はがき通信ホームページへもどる No.103 2007.1.25.
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 C2の教師ジョハンナ・ジョンソン 


 昨年秋、カナダから届いたブリティッシュ・コロンビア脊髄損傷者協会(BCPA)の機関紙『Paragraphic(VoL50, No4,2006)』の表紙に眼を奪われました。表紙を飾ったのは、Johanna Johnson 33歳、ベンチレータ依存の頸損者です。日中自力呼吸が可能になったようで呼吸回路は付けていませんが、彼女の喉下にはロックされた気管カニューレがはっきりと映されています。その機関紙10−11ページに幼稚園の教師になったジョハンナが写真入で紹介されています(写真)。



 その紹介によると、バンクーバ生まれ、バンクーバ育ちの彼女は、12歳の夏休み、カルフォルニアの親戚を訪ね、4歳のいとこと横断歩道中、車に追突されC2,3を受傷、彼女は救命されましたが、一緒に歩いていた4歳のいとこは亡くなりました。私は、彼女がバンクーバのリハビリテーション施設に入所していた当時、両親とともに暗い表情で同じくベンチレータ使用者でピアカウンセラーのウオルトさんと面談していた彼女をビデオで見たことがありました。とっても暗い表情でした。この先、この少女はどうなるのだろうかと強く印象に残りました。
 その後、私は彼女に2度バンクーバで出会っています。1度はUBC(ブリティッシュ・コロンビア大学)の構内で、ベンチレータ携帯電動車いす姿の彼女を大学構内で見かけました。単科大学で数学を専攻していた彼女はどうしても教師になりたくて、UBC教育学部に転学していました。ベンチレータ使用の女子大生がいる、あのビデオの少女だと思いました。
 2度目は、2002年バンクーバで開催された国際脊損医学会に参加したときでした。この学会のオープニングセレモニーのゲストは、車椅子世界一周でバンクーバのヒーロ的存在となったリック・ハンセンでした。舞台を縦横に動きまわりながら、自信に満ちあふれた表情で世界各国から参加した脊損専門医たちへの歓迎の挨拶でした。その学会会場で脊損者のファッションショーが企画され、バンクーバの頸損者が多数参加しました。その一人として登場したのが彼女でした。
 そして今回、さまざまな障害を乗り越え、彼女の長年の夢を叶えて幼稚園教師になったというニュースでした。彼女は気管切開によるベンチレータ使用者ですが、もちろん明瞭な音声で話せます。大学までの進学は障害学生支援プログラムなどでスムーズだったようですが、教師になる道は相当険しかったようです。
 「少女のころ、よく先生ごっこをしていた。高校生のころ、教師以外の職業もいろいろと考えたけど、大学進学後、私は教師になりたいのだと再確認した。でも私の障害ゆえに教師になる能力を疑問視する人たちがいることも感じていた」とジョハンナは回想しています。
 教師になるためには教育実習が必要ですが、彼女を受け入れる実習施設がなかった。彼女の実習指導教官は、彼女が教育実習できるかどうか懐疑的だった。教育実習施設の確保に消極的だった。「彼らは私の能力を信頼していない。指導教官に直接要求しても、あなたの障害では教師は無理だといわれた」そこで彼女は学部長に相談に行った。
 学部長は彼女の能力を観察し、指導教官を変え、実習施設を確保するよう伝えた。その結果、教育実習を終え、1997年UBCを卒業できた。それから就職活動を行ったが、バンクーバで彼女が教師になる職場はなかった。
 BC州の障害者組織の援助を得て、ジョハンナはバンクーバ市教育局に人権擁護の異議申請を行った。その審議は2年間かかったが、その間、ある学校が彼女に非常勤の教育職を提供した。その仕事のかたわら、「障害を持つ子供たちの教師になる。学習障害や知的障害を持つ子供たちの教師になりたい」とジョハンナは特殊教育コースを履修し、特殊教育資格を取得した。
 ついに彼女の異議申し立てが認められ、幼稚園教師として常勤の仕事も与えられた。「子供たちは私がなぜ電動車いすを使っているのか尋ねてくる。教室に障害物があると、子供たちが動かしてくれる。私は彼らにとって車椅子の先生ではなく、彼らの先生として受け入れられた」。
 ジョハンナは後輩にアドバイスする。「あなたが教えたいという情熱を持っているなら、それを貫きなさい。そうすれば必ず実現する。忍耐強く、自分を信じ、ためらわずに援助を求めなさい。あなたが援助を必要としているときには誰かがあなたのバリアを取り除いてくれるものです」。
 ジョハンナはバリアを克服して教師の道を開拓し、車椅子は車輪のついた椅子であり、子供たちにとってかけがえのない教師であると紹介されました。

編集顧問:松井 和子



 検査 


夫「調子が悪いので、大学病院で検査してもらった」
妻「結果はどうだったの?」
夫「検査料35,000円だった」
妻「えっ!?」
夫「こんなにかかるのなら、ガマンするべきだったよ」
妻「最初に検査品目の一覧をもらえたら、その中から選んだのに?」
夫「そうもいかないだろう」
妻「領収書明細はもらえるの?」
夫「保険点数が複雑なので、領収書明細は出せないんだって」
妻「サギのような商売じゃん」
夫「ウン」
妻「最初にご予算という書類を出すべきだわ」
夫「払えるから良いけれど、払えない人はどうしているのだろうか?」
妻「せめて、並・上・特上のレベルぐらいあってもいいんじゃない?」
夫「医者に『並でお願いします』と言うんだね」
妻「貧乏人もお金持ちも一緒で予算もわからない注文なんて、普通の社会では通用しないわよ」
夫「うちは並だね」
妻「普通の社会では、請求書明細・領収書明細は当然発行されるわよ」
夫「しつこくそんな要求をしたら医者に嫌われるよ」
妻「おとなしくする以外にないのね。生きるのも大変ね」

東京都:M.K.



 真冬の“凍傷”体験 


 真冬の時期ということでもう10年くらい前の話になるが、足が凍傷になった体験談を書いておこうと思う。
 1月のある日、長時間の外出をした。そのときはスラックスを履いていたが、その下はひざ下までのストッキングだけを履いて靴を履いていた。外出から帰宅をしてベッドに上がりストッキングを脱ぐと、左足の足首から先がしもやけになったように赤くなっていた。さわってみると氷のように冷たい。しかし、さほど気にも留めず、靴下に履き替えて就寝。
 朝起きて靴下を履き替えようと思って左足を見た瞬間、目がテンになった。指を中心に水泡がボコボコにできている。凍傷の初期の段階!? 昨夜のあの足の赤みは、その前触れだったのだ。その後、すぐに近くの皮膚科のある個人医を受診。消毒をして軟膏を塗られ、足の指を1本ずつ包帯でグルグル巻きにされた。医師から凍傷と言われたかどうか、水泡をつぶしたかどうか、何の軟膏であったのかは記憶がもう定かではない。
 少なくとも横須賀は冬に雪も滅多に降らない、温暖な気候の土地柄。それでも、マヒをした血流の悪い足は、凍傷になる恐ろしさと感覚のない恐ろしさを改めて感じた出来事だった。考えてみると、夏でも靴下を履かないと足はヒンヤリするほど冷たいときがある。
 それから冬場の外出時には、靴下の上にタイツを履く(靴を履くのに滑りやすいように)ようにしている。自宅では、靴下の上にセラミックのひざ下までの厚手の靴下を2枚重ねにして履いている。就寝中も同様。ケガに対する足の保護のためにも、夏でも素足でいるということはほとんどない。
 皆さん、真冬のこの時期、足元を冷やさぬようにどうぞご用心のほどを。

編集委員:瀬出井 弘美

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