさんに指導を受けることは出来ませんがSさんの分も頑張り、会を発展させていかなければと思います。
 先日、TさんにTELしたところ「頑張ってます。」と、お元気そうに話されました。
 

広島市:M.H.



 さよなら迫やん!また逢う日まで 

54歳、C4、頸損歴26年

Sさんとの出会いは24年ぐらい前で、急性期に入院していた中国労災病院時代の知り合いに会うために障害者寮護施設に行った時であった。人懐っこい笑顔で寄ってこられいろいろな話をした。それでも話足らずだったので、自宅に泊まりにおいでよと誘った。結局面会に行った人とはほとんど話さずじまいであった。
 1年に一度、計3回ほど、夫婦で泊まりに来られいろいろなことを教えていただいた。施設で奥さんと知り合い、結婚式の様子がテレビで放映されたこと、自分が作詞をしたものに曲を付けてもらいテープを作成したこと、男女別室を主張する施設と戦って夫婦同室を勝ち取ったこと、障害者としてどう生きるか等々。頭が良く、たくましく、思いやりと気づかいと抜群の行動力にただただ脱帽した。




●広島頸損ネットワーク交流会・コンサート(2008年5月25日)、
 Sさん(右の方) とHさん



 ある時、広島でも頸損の会を立ち上げようと思うので、協力してほしいとの依頼があり、三次ワイナリーで、Sさん、Hさん、私の3人で会った。Hさんとはこれが初対面で、人生を楽しんでいる姿に魅了された。
 1997年12月14日(日)、広島心身障害者センターで発足会が開かれた。広島頸損ネットワーク初代の会長はHさんにお願いしたいと言ったのもSさんである。当然、Sさんがやるものだと思っていた私たちを驚かせた。お膳立ては済んだ、表舞台は若いもんでやれということであった。まったくニクイ男である。
 1998年9月13日(日)、H会長のもと、広島区民文化センターでMさんを迎え1回目の全体会議が行われた。広島頸損ネットワークの誕生である。
 時期を同じくしたころ、施設を出て広島市内北部の県営住宅で地域生活を始めるという知らせが入った。私の知る限りでは、広島で重度障害者同士の初めてのケースであろう。ヘルパーステーションの運営が社会福祉法人だけに認められていた時代で夜のヘルパーの確保が難しい時代であった。
 幸いにも広島YMCAの学生の支援を受け、鼻の下を伸ばし、楽しく生活されていた。まだ「エコ」という言葉が知られていないこの時期に「エコライフ」というい団体を立ち上げて、エコ石鹸や草木染めなど作っておられた。実にたくましい!
 近年、血圧の低下に悩まされていた。特に尿道留置カテーテルを交換した後の血圧低下がひどく、測定不能になることもあったようである。そんな中、広島頸損ネットワークの交流会にも積極的に参加されていた。
 昨年の10月には、「はがき通信」東京懇親会に妹さんを連れ参加され、昔の友人との再会を楽しんでおられた。文章が上手で中国新聞にもよく投稿されていた。「はがき通信」・「広島頸損ネットワーク会報誌」・「きっかけ新聞」などの常連であった。社会に対しての提言が多かったのだが、今年の春ぐらいから弱気な記事が目立って少し心配していたのだが……。8月22日20時ごろ、屈託のない笑顔を残して終に逝かれた。身体は広大医学部に献体されると聞いてビックリ仰天。Sやんのことだから臓器提供はあるかな? と思ったが、献体とは……。最後まで驚かせたくれた。
 「トドのおっさん」改め「玉ねぎおやじ」に心よりご冥福をお祈りしたい。ありがとう! 合掌
 

広島県:Y.O.



 頸損になってからの出産体験、そして子育てについて 


 昭和60年2月、交通事故により頸髄損傷(C6レベル、不全マヒ)となって25年、今年長男は26に、長女は19になります。入院当初、もう子供を産むことは出来ないと諦めていましたが、脊損の女性の出産を知り希望を持った私は産婦人科を受診しました。先生のお話では「受精さえ成立すれば可能です。ただし出産は帝王切開になります」とのことでした。帝王切開については初めから予測できていました。ただ心配だったのは、
 ・麻痺した母胎で果たして流産せずに胎児が成長できるのか
 ・麻痺していることが胎児の成長に悪影響を与えないか?
 ということでした。
 その質問に対し「大丈夫です」との回答をいただいた時、私の心は決まりました。

 それから5年が過ぎ妊娠の兆候を認め受診。当病院や先生ご自身が初めて扱う症例のうえ、世界的にも報告の少ないという事もあり、主治医となられた先生も手探り同様だったと思います。先生は収集した文献を私にもコピーして下さり、多くの情報を提供して下さいました。それは異常を早く察知する上でも貴重な予備知識となりました。
 脊髄(頸髄)損傷者の妊娠、出産に関連する問題として「尿路感染」、「褥瘡」、「早産」、「貧血」、「妊娠中毒症」、「膣感染症」、「分娩時の自立神経過反射」等、妊婦全般的な問題から特有の問題まで多々ありますが、私の場合もこれらの問題を起こしました。

 最初に起きた問題はやはり尿路感染でした。妊娠が確認された時点でバルンカテーテルにより排尿管理が始まったのですが、妊娠13週、17週、22週には腎孟腎炎、右水腎症を併発。25週には肺炎、さらに27週に4度目の腎孟腎炎。17週の時以外は1週間前後の入院治療となりました。4度目の入院中の平成3年1月17日、発熱により切迫早産の兆候が確認され婦人科病棟から産科病棟に転科となり、退院の日を迎える4月まで3ヶ月間の入院生活となりました。
 入院中はカンジダ尿症、緑膿菌感染、褥瘡、貧血を合併し、発熱の度に抗生剤の点滴を受けました。また数値の上がらない貧血に対し3度の輸血も行いました。そして出産予定日を1週間後に控え「もうこれしかないから」と言われながらグロブリン製剤の点滴も受けるという具合で、繰り返される感染と発熱には心身共に疲れました。

 平成3年4月2日。5時間の分娩所要時間を要し、自然陣痛だけで長女を出産しました。経産婦であること、産道と子宮口の位置が良いことを理由に経膣分娩での出産となりましたが、緊急時に備え手術室の確保や必要機材の搬入、自律神経過反射に対する対策として硬膜外チューブの挿入(3月より)と準備されていました。
 当日、子宮口の開口に準じてキシロカインの投入もされましたが、それでも子宮口全開時には一時、血圧200/120にまで上がり、胸部の圧迫感と呼吸困難を自覚しましたが、処置により症状が薄らぐ中、長女の元気な産声を耳にしました。初診から出産まで、温かく大きなカで無事に出産へと導いて下さった主治医の先生や、病棟のスタッフの方々への感謝の気持ちは今も変わりません。

 産後は乳汁分泌も良好でしたので、助産師さんの介助を受けながら授乳練習をする一方で褥瘡治療を行いました。腰に出来た褥瘡は表皮が壊死し黒くなっていましたので、皮膚科で表皮を切除、縫縮してもらい、抜糸後に退院となりました。私は両親と同居しており、妊娠が解った時点で育児の協力はお願いしていました。家族の協力無しにはとても育児など出来ません。頸損の私に出来ることなどたかが知れているのは解っているのですが、どうにかしたい状況で何も出来ない現実は正直ストレスになりました。
 そんなもどかしさを感じている間にも子供は成長します。夏になり這い始めると、目につく物を何でも口に入れてしまうので、日に何度も掃除機をかけました。縁側から落ちて日曜出勤していた主人を呼び戻し、急ぎ病院へ行ったこともあります。1歳になり外で遊ぶことを覚えると、お昼休憩無しに付き合わされました。1度は思わずうとうとしてしまい、車イスから落ちたこともあります。かと思えば、緩いスロープで車イスを押しているはずがぶら下がるような形になり、後ろへ転倒し大きな瘤をつくったこともあります。一旦ベッドに上がってしまうと自力で車イス移動も出来ないため、水疱瘡に罹った時は、一晩中車イスに乗ったまま看たこともありました。

 そんなハプニングもありながら成長するうちに、こちらが助けられたりするようになりました。落ちた物を拾ってもらったり、上体を起こす時手を貸してくれたり。まったくどっちがどっちだか解りません。
 子供は成長に合わせ保育所や小学校へ行くわけですが、車イスである母親の存在がどう影響するのか、とても不安でした。長男が4歳になる年の春、入所式を控え「お母さん、一緒に行ってもいい? 止めたほうがいい?」と聞くと、「行っていいよ」と言ってくれたので入所式に出席しました。それから行事の度に聞きましたが、何時も「いいよ」の返事をもらいました。子供の目というのはとても正直で、興味や関心があるものを見ない振りはしません。ですから保育所に行くと関心を持った子供達が「足、痛い?」「何で、これに乗ってるの?」等と言いながら側に寄って来るのです。
 初めのうちは身構えましたが回を重ねる毎に慣れ、見知った大勢の人達がいる場所にも出掛けることが出来るようになりました。その一方で私が元で子供がいじめられたり、からかわれたりはしないか、友達が出来ないのではないか等と心配はつきませんでしたが、現実は「案ずるより産むが易し」そのままに、友達も出来ればいじめられることもありませんでした。それどころか二人の友達は「友達のお母さん」として、とても親しくしてくれました。

 小学校3年生になると長男は野球を長女はバレーを始め、それは高校迄続きました。球場での車イス観戦は夏場の熱中症さえ気を付ければ問題なかったのですが、バレーは会場となる体育館のバリアフリー化されている所がほとんど無く、行く度に主人に身体を、同チームの保護者の方に車イスを運んでもらい観覧席まで上がるといった具合でした。私が行くと手を煩わせると解っているのですが、子供が頑張っている姿は見たいし応援もしたい。ですから、都合さえ悪くなければ応援に行きました。勝てば一緒に喜んで、負ければ一緒に悔しがる。時には一緒に涙した時もありました。

 そんな長女も春から大学生。新生活が始まるまでの短い間、今度は包丁を持って特訓の日々となりそうです。幸い入院中に包丁が持てるよう作業療法室で手を加えていただいたので料理はできますから、多少は教えてあげられそうです。考えてみれば、子供がいたから出来るようになった事は多々あります。料理も初めは野菜を切るだけでしたが、徐々に以前のように「料理」が作れるようになりました。保育所では連絡帳を書かなくてはならなかったので、長男の入所にあわせ少し工夫したペンを持って字も書くようになり、お弁当袋や体操服入れ等の必要性からミシンも使うようになりました。私の子育ての記録は、自分自身のリハビリそのものだったように思います。

 頸損の私に出来ることはたかが知れていますが、母や既に他界した父、そして主人の力があったからこそ成長した二人の姿があります。泣いたり笑ったり喧嘩したり、何処にでもある家族です。ちょっと違うのは、お母さんが車イスだということ。その「ちょっとの違い」が家族に与えた負担は軽くはなく、子供達にも随分と迷惑をかけたことでしょう。一時期「私はどうせ産んだだけだから」と卑屈になった事もありますが、どう考えても二人のいない今は想像できません。子育てを通して、私がかけた迷惑以上の大きなものを与えられ今の自分があると思うと、二人がいてくれたことに心から「ありがとう」の気持ちです。


島根県:A.T.


 出典:『頸損解体新書2010』(編集:全国頸髄損傷者連絡会)
 ※A.T.さんには、「はがき通信」59号に出産のご投稿をしていただきました。この春に発行された『頸損解体新書2010』にその後の子育てについてまで執筆していただきましたので、貴重な体験を転載させていただきました。
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