は が き 通 信 Number.32
POST CARD CORRESPONDENCE 1995.3.25

《ごあいさつ》
阪神大震災に被災された方々に心からお見舞い申し上げます。宝塚のSさんはリアルタイムで震災情報を送ってくれました。尼崎のSさんは無事だったけど、食器類は全壊、大阪のMさんは停電でパニックに陥ったそうです。
フィリピン日本人障害者の家では24時間水道が出るようになり、温水シヤワーも検討中です。こちらで開発した新式天井走行のリフターも紹介したいと思っています。
1995年3月25日 向坊弘道
風邪の克服法を教えて:KS


このところ寒さが厳しく被災地の人たちはさぞご不自由だろうと考えています。私には何もできませんが、心安らかな日が早く訪れることを祈るばかりです。

私の住む尼崎でも、12校の学枚が使用不可能になり、小・中学枚で避難生活を送っている人々が少なくありません。まだガスの出ない地域もあります。幸い私のマンションは基礎構造には損傷なく、外装に少し損傷がありました。部屋は食器棚の食器が全部壊れたぐらいでケガなどはしていません。ご心配いただいてありがとうございました。

実は私は3学期が始まる日から要手圧迫で痰がでなくなり、入院していました。病院で地震にあいました。それ以来、大きく精神的なバランスが崩れて眠れず、食べれず呼吸困難が度々襲ってくる状態で本当に苦しい思いをしました。昨日、今日と少しずつですが、食事がとれるようになりました。

そう言えば、昨年の今ごろも確か風耶をひいて元気のない原稿を載せていただいたと思います。風邪にはどうやって気をつければいいのでしよう。

皆さんもくれぐれもお体を大切にして下さい。 95/2/6





KNさん第2歌集「彼岸花」批評:TN


大震災のため被災されたケイソンの方がおられたら、心からお見舞い申し上げます。

さて、筋ジスで国立筑後病院に入院中のKNさんから、手作りの第2歌集「彼岸花」が贈られてきました。文化祭やサークルやご趣味のもようなど、生き生きと伝わってきて、ご不自由な中にも自ら楽しみを見いだしてゆかれる姿勢に、勇気づけられます。作歌2年めとは思えない将来性を感じさせてくれますので、松井先生のご所望にしたがって、いくらかご紹介させていただきます。

  1. 昼下がり芝刈る音の聞こえきて時おり小石をカーンとはねる
  2. また少し吾が手のカ衰えり今日という日の掴みがたしも
  3. 刈れ芝も踏みしだかれし後にこそ新芽のみどり色まさりゆく
  4. 魂眠る地にぞふさはし彼岸花 煩悩燃やすごとき緋の色
  5. 病むゆえに良きことのみを報せくる其れを愛とは諾い難し
  6. また一人親を亡くせし療友の増え早朝電話に不安をおぼゆる
  7. 「頑張って」とたやすく口にしないでと言い切る療友の瞳哀しき
  8. 常臥せし失せゆく艶の肌に持つたぎる血潮に乳房抱きしむ

文学も絵画と同じく基本はデッサンですから、(1)のような観察眼はますます磨いて下さい。そこから上達してゆくと、(2)(3)のような人生の凄味に重ね合わせた手法が表れてきますが、ここから作為が入りこんできますし、詩歌にはあまりオチをつけないはうがいいでしょう。

詩とは「説明」でもないし「啓蒙」でもありません。世界言語なのです。それより(5)(6)(7)のような個別的な状況を正直に描いた歌に、より存在意義を見いだすことができます。きれいごとでは通りませんし、性の領域にも果敢に挑戦してほしいと思います。ただ「哀しき」と直接に言わないで、自然の景物に託してそれを匂わせるのがいいでしょう。また「其れ」「せし」のように必要以上に漫字や古語を多用しないはうが、柔らかさと広がりがでるでしよう。生きた言葉を使いましょう。

しかし(4)(8)のような熱情の激しさがあれば、文学によって境涯を越えることもできるだろうと期待されます。

やはりかけがえのない生命を見つめる眼差しが透徹しているのでしよう。どうかご精進を願います。

これらはあくまで私の個人的な感想ですから、参考までにお気に留めて下されば幸いです。

それではまた。皆さんお元気で。 95/2/7





夢運び人さんへ、お姉さん(?)からの返信:HS


今回は、阪神大震災のことを書く人も多いと思いますが、私は前号で松井先生がおっしゃたように、年上のカンロク(貫禄ならいいのだけれど、年と共に態度ばっかり大きく、図々しくなっちゃって・‥。今月でまた一つ年とるし…。ウック!)でお便りしたいと思います。

ところで、夢運び人さんというペンネームはステキですね。こんなペンネームを思いつくあなたは、きっと感受性の強いロマンチストなのでしよう。社会経験はあるのカナ…? 私より○歳はお若いと思います。

前号であんな通信を頂いたのにガッカリさせてしまうのですが、3月で今の職場を退職することに決めました。“決めました”というところに、ささやかな私の意志を込めさせて下さい。松井先生もおっしゃって下さったのですが、「周りのことは、もう気にしなくてもいいんじゃない?」の言葉通り、周囲の「エツ!どうして・・・?!」「もったいない」の声にももう心は揺らぎません。

悩み迷った復職でしたが、今はしてよかったと思っていますし、16年間の警察生活(ムショ暮らしじゃないですヨ)悔いはありません。チョッピリ寂しさはあるけれど…。毎日が生きたリハビリでした。お陰で当初一番不安だった体力もつきました。仕事をしていく上では夢運び人さんが書かれたように、自分なりにどんなことにも堂々と対応してきたつもり(元々態度が大きい)ですし、自分にできる精一杯のベストを尽くしました。ただ、働ける喜びはもちろんありますが、働く“だけ”のストレスもたまりました。贅沢とまた言われちゃうカナ・・・。

前号のはかなりグチっぼいと思います。あなたのような意見が出ることは承知で書きました。私は通信をあまり読み返さないことにしています。読み返すと思い出すのがイヤになっちゃうから。一気に書いてその勢いで出すことにしています。私も社会人経験は10年以上ある人間ですから、まあたいがいのことは車いすになろうとクリアできます。

車いすで仕事をしていれば収入は入るし、目に見えて社会的な評価は高まります。本人はがんばっている気などさらさらありませんが(他のことは全部家族におんぶにだっこですから)、周りは車いすなのにがんばっていると見ます。仕事をしている今の状態が、私にとってのベストだと周りは思っています。

やめた理由は身体的には、足の痛みによる万年寝不足もありますが、周囲と自分の考えとの間に復職の時からかなりギャップがありました。私にとって仕事は第一目標、夢の実現ではありません。私の考えが甘いかもしれませんが、この辺り男性と女性とでは、仕事を持つという考え方に差があるように思います。“自立”という意味のとらえ方もそうですよね。立場の違いは大きいでしょう。身体的レベルの違いは、どうにもならないことですから仕方ありません。

仕事を持つということは、男性にとっては一種のプライドにかかわる問題です。労働によって社会に還元できるものがあるということは、誰からも後ろ指を差されないというのは、とても若い男性的な感覚だと思います。社会的地位や名声ということにも、男性の方が敏感だと思います。あなたにもし、社会(注:就業)経験がなければ仕事に対する憧れは、ますます大きなものになるでしよう。車いすだからこそ、仕事をしたいという気持ちが余計強まるかもしれません。

私は地域社会の中で、ごく普通にありのままに生きられればよいのです(いちばん難しいことなのかもしれませんが)。たとえ時間がかかっても、福祉機器に頼っても、ひとつひとつ身の回りのことをこなしていけるようになることの方が、私にとって仕事をするよりも大きな意味のあることなのです。

現在のフルタイムの勤務を続けていると疲れて(精神的なものではなく)、他に本一冊読む気力さえなくなってしまいました。それが前にも書いた働くだけの、仕事以外何もできないストレスです。母は「重度障害者なのだから、フルタイムの仕事以外何もできなくて当然だし、何かしようとする方が無理」と言いますが、そのストレスって私には相当たまるものなのです。

ベッド上の人のことを考えれば、仕事をしているだけで満足すべきなのかもしれませんね。何が何でも仕事!と私が思える人間ならば続けられたかもしれません。公舎は狭くて一度ベッドに上がったらそれきりですし、土、日の休みのどちらか好きな本や手続を書いたり音楽を聞いて休養しても、後の一日少しでも外出して外の空気を吸わないと、かえって今度は精神的に疲れてウワーツとなってしまいます。ストレス解消法は難しいですね(私がヘタなのかも?)

ハンディキャップを持つ身になると、いつもがんばっていなくちゃいけないみたいな、そういう人ばかり目立ち、脚光を浴びる風潮が私はイヤです(本人のせいではありません)。人間どんなにがんばっても、がんばり切れない時はあります。だから車いすになってから、私は人にゼッタイ“がんばって”と言わないことにしています。それにしても健常者全てが働ける喜びを感じ、社会に還元するのだという意識を持っていたら日本も変わるでしようね。そういう私も怪我する前そうだったかというと、とても偉そうなことは言えませんが‥・。当面の具体的な目標は、車の運転と排便関係かな。

仕事をしている時、ベッドから起き上がることのできない人たちのことが、いつも頭から離れることがなかったことだけ最後につけ加えさせて下さい。 95/2/15





阪神地区、そして淡路島の皆様、頑張って下さい!:夢運び人


今回は、阪神大震災について、神戸に住む知人の現在置かれている現状を報告します。「はがき通信」を読んだ皆が知り、震災地区にも住んでいるであろう読者の安否を気遣ってくれればと、そう思っております。

神戸や淡路島を襲った地震があまりにも大きなものでしたので、紳戸でステーキハウスを営んでおられる知人のことが気になり、何度も電話をかけ続けましたが、全然通じません。震災後三日目にしてようやく電話が通じ、マスターだけでなく、スタッフみんなも無事だったようです。新婚でやっと家を建てたばかりなのに、その家が倒壊したり、マスターと付き合いのあるKHさん(元プロレスラー)の弟さんは、不動産として持っていた家5軒がすべて倒壊しているとのことです。震災後の現状は空襲後そのままのようで、火事による焦げた臭いさえしていたとのことです。神戸市内に2軒ありますお店は奇跡的に倒壊せずにすみ、マスターの自宅マンションも被害は少なく、ガスがないまま、やっと営業にこぎつけています。桑名正博さん、西条秀樹さんや菊水丸さんらとこの前は、ボランティア活動をなされ、雲仙や奥尻島の災害のとき、一円の寄付もしていない自分が恥ずかしいとおっしゃっておられました。私もそうですが。

被災者は、日本全国からの義援金、援助物資にたいへん感謝しています。

水、電気、ガスと揃わないので、大変らしく、水が出なかったので、この前は、生ビールとワインでトイレの水洗を流されていたそうです。ガスの代わりにカセットコンロを使われています。テレビニュースを見るよりも現実はすさまじく、長田区などは一面何もない焼け野原だそうです。

マスターは、ボランティア活動と仕事を両立させながら、神戸の復興を待ち望んでおられます。平和であるからこそ、震災が夢のようにしか思えないのは情けないことです。お金だけで解決する問題ではない。大震災の爪痕。いつ私たちの身にふりかかるかもしれない災害に対する心構えだけは、怠らないようにしなければなりません。僅かの価格での赤字サービスをしているのは、みんなの為だそうです。マスターの自宅は、今現在もガス、水道が使えず、電気だけとのことです。

ガスと水道がだめなら、入浴もできず、トイレの水も流せません。病院や自宅や施設で被災された方々を「はがき通信」を読んでいる皆で励まそうではありませんか。

私たちに何か出来ることといったら、それしかないのですから。

「頑張って下さい一日も早い復興を望みます」 1995/2/26





初めての東京へ③:NF


■ 食卓を囲んで

夕方になってようやく体温も平熱になり、ベッドから起き上がり車椅子へ移り、暫く休んでいました。松井さんも仕事を終えて来られるということでした。自分の体調が良ければ、皆さんと近くのレストランで夕食という計画でしたが、無理しないで外出を取りやめました。

陽も落ちて仕事を終えて松井さんが来られました。電話で何度かお話して声は聞いていました。初対面の松井さんは、瞳は生き生きとしていて若々しく感じられました。

外へ食事に出かけられないのでちょっぴり残念ではありました。松井さんが近くでお寿司を買ってきて下さり、賑やかな夕食となりました。夕食の前くらいからまた少し体がはてってきだしたので、厚着(5枚)していたものは全部脱いで、Fさんから貸していただいたシャツに着替えました。その後、夜の介護の学生さんも来られて5人で楽しく食事をしました。いつもは一人でテレビやラジオを相手にしていますので、色々な話をしながらの食事は暖かく、美味しく食べることができました。

Fさんは、松井さんの介助で食事をされたのですが、それはごく自然にされていた。「する側」・「される倒」というのではない。一人の人間が日常でする当たり前のことを手伝っている(よい表現でないかもしれないが)だけである。

だが自分はまだ“されている側”という気持ちが強いのと、自分がどういう生き方をしていきたいのかということと、目標を見つけられぬままで、精神的に成長できずちじこまっている自分です。こんな自分が、情けなく、腹立たしく、本当の自分はどんな人間だったのだろう?自分で自分の姿が見えないというのは、本当に情けないですね。

楽しい時間というのはすぐに経つもので、松井さんとは再会できることを楽しみに別れました。

■ ベッドヘ

松井さんが帰られてから、カナダのリック・ハンセンのビデオを見せてもらいましたが、なぜか自分から色々と聞くことをしませんでした。

Fさんがシャワー入洛をされてから、みんなが寝床に入ったのは午前零時を回っていたように思います。寒くないようにとのことで電気毛布をかけてもらいました。

ベッドに入ったもののなかなか眠れませんでした。眠たかったのですが、気持ちが高ぶっていたのと、両足の不随意運動や疼くような痛みがあって冷汗が出てきたり、同じ体位でいたこともあったりして、寝ようと思えば思うはど寝れませんでした。冷汗が出てくるからシャツを着替えたり、喉の乾きがあったのでお茶を飲んでみたり、叩打排尿のために起きたりと大変でした。でも自分以上に眠れなかったのは、色々と介助して下さった学生さんでした。本当にありがとうございました。

結局、朝まで一睡もできませんでした。

■ 展示会場へ

朝7時30分に起きて、昨日買ってきて戴いたパンと味噌汁で朝食を済ませ、出かける準備をしました。夜の介助をして下さった2人の学生さんと交代に、一人の学生さんが来られました。午前10時前に福祉タクシー(違っていたらすいません)が来て、今日一日介助をして戴くTさんが来られてから、10時過ぎには2人の学生さんに見送られていざ会場へ向けて出発しました。

運転手さんの話では、渋滞していることを考えて会場までは2時間くらいはかかるかもしれないとのことでした。

Tさんは夜勤明けの足でそのまま来て下さいました。Tさんも生き生きとした瞳で、仕事を離れても、障害を持たれた方と接する機会が多いようで、ごく自然に接して下さいました。自分はまだ「されている立場」なんだという申しわけない気持ち、でも裏を返せば「してもらうのが当たり前なんだ」・「どうしてほしいかという自主性を持っていない」自分に改めて気づかされました。

途中多少の渋滞はありましたが、11時半過ぎに会場へ着いて入場の手続きを済ませ、午後3時に集合するということでFさんとは別々に行動しました。

自分にはTさんが付いて下さり、2つある会場の一つに入り、一通りぐるりと回りカタログをTさんに集めてもらいました。

天井走行型のリフター、改造された車、自助具、階段昇降機、分解組立式の軽量車椅子等など、たったの数時間では見ては回りきれないはどの出展数でした。途中、Tさんとも別行動して自分はスウェーデンの車椅子会場へ行きました。

そこの車椅子は重さが10キロもなく後輪が外せて座シートを二つに折りたためて、体に合わせて4つのサイズの車椅子があります。そしてもっと体にフィット出来るように車軸の位置や座シートと背もたれも調節出来るというものでした。

その車椅子へ試乗してみましたが、お尻を正しくしっかりとおさめて座ったのでバランスを取るのが精いっぱいで、後ろへ倒れそうな感じがしました。でもセールスマンの方が2ケ月ぐらい訓練すれば乗りこなせるようになりますと云ってくれました。

「エッー、そんなにもかかるのか」と思いましたが、今までが正しく乗っていないし身体に合った車椅子でないからそう云われるのも当たり前かなと思いました!!でもいろいろな補装具や車椅子がたくさん展示していて、試乗なども出来て、その中から自分に合った物が選べるような補装具センターが出来て、しかも適切にアドバイスしてくれる人がいるといいなと思いました。

会場では再会することの出来た人や新しい出会いがあったり、帰るまぎわになって地元の福祉関係者と出会ったりと、3時間はすぐに過ぎてしまい、「もっとゆっくり見たかったし、初対面の人ともいろいろと話もしたかったな」という名残り惜しい気持ちで会場を後にしました。Fさんは先に車の中で待っておられて、午後3時過ぎに羽田空港へと向かいました。

■ 東京を後に

空港へは3時45分ごろには到着して、Fさんとまた再会できることを約束して別れました。Tさんは最後まで付き添って下さいました。

4時半には出発ロビーへ来るようにとのことでしたので、土産物を買って手荷物を預けてから、排尿のためトイレに入りました。入ってすぐに子連れのお母さんが間違って自動ドアーを開けられました。使用中のランプが付き自動的にロックされているものだと思い込んでいたので「ピックリ仰天!」何事もなくドアーは閉まり、用を済ませました。

昼、会場に着いてからスポーツ飲料を飲んだだけでお腹が空いてましたが、時間もあまり無かったので食べずに出発ロビーへと向かいました。

ロビーで航空会社専用の車椅子へ乗り扱えて、わが愛車を預けることになりました。ここで会場で会えなかった倉吉から来られていた家族の方と再会し、Tさんに写真を撮ってもらいました。Tさんはリフトバスに乗り込むまで付き添って戴き、ここで別れることになりました。倉吉から来られた家族の方と展示品のことで話しましたら、一番気に入ったのがスウェーデン製の車椅子とのことで同じ思いでした。

機内へは案内人の方に抱き抱えてもらい、左側のシートへ座らせてもらいました。出発の時間にはもうすっかり陽も暮れていました。定刻より少し遅れて夜空へと向かって離陸していきました。

夜空をポーツと眺めながら、たったの1泊2日であったにせよ東京まで行ってこれたなと思いました。月並みなことですが、これも一人で行って来れたのではなく、多くの人に助けられ支えられて無事に終えることが出来た。そのお陰で失敗とか恥をかいたとか困ったとか怪我がなくてなりよりでした。しかしまたいつか一人で遠出をする機会があれば、冷汗をかくような失敗をしてみる経験もしてみたいなと思いました。

でももう一度東京へは行ってみたいですね。そして改めて思うのは、自分の生き方をしっかり持っていないと、どこへ行っても自分という人間は変わらないということでした。

■ 着いてしまった

鳥取空港へ着いたのは、午後7時前くらいでした。航空会社専用の車椅子に乗せてもらい到着ロビーへ降りて、案内人の方と迎えに来てもらっていたボランティアの2人に抱えてもらい我が愛車に乗り換えました。倉吉からの家族の方とも再会できることを楽しみに別れました。

ボランティアの方に送ってもらい、自宅に着いたのは午後7時半ごろでした。帰ってから、溜まった洗濯をしたり、簡単な即席の鍋焼きうどんを食べてやっと自分のベッドで寝ました。

この初めての東京行きに、色々と助けて戴いた皆さんに感謝します。本当に有り難うございました。 95/3/3





「呼吸器事故から10ケ月」を読んで:RG


私は以前自己紹介をしましたが、頚損(C1/2)で入院し、呼吸筋麻痺のため3年ほど人工呼吸器を付けておりました。

前回のはがき通信、Sさんの「どうか、Kの死が無になりませんよう、大切な命ですから!」を読んで、その無念さ、くやしさが痛いはど伝わってくるようで思わず胸が熱くなりました。

私は事故当初、運ばれた病院が専門外だったということもあって、初めてのケースだったらしく、主治医は大学病院へ指示を仰ぎながらの処置、対応でした。看護婦さんは人工呼吸器を扱うことがとても不慣れで今考えると信じられないようなことがたくさんあり、また後で知ったことですが、呼吸器から喉へとつながる酸素チューブは殺菌消毒のため定期的に交換しなければなりません。しかしそれがなされずに、所々に黒っぼいカビが生えたようになり、看病していた母が「この黒いのはなんだろう」と話していたことを思い出します。

また気管へ入ったカニユーレに痰が詰まり、「苦しい、苦しい…」と声にならない声で必死に訴えたところ、看護婦さんは胸に聴参器を充て「酸素はちゃんと入っていますよ‥・」と、全く気がつきません。しばらくして当直の先生があわててカニューレを抜き取りました。酸素は入ってくるものの吐き出すときに痰が詰まり、フタをしてしまったようでした。それまで定期的なカニューレ交換をしていなかったのが原因です。あまりの苦しさに私は人間不信に陥ってしまいました。

それでも最初のうちは「3ケ月くらいの命」かもしれないということでスタッフ全員それなりに一生懸命、取り組んでいてくれていたように思います。しかし時が経つに経つにつれ、私を守ろうと必死に看病を続ける母と病院側との確執は次第に大きくなり、どうしようもない状態でした。

鹿児島を遠くはなれ大分の病院へ付きっきりの母は、とにかく一緒に一刻も早く地元へと帰らなければという悲痛な気持ちで、出来るかぎりの手を尽くして受け入れ先の病院を探しました。

しかし、いわゆる私のように「お荷物」は、「呼吸器がついた状態では…」となかなか受け入れてもらえません。当時、私は19歳でしたが、この時初めて社会に村する矛盾や怒りを感じました。病院で孤立して、帰りたくても行く場所がない母の嘆きは想像を絶するにあまりあるものだと思います。それでも父が懸命に走り回ってくれて、また大学病院の紹介もあって、約1年後、なんとか地元の個人病院へ転院することができました。大分から鹿児島へと救急車に呼吸器と酸素ボンベを積み、通行量の少ない夜間をえらんで約9時間の大移動でした。

その後、前の病院でわずかながら自力呼吸ができたことと機械に頼っていては危険だという教訓、また、この状態では家に帰ることができないという両親の強い思いから、呼吸器を離脱するためのリハビリを行いました。

当初数秒間から始まった離脱は、お陰様で3年半後に24時間へとつなげることができ、事故から約5年後に無事自宅へ退院することができました。

母が当時を振り返り、「呼吸器の警報アラームが鳴るたびに気がきではなかった。立っていても半ば寝ながら看病していた…」と、冗談を交えて言っています。よく母は血行障害から足首が腫れ、自分で指圧していたのを思い出します。

今、夢なかばにして亡くなられたSKさんのことを思うとき、どんなにか悔しい思いだったか、また無念だったか、ぶつけようもない激しい怒りを必死で抑えていたのではと感じます。Kさんのお母様が言われました「我々、一人一人が大切な命ですから!」という言葉をあらためて噛みしめています。

慎んでご冥福をお祈りしております。 95/2/10





在宅自立が希望(自己紹介):MG


寒い毎日が続き体が不自由な人には厳しい冬です。私はMGと申します。友人から「はがき通信」四肢マヒ者の情報交換を見せていただきました。私も仲間にいれていただけないでしようか。

私は頚髄損傷(C3)で80%以上損傷の不全マヒ、電動車椅子を使用しています。障害1級1種です。昭和16年1月31日生まれの54歳になります。受傷は昭和47年4月17日です。

私は老母(83歳)と加古川市で在宅生活をしていたのですが、母親の体調などを考えて昨年12月に施設に入所しました。しかし私の希望は将来在宅自立です。自立に関する資料(ヘルパー派遣や訪問看護派遣の基準など)や情報について教えて下さい。

なお兵庫県南部地震は、神戸市に隣接しています明石、加古川、姫路など神戸より西は大きな被害がありませんでした。他事ながらご安心下さい。 1995/1/31

兵庫県 姫路市




野県に住む52歳のおじさん:K


初めまして 私は長野県に住む52歳のおじさん、Kと申します。

私は平成2年1月自分の不注意(でもそれから遡ること8年前に戦場での事故で左足が痺れていた)で、自宅の階段より落下してC4、5の庄迫骨折による頚髄損傷で4年10ケ月の入院生活を終えて、昨年10月より自宅療養を行っています。

私の残存機能は頚から上のみです。夜、寝ている時は呼吸器を使用しています。ベッドにての生活です。

昨年、TF様にお会いすることができ(また、信州まで足を運んでくださり、励ましていただきました)、ファイトのある素晴らしい方で感激でした。一人ぼっちの私にはがき通信のメンバーに加えていただき、今は毎回送られてくる通信を楽しみに読ませていただいております。

これからもよろしくお願いします(代筆) 95/2/3

追伸:切手を同封します。使って下さい。





家族通信・阪神大震災の経験:NM


1月17日午前5時45分、皆さんご存知のとおり、大地震がおきました。私はSさんのベッドのある隣の和室で寝ていたのですが、マンションごとシェイクされている様な揺れで目がさめたのです。2030秒くらいだったでしょうが、あの揺れは一生忘れないでしよう。観葉植物がひっくりかえって土まみれになるし、Sさんの吸引チュープを入れている消毒瓶が落ちてガラスまみれになるしで大変だったのですが、こちらはこの程度ですみました。

しかしなによりも恐かったのは、地震直後に「バチン」といったかと思うと、真っ暗になったのです。そうです。停電です。呼吸器の「電気がけいへん(大阪弁)で驚報」がなり、内蔵バッテリに切り替わりました。呼吸器内蔵バッテリは3時間保つのですが、停電は何時問で終わるなんてこと、分からないしで、Sさんは、「直枝ちゃんこわい」というし、真っ暗で、落ちた物をふんだり(えっなんでこんなところに土が落ちているの? えっここ水びたしやん、足冷たいわ)おろおろしました。

懐中電灯なんて気の利いた物も持っていないので、最後の手段、結婚式の時に使うあのキャンドルサービス用の巨大ろうそくに火をつけました(押入に入れたままだったのですが、手探りで見つけました)。しかし、後で聞くと、ガスが洩れているかもしれなかったので、火を使うのは危険だったようです。停電が1時間ほど続いた時、もう3時間以上停電した時の覚悟をしました。手動のアンビューバックで、つなぐしかないなと思いました。いつもなら私とSさん2人きり(付添さんも17日の朝9時半に来る予定だったのです)だったのですが、この日はたまたま名古屋から妹が遊びに来てたので、すごく心強かったのです。

電話も電力会社にはまったくつながらず、実家に電話すると、そちらの方は電気がついたと聞いたので、「もうすぐつくからね」とSさんといいあって過ごしました。結局1時間半で、電気が戻りました。この時はど電気のありがたさが身にしみたことはありませんでした。

しかしやれやれして、テレビを付けてみると、神戸の方はもっと恐ろしいことになっていたので、愕然としました。呼吸器や電動ベッド、痰が詰まったときに使用する吸引器(これはバッティリーがついています)、リフト、すべて電動で動くもので、Sさんの命をつないでいるんだと実感した今回の地震でした。せめてこれからは、補助バッテリーや懐中電灯、電池で聞けるラジオぐらい用意しとかないとダメですね。

その後、親戚、友人などがSさんのこと気にして電話してきてくれました。が、当日、大阪、神戸方面はまったく電話がつながらなかったらしく、Sさんに何かあったのではないかと、えらく心配されました。

阪神地域の頚損の皆さん、無事でしようか。とても気になります。

それでは今回はこの辺で…と思いましたが、もう一つ思い出しました。その後新聞で、神戸で呼吸器を使用していた方がいて、地震の時、呼吸器が落下してつぶれ、その方の奥さんと娘さんが変わりばんこで、アンビューバックを押し、呼吸器会社の人が来るまで36時間がんばったのです。

私はその記事を読んで涙が出ました。腕がお二人ともバンパンに腫れ上がっていたそうです。私もきっと同じことをするだろうなって思いました。その方も無事だったようで、本当に良かったと思いました。

それでは皆さん、どうか風邪などひかないよう、お元気でお過ごし下さいね。 95/2/11





突然のエアーメイル“PEERS PROGRAM”:NH


姉(F)にエアーメイルが届きました。突然のエアーメイルに驚いております。どうも機能回復センターのようですが、私もよくわかりません。

*どうしてはがき通信がこのロサンジェルスのセンターの関係者の目に止まったのか?どんな経由で姉にエアーメイルが届いたのか。

*他の頚損者にも同じように資料が送られてきてるのだろうか?

*このセンターは信用のおけるものなのかどうか・‥?

と、いろいろと解らないことばかりで悩んでいるようです。私にも相談されましたが、先生に相談した方がベストと思いました。調べていただけますか?





「ピアーズ プログラム」は有効か?:匿名希望


お正月の終わった頃、同封の書類がロサンジェルスから来ました。読んでみて、この方法が有効なら是非受けたいと思ったわけですが、この治療法がなぜ「はがき通信」に紹介されないのか、それに先生から聞いたこともないし、ちょっとうさんくさいかな‥・と思いつつ、先生にまず見てもらおうと思い、全部コピーしてお送りします。それとも先生は、この「ピアーズ プログラム」を知っていらしゃるけど、あまり有効ではないので、「はがき通信」とかにひろめなかったんですか?

私たちにとって期待するわ、それがはずれるわでは、悲しいですものね。



“PEERS PROGRAM”について問い合わせが他にもあり、私も驚いています。実は、昨年 MAO氏(バイオメディカルエンジニア)から手紙と資料が神経研に届きました。こちらの資料もほしいということで「はがき通信」を送りました。米国で訓練を受けてきた小松埼さんによると、非常に有効な訓練プログラムだそうです。

3月16日、来日中のマオ氏とバーンズ医師を招いてセミナーを開きます。そこでビデオを使ってプログラムの内容が紹介される予定です。今回の通信には間に合いませんが、次号で報告いたします

松井




阪神大震災に思うこと:HS


皆様、如何お過ごしでしょうか。私も一応元気に過ごしております。

1月17日早朝の大地震、私は朝6時、ラジオのニュースで聞きました。その後のテレビの報道で、今までに見たこともないようなすさまじい光景に思わず戦争で爆撃に合ったような一瞬にして全てが崩れ、火災が発生し、地獄のような有り様にただただ吃驚するとともに、背筋が寒くなるようなショックを受けました。とっさに、もし関東地方にこのような震度67という激震に襲われたら、もし、Kがいたらとふと思いました。

どのように逃げたら良いか、逃げられないかもしれない。建物が崩れたら!そこへ火災が起きたら!考えると、ぞっとするばかりでした。でも火事さえ出なければ、建物の崩れがなければ、Kのベッドへ呼吸器やアンビューなどすべて大事な物を積み込み、ベッドごと外へ出られるかも知れません(昭和医大に入院中、このようにして移動の練習をしました)。

けれども今回の地震では出来たかどうかわかりません。この災害地にも重度の障害を持った人々は、いったいどうなってしまったのか。電気も長時間停電しました(呼吸器を使っている人がいたら)。またガスも停止(消毒もできない)などと、私は、たいへん心配で、心の痛む思いでした。病院も満杯とのこと、Kのような状態の人がもしいたらと、自分のことのように思いました。

5千人以上の方々が亡くなり、深くご冥福をお祈り致します。震災より早2ケ月が過ぎ、今も10万人以上の方々が避難所生活をさせられていますが、私も何か手助けとは思いながら何もできず、僅かではありますが、カンパに協力致しました。まだまだ大変な状態ではありますが、どうか被害地の皆様、身体に気をつけて頑張って立ち上がって下さいますように、お祈り致します。 95/3/6/




前略 訃報です。昨年12月24日、妻豊子が永眠、享年46歳でした。

8年はど前からぐあいがわるかったのですが、私が四肢麻痺の障害者になってさらに心身の疲労がつみかさなり、最近はほとんど食事らしい食事もしていませんでした。わが家をささえてくださる多くの方々に深く感謝しながらも過酷な現実に苦しみぬいた歳月でしたが、最期は眠ったままの他界です。すくなくともこれで苦しみから解放されて楽になったのだとおもうはかに悲しみをいやすすべはありません。

生前、葬式はいらないといっておりましたので、仮通夜だけにし、みなさまからいただいた香典の一部をアイバンクに寄付することで御厚志におこたえさせていただくことにいたしました。故人がアイバンクに登録していたことを後になっておもいだしたのです。よろしくご理解いただければさいわいです。 早々

1995年2月 KF


編集のご指導をいただくため最初に藤川家を訪問したとき、奥様は「主人からはがき通信を読むようにと勧められるけど、まだ読む気になれない。受傷当時のことを思い出してしまうから」とおしゃっていました。突然、訃報のお知らせはたいへんショックでした。今はただ安らかにお眠りくださいとしか言葉がありせん。

ご冥福、心からお祈り致します。





ボランティア・コーナー


Fさんから学ぶこと:SH(中央大学青い鳥2年)

    Fさんの介助を始めてから、もうすぐ2年になります。車椅子で町中に出たり、電車に乗ったりして、今まで体験することができなった多くのことを得ることができました。また、Fさんの所にきている他のボランティアの人たちとも知り合うことができ、良い刺激になります。

しかし、この2年間でいちばん勉強になったのは、Fさんの生き方です。障害を持っていようと、それを素直に受け止めて、自分にできることを模索していく。人生に対するそのひたむきな姿勢にいつも勇気づけられています。

私自身、高校生の時までは、人と同じことをしいないと排除される、自分というものを殺してでも、集団の和を大事にしなければならない、という価値観を持って生きてきました。しかしその価値観は、ボランティア活動を始めた瞬間に崩れていきました。この世の中には、さまざまな価値観、また弱さを持っている人たちがいる、ということに気づいたからです。

そしてその後も、ボランティア活動を続けていくうちに、人それぞれが、自分らしさを持ちつつも、お互いの足りない部分を補い合いながら生きていく、『共生』ということが、一番大事なことであると分かってきました。

私も、『共生』を実行できるように、自分というものをしっかり持って、他の人に何かを与えられる人間になりたいと思います。生きる意味を見いだす1つのきっかけとして、今後もボランティア活動を続けていきたいと思います。    95/2/9



卒業後、福祉の職場を希望:JY(法政大学3年)

大学卒業後は福祉に関わる仕事に就くことを希望しています。私が福祉の仕事を希望する理由は、大学時代から始めたさまざまなボランティア活動の影響が大きいことは事実です。

しかしそれ以上に大きな要因は、アルバイトとして、現在、勤めている老人病院での経験です。老人病院では、看護助手としてお年寄りの入洛介助や食事介助、リハビリテーションなどを行っているのですが、週に一度しかお風呂に入れなかったり、痴呆症のお年寄りの手足をベッドに縛りつけて何日もそのままにしておいたり、食事はごはんもおかずも、食後に飲むはずの薬も全部混ぜて食べさせたり(他にも本当にたくさんの書ききれない程の劣悪な)という現状を目の当たりにして、現在の福祉制度に憤りを覚えるようになりました。

そういうわけで、現在の福祉制度を少しでも向上させることのできる仕事に就くことを希望するようになりました。大学卒業後は、福祉系の事務所で働きながら社会福祉士の資格を取得するために、1年間勉強するつもりです。

福祉の仕事についての情報は、私の努力不足もあり、十分に得ていません(東京都社会福祉協議会や社会福社、医療事業団など)。それらについての情報を考えていただきたいと思い、この手書を書かせていただきました。ぜひ、よろしくお願いいたします。 1995/2/15



Yさんは、Hさんと同じくFさんの介助ボランティアのお一人です。この手紙は私信ですが、Fさんの了解を得て、通信に紹介させていただきました。「吉川君は、研究職以外の福祉関係の職業につくことが出来たならば、その職場が活性化され、福祉の利用者にとって芳しい方向に向かうことが出来ると確信をもって断言できます。ぜひとも彼の夢を叶えてあげたいと思います」とFさんが力強く推薦する学生さんです。私も初対面で僅かの時間でしたが、お会いしてYさんの人柄の良さを感じました。それにしても“研究職以外”とわざわざ断らなくても良いのに。こういう方こそ医療福祉の研究分野に入ってもらえたらと思っています。

松井



“たまがった”は熊本でも:YK


今、埼玉には“車イスタクシー”が一台走っています。川口自交という会社で、そこの社長さんも頚損の方で、事務所は平らなフローリングに改造し、社員に車イスの方が3人いらっしゃるそうです。

Fさんの「初めての東京へ」を読んでいて一昨年永山のFさんを訪問したことを思い出し、Fさんの表情と瞳が目にみえるようです。Fさんの行動力もすごいと感じています。

T先生の“たまがった”は、熊本の私も使います。鹿児島にそんな大学があることを知りました。

向坊さんの夢も着々と実現して私も行ってみたくなりました。 1995/1/23

(木島さんは、NGさんの叔母・Hさんの友人で、車イスの人が利用できる美容院プリマベーラを経営する美容師さんです。)





『哲也と由子』のコンサート/カーサ・ミナノにて


2月24日、カーサ・ミナノでTETSU-YAさんとYHさんのコンサートがありました。2目前、TFさんの知らせで、聞いてきました。

お二人の演奏はテープで聴いていましたが、生は初めて、対面も初めてでした。TETSU-YAさんは写真のイメージそのもの、Yさんは写真よりずっと魅力的、とくに笑顔がとても可憐な方でした。二人とも服装を黒で統一、導入に2曲いきなり演奏から始まりました。そのあと、TETSU-YAさんの挨拶があり、再び演舞が始まりました。TETSU-YAさんの演奏が吹き込まれたテープにYさんがマンドリン演奏を合わせます。

りんごの唄、学生時代、いい日族立ち、カチューシャなどお馴染みの曲に加えて、クラシックも挿入されていました。マンドリンの音色は温かみがあり心地よく、40分の演奏中、かなり広い会場いっぱいの聴衆は立ち去る人もなく、ときどき手で調子をとったり、熱心に聴いていました。若々しいお二人の演奏ぶりも微笑ましい限りで、8ミリビデオを持っていかなったのが悔やまれました。

私の隣でFさんが「呼吸器を付けて沢渡(病院)に入院したての哲ちゃんを思い出す」と呟いていました。

カーサ・ミナノの帰り、TETSU-YAさんに誘われてYさんの運転するリフトカーで群馬のTETSU-YAさん宅を訪問、途中、のこのこと付いて来るんじゃなかったと後悔するはど、お二人の仲の良さに当てられ通しでした。

TETSU-YAさんに作曲の繰作を見せていただき、あらためてパソコンの威力を痛感しました。数年前、はがき通信に「コンビュータ・ミュージックをやりてー」と登場したTETSU-YAさんが、いまやYさんのマンドリン演奏を引き立てる編曲までこなしています。夢は「哲也と由子」のCD製作だそうです。コンビュータ・ミュージックとマンドリンの組み合わせはオリジナル、Yさんは、TETSU-YAさんの優しさと逞しさを引き出しつつあるようです。お二人の夢が実現してほしいと願いながら、帰宅しました。

なお、Yさんの定休日・金曜日であれば、出張演舞に応じます。希望者はTETSU-YAさんまで連絡してください。





本の紹介


その1:リック・ハンセン&ジョアン・ロープ著『遥か彼方に進む』(3):HK

*車椅子で地球一周にあたる2万5千マイルを走ったカナダの脊損者リックの挑戦について、通信29号で大筋だけ私が紹介しましたが、前号からKさんに詳しい本の紹介をお願いしています。前号ではリックがどのようにして目標を定め、具体的な計画を進め、行動への勇気を奮い立たせたのかについて、抄訳をしてくださいました。今回いよいよ話しは、出発してからゴールへのクライマックスに進みます。

W

1.困難に打ち勝つために、感情をどのようにコントロールしたか

リックの世界一周旅行にはいろいろな障害もあった。たとえば、2日目にして手首、肘、肩が腱鞘炎にかかった。風が強い向い風で、気温は凍てつくほど寒かった。タイヤは滑るし、掴んでも押しても前に進まなかった。本当にこの旅行を終えられるのか不安であった。しかし、暫く休むとカが涌いてきた。彼は自分にもう一回こぐカが残っているか尋ねた。答えは「イエス」だった。一こぎ一こぎが1キロとなり、そして次の1キロとなった。それは勝利に一歩近づくものであると確信した。

自分を変えようとする時には、ちょうど波のように必ず丘と谷がある。目標に向かって進んでいる時にこのことを考慮にいれておけば、不安を持つこともなく過信することもなく、前に進んで行くことができる。谷、つまり問題点にぶつかった時にくじける事なく、これが自分を変える良いチャンスだと捉えることができる。

リックはオーストラリアのメルボルンで中間点を通過した。ここまでに使ったタイヤは63本に達していた。次の日すごい向い風であったが、今までやったことをもう一度繰り返せば良いし、一歩進めばその分ゴールに近づくと考えると、力が涌いてきた。

しかし、一年かけて北アメリカ大陸に着いた時には大きな谷であった。というのは、皆の反応は同じで、誰も歓迎してくれなかったからである。やっとここまできたという気持ちだけが、彼を慰めてくれた。

次に大切なことは、不安であっても楽観的で辛抱強くなければならない。リックはヨーロツパに入り、風邪をひき、廃棄ガスにやられ、腱しょう炎に悩まされた。皆の応援もなく、中には入国許可が出ない国もあり、ガソリンもお金もなくなって疲れきっていた。そういう時には毎日の事だけを考え、ギリシャに着くのを楽しみにした。そこでヨーロッパの旅は終わりだし、気候が暖かくなるからである。そして過ぎ去る人の笑顔を採し、丘に登って一日一日うまく行ったことを感謝した。

一般的な意味の失敗とは違って、ここでは「失敗」とはやろうとする勇気を失ったことを意味する。やり違いは必ずあるもので、大切な教訓となる経験である。自分を変えようとする人が成功するのに不可欠のものである。間違いは目標に到達する時に、違ったふうにものごとをやる必要があるという大切な情報である。

リックは中国に渡る前にどのルートを取ればよいかを調べるために先見隊を出した。そしてこの時期には北風が吹くので北京から上海に向かうのが良いとの報告を受けた。ところが予定が6週間遅れて、実際に中国に着いた時には強い向い風で反対のルートを取るべきであった。

逆境は必ず起こるもので、それと戦う時には柔軟に適応し、圧倒されないようにしなければならない。これは予期できないので、これに対処するには予期できないことが起こるのだという心の準備が必要で、即座に対応できる準備をしておかなければならない。間違いと同じように逆境は自分を変えるのに重要な役割を行うものと考えるべきである。逆境に打ち勝つたびに、自信がついてくる。リックも怪我をし、病気になり、スボンサーは引き揚げ、気候もしばしばひどいものであったが、旅行を続け、辛抱強かった。

うまく成功裡に目標に到達するには、焦点を定めて集中した状態を続けることが必要である。リックの場合はカナダのテレビに出るように誘いがあったが、時間のロスを考えるとそういう余裕はなかった。当座のことに集中することも大切である。リックの全行程は2万5千マイル位あったが、3時間に23マイル走ることだけに集中した。

もう一つ集中するのに役に立つのは、一つの言葉を選ぶことである。リックは車椅子をこいでいる時にはいつも“PUSH”と言葉を出して集中した。

2.困堆に打ち勝つために、どのような方法を取ったか

克服できる逆境にはチャレンジし、克服できない逆境には無駄に労力と時間を費やすことなく、それに適応しなければならない。リックの場合にも麻痺は克服できない逆境であるが、努力によってできることもたくさんある。上体を鍛えることもできるし、協力しあえることもできるし、装具をつけて立つこともできるし、歩行器で歩くこともできるし、車椅子も使って移動できるし、車椅子への移乗もできるし、自分のことは自分でできるし、学ぶこともたくさんある。

他人のカをうまく利用することも必要である。克服できないような逆境にあった時に積極的に相談し、忠告を求めることも必要である。特に、コンサルタントや専門家や先駆者は豊富な知識を持っているので、役に立つことが多い。リックは出発する前に医師や理学療法士、栄養士などと、栄養から傷の予防、服装まで詳しく検討した。また、リックは旅行の最後の方で、帰るのをEXPO86に合わせるため、どうしても寒いカナダを冬に横断しなければならなかった。専門家を頼んで雪道を走る特別の車椅子とか、凍傷にならないように足のあちこちにセンサーをつけたり、特殊の繊維でできたヒーターのついた服を着たり、強く握れるような特珠なグロープを着けたりして万全の準備をした。

3.成功をどのようにして味わったか

成功を経験することも必要である。リツクは1987年3月22日を忘れることができない。それは夢が現実になった日である。数千人の人が道路の両側で喝采してくれ、天にも昇る気持ちでゴールに到着した。群衆、喝釆、気候、海の風の匂い、満足感・・・興奮の極地にいた。人々が窓から身を乗り出して叫び、手を振り、ホーンとサイレンが響き渡った。彼は「ついにやったぞ」と叫んだ。この瞬間は目的を達成したということだけでなく、その過程を全て成し終えたという点で大切な時である。

主観的にも客観的にも成功したと認めることが大切である。例えば、客観的に成功しても、初めに決めたモットーを守らなかったら、主観的には失敗である。本当の意味ある成功とは、自分の潜在能力を最大限に使って進んで、究極の挑戦をすることである。

時々、成功は助けてくれた他人のおかげであると考える人や幸運のせいにする人がいるが、これは間違っている。自分の能力と努力の結果である。

次に大切なのは成功をゆっくり味わい祝福することである。けっして次の目標に急いでとりかかってはいけない。成功を経験するということは、自分の生活を変え、明らかにする大きな潜在能力と意義を持っていることを意味する。障害も絶対的で克服できないものではないと思えるようになる。リックも個人で勝利を祝うとともに、5万人の観衆の中で音楽やダンスをして無事に戻ってきたパーティを行った。リツクは共通の絆で結ばれた人々とこの瞬間を享受することを誇りに思った。成功を記念して思い出に残るもの、例えばメダルや写真や記念の石や音楽などを残しておくと良い。

成功の内容は人それぞれに違ったものであるから、その過程をはっきりさせ、その要領を次の目標に使えるようにすることが必要である。リックはこの本を書くことによって、ゆっくり旅や生活を振り返ることができた。百パーセント自分のカを出し切り、障害を乗り切り、自分の限界を知り、助けてもらって効果的なチームを作れて良かった。重要なのは、これをやろうと心に決めたら可能性に限界はないということを知ったことである。

自分を変えようという目標を達成することも大切であるが、たとえ客観的にみて目標に達しなくても、その過程で何かを得ることができれば、それは主観的には成功したといえるであろう。成功したといえるかどうかは、状況の解釈によるのである。

4.車椅子世界旅行の経験はどのように生かされたか

リックはEXPO88で重要な役に就くよう任命された。彼はその役には不慣れであったが、旅行の教訓を生かして、見事にやりとげた。また、リックはブリティッシュ・コロンビア大学の障害者センターの重要な役を受け入れた。ここでの仕事は障害者の障害を取り除くのにりーダーシップを発揮することであった。人を指導したり予算を扱ったり大きな機関を動かす経験はなかったが、位界旅行経験から得られた一般的な経験があった。大学では何もない所からの出発であったが、旅行の時でも同じであったので自信はあった。1994年には1800万ドルの資金を障害者のために作った。

周りに変化が起きた時それを恐れるのではなく、自分に意義あるものと捉えるべきである。そして変化を成長と発達の良い機会と捉えるべきである。そうすることによって、自己の内部を高めようと思った。同時に他人の生活や地域に貢献したいと思った。そこで、障害者施設の役を受け入れた。

リツクは障害が外的なものというより内的なものによると考えるようになった。そして自分の運命を作るのは自分の責任だと思うようになった。こう考えると、新しい世界が開け可能性は無限であるような気がした。そしてどのようにして将来の生活を作るか自信が持てるようになった。昔の自分と今の自分を比較するのをやめた。自分でコントロールできないことは受け入れ、できる事は徹底的に努力しようと思った。そして再び、貴重な信じられないカが涌いてきた。

5.新たな歩みの姶まり

自分を変えようとするサイクルが一つ終わると、次のがまた始まる。新しい目標に向かって出発する時は、新しい自信に満ちたものになる。リックは次第に家族とか地域社会との結びつきが大切だと思うようになった。

1990年3月に長女、二年後に次女が生まれて、その感を強くした。彼はこれまでの生活する技術を発展させて、一般の人の内的障害を取り除くことに関心を持つようになった。こうして彼の目標の中心は、人々が意義ある目標を達成するのを助けて、生活を営む効果的な方法を教えることに移った。これが、新しいサイクルの初めであった。

最後にリックは田舎を旅行していた時に出てきてくれて微笑みや握手で挨拶してくれた人々が、戦争や病気や飢饉のため荒廃しているのを、非常な悲しみをもって受け止めている。子供達がより良い世界を受け継ぐように、努めなければならない。彼らにお互いに助け合って生きていく良い例を示さなければならない。

*リックはできることは自分で責任を引き受けるけれど、他の人のカを利用することも重要だと、述べています。この本もまさにそんなリックの考え方が反映され、心理学者ジョアン・ロープの協力によって成功したものだと思います。リツクの挑戦物語は、目的を達成したところで終わっていません。むしろ成功することそれ自体よりも成功を「経験すること」の重要性がていねいに語られています。この部分はこれまでの成功物語にはなく、私にもとても参考になりました。まさに彼女によってうまくリックの考え方が引き出された結果といえるでしよう。

HW
Rick Hansen & Dr.Joan Laub:Going the distance,Douglas & McIntyre,1994

なお、本書はバンクーバ在住の上野久仁子さんから贈呈されました。



その2:総理府編『障害者白書(平成6年版)』:HW

政府刊行物には『○○白書』と名づけられらたものが数種類ありますが、昨年暮れに待望の『障害者白書』が出版されました。その内容については、私たちも注目する必要があると思います。そこで、この白書の概要をご紹介します。

『障害者白書』は『厚生白書』などと同じ体裁をしています。前半部分は2部に分けられていて、第1部は今日的トピックスが特集として取り上げられています。第2部は、障害者政策の現状が全般に渡って説明されています。後半は統計などの資料集です。

平成6年度版の特集は、「障害者施策の現状と今後新しい枠組みによる施策の新たな出発」でした。ここで「新しい・新たな」と呼んでいるのは、「国連・障害者の10年」が1992年に終わり、その後の1993年に策定された「障害者対策に関する新長期計画」と同年に改正された「障害者基本法」にもとづき、施策を推進していくという政府の今後の方向を意味しています。

そして第1部では

  1. 相互の理解と交流
  2. 自立に必要な教育・育成、雇用・就業施策
  3. 生活の質を確保していくために必要な保健・医療・福祉施策
  4. 住みよいまちづくり、住宅整備、移動・交通、情報提供、防犯・災害等の施策

の、おおきく分けて4つの基本的な方針が掲げられ、第2部で各省庁の行っている施策についてが言及されています。

障害者施策のメニューが次々に登場し、「○○の拡充を図ることにしている」、「○○の推進に勤めている」という表現が随所に出てきます。

しかし、他の白書類もそうですが、読んでいて物足りなさを感じるのはこのような表現に終始し、これまでの施策の評価やうまくいっていない点の分析がなされていない点です。とはいっても随分私の知らないことも書いてあり、勉強できました。障害者施策全般をおおまかに理解するには、役に立つ本といえるでしょう。




『フィリピン日本人障害者の家』訪問記(1):TF


初めての海外

2月3日2月9日まで、フィリピン・ルセナ市にあります「グリーンライフ研究所(GLIP)」(日本人障害者の家)に行って来ました。

私にとって、初めての飛行機、初めての海外旅行で、戌田空港から約4時間、真冬の日本から、急に30度くらいあるフィリピンへ行くのは少々無謀で、私自身、体調を崩し一緒に行った人たちに迷惑をかけてしまうことが一番の心配でしたが、頚髄損傷者独特の熱がこもる発熱があったくらいでした。私を含め、計4人、障害を持っているのは私だけで、介助のベテラン・Tさんと松井先生が同行したのでとても心強かったです。

マニラヘ

海外旅行に行った友人から「車椅子の障害者の場合、成田空港までのアクセスの方が問題」と聞いていましたが、本当に大変で、東京・清瀬まで車で行き、池袋まで西武線、空港までJR(成田エキスプレス)で行きましたが、ホームと車両の間の段差や長い階段があり、成田エキスプレスにあってはなんと!シートとシートの通路が狭く、車椅子のハンドリムが当たってしまい車両の中まで入れず、やむなくデッキの所で寒い思いをしてしまいました。後で聞くと車椅子専用車両(トイレ付)があるそうです。勉強不足でした‥・。

成田空港に午後2時半到着。まず、空港に入るためのセキュリティーチェック、パスポートを提示し、いざ空港内へ。金曜日のせいか、大きな荷物を乗せたカートと旅行者で、車椅子で動くのも困難なくらいでしたが、これが普通だということでした。まず、航空券のチェックの後、機内に持ち込まない着替えなどの荷物をあずけ、出国手続きへ、皆さん並んでいる横を空港職員が車椅子を押してくれ、あっという間に出発ゲートに。思ったより荷物のチェックやボディーチェックも簡単で、それでも出発2時間前にはチェック・インを受ける必要があるようです。空港内はエレベーターやスロープがあり、さすがに日本の空の玄関。当たり前か!?

20分くらい待った後、いよいよ搭乗開始。一般客の搭乗前に航空会社の機内用車椅子にのりかえ搭乗するのですが、それが車椅子というより簡単な椅子にキャスターが付いたもので、座位バランスのとれない私は大変でした。もう少しいろんな障害をもった人が利用するのですから‥・と、思いました。

座席にロホークッションをひき、トランスフアー。この辺は、航空会社の方が手伝ってくれ、往復エコノミークラスの予定でしたが、空席があるという事で4人ともワールドビジネスクラスに変更してくれた。

ノースウエスト航空 005便 マニラ行き

午後6時離陸

まさか自分が飛行機で海外旅行なんて!!‥・窓から見る夜景が信じられなく思い、他の人から見れば、たかが海外旅行かもしれませんが、私にとっては何もかも初体験で、朝からの緊張も最高に達していました。さすがに、ワールドビジネスクラス。シートも広いし、足も伸ばせるし、機内食は豪華だし、スチュワーデスさんは優しく声かけてくれるし(意味が分からなかったが‥・・)ただ、エンジン音が思ったより大きく感じました。

午後9時40分 はぼ定刻どうりマニラ国際空港到着。やはり一般客が降りた後に、航空会社の車椅子に乗り、最後に空港内へ。すでに私の車椅子が準備されていました。機内で配られた入国カードに記入し、提出。やはり、フィリピン。とても着くトレーナーを脱いだ。空港の外に出るととても賑やかで、深夜というのに5、6歳の子供達もたくさんいて、これがフィリピンなのか!という感じでした。

ルセナから向かいに来て下さった嶋田さんに無事に接触。自家製スロープを持参してくれバンタイプの車に乗り、大渋滞を抜け片側5車線のハイウェーにのる。夜でしたので景色がわからなかったが、マニラを離れるにつれ、対向車も少なくなり路面の凸凹が多くなる。ハイウェーを約1時間程走り、一般道を約2時間くらい走る。かなりのスピードで走っているがその横を、日本製の長距離バスが追い越していく。対向車が来ても、カーブでもおかまいなし。この国ではこれが当たり前で、この流れに乗れないとかえって危険だそうだ。小さな街をいくつか抜け、やっと目的のGLIPに到着。すでに時計は深夜2時を画っていた。

簡単な紹介の後、6日間お世話になる部屋に入り、その日はすぐに休んだ。

「障害者の家」第1日目

このま、前日の疲れもあり10時半頃起き、遅い朝食をとる。改めてGLIPの設立者の向坊氏と対面し、嶋田さん夫妻、そして今回、私の介助をしてくれる、マヴックとマリサと紹介してもらう。彼女たちは、助産婦学校を卒業した19歳で12月から向坊さんのアテンダント(有償介助者)しているそうだ。主にマヴックが私を介助してくれる。フィリピンは、タガログ語を話すが、小学校から英語を勉強するため、子供でも英語で会話できる。英語を話せない私が、どこまで彼女たちの介助を受けられるか? 出発前から心配だったが、これが結構わかるもので、同行したTさんが一度見本を見せると、次からはなんとかできる。それでいて手を出さなくても良いところは手を出さない。本当にやりやすかった。私も知っている限りの単語を並べ、彼女たちと会話ができるとすごく嬉しくて、彼女たちも喜んでくれた。

午後から、ジープニー(ジープの荷台を長くしてシートをつけたような簡易バス)にスロープを付け車椅子ごと乗り込み、ルセナ市内の繁華街に買い物に出かけた。まず、銀行で円をペソ(フィリピンの通貨単位:1ペソ約4円)に変えてもらう。フィリピンの物価の感覚になれず、私たちの感覚だととても安いが、フィリピンの人たちには大変高価な物がたくさんある。一日の労働賃金が約350400円、家が一戸約200万円だ。ちなみに日本製の車をフィリピンに輸入すると2倍以上の税金がかかるそうだ。そのため、20年以上昔の日本車が、現役で走っているかと思うとピカピカのパジェロ(600万円以上)も走っている。とにかく自家用車をもてる家庭はとても裕福な家ということだ。街の中はとても賑やかで、歩行者天国の中をジープニーやトライシクル(屋根付きサイドカー)が走っているようで、交差点でも信号もなく、それでいて事故もなく日本では考えられない。市場のような狭いところを、車椅子で入っていくと、食料はもちろん、雑貨、衣類、電気製品、雑誌、ビデオレンタル、などなんでもある。お金を取ってファミコンをさせるゲームセンターまであった。

私が車椅子で人混みを行くと、フィリピンの人たちは立ち止まりじっと見ている。そして私の車椅子を押しているマヴッタに話しかけ、知り合いでもないのに会話がはずむ。段差でひっかかるとすぐ手伝ってくれる。日本とは全く逆だ。

夕方、GLIPにもどり、マヴックとマリサが作った夕飯を食べる。出発前、好き嫌いの多い私は、食事に関しても心配していましたが、苦手な物もあったものの、卵や鳥肉は新鮮なためか特に美味しく、日本食とあまり変わらない感じがしました。

部屋に入る前も、向坊さんや嶋田さんのフィリピンでの日常生活を聞くことができ、改めて皆さんの素晴らしさを実感した。

夜は毛布一枚くらいで良く、雨もスコールで、日本のような蒸し暑さはなく、扇風機もいらなかった。

海水浴へ

この日は、朝から快晴で海水浴日和。GLIPから、ジープニーに車椅子3台、それに8人を乗せ、約2時間くらい。これがまたすごい道路で、未舗装あり、凸凹ありで、ジープニーの足回りのせいもあり、海に着くと首が疲れて持ち上がらない状態だった。

やはり、日本の湘南あたりの海とは違い、ココナッツやパパイヤの木などあり、砂も海もきれいで南国ムードいっぱい。さすがに暑くて、日陰でリクライニングを倒し休むが、疲れもあったせいか、受傷当時経験したような体の熟さが、結構つらかった。お昼は、昨日ルセナで買った肉を浜辺で焼いてバーベキュー。私は食欲がなく食べられなかった(ああ今でも心残り…)午後、体調が少々回復したので、波打ち際まで行ってみんなで記念線影。受傷以来、海は何度も行ったけど車椅子が濡れるくらい近くに行ったのは初めてで、小さな事ですがフィリピンの海で経験できるなんて大感激でした。

午後2時半、また、ジープニーに揺られてルセナに向かう。先程までの熱さから一転、今度は寒くなりGLIPに戻りすぐ横になる。寒気の時は熱が出ることは分かっているので、水分を多く取り毛布をかぶり、熱を出し切るまで休む。頚髄損傷者には良くあることでもあり、ある程度覚悟してきたことだが、ここはフィリピン。少々神経質になっていたかもしれない。熱も38度まで上がったものの寒気のおさまると同時に平熱になり、一時的なものでひとまず安心した。

楽しかった夕食会

この日は、昨日の熱のこともあり膀胱洗浄の後、尻休めもかねて休憩日とした。今回フィリピンに来ることで3つの注意点があった。まず、気候の変化による発熱、仙骨部の皮膚の薄いところがむけて褥蒼の再発、そしてカテーテルが詰まり尿が流れなくなること。暑さに強い頚損と思っていたが、約20度の気温差には勝てなかったが、褥蒼の方も体位交換もせず(背中に枕を入れた)夜も良く眠れた。一番心配だったのがカテーテルで、これが詰まると病院でカテーテル交換しないとどうにもならない。膀胱洗浄セットも4組持ったが、この時の洗浄だけで問にあった。

昨日、発熱しなくても休養日を一日もうけようと思っていたので、良い休みが取れました。Tさんや松井先生は農場に行ったり、街に買い物に行っている間、嶋田さんの奥様やマヴック、マリサと楽しく話ができ、私の家族のこと、受傷時のこと、カーサ・ミナノのことを話した(私は理解してもらったと思っているが!?)

夕方、GLIPの近所に住む薄(ススキ)さん宅へ紹待され、みんなでおじゃました。GILPから徒歩で10分くらいの所に住む高松さんも来て、嶋田さん向坊さんと、5人の障害を持った人たちが集まった。薄さんも高松さんも嶋田さんと同じようにフィリピンの女性と結婚し家庭を持っている。みんなビールを飲んで盛り上がり、とても温かいもてなしを受け、私にとってはいろんな意味での大先輩の話を聞くことができた。東京などで開かれる、障害者団体の集まりなどで聞く話とはまた違った内容で、時間を忘れるくらい楽しく、今から思うと私のこれからの生き方を変える話だったかもしれない。その日は何だか良く眠れず、私の今の生活が良い方向に向いているのか心配にもなった(次号へ続く)。



あとがき


*「はがさ通信は生の声が聞ける」と香川の浦田さんのお便り。今回は瀬出井さんの予想通り阪神大震災関連の通信が盛りだくさんとなりました。いずれもご自身の体験なり、経験に結び付けて書かれているせいでしょう。オリジナルで読み応えのある通信と感じましたが、如何でしょうか。被災者を気遣うお便りは熊本の石川清重・美智子さん、バンクーバの上野さん、愛媛の坂本佳宗彦さんから災害対策の通信も届いています。

*31号、TNさんの通信中、「永田耕夜」は「永田耕衣」の誤植です。お詫びして訂正致します。この種のミスは許しがたいとお叱りをいただきました。スキャナーを使用すればミスも防げるのではとコメントですが、メモリー的に無理のようです。今後、十分点検致します。ご了承下さい。

*Fさんの「初めての東京へ」は今回で完結です。長編ご苦労様でした。リツク・ハンセンの体験が身近に感じるようになっていませんか。じっくり読んでぜひとも参考にして下さい。たいへん読みごたえのある紹介になっていますから。

*2月3日から9日まで麩沢孝さんと一緒にフィリピン、ルセナ市を訪問してきました。以前、この通信に登場したTさん、Sさんに再会してきました。その感想を含めて書いた「3年ぶりのフィリピン」は、次号に余裕があれば掲載させていただきます。向坊さんは、毎日農場通いで、現地の人たちよりも焼けたと赤銅色の逞しいお顔でした。この通信が届くころには帰国の予定です。

*夢運び人さん、HSさんへ励ましのお便りありがとうございました。住所不明につき紙面にてお礼申し上げます。

*Fさんの通信でも紹介されていますが、F宅でお会いする学生ボランティアの皆さんにはいつも感心するばかりです。そこで今回、特別にお願いして広瀬さんとYさんに登場していただき、ボランティア・コーナを設けてみました。木島さんもいつも感想を寄せて下さるので、若い学生さんと一緒に登場していただきました。ボランティアの皆様、頚損、障害、介助などについて感じていること、ご意見、コメントなどぜひこのコーナにお寄せください。お待ちしています。



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