はがき通信ホームページへもどる No.116 2009.4.25.
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◆特集!「四肢マヒ者のスポーツ」



 <特集> 誰もができるふうせんバレーボール 

C6・7、60歳

 「はがき通信」の皆様、こんにちは。
 まずは、“ふうせんバレーボール”のこれまで20年を簡単に紹介させてください。

 [そもそも]
 1989年冬、北九州市で『重い障がいのある人も一緒にできるスポーツがあったらいいな・・・』、そんな一人の障がい者の“つぶやき”から“ふうせんバレーボール”が生まれました。これまでのハンディスポーツは、障がいのある人たちだけでプレーするものが多く、しかも自分の意思や自力で動けない人が参加できるものはほとんどありませんでした。そこで、これまで病院や施設、障がい者関係の団体などでリハビリやレクリエーション・行事として行われていた「ふうせんバレーボール」をアレンジし、誰もが参加できるスポーツ“ふうせんバレーボール”を考案しました。





 90年に、第26回全国身体障害者スポーツ大会が地元福岡県で開催されたことに便乗して「全国大会」を同時開催しました。北九州市周辺から14チームが参加して第1回の大会が始まり、第10回の記念の大会には48チームとなり初めて大阪からの参加がありました。
 沖縄からの初参加は第18回、07年のことです。そして第19回には東京からの参加があり、大分国体にもオープン競技となりました。

 [自己紹介]
 1949年生まれの60歳。23歳で千葉の新日鉄構内にて、C6・7受傷。千葉労災と九州労災を経て現在に至る。福岡県脊髄損傷者連合会・事務局、街づくり運動(公共の建物にエレベーター、スロープ等を行政に求めていく活動)、20年前からふうせんバレーボールのスタッフ。
 第7回大会まではチームの一員としてプレーをしていましたが、現在では、ふうせんバレーボール振興委員会・事務局長、全国ふうせんバレーボール大会・実行委員長、日本ふうせんバレーボール協会・会長。
 日本ふうせんバレーボール協会(1998年設立)には、鹿児島、大分、長崎、福岡と支部があり、関西からも加盟の要請が来ています。





 自分は四肢マヒだからスポーツ・運動はできない、と思っている人も多いと思いますが、決してそんなことはなく、人は障がいがあろうが、なかろうが食べること、排泄すること、と同様にスポーツ・運動をすることは私たちが生きていく上で必要なことだと思っています。“ふうせんバレーボール”はそんな四肢マヒのメンバーが中心となって考案した、北九州市発のスポーツです。
 腕相撲を例にとると、腕相撲だからといって力が腕だけに入っているということではなく、頭の先から足のつま先まで力が入っています。ふうせんバレーボールは、自分で車イスをこげない人は障がいのない人に車イスを操作してもらい、手で打ってもよし、足・頭・体のどこで打ってもよいことになっています。
 私は頸損で握力も0ですが、手袋をして車イスをこぐことはできます。しかし、他にもCP(脳性小児麻痺)の人、筋ジスの人、視覚障がいの人、知的の人とあらゆる障がい種別の人たちがプレーを楽しんでいます。
 私が23歳で37年前に車イス生活になったときには、脊損10年とか頸損10年といわれていました。それが今では、病院・施設を出て街に出るようになり、皆さん元気になりました。私自身もこんなに長生きできるとは思っていませんでした。
 障がいが重ければ重いほど、スポーツをする、体を動かすということは大事なことです。しかし、1人で体力作りをするとか、運動をするというのはなかなか厳しく、それを考えると、“ふうせんバレーボール”は、障がいのない人も一緒になってチームを組むことでどんなに障がいが重くてもプレーをすることができます。
 スポーツとしてふうせんバレーボールをする場合は、トスを上げる役があり、アタッカーあり、スピード感があって、障がい者も健常者も汗びっしょりになります。レクリエーションとしてやる場合は、高齢者の人たちも小学生も一緒に楽しみながらやることができます。障がいのある人も・障がいのない人も“ふうせんバレーボール”を始めるとその魅力に“ハマッテ”しまいます。
 これまで、小学校・児童館等に出前講師としてやってきましたが、昨年から小学生大会も市の主催で開催しています。徳島ではスペシャルオリンピックスでふうせんバレーボールが開催されています。
 今では、北海道から沖縄まであらゆる地域でふうせんバレーボールが愛されるようになり全国から問い合わせがあります。





 今年の記念大会の第20回全国ふうせんバレーボール大会(とき:2009年11月8日(日)・ところ:福岡県北九州市立総合体育館)は北九州市のお祭りにしたいと思っています。1人でも多くの方に見学してもらって体育館の観覧席を満員にしたいですね。これからチームを作りたい、プレーをしたい、という方は下記までご連絡を!

 [これから]
 私たちは、“ふうせんバレーボール”を通して、日本中、そして世界中に“私たちの想い”を伝えて行きたいと考えています。いつの日にか、オリンピックでやれることを願っています!


 ルール:障がい者3名と健常者3名の計6名でチームを構成する。
 コートはバドミントンコートを使用する。
 ボールは、直径40㎝の鈴入りのゴム風船を使用する。
 ボールが自コートに入ってからチーム全員がボールを打ち、合計10回以内に相手コートにボールを返す。
 15点先取したチームの勝ちとする。



 詳しいルール等は、ホームページにもアップしていますし、プレー方法等をDVDでわかりやすく解説したものもあります。ネットで、「ふうせんバレーボール振興委員会」で検索してください。お問い合わせ等は、ふうせんバレーボール振興委員会 白田(E-mail: nihon-fusen.salie@trust.ocn.ne.jp)まで。

北九州市:S.S. (ふうせんバレーボール振興委員会・事務局長、全国ふうせんバレーボール大会・実行委員長、日本ふうせんバレーボール協会・会長)



 <特集> ツインバスケットボールとの出会い 


 今から14年前、僕は友達の車の後部座席に乗っていました。そして僕たちの車が右折するときに直進車が衝突して、その衝撃で首の骨を折ってしまい、脊髄の中の神経が傷ついて麻痺が残り、車イス生活を送ることになりました。
 その後、いろいろ病院や施設を転移してリハビリに励んである程度の日常生活は自立できるようになり、今では車の免許も取得して自由に動ける範囲も広くなりました。
 ツインバスケットボールには、リハビリの目的で大分県にある「別府重度障害者センター」という所に入所したときに出会い、最初は訓練の一環としてやっていました。
 バスケは学生時代に体育の授業でかじる程度でしかやったことがなかったので、全然ルールもわからず、どんな動きをしていいのやらと困惑していました。でも周りの入所者やリハビリの先生からいろいろ教えてもらい、少しずつ理解していきました。みんなバスケをしているときは楽しそうに、目をいきいきさせてプレイしていて、僕も次第にバスケの魅力に引きずり込まれていきました。
 それから「別府重度障害者センター」を退所して実家に戻って来たときに、大分県別府で一緒にリハビリに励んでいた仲間から、「バスケをしてるから一緒にしないか?」と声を掛けられ、またバスケを始めました。
 チームの活動状況は週に1、2回なのですが、バスケの用具をだしたり、後かたづけ、日常用の車イスからバスケ用の車イスへの乗り移り、テーピングを腕に巻いたり、ボール拾いなどなど・・・・・・と手足が不自由な僕たちがなかなかできにくいことがたくさんあります。また、年に2、3回県外の大会に泊まりで参加しています。

匿名希望



 <特集> ツインバスケに参加して 

C6、19歳

 6年前、中学1年生のとき、部活の試合でけがをして以来車イス生活を送っています。
 何とか社会復帰して、生活も安定したとき、もともと運動好きだった僕は、通っていた学校の近くにある車椅子バスケットボールチーム「北九州足立リバイバー」で練習させてもらうようになりました!
 最初はなかなかゴールも入らず、苦労しましたが、少しずつ慣れていきました。今はとても楽しいです!
 特に苦労したのはやはり真夏の暑さでした。うつ熱が激しく、朦朧(もうろう)となることもしばしば。僕は汗をかくことができないので、いつもぬるま湯(冷水だと汗腺がしまり熱を閉じ込めるので逆効果)をいれた霧吹きと、濡れタオルを持ち歩いていました。でもそのおかげで日常生活でも熱に強くなったと思います。
 リバイバーは上バス(通常のゴール)の方が多く、ツインバスケットボールの選手も上バスの選手に混ざって練習します。やはり障害の状態も違うので大変ですが、それ以上に「どこまで自分がついていけるのか」「どう工夫すれば状態の上の選手を少しでもひるませられるか」など、体力と同じくらい頭をつかって練習できています。そうすることで、自分でも予想外のプレーができたり、それが実生活での自信になったりもしています。練習の後の心地のよい疲れは、部活の気持ちをよみがえらせてくれてすごく気持ちがいいものです。
 今はまだ正式な選手にはなれていないですが、いつかツインバスケの試合に、ツインバスケのチームで出てみたいものです。そのときはより頭も体力もつかって、がんばりたいと思っています。
 

福岡県:臨時亀の夢



 <特集> ハワイアンフラダンスに魅せられて 

C8

 水泳のことは以前にも書いたことがあるので、今回はハワイアンフラダンスについて。ハワイアンフラダンスを車イスになって、やるようになるとは夢にも思っていなかった。スポーツではないかもしれないが、身体を動かす“運動”であることに間違いはない。
 そのきっかけは、元をただせば2004年の「はがき通信」ハワイ懇親会だ。私がハワイに行ったことをひょんなことから知った頸損の知人から、「瀬出井さん、今度こんなのがあるんだけれどやってみない?」と話を持ちかけられたのが、NPO法人主催の『障害を持つ女性のためのハワイアンフラダンス教室』だった。最初は、頸損の私にできるのかな?とチョッピリ不安もあったが、これがものの見事にハマッてしまった。(笑)
 授業終了後、インストラクターをしてくださった先生がその後も続けたい人のために、教室を開いてくださった。教室の名前は『ナニ プアメリア』。ハワイ語で“美しい花”という意味らしい。月に2回、横浜でレッスンをしている。早や、4年目に入って今までに覚えた曲も6曲になった。
 健常者の頃、社交ダンスを習ったことがあったので車イスダンスには興味があったが、社交ダンスだとパートナーがいないと踊れない。その点、フラダンスは1人でもOKだし、練習も自宅で1人でできる。すべて手で表現して踊る。もともと口伝の踊りで手話に近く、歌詞に沿って振り付けがついてくる。一見優雅そうだが、頸損の私にはけっこうきついし、できない動作もある。教室のメンバーは12名だが、それぞれに障害が違う。障害に合わせて、自分にできる範囲で楽しくがんばっている。フラダンスは1人で踊ることもできるし、また仲間と動きを合わせて踊ることで、すばらしい連帯感を抱くことのできる踊りでもある。
 身体障害的には、私が一番重度だ。3曲連続で踊ると息はハァハァ、腕や肩が疲れる。でも、いいリハビリにもなっているんじゃないかな! 一昨年の水泳大会であまり練習はしていないのに自己ベストを驚くほど更新できたのは、フラダンスのお陰だと思っている。フラダンスにしても水泳にしても継続的に運動をすることは、体温調節がうまくできない頸損者にとって環境への適応能力を上げるのではないかと私は思う。 





 ステージも、もう10回以上経験した。普段はしないような派手な舞台化粧をして、綺麗なドレスやレイを身に着けて人前で踊る・・・これがけっこう別人になれたようで快感!こんな経験を車イス人生でするとは思いもしなかった。ステージでほとんど緊張することがないのは、不思議(オバサンはスポットライトを浴びるのが好き!?(笑))。笑顔で雰囲気作りに心がけ、楽しく踊っているということが観ている人に伝わればいいな!
 一生懸命笑顔で踊っていると、痛みも忘れられる。日常、痛みを抱えている身にはなかなか味わえない貴重なストレス解消&リフレッシュ法、そして何より“忘痛法”になっている。
 実は、今年の3月にホノルルフェスティバルに行って踊れることになっていたのだが、フラの先生がご病気で入院され、キャンセルとなってしまった。残念といえば残念だが、先生には早くご病気を治されて完全復活していただくことのほうが大切。来年もまたあるし、チャンスもまたあるだろう。 
 先生もやさしく、教室のメンバーとも仲良く和気あいあいと本当にいい雰囲気で、楽しく習っている。プライベートでお付き合いもするようになり、“友達の輪”がまたひとつ広がった。ステキな先生、仲間と出会えたことにも感謝!!
 水泳もだが四十路を過ぎてハワイアンフラダンスに出会えたことは、精神的な安定と充実感を得るという、大きな役割を果たしている。
 

編集委員:瀬出井 弘美



 『臥龍窟日乗』 —プロローグ— 


 「分け入っても 分け入っても 青い山」という種田山頭火の扁額(へんがく)を買って眺めていたら、看板を造ることを思いついた。よくお寺の山門などに掲げてある木彫の看板である。「みっともないからやめなさいよ。ご近所の物笑いになるじゃないの」とカアチャンにたしなめられたが、伊達や酔狂で思いついたわけではない。
 余生をいかに生くべきか迷い、ともすると精神的に落ち込んだり自棄的になりがちな自らに箍(たが)を嵌(は)めるべきと考えたからだ。近くの材木屋に足を運んだ。こういった需要も結構多いらしく、いろんな大きさの板が用意されていた。欅(ケヤキ)、柏(カシワ)、桂(カツラ)などである。
 楕円形で周辺に樹皮の残った1㍍ほどの欅(ケヤキ)を3000円で購入した。皮の一部にはキノコのようなものが生えていて、それはそれで一種の景色になっている。
 題は臥龍庵と決めてあった。『蜀志(しょくし)』の諸葛亮伝に「能力を持ちながら雌伏して時期を待っている諸葛亮」を龍に例えて臥龍と称するとあるが、もちろんそんな大それたことを考えているわけではない。「手負いの龍がのた打ち回っているいおり」とでもいうのか、私流の洒落(しゃれ)と思っていただきたい。「咬(か)まれるから近寄るな」という意味を言外に含ませているが、これは冗談だ。
 書は隣町の住人、源川彦峰先生にお願いした。この方は書家、日本画家で篆刻(てんこく)もこなす。これで陶器のデザインをやれば魯山人みたいな人である。
 あらかじめ題字は電話で知らせておいた。初対面の彦峰先生は作務衣を着た恰幅(かっぷく)の良い人だった。じろりと私に目をくれて、「あんたね、庵というのは合わないよ。庵というからにはなごやかな雰囲気がないとね。洞窟の奥から睨(にら)みを利かし、斜に構えて世相を斬るという意味で臥龍窟というのはどうだい」
 私に異存のあろうはずがない。まさに願ったりかなったりであった。うちに帰って早速インターネットで検索してみると、前例があった。夏目漱石の『吾輩は猫である』に登場する変人の下宿が臥龍窟となっている。ま、我輩も変人であるからしていいか、と受け入れることにした。一週間ほどして看板は出来上がった。表面を薬品で焼いて黒くし、文字は篆書である。その文字の部分に鑿(のみ)を入れ緑青を流し込んでいるのだが、黒地に薄緑の題字が浮き出ている。どうも変人には出来過ぎた看板である。「立派すぎてこれじゃあ羊頭狗肉ですな」というと彦峰先生は「これでいいんだよ」と口をゆがめた。
 取材中の台湾で脊髄損傷となって早や5年。受傷から在宅に移ってまでの3年はすでにまとめて近日中に上梓の予定だ。この稿ではそれ以降の出来事を日記体でつづってみたい。日乗とは日記の意だが、『断腸亭日乗』からの剽窃(ひょうせつ)、つまりパクリである。
 

千葉県:臥龍

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