はがき通信ホームページへもどる No.100 2006.7.25.
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< 向坊さんの追悼文 >



 向坊さんと「はがき通信」 


 1980年代半ば、日本の高位頸損者は自宅退院しても大半は自宅で寝たきりかこもりきりの生活でした。パソコンやインターネットもなく、地域生活に関する情報は必要とする人に届きにくい状況でした。当時、私は全国脊髄損傷者連合会や全国頸髄損傷者連絡会の協力を得て、在宅頸損者の生活実態を調査していました。その過程で北九州に一風変わった頸損者がいると紹介され、向坊さんと出会いました。当事者間の情報交流の必要性を痛感していた私たちは意気投合し、「はがき通信」の創刊となりました。最初に参加を呼びかけたのは50人前後でした。向坊さんが発行人、私が会計・編集・印刷・郵送担当となり、50号まで向坊さんと二人三脚で継続発行してきました。毎号、巻頭挨拶は向坊さんが書かれ、編集後記を私が担当しました。編集などまったく素人でしたが、皆さんの反応を参考にしつつ、研究という名目で頸損者の生活について勉強しながら、かつ交流を楽しみながら関わってきました。
 ところが1996年4月大学、それも新設の学科へ異動、業務超多忙となり、編集印刷など担当困難となりました。しかし向坊さんはどうしても継続発行したいと私の担当をすべて引き受けられました。その後、向坊さんの生活も超多忙となり、現在のようなチームワークによる編集発行となりました。その間にも何度か中断、または廃刊の危機に見舞われましたが、そのつど向坊さんの強い意志で継続発行されてきました。
 向坊さんの活動は浄土真宗の布教と高位頸損者の自立生活促進でした。どちらも向坊さんの人生に不可欠な活動だったと思います。成人なら誰でもできる食事、排泄、入浴などに人手が必要、その費用を生活費に加えて稼ぎ出さねばならないと、向坊さんの生活はとても質素でした。でもケチとかエゴとは無縁の人でした。浪費も贅沢も避け、その分必要とする人々に惜しみなく分け与える人でした。大田さんが専属ヘルパーになってからも、うっそうとした森に囲まれた海辺の一軒家で夜は一人で過ごされていました。あの精神力は驚嘆するばかりでしたが、両親亡き後は孤独との闘いだったと言われたこともありました。
 中国へ単身旅行したり、砂漠で欝熱状態に陥ったり、冒険家のような気質を備え、死を達観していたかにみえた向坊さんでしたが、がんの診断後、生に強い執着心を顕わにされたように感じました。手術に続いて化学療法(中断)を受けられたのも、明確な生きる目的を持っていたからこそであり、生き続けることに対する強い意志の表れだったかと推察しました。
 「人生の目的はなんだったのか」という向坊流の問いかけはときに私たちにある種の窮屈さを感じさせることもありました。向坊さんを尊敬しつつも方向違いの道を歩みがちな私たちですが、けして見放さず、自ら積極的に交流を呼びかけ、交流の輪を広げる原動力となってくれました。私たちの心の中で向坊さんはいつまでも生き続け、「何のために生きているのか」と問いかけてくるに違いないと思っています。合掌
 
編集顧問:松井 和子


  向坊さんを偲んで 


 編集および関係者の皆様にはお世話になってばかりで、今回も大変なご苦労だと日頃より感謝申し上げています。
 向坊さんとお会いしたのは、もう十数年前になるでしょうか、初めての列車旅行で博多駅近くのホテルでの懇親会でした。私がときどき参加している障害者集会では電動車イスで参加するのは1、2名なのですが、この時の集まりはほとんどが頸損者ということで、背もたれを倒して語り会う集団に初めびっくりしました。
 同じ仲間で、「はがき通信」を読んでいたのですぐに親しくなれて、大きな向坊さん、彼に良く似たKさん、Sさんなど懐かしく思い出されます。
 その後皆さんの活躍ぶりを「はがき通信」で読んでは大いに励まされて来ましたが、中でも向坊さんの行動にはいつも感心させられ、ちょっと無謀とも思える車イスでのインド歩きは、修行僧そのものでした。なおフィリピンやネパールに車イス可能な宿泊所を建てたり、車イスを寄付なさったりの行動力には頭が下がりますし、著書も数冊拝読いたしましたが、心打つものばかりでした。
 また、いつか本誌に投稿されたものに、ベッドから落ちて悪戦苦闘のうち大声でハンズフリーフォンに助けを求めたものがありましたが、ユーモラスな身近さを感じさせ、読者を飽きさせない文才でもあったと思います。
 昨年ほとんど外出してないので、今年こそは北九州へも行くつもりの矢先の訃報だけに悔やまれ、われわれ頸損者にとっては大きなものを失い本当にほんとに残念です。
 これからも導師としてわれわれを見守っていただきたいものです。師のご冥福を心よりお祈り申し上げます。合掌
 平成18年5月29日
宮崎県:F・H E-mail: furu@luck.ocn.ne.jp


 二人のネパール 


 向坊さんといえばネパール。篤い浄土真宗門徒として仏教の研究所を掲げ、アメリカやブラジルやヨーロッパにまで布教の講演に出かけてゆかれた。フィリピンのルセナに日本人障害者のための滞在所「GLIP」を運営されていることも周知の通り。
 そうしてインド仏蹟巡拝の際に仰いだヒマラヤの威容と人々の素朴さに感動して、ネパールのポカラ市のペワ湖付近に、1988年頃から仏教研究所(ペンション)を建設された。佐賀からも文学の先輩である撫尾清明竜谷短大名誉教授などが訪問され、向坊さんの実践力に舌を巻いておられた。
 ほとんど全身的な麻痺のため旅は難渋をきわめ、途中で何度も死にそうになっておられる。ひそかに客死を望んでいるようにさえ見えた。雇いの介護者太田女史とは弥次喜多道中のような名コンビである。うちにもひょいと神出鬼没に訪ねてきて下さったりしたので、私もGLIPを通じて現地の頸髄損傷者にイボイボ付きの車イスを寄贈させてもらったりした。
 一方、ネパールといえば実はもう一人思い浮かべずにはいられない方がある。岸本康弘さんは65歳ほどの脳性マヒ。宝塚市で印刷業を営むかたわら詩を書いておられる。「ふるさと紀行」という季刊エッセー誌で同じ連載仲間としての長い付き合いである。彼が「人間やめんとこ」「手をとめて、冬」などの詩集を出されるたびに頒けてもらっている。数年前には関西文学賞(詩部門)も受けておられる。9番めの詩集「傷が咲く」を出されたばかりだ。
 小中学校へ行けず、「父さんが死んだら。お前も首をつって死ね」と言い残されたのを見返すため、通信教育などで独学をしてこられた。そして苦しい経営のあいまに杖をついて世界中を放浪してまわる。よくそんなお金があるなあと感心するが、金は天下の回り者というわけなのであろう。
 そうやって1994年に訪れたネパールで、少女が時計の針が読めないのにショックを受け、せめて母国の言葉で読み書きができるようにと学舎の寄贈を思い立たれた。奇遇にも向坊さんと同じポカラ市に建設の運びとなる。授業料は無料で、教師の給料などは彼の貯金と友人のボランティア基金でまかなっている。宇部の畑山静枝さんら有志の賛同を得て、今度は学舎の隣の空き地を運動場として買い上げようとしている。私もわずかばかりの加勢をしているが、まだまだ目標額に満たないので有志の方々のカンパを募っているところだ。(連絡先:宝塚市安倉南4.34.4)。
 彼は阪神大震災に遭ってから障害が進んで大きな手術を受け、現在ほとんど身体が利かなくなっておられる。そんな中で残った生命の灯をかき立てようとしておられるかのようだ。私のような根っから出無精の障害者の代わりに、二人は業を煮やしたように世界中を飛び回っておられるのかもしれない。
 もちろん慈善と偽善は紙一重だし、彼らの行為が現地の人たちにどう受け止められているのか私にははわからないが、どうか根づいてほしいと願わずにはいられない。重い障害を抱える二人だが互いの面識はないようだ。しかし漂白のすえともにネパールの地にたどり着き、研究所や学舎を建設しているという奇遇を、私はただ事実通りに伝えることしかできない。北欧やバークレイも素晴らしいが、ネパールの何が彼らを呼び寄せるのだろう。
 もちろん向坊さんだって生身の人間だから、一部に毀誉褒貶があったことは承知している。にもかかわらず、私はひそかに『いつかノーベル平和賞を取ってほしい』と願っていた。決して夢のような話ではないと思っていた。
 13日に嬉野市営住宅への転居(自立)のメールを送ったばかりだったが、果たして読んでくださっていたかどうか気になるところである。向坊さんたちの軌跡に励まされて、私たちは頑張ってきたのだから。

佐賀県:中島 虎彦 E-mail: henomohe@po.ktknet.ne.jp
 「障害者の文学★虎の巻」 http://www.ktknet.ne.jp/henomohe/



 向坊弘道様の想い出 


 5月14日、瀬出井さんよりFAXを送っていただきました。向坊さんが亡くなられたという信じられない書面でした。あまりにも突然の知らせに、ただ、ただ驚きと共に深い悲しみと、淋しさを感じ茫然とする私でした。お元気でお過ごしとばかり思っておりましたのに……。急ぎ向坊様の元へと伺いたい気持ちで一杯でしたが、遠く九州の地では行くこともできません。
 心に想い出として残る向坊さんとの出会いは、「はがき通信」浜松懇親会の時(初めての参加)にお会いしたときです。それから松井先生と一緒に東京府中市、神経研での集いでお会いすることができました。もう10年以上前のことです。その当時次男健二を亡くし精神的にダメージを受けた私に優しい笑顔とお言葉をかけて下さり、私を励まし元気と勇気をくださいました。私は、このように少ない向坊様との出会いを大切に心に納め日々を過ごしたく思っております。本当に残念でなりません。
 向坊さん、どうか天国で安らかにお眠りくださいますように謹んでお悔やみ申し上げます。(2006年5月30日記)

埼玉:S・Y



 ムカリンに文句 


 「はがき通信」の創設者、顧問のムカリンは逝ってしまった。私たちに再発のことなど何も告げず、5月14日の朝、突然に…。
 心配と動揺をかけまいとしての気遣いなのはとってもわかるけれど、生きていらっしゃるうちにもっともっといろいろなお話がしたかった! 今までのお礼と感謝も言えないままなんて……ムカリン、そんなのないよ!
 フィリピンにも越冬に行かれてお元気なのだとばかり思い、忙しさにかまけてろくに連絡も取らずにいたのが悔やまれてならない。昨年の小倉での懇親会でお元気な姿を拝見してガンを克服されたのだと。『ムカリンはやっぱり、不死鳥だぁ!』ムカリンならありえると……心のどこかで信じていた。
 突然、私たちの前からいなくなっちゃうなんて勝手すぎる! 私はあえて文句を言う。自分勝手なのだから、亡くなっても「はがき通信」の顧問。絶対に自由になんかさせないもん。私たちから自由になれるなんて絶対に不可能なのだからね!



●左から瀬出井さん・太田さん・向坊さん・松井先生


 永久名誉顧問を瀬出井が命じます。いつまでも「はがき通信」の永久名誉顧問でいてください。ムカリンの名前を「はがき通信」から消すなんてできないから……。
 「はがき通信」永久名誉顧問:向坊弘道 住所:無何有の郷
 

編集委員:瀬出井 弘美



 命日の5月14日は母の日ですね 

受傷27年、C4.5、47歳

 故向坊さんの想い出をこの場で語ることになるとは、悲しいことです。
 25年前に初めて向坊さんの名前を耳にして、しばらくして訪ねて行きました。玄界灘を一望する岸壁にせりだす白い家。私が行くといつも向坊さんは家族と一緒に暮らしていた。
 その当時もう廃墟となっていた屋敷の庭へ降りそこから一緒に海を眺めました。潮の匂いのする熱い風に吹かれたのを思い出します。「M君も『はがき通信』に手紙を書いて下さい」「『はがき通信』」てなんですか?」あのころ私は、先の見えない未来に翻弄されていました。周りの者に優しさや思いやりを向ける余裕などなく、そんな自分に何が書けるだろう!?
 数年が経ち時が私の心を癒やし外に心を向けられるようになっていました。最初に原稿を書いたのはNo.17(福岡県KM)でした。向坊さんから電話があり、良かったよ良かったよと私の原稿を喜んでくれました。
 「M君両親を大切にね」、私はいつでも会えるという気持ちから向坊さんの病状の異変に気が付きませんでした。ただ抗がん剤の治療はこたえるので途中で止めて退院してきました。このことにだけは心配が残っていました。
 向坊さんも20歳の時、車の事故で受傷されたと聞いております。東京から車で九州のご自宅へ帰郷されていた途中だと。私もまったく同じで20歳でした。違うところというと東大生と大工さん、あれっ字が似ていますね!
 向坊さんが敬愛されていたお母様の命日が5月の3日です。同じ月に亡くなられたのも何かの縁でしょう。命日の5月14日は母の日ですね。精一杯生きてこられた息子さんを迎えに来たのかもしれません。
 顔を合わせなくても思うことで絆を深めます。「はがき通信」の仲間一人一人が健康や悩み情報を交換することで心の支えや力になります。これからは読者に専念せずに手紙を書きます。続けていきたいですね。「はがき通信」! ありがとう向坊さん。
 ◇No.99・「Kの娘」さんへ
 私も不思議と痛みは1日おきに来ました。でも痛くても死にはしないと、本人が割り切って身体を動かしていれば、痛みのリズムで生活するのではなく自分の生活に痛みを付き合わせる、その中で改善したり慣れたりします。痛みは原因があるから痛いのだーと思いたいけど思いながら27年付き合っています。私の場合です。

福岡県:M・K E-mail: m86-katsumi@fukuoka.email.ne.jp



 巨星逝く (詩) 


普段の何気ない一日
一本の電話から届いた訃報が
静寂をぶち壊した。
訃報はまたたく間に全国を駆け巡り
私達を打ちのめした。
自身の生きざまで範を示し
人々を懐深く包み込み
敬愛すべき人でした。
苦しみからとき放れた今
安住の地にて御休みください。
巨星が沈んだ。

※向坊さんを偲んで詩を書きました。

 熊本県:I・K E-mail: isikawa@pa2.so-net.ne.jp



 豪胆な楽天家 


 いまでこそ安定した日常生活をおくっているが、むかしはひどいものだった。長期間よくあんな生活に耐えられたものだと思う。わが家のほうにも原因はあったのだろうが、家政婦やヘルパーはつぎつぎと辞めていく。そのたびに自力で後任を探さなければならない。ハラハラのしどおしだった。
 そのときも「辞める」と言われて絶望的な気分になり、夜すがる思いで向坊さんに長距離電話をかけた。独居生活のベテランに聞けば、介護者の確保に関してなにか有益なアドバイスがいただけるのではないかと思ったのだ。いろいろな話をしてくださったが、私を救ったのはつぎの一言だった。「まあ、仕事がなくて首をくくろうという時代ですから、かならずみつかりますよ」そうか、そういわれてみればたしかにそうだ……。電話する前と後で、なんら現実には変化がないものの、こころはおだやかになった。安心した。私が目先のことにとらわれているのに対し、彼は大局を見ている。そこがちがう。
 それにしてもひとりで海外へ行き向こうに着いてからヘルパーを探すということを平気でするひとだった。全身麻痺の重度障害者がどうしてそれほど楽天的でいられたのだろうか。信仰のない者にはよく分からないが、やはり阿弥陀如来に守られているという信仰心によるのだろう。ただし狂信とはおよそ無縁のひとだった。「障害が重度になればなるほどいろいろ仏頼み、神頼み、御利益をお願いすることになりがちだが、わけのわからんような祈祷とかお願いごとをしてもムダだ。それより自分で努力、工夫してがんばるべきだ」という意見の持ち主だった。そういうと、ただの好々爺のように聞こえるかもしれないが、そうではない。かつて「はがき通信」誌上で故I.Dさんが「バリアフリー コンサルタント」という名刺を使用していることを偉大なチャレンジ精神と讃え、《私たちは恥ずかしい、法的にいいのか、先例はあるのか、などと尻込みをしながら他人のマネをするのが精一杯です。もっと元気を出して、極端に言えば、法律を破ってでも何か社会のためにチャレンジしてみてはどうでしょうか。》と書いておられた。世俗にとらわれぬ宗教家としての激しい一面をのぞかせた文章であるように私には思える。 

編集部員:藤川 景


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