はがき通信ホームページへもどる No.106 2007.7.25.
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 Tさんを偲んで 


 5月14日向坊さんの1周忌の前日、向坊さんの一番弟子であったTさんがフィリピン・ルセナ市内の病院で亡くなりました。享年54歳でした。
 Tさんは、1972年、20歳交通事故で頸損(頸椎4、5番損傷)となり、自宅療養中、同じ市内に住む向坊さんと知り合いました。自立生活を目標に1987年11月ルセナの日本人障害者の家(GLIP)を訪問し、長期滞在するようになりました。当時、ルセナでは24時間ヘルパーを2人雇っても1ヶ月5万円以内で生活可能であり、日本で介助者の確保が難しい障害者にとってルセナは自立を可能にする地域でした。
 Tさんは数ヶ月間ルセナ滞在を繰り返すうちに自立生活に自信を得て、1992年6回目の滞在時、GLIPの近くに住宅を購入しました。私が最初にルセナを訪問したとき、Tさんは看護大卒の美人ヘルパーを2人雇って生活されていました。Tさん宅を訪問したり、向坊さんの農場へ一緒に散歩に出かけたり、Tさんはいつも向坊さんと一緒に行動されていました。ときどきGLIPでお2人はお経を唱えていることもありました。
 つぎに私がルセナを訪問したときは麸澤さんと一緒でした。学生だった私の甥も同行し、GLIPは主の向坊さんに麸澤さん、私、Sさん家族で満室でしたので、甥はTさんのお宅にホームスティさせていただきました。Tさんはすでに結婚され、同時に2人の男児の父親になっていました。奥さんの親戚という女子高校生も同居されていました。その後も奥さんの親族の扶養などでTさんはたいへんなようだと、向坊さんはご自身の体調よりもTさんを心配して、春、ルセナから帰ってくると、Tさんの近況報告がありました。ここ数年、褥創悪化のため寝たきり状態になってしまったと心配されていました。
 今年2月、OさんがGLIPの整理にルセナへ出かけたとき、Tさんは黄疸が出ていたとのことでした。5月9日午後Tさんは吐血、血圧低下により緊急入院、黄疸と腹水、無尿状態となりましたが、11日排尿が回復したものの、向坊さんの1周忌前日の13日朝亡くなったそうです。
 「ここでの生活は苦労の連続です。たとえば文化、言葉、食事、考え方、愛、宗教など。しかしそれらを日本的に変えてもらうのではなく、私自身がこの世界に溶け込まなければならない」とTさんは私に話されていました。日本でご両親の介助を受けながら生活することも可能であったのに、あえてルセナでの自立生活を選択され、実現されてこられたTさんに心からの敬意とともに哀悼の意を表します。
 享年54歳と若すぎる死を悼みつつも、Oさんが言われるように、お浄土で向坊さんが両手を広げて歓迎され、案内されていることと思います。合掌
 

編集顧問:松井 和子



 ALS、私が思うこと (2)
  −握力の低下とスポーツと社会活動への取り組み−
 


 私は、平成7年(1995年)7月頃から、単身赴任中のB市で足の異常が出始めました。具体的には、歩くのが人より遅くなったり、夜中に足の痙攣が起きたり、階段の上り下り等も難しくなってきました。そして、業務にも支障を来すようになり、歩行中によくつまずくことが多くなりました。(握力:右38kg・左39kg)
 平成8年2月に会議のため本部に行くが、博多駅から15分の所を、つまずき倒れながら40分かかった。「これは足の機能が完全におかしい」と思い、3月にC大病院へ行くと、4月16日から1ヶ月の検査入院となりました。結果は、原因不明の変性疾患と説明され、特定疾患の手続きを申請するようにいわれた。この時、初めてALS『筋萎縮性側索硬化症』という病名を知りました。
 そんな状況の中で、退院してB市へ戻りましたが、9月頃になると、帰りに店裏の駐車場まで行く時、途中で歩くことが辛く、座り込むことがよくあり、500〜700mを歩くのが精一杯となり、業務にも支障が目立ち始めました。杖は車の中で、店には持っていきませんでした。ついにギブアップ。人事部に相談した結果、単身赴任の解除と「しばらく休養しなさい」ということで、10月から6ヶ月間の休職となりました。(握力:右34kg・左35kg)
 平成9年4月からの仕事復帰に向けての在宅療養生活でしたが、身体機能が確実に低下してきており、車イスでの仕事復帰が確実になりました。
 4月、いよいよ仕事復帰です。この頃は自家用車(ワゴンタイプ)の後ろに車イスを積んで通勤し、駐車場で杖をついて降りて、車伝いに後ろへ行き、ドアを開けていったん腰掛けて車イスを下ろしてから、車イスに乗り込んでいました。仕事に復帰してからの数ヶ月間は進行が止まったかのように思えました。平成8年11月から九大病院の主治医より勧められて実施している治験(インスリン様栄養因子)が効いているのかなと思います。
 しかし、平成9年8月終わり頃からは、月1回の検査でも進行してきています。日常動作でも、立って歩けなくなってきました。車イスもついに運転席側から後部座席への出し入れとなりました。この頃、以前から時々ではあるが泳いでいたので水泳をしようと思い、福岡市南区の福岡市立障害者スポーツセンターへ通い始めました。週1〜2回のペースで1時間半くらい、500mをゆっくりと泳いで帰っていました。(握力:右27kg・左26kg)
 平成10年1月に東区の障害者福祉協会正月懇親会に参加しました。車イスの方が私を含めて3名と少なかったのですが、懇親会終了後に車イスの3名でカラオケに行きました。そこで、「上肢の訓練にもなる」とアーチェリーを勧められました。私も弓に興味があったので参加することにしました。練習場所は水泳と同じ障害者スポーツセンターで、週1回から始めて、4月からは週2回の練習でした。水泳の練習はだんだん少なくなっていきました。しかし、この頃はまだクロール・平泳ぎ・背泳ぎもできていて、25mくらいは楽に泳いでいました。着替えも更衣室の壁に寄りかかりながら1人でできていました。
 ただ、歩くことは壁に寄りかかりながらでもできません。5月に入り、お手洗いに行っても今まで便器の縁に手を掛けて何とか用を足していたのが、手のつっぱりがきかずに途中で車イスにドスンということが続くようになってきましたので、必ず車イス用トイレを利用することにしました。(握力:右20kg・左18kg)
 6月には、長崎市の平和公園近くの陸上競技場で九州障害者アーチェリー大会があり、土日の1泊2日で参加しました。土曜日は平和公園や原爆記念館等を見て廻り、夕方にはホテルへ。日曜日は朝早くから会場に行き、弓矢の検査を受け、初心者男子の部に出場しました。結果は、「初めての試合にしては上出来」とクラブの部長からお世辞込みでいわれた記憶が残っています。九州各県から120名くらいの参加者があり、大きな大会でした。
 その後、11月に神奈川県で行われる障害者国体の福岡市選手団の派遣選考会にクラブの部長が推薦してくれました。選考結果は、九州大会の成績を参考にし、また難病にもかかわらずチャレンジしているということで選考され、アーチェリーと水泳の出場が決まりました。この時期に遅れ馳せながら身体障害者手帳の更新をし、1級に決まりました。
 7月には、私のコーチ兼介助として福岡アーチェリー協会から1人派遣され、国体までの期間中コーチしてもらえることになりました。しかし、この頃から腹筋力と背筋力が低下してきて、坐位バランスをとるのが難しくなってきました。弓を引く時の姿勢が保てなくなって、的と水平に弓を持って狙いを定めることが厳しい状況になってきました。(握力:右15kg・左15kg)
 それでも7月と8月の試合(春日市、大野城市で開催)に出場しましたが、成績は下がる一方でした。9月には福岡市選手団のユニフォーム授与式もあり、「かながわ・ゆめ国体」へ出場する実感が湧いてくる中、筋力低下による不安を感じ始めました。しかし、周りの方々から「精一杯やって、楽しんできたらいいよ」と励まされ、少しは楽になりました。(握力:右12kg・左11kg)
 10月には、福岡市主催の「市民総合スポーツ大会」があり、アーチェリー初心者の部で2位になり、トロフィーと賞状をいただきました。水泳の方はしばらく練習していなかったので、水泳コーチに記録をとってもらいました。この時点で、腕が上がらなくなっていて、クロールは断念しました。背泳ぎでは何とか腕も上がって泳げるので、手と腕の力のみで練習を重ねました。また、更衣室での着替えは、車イスからのトランスファーもできなくなり、介助が必要となりました。(握力:右6kg・左5kg)
 平成9年4月からは歩行不能のため、車イスで福岡本部の経理部に復帰となりました。また、水泳やアーチェリーも仕事と両立しながら練習しました。平成10年11月、神奈川県身障国体の福岡市選手団で、アーチェリーと水泳の出場で、7日はいよいよ開会式です。7万人収容の横浜国際総合競技場に、選手・役員を含む4万5000人の観客で埋まりました。皇太子・妃両殿下の出席の中で開会式が行われました。この日は曇りで午後は雨50%の天気予報で肌寒く、車イスの膝に毛布をかけての入場行進となりました。そして、アーチェリー試合の途中で皇太子・妃両殿下が来られ、私も60cmの至近距離から両殿下に激励の「お言葉」をもらい緊張しました。翌日は、横浜国際プールで、25m自由形背泳ぎで1位金メダルを獲得しました。しかし、年末から翌年にかけて両下肢がまったく動かず、両上肢も上がりにくい状態です。(握力:右2kg・左2kg)
 会社への通勤も、平成8年の休職中に改造した車のハンドル操作が難しく、平成11年3月で休職し、平成12年3月で退職となりました。しかし、この時点で握力は0ですが、手首は動いていましたので電動リクライニング車イスに乗っていました。
 社会活動は、平成11年から15年にかけて、福岡市の心障センターで福祉施設の職員研修や福岡市の新入職員研修に参加させてもらいました。また、地域リハ交流セミナーが福祉プラザの1階大ホールで開催された時、200名を超える参加者の前でパネリストの1人として「自立」をテーマに話をさせてもらいました。それから、異業種交流会・障害者写真の会・希望の翼の会や七隈会での旅行・ALS福岡県支部・心障センターのピアサポート(障害者生活相談員)やボランティア講座等の福祉イベントにも参加しています。
 平成13年3月には、ホールドハンズ(進行性神経・筋疾患の会)を発会し、西日本新聞に掲載されました。講演会やバスハイクや学習会等の活動を年に6回しています。それから、保健所のヘルパー研修やNPO法人「そよかぜ」・生協主催のヘルパー養成講座で、また、福岡国際医療福祉学院の講義依頼もあり、講演させていただきました。そして、平成15年の気管切開後もホールドハンズや講師依頼などに積極的に参加しています。

福岡県:H.K.


<連載特集!「介護する側、される側」>


 連載特集として、手も足も使えないとはどういう心理状況なのか、人を介助するとはどういうことなのか、たいへんな介助を続けていられるのはなぜか、などなど、皆さんに共通するテーマである「介護する側、される側」の体験談を引き続きご紹介いたします。



 <特集> 介護される側(自分)が注意しておきたいこと 

頸損歴40年、C5

 多くの人に交代で介護してもらうときに、気をつけておきたいことがあります。自分の経験をもとに参考になればと思って書きました。
 [まず物の数を減らす努力をすること]
 自分で物を動かしたりできないので、必要なときに、必要な物が出てくるように、できるだけ物を減らすことを考えます。物が無くなるか無くなる少し前に次の物を買うようにします。基本的には物を捨ててから、新しい物を買います。
 [自分の見えるところに物を置くようにします]
 自分の見えない物を探してもらうということは、非常に難しいことです。
 [物の場所を、できるだけ丁寧に説明して探してもらいます]
 戸棚などは、なるべく左から何番目とか、上から何番目とか説明し、戸棚の中の奥の方とか手前の方などと言うように説明します。ただ、左とか右とか言う場合は自分から言ってか、相手から言ってか分からない場合があるのでなるべく使わないようにします。
 [袋などはなるべく使わないようにします]
 袋に入れておくと、すぐには何があるか分からない場合がよくあります。十分に整理しておく場合は別ですがなるべく使わないようにします。
 [物を置く場所は決めておきます]
 基本中の基本ですが、介護する人は前の人が間違ったのは厳しいですが、そう言っている自分が間違えるということはよくあります。
 [周りだけでなく自分の頭の中も整理しておきます]
 例えば、引き出しの上から2番目にあると言ってなかった場合には、その人は次のときから自分の言っていることを十分に聞いてくれなくなる傾向があります。ちょっと探しただけで、「ありませんよ」と言われたりします。そのためにはやはり正確に覚えている必要があります。
 [消耗品が無くなったときは、すぐに知らせてもらうようにします]
 後でだと忘れる場合が多いです。注意しないと必要なときに物がないということがよくあります。
 [引き出しの中の物などは、なるべくラベルに書いて外から分かるようにします]
 実際部屋の中には、ラベルがいっぱい貼ってあります。
 [似た種類の物を近くに置くようにします]
 当たり前と言われればまさにその通りです。
 [吊して置ける物は自分の見えるところに吊す]
 この場合気をつけなければいけないのは、初めての人は自分の目線より上の物は、なかなか気がつかない欠点があります。
 [紙に書いて知らせることについて]
 私は体力がないときに、風呂の入れ方とか、車イスへの移動とかのマニュアルを作ってこれを見てお願いしますと言っていたのですが、今考えてみると、やはり感謝の気持ちは伝わりにくいようです。面倒でも、体力を消耗しても、できることなら言葉で同じことを何回も伝えることが必要な気がしています。マニュアルを見てその通りにやってくれる人は、相当経験のある人か、思いやりのある人です。やはり言葉は心に響くもののようです。
 

千葉県:H.K.



 虎さんへ 


 ほんとうに突然の悲しい知らせでした。亡くなる2日前に手紙が届いて、返事を送ったところでした。去年の年末にできた「ペン人30号」の校正中のゲラ本が同封されていた手紙、赤い字で訂正や注意事項がいろいろと書かれて、校正中の様子がうかがえます。でもどうしてこんな貴重な物を突然送って来たのか、いまだに手が震えます。「いただいていいのですか?」と手紙に書いたのですが……。今となっては虎さんの形見です。
 虎さんとの出会いは、1994年4月(受傷3ヶ月)、目にしたある脊損連合会の会報誌「脊損ニュース」のコラム「BOOK ENDLESS」でした。あのHさんを批判した内容で、「まあひどい!」というのが印象です。しかし、1999年9月、はがき通信懇親会in広島で、虎さんに初めてお会いしましたが、Hさんを痛烈に批判した「ひどい人」とは180度違って、とても気さくで笑顔のかわいい温かい方でした。私はすっかり虎さんファンになり、これをきっかけに交流が始まりました。年に一度、はがき通信懇親会でお会いするのが、ほんとうに楽しみでした。一緒にいてひとっつも気を使うことのない、疲れない存在である虎さん、波長が合っていたのかな? と思います。
 2002年5月、虎さんに会いに佐賀県嬉野へ行きました。ちょうどそのころは麦の収穫時期で、景色は黄色が拡がる「麦秋」。虎さんが愛する嬉野はどんな所だろう、虎さんファンとしては興味津々です。行った日は残念ながら雨でした。でも宿泊先のホテルまで、電動車イスで1時間もの道のりを、庭にできた「金柑」を持って会いに来てくれました。それから「温泉食堂」へ行き、焼酎とビールで乾杯! 虎さんお薦めの「温泉湯豆腐」を食べ、「おいしい!」と言うと、とても嬉しそうに笑った笑顔が忘れられません。夕方7時半、カッパを着て小雨の中、また1時間かけて帰って行きました。虎さんのやさしさ、人柄を再認識させられたし、ほんとうに楽しいひと時でした。「また温泉食堂へ行こうね」と、去年のはがき通信懇親会で話したのに……。楽しみが1つ減りました。
 いつもやさしさあふれるメールと手紙をありがとうございました。もう届かなくなるのですね。虎さんからの最後のメールに、「カレンダーのクロッカスの絵、見飽きません」と書かれていました。嬉しい一言、いつもこうやって励ましてくれた虎さんでした。思い出すたびに寂しくてたまりませんが、あまり悲しんでいると天国へ行けないですね。ごめんなさい。
 ほんとうにいろいろと思い出をありがとうございました。心よりご冥福をお祈りいたします。


広島市:M.K.

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