はがき通信ホームページへもどる No.122 2010.4.25.
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 懇親会を終えて —沖縄は気候も人もあったかかった! 


 沖縄懇親会にご参加いただいた皆さん、本当にお疲れ様でした。どうもありがとうございました。懇親会開催15回目、「はがき通信」発行20周年の節目となる沖縄懇親会は、障害当事者18名、夕食レセプション52名のご参加をいただきました。週間天気予報とにらめっこでしたが、お天気にも恵まれ、「晴れ男・晴れ女」の伊藤さんと私ともどもホッとしました。
 以前、国外ではハワイ懇親会を開催していますが、今回は国内での初の飛行機に乗っての開催地となりました。Nさんが、「一度沖縄に行きたい」と生前におっしゃっていたのを思い出していました。





 東京と神奈川のメンバーには懇親会の他にもお会いするチャンスがありますが、初めてお会いする熊本のSさん、久しぶりにお会いした福岡のIさん、長老の(?)Yさん、Gさんも健在、広島のOさん、T君も元気そうです。全国を飛び回っていると思われるSさんが今回、国内外を含め初フライトと聞いて超ビックリ! 初飛行機体験はいかがでしたか? イランの障害者の支援活動をされている自らも脊損当事者のイラン人のPさんも、NPO法人の支援者の方たちと参加されました。向坊さん、「はがき通信」の参加者も国際的になってきましたよ。
 今回、一番のチャレンジャーは、新潟から参加された呼吸器使用のHさんでした。遠路、本当にどうもお疲れ様でした。夕食レセプションに遅れられたのでとても心配しましたが、席上でのスピーチに感動しました。(時間がなく、お一人お一人とはゆっくりお話ができませんでしたが)





●三線の演奏

 夕食レセプションでは、三線の演奏とエイサーで沖縄の気分を味わいました。





●エイサー

 私自身はというと向坊さん亡き後、“懇親会参加完全制覇”を更新できてうれしかったのですが……今回は、正直なところ疲れました。高齢の母も一緒でしたので、余計だったかもしれません。痛みのため、初日の夜はほとんど眠れませんでした(アルコールを飲んでいたので眠剤の服用をせず)。2泊3日は短く、今の私の体力ではゆっくり休養できる日を作らないとダメですね。前回、沖縄に来たのは、平成10年の夏だったと思います。まだモノレールは走っていませんでした。
 2日目の観光で念願だった美ら海水族館に行ったのですが、具合が悪くなってしまい介護室で少し横になりました。美ら海水族館だけで、1日かけてもよいくらいです。地元の社協さんの車で、伊藤さんと観光に回りました。気さくでお話上手のルパン三世似(?)の運転手のKさんには、何回も座席へのトランスファーのお手伝いをしていただき、本当にお世話になりました。寒いと言うとご自分の着ていた服を脱いでお貸しくださったり、ご親切に心から感謝申し上げます。





 今回は、地元の社協さん、介護タクシーさんに大変ご協力いただきました。利用した高速道路(沖縄自動車道・全長約60km・料金1000円)は、6月から無料になるそうです。





●古宇利島にて古宇利大橋をバックに  

 水族館のあと、伊藤さんが海が美しく景色が素晴らしいから行ってみたいという、古宇利島に古宇利大橋を渡って行きました。初めて食べる海ぶどう、アグー(豚)塩焼き定食もおいしかったです! 私は、砂浜まで行くことができました。プライベートビーチもあるらしく、ゴミも落ちていない白い砂浜はハワイを思い出しました。K城さんのお話では、本土ふうの海開きに合わせて建てられる「海の家」などは夏場でもなく、公衆トイレに常設のシャワー場のみだそうです。
 気温は22〜24度、沖縄の清々しい風と美しい海、暖かい気候にも癒されましたが、沖縄の人々の温かさにも心癒されました。都会人のようにセコセコとしていない、南国特有のおっとりした人たちとのふれ合いは実に癒されます。
 最後に島を一周していただきました。さほど大きくはありません。広がるさとうきび畑、沖縄独特の大きなお墓……信号もなく、民家も商店もほとんど見当たらず、人にも滅多に出会いません。そんな風景は観光客にはのどかでよいのですが、ただ、「ここに車イスの障害者の人がいたら……」と思うと“地域格差”という言葉が頭に浮かび、内心、複雑でもありました。
 今回の沖縄懇親会は、観光のための車の手配や確保、ホテルや旅行代理店との交渉や問い合わせなど、一重に実行委員長の伊藤道和さんのご尽力のお陰で開催することができました。
 来年は、10月中旬に2回目となる横浜で開催予定です。伊藤さんと、また一緒にガンバリマス! また皆さんとお会いできますことを楽しみに、多くの方のご参加をお待ちしています。  

実行委員:瀬出井 弘美





特集 原稿募集 『「はがき通信」懇親会in沖縄』!

 次号・123号の「特集のテーマ」は、『「はがき通信」懇親会in沖縄』です。
 懇親会に参加された皆さん、懇親会でのこと、自由行動での沖縄観光のこと(これから沖縄観光する方の参考に観光地へのアクセスやバリアフリーのことも)等々何でもかまいませんので、ぜひドシドシご投稿ください。よろしくお願いいたします。写真もたくさんお待ちしております。

締め切り:5月31日まで!




 今、次のステージに 


 僕はこの2月、定年と還暦を迎えたところですが……簡単に僕の軌跡を紹介します。僕は25歳で頸損になりました。35年前ですね。その後、3年間の病院・施設生活をしました。初めはすでに人生を終えたと思う日々で、リハビリが終了したら、田舎に引きこもるのだと決めていましたが、今の家内と知り合ってから後半頃には、社会に再び戻りたいという思いが強くなり、会社への復職運動を始めました。ここら辺りのことを話せば長くなるので、今はスキップします。
 1年間の復職運動の後、28歳で復職しました。最初は人事部で事務の軽作業でした。他部門からの引き取り話がなかったのです。加えて、僕が障害者雇用の初めてのケースで、障害者がちゃんと働けるか、近くに置いて見守る必要があったのですね。結局、人事部に2年いました。人事部の2年を振り返れば、寸暇を惜しんで勉強したことだけが記憶に残っています。事務の勉強ではなく、今で言うシステムエンジニアとしてコンピュータのソフトウエア開発者を目指したのです。独学でしたが、まだ若かったので頑張れたのでしょうね。30歳になった時、2年間の学習の成果を持って僕をシステム部門へ配置するよう、人事部長へ迫ったのです(迫ったという言葉は妥当でしょうね)。システム開発部門長との面接を設定してもらいました。この面接で、定年までの僕の居場所が決まったのです。
 30代半ばまでは先輩の指示に従って、仕事をこなすだけで、責任もなくのんびりしたものでした。半ばを過ぎると、システムエンジニアとしても自立し、仕事の引き合い、見積もり、業務分析、要求仕様、概念設計、詳細設計、製造、テスト、納品、プロジェクト管理などを一括行う立場になりました。仕事的には、指示を受けて、指示通りの業務を行っている責任のない時代が一番楽しかったですね。
 プロジェクトマネージャーとして、会社から粗利を何%確保、納期厳守、顧客満足度90以上などという目標を課され、それも年毎に目標がエスカレートするエンドレスな目標を追い続けるのは、一言でいえば命を削るようなところがありました。ともかくこの25年、心が穏やかであることはなかったですね。技術的にも、同じ仕事の繰り返しのように見えて、ソフト開発の技術と素材がどんどん変わるものだから、技術の蓄積をして、自分自身を熟成していくような感じは全くありませんでした。
 開発部門では、何年かのスパンで古い衣を脱いで、新しい衣を着けなければ時代について行けなくなるようなところがあり、いつも追いかけられるように勉強する毎日でした。普通は年齢を重ねると、ほとんどのメンバーが開発部門から管理部門へ異動するのです。残っても開発の管理者として残るのです。おじさん、おばさんには本当にしんどい部門です。例外的に僕は最後まで開発者として開発部門にいましたから、定年を前にして、もう頑張らなくて良いのだと実感した時の解放感は、言葉にならないものでした。
 ここまでが僕の、35年間の簡単な軌跡です。
 当事者であれば書かれた言葉の後ろに続く幾多の記憶があり、感慨は格別のものがありますが、当事者でない人には面白くもない話題かも知れませんね。さて、客観的に見て、僕は頸損になってから今までよく頑張っていたとは思います。しかし、皆が同様に頑張っているのを知っているので、特に頑張っているという実感はないのです。ただ、よくも無事でここまで生き抜いてきたという思いは強くあります。それは努力に加え、本当に運が味方してくれたから可能になったのでしょう。
 僕が復職した会社は、エンジニアリング会社としては業界最大手でした。これほどの大手が僕を復職させるまで、障害者を雇用しなかったという事実は、今の若い人には信じられないことかも知れませんね。事実は、僕の復職のために車イストイレを2箇所新設し、スロープをつけ、パーキング場所を確保するところから始めて、社員雇用規約を改定して障害者雇用の項目を入れたのです。以降、会社は障害者雇用を開始しています。それから何人もの障害者が雇用されましたが、何十年という単位で働き続け、定年を迎える重度障害者は僕が初めてです。またこれから何十年と現れないでしょう。というのも、今会社には重度障害者の在籍者がいません。何故か働き続ける人がいないのです。そして、会社も重度障害者雇用は慎重になっているようです。原因になるものはいろいろあるのでしょうが、特に僕が勤めていた会社特有の問題ということではなさそうなんです。障害者側の働く意識が変わってきたのでしょうか?
 僕自身の経験からしか言えないのですが、長く勤めるコツは以下のことを本人が意識しているかどうかです。

 1.健康であること
 2.諦めないこと
 3.仕事以外の趣味を持つこと
 4.運を信じること

 最も重要なことは健康であることです。健康であるから、未知の世界に踏み出す気力も出てくるのです。健康であるから、次を信じてじっと耐える気力も出てくるのです。諦めないことは継続することを意味します。僕ら凡人が何かを成すとしたら、最終的には諦めないことが前提になります。案外重要なのが仕事以外の趣味を持つことです。僕は、心のバランスをとるためには大切なことだと思います。仕事以外に何もない人は追い込まれた時、心の問題を抱え易いのです。運を信じることが重要なのは、折々に訪れる選択の瞬間です。後悔は、選択を誤ったと思うところから始まります。誤った決断をしても、自分を運の強い奴だと思っていれば、それは正しい決断へと変わります。要は、心の持ちようで悪手も好手へと変わるのです。現代風に言えばプラス思考ですか。
 この4月から、障害者職業能力開発校へ1年間通います。昨年、本校にグラフィックアートというクラスがあるのを知り、受験しました。アートという言葉に還暦のおじさんは弱いのです。それにしても、学生という気分は何だか新鮮ですね。再就職という選択肢を考えるのはおかしいと直言されていますが、再就職先があっても、よほど心が動かない限り再就職する気がないから、学生生活を本当に楽しめそうです。これからの人生は少し奔放で、気ままに行きたいですね。1年間の学生生活をする中で、次のステージが具体的に見えてくるでしょう。実際のところ、これからを考えるために、1年間のボーナスをもらったようなものです。
 今でも思い出しますが、復職し、最初の勤務からの帰り、疲れ切り、頭がもうろうとした僕は自宅近くのブロック塀に車をこすり付けました。あの日の夜、自分は何かとんでもないことを始めたのではないかと、心細さと頼りなささで不安が膨れ上がり、心が震えたのです。その時の不安感の記憶は、32年後の今も忘れることはありません。それからすれば“べたなぎ”で迎えた定年と還暦です。最初からポイント付で、老後をスタートしたような感じがします。

神奈川県:M.K.



 遠距離通勤の完走 


 3月下旬、東京に桜開花宣言発表のころ、和歌山市内では桜が5、6分咲き、レッドロビンの垣根は赤一色、植物は東京より1ヶ月早いようです。この2年間、ほぼ毎週外房、東京、新大阪を経て、和歌山県立医大保健看護学部への通勤では、気温の差はそれほど大きく感じませんが、植物の変化をみると、和歌山は温暖な地域と実感します。
 お陰様で3月末、和歌山県立医大保健看護学研究科での2年間の任務を無事終了、遠距離通勤も終了しました。この間、新幹線のぞみの遅れは数回ほどでしたが、新大阪から和歌山までの阪和線と和歌山から紀三井寺までのきのくに線は定期運行のほうが珍しいくらい遅れが常習化、でも飛行機はもっと当てにならないのでJRで通勤、我ながらよくぞ完走したとほっとしています。同時に長期の組織生活も終了、組織の縛りがとけたような解放感に浸っています。
 短期間でしたが、和歌山では貴重な体験が多かった気がします。学部の実習地でもあり、研究フィールドでもある山また山の旧花園村で限界集落の生活を垣間見、院生の研修合宿で世界遺産の熊野古道へ、大学の公開講座で紀伊田辺へ、先生方と車で高野山詣で、高野山名物の生麩とゴマ豆腐を味わい、西国2番札所の紀三井寺、和歌浦と和歌山の名所を巡ることができたこと、さらに特別講師で来和されたカナダBC州ビクトリア大学J先生の案内で京都奈良をじっくり観光できたこと、秋には帰り途、天王寺から奈良へ回り、正倉院展へ2年連続で行けたこと、またAさんお奨めの新薬師寺には2度訪れ、みごとな12神将に圧倒され、そのうえ特別公開中の秘仏・お玉地蔵にお参り、紀伊田辺では念願だった世界的粘菌学者・南方熊楠顕彰館へ訪問、膨大な生の資料、ランセットに掲載された論文などの閲覧に加え、遠縁に当たる方から熊楠翁の書斎縁側に座ってじっくりお話を伺えたことなど、こうして列挙すると、2年間何をしていたのか危ぶむほど、和歌山とその近辺の散策を楽しませてもらいました。
 教職員、院生や学部学生との交流でも貴重な出会いがありました。清瀬の看護大まで来られて定年間際の私に和歌山医大への着任を要請してくれた循環器内科が専門の教授、メタボリックシンドローム予防研究の第一人者です。運動、塩分制限の食事と血圧管理が何より重要と常にご自身で実践され、臨床では患者さんから慕われ、教育熱心なドクターです。このような教授に出会えたことは和歌山行きの最大の成果でした。現在、その先生の弟子の院生がけい損・せき損者のメタボリックシンドローム予防研究に取り組んでいます。すでに6人のデータを取り終えたとのこと、自動的な運動困難なけい損者にとってメタボ予防に有効な実践可能なプログラムの開発が必要です。それだけに今後の研究成果が期待されますし、「はがき通信」にもいずれ寄稿してほしいと願っています。
 和歌山は遠い、なんで和歌山まで行くのかと友人知人から再三言われました。でも通常の定年を5年も上回った私にさらに2年間、活動と経験の場を提供してくれた和歌山県立医科大学保健看護学部に心からの謝辞を表したいと思います。今後は、組織に縛られない方法で私にできる社会貢献をささやかながらも継続していきたいと願っています。もちろん、「はがき通信」編集のお手伝いも継続いたします。

編集顧問:松井 和子



 全員参加企画 いいモノ見つけた! 〜2〜 


商品名:折りたたみ式収納箱





商品紹介:持ち運び出来るマイテーブ ル! テーブルに膝が入らなくても 大丈夫。あっという間に食事テーブ ルの出来上がり!
値段:380円(当時)
会社名・連絡先:メーカー不明
購入先:スーパー西友
紹介者氏名:T.M.(東京都)

連載特集!「介護する側、される側」
 手も足も使えないとはどういう心理状況なのか、人を介助するとはどういうことなのか、たいへんな介助を続けていられるのはなぜか、などなど、皆さんに共通するテーマである「介護する側、される側」の体験談を連載特集として引き続きご紹介いたします。
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