はがき通信ホームページへもどる No.101 2006.9.25.
Page. 1 . 2 . 3 . 4 .


も く じ
ballごあいさつ 広報委員:麸澤 孝
ball合掌 M.I.
ball向坊さん本当にお疲れさまでした 福岡県:N.I.
ball独居と転落 佐賀県:T.N.
ball真夏の出来事 千葉県:T.D.
ball初めての骨折経験 K県:もののけ姫
< 特集!「介護する側、される側」>
□ 独身・三十路・介護漬け W.
□ 伊藤さんとの交流を通して M.T.
□ 伊藤道和さんと出会って T.S.
□ 「おやじの威厳」あるいは「介護される側の屁理屈」 M.T.
ball外泊許可問題その後 新潟県:T.H.
ball「盲腸ポート」手術・体験報告 東京都:T.K.
ball玉葱おやじもシャチョウさんに? 広島県:Y.S.
ball99号のKの娘さんへ 編集委員:瀬出井 弘美
ballVancouver(バンクーバー)生活 M.I.
ballひとくちインフォメーション


ごあいさつ

 皆さん、元気で暑い夏を乗り切れたでしょうか?
 10月の障害者自立支援法の本格実施を迎え、皆さんも障害程度区分の認定調査も終わっていると思います。私たち頸髄損傷者の多くは区分4・5・6のいずれかに入ると思いますが、しかし区分がひとつ違うと大違いです。これからの生活に大きく影響が出てきます。調査の内容には「食事摂取について?」とありますが、多くの頸損の場合、皿やスプーン、テーブルが自分に合って初めて食事ができるわけで、褥瘡(じょくそう)についての質問も今は褥瘡(じょくそう)がなくてもちょっと油断をすれば、すぐにできてしまいます。事業所を運営する立場でも利用者の区分が違うだけで、事業所の運営にも影響が出ます。
 このような区分で障害者の生活や本当のニーズがわかるのか? これからこの国の福祉はどこに向かうのか? 本当の意味での障害者自立支援につながる法律であることを願います。
 『「はがき通信」懇親会 in 広島』でお会いできるのを楽しみにしています。
 

広報委員:麸澤 孝


◆「はがき通信」からのお知らせ◆


ホームページアドレスが変更になりました。
(ノーマネット:使用料無料)
 新しいアドレスは下記の通りです。よろしくお願いいたします。
 なお、アクセスカウンターは最初(メニューページ)のみとなります。

<新アドレス>
 http://www.normanet.ne.jp/~hagaki-t/PCC1.htm



 【特集原稿募集!】

 次号・102号の「特集のテーマ」は、『「はがき通信」懇親会 in 広島』です。
 懇親会に参加される皆さん、ぜひドシドシご投稿ください。よろしくお願いいたします。
お写真もお待ちしております。
 締め切り:10月31日まで!



 合掌 


 夫のいなくなった事実は分かっているけれど、彼が亡くなって私のそばにいない……という実感がいまだに受け入れられない。2005年1月8日、福岡への講演のために朝8時に目覚ましをセットし、目が覚めたのは私だけ。同じベッドの私の隣に息のない彼が眠っていた。いまだにこのときのこと、そしてその光景がよみがえって思い出しては後悔の涙が。きっと痛みと様々な恐怖でつらかっただろう……体力的にもしんどかっただろう……今振り返って考えてみると彼はきっと自分の命をうっすらと感じていたように思う。なのに彼は最後まで私には何も言わなかった。
 前日の夜、彼は私をぎゅっと抱きしめて一言「愛してるよ」と言った。いつもと違う彼に私は「何か変だよ。どうしたの、大丈夫?」と聞いた。そうしたら「大丈夫じゃないように見える?」と彼。私はただ「うん」と返事。彼が「何パーセントくらい大丈夫そう?」と聞いたのに対して「30パーセント」と返事……それが最後の私たちの会話になった。そして翌朝、私が目覚めたときにはすでに彼の息はなかった。何で昨夜病院に連れて行ってあげなかったのだろう? 私の想像以上に彼はしんどかっただろうに。あの日から後悔と謝罪の気持ちの毎日。
 そんな中、世の中は確実に時間が進んでおり、お世話になった方たちが数人亡くなった。それらの知らせを聞いても、私の心はそういったことを受け入れるだけの余裕がなくなっていた。訃報の知らせを聞いても何も考えることもすることもできずに、ただただここでの私の生活を何もなかったかのような顔をして続けることしかできなかった。向坊さんの訃報をメールで知らせてもらったが、自分が精神的ショックで崩れないようにつとめるのが精一杯だった。だから編集委員の方がメールで「原稿を」と呼びかけられたときにも何も書けなかった。
 ここ1年以上「はがき通信」を目にしていないが、先日電話で母と話したときに母が「向坊さん亡くなったのね」と言った。嫌でも受け入れなければならない現実、昨夜彼が旅立って以来初めて「はがき通信」(100号)をネットで読んだ。涙が次から次にこぼれ落ち、彼のこと、向坊さんのこと、「はがき通信」のことを思い出して結局一睡もできなかった。向坊さんが病に侵されていたことを初めて知った。手術を受けられたあと、そして最後のフィリピンへ旅立たれる前の11月22日(当時の私はだれにも会いたくない、外に出たくないと実家に閉じこもりカーテンを閉め切った生活をしていた。そのときにふと、山口でなかったら外に出られるかもしれない……と上京し大濱さんのお宅で数日間お世話になり、その間友だちに会ったり「はがき通信」の伊藤さんや瀬出井さん、麸澤さんなどなど……のみなさんが私に会いに集まってくださった。たくさんの人に心配してもらい、励まされ、生きる気力を少しだけどいただいた。そのことにも心から感謝!)に東京で私の携帯に着信が……福岡の向坊さんからだった。「山口で生きていくのは難しくても、もう一度自立生活をしてみませんか? 福岡に私(向坊さん)のアパートがあって駅まですぐで交通の便もいいし、家賃も利益は要らないから経費だけで貸してあげるからどうですか?」との内容だった。きっと身体がつらかっただろうに私の心配をしていただいて……結局そのお礼も言えないまま逝ってしまわれた。
 私たち夫婦は向坊さんにかわいがっていただいた。気にかけていただいた。大変な仕事も言いつけられた。だけどそれは……今になって思えば、人としての心を持つことも教えられたように思う。正直、仕事をしていた私たちにとって会計と名簿の管理は面倒で大変で、早く任期がこないか、だれか替わってくれないか……と思っていた。だけどやってみないと分からない大変さ、そして長年大変な編集を続けてこられた諸先輩方、さかのぼっては向坊さんや松井先生などのご苦労が初めて分かった。「はがき通信」の裏方が分かったから余計にそのありがたさ、大切さを実感した。その経験から、みんなが役立てているものの裏にはいつも縁の下の力持ちがいて、その人たちのおかげでこの恩恵にあずかれている……ということを教えられた。いい勉強だった。貴重な経験だった。今はそのことにありがとうと言いたい。
 夫や向坊さん、その他私の大切な人たち……。彼はたとえ筋ジスという不治の病を抱えていても、彼だけは死なないと思っていた。向坊さんもあれだけ重度の障害と共にあの年まで生きられたけど、あと20年は大丈夫だろう……と思っていた。どうして私の周りの大切な人たちは私に別れも告げず、私が恩返しする時間も与えてくれず、心の準備をする時間も残さずに逝ってしまうの! きっと私が死ぬときまで彼らを恨み続けることだろう。彼らはいつも、どんなにしんどくても自分のことは後回しで他人のことを考えていた、心配していた。
 彼の死後、私が毎日泣いてばかりで過ごしていたために天国に行けなかった彼を、5月14日向坊さんが途中で彼をつかまえて一緒に天国に連れて行ってくれたと信じている。だから今ごろは二人して、いやもっとたくさんの仲間たちと天国からこの社会を笑いながら見ているに違いない。私は死後、彼と、そして向坊さんやその他お世話になった方々、友人の数々と会えるのかな? 会えないとイヤだ! でも天国に行かなきゃ会えない。天国に行くためには私の命の炎が消えるまで罪を犯さず、一生懸命生きて社会に何らかの恩返しをすること……頭では分かっているけど今の私にはできそうにない。ただ日々を過ごしていくのが精一杯。
 あなたたちの教えてくれたこと、残したものを、いつの日か次の人たちに引き継いでいけたらと思います。今まで本当にありがとうございました。自らが一生懸命に生きることで、その大切さを言葉で以上に伝えてくれましたね。命の最後まで一生懸命に生きたあなたたちに敬意をもってありがとうございます。そしてお疲れ様でした。合掌

M.I.(名前をひらがなにして新しい私として生きていけるように考えています)



 向坊さん本当にお疲れさまでした 

レベルC6B2、痛みあり、受傷27年目、療護施設入所

 私はN.I.といいます。今から27年も前の夏、海に飛び込み、首の骨を折り、脊髄を損傷し、首から下が麻痺となりました。
 そんな中、たまたま読んだ読売新聞に向坊さんの記事が掲載されており、しばらく考えてお手紙を出してみようと思い、手紙を出しました。今からもう10年以上も前のことです。新聞とかは10年に1度ぐらいしか読まないのに、たまたま手元にあった新聞に目を通しますと、そこにはけい損になり、海岸の家で一人暮しをなされている向坊さんのことが掲載されており、驚くというよりも興味を持った私は手紙を書くようになるのです。
 手紙の返事はヘルパーをなされている方からで、本人は越冬のため、フイリピンへ行かれているとのこと。こんなに寒いのにと思いましたが、フイリピンは暑いとのことで、ご帰国なされた向坊さんにお会いしに若松まで行ったところ、至って質素な生活をなされており、小さい家の部屋にはベッドが置かれ、あとはパソコン、FAX 、プリンター、電話、TV、ビデオデッキなどが所狭しとあり、それを上手に使って生活なされ、全国のみんなと交流なされているのだなあと思いました。
 別館の車椅子練習場は広く、遠くから来た人を泊める宿泊施設もあり、外には玄界灘が広がっていました。寝室の窓を開けるとベッドに寝た状態で千畳敷が見え、それだからこそ、ここの土地へ家を建てられたのだなあと思いました。寝たままで海が見えるなんて贅沢(ぜいたく)この上ないのです。でも、今は近くにいろんな建物ができ、景観もずいぶん悪くなりました。私は向坊さんが亡くなられるまで3度か4度行きましたが、昼食はいつもうどんで、うどんが好きだったようです。
 一度Kさんとご一緒に海岸の砂の中で1泊した際、お風呂に入れてもらいましたが、決して贅沢(ぜいたく)といえるものではなく、質素そのものでした。このまま何十年も生き続けられ、けい損のみんなに生きる希望と喜びを与え続けられたらと思っていた矢先の逝去でした。母の日、私はK.H.ちゃんのお母さんからFAXをもらい、その事実を知りました。長いようで短いとも思える67歳の生涯でした。
 今回の「はがき通信」を読んでいるとみんな実名で書いているので、お世話になった分、私も書かなくてはと思い、書いてみました。「はがき通信」がこのまま終わってしまうと、病院に入院していたり、施設へ入所していたり、重度でパソコンが扱えない人が嘆きますので、まだまだ継続されることを嘆願し、向坊さんのご冥福をお祈りいたします。
 読者のみなさまさようなら。合掌

福岡県:N.I.



 独居と転落 


 残暑お見舞い申し上げます。
 皆さん、ぬっかなたあ。どがんしおんさっでしょうか。さて、今回は藤川さんのご所望に従って、方言(佐賀弁)で書いてみゅうかにゃあ。お聞き苦しかことでっしょうが、ちーっとの間、お付き合いしてくんしゃい。
 こおつと、私はなたあ、この五月から、嬉野市営ふれあい住宅で一人暮らし(ヘルパーさんは一日一、二時間)に踏み切りましたとばい。52歳からの遅ーか船出ですばってん、まーだまーだ人生はこれからですたい。これも「はがき通信」をはじめ先輩諸氏の経験談と叱咤勉励(しったべんれい)のおかげばんた。バリアフリーのぴしゃいした新築じゃっけん、住み心地はよかよー。お近くにお越しの節はいっぺん遊びに寄ってくんしゃい。
 もう10年ぐらい前から嬉野町(現嬉野市)に要望ばくりかえしてきたとやいどん、よーよ聞き届けてもろうたとよ。やっぱい何事も諦めたらいかんねー。実家では家族とちーっと確執もあって窮屈に暮らしとったばってん、ここでは誰に遠慮することもなく、友達やら何やら呼びほうだいたいね。
 あいどん「好事魔多し」の譬(たと)え通り、るんるん気分で暮らしとったある日(ちょうど亀田のタイトルマッチの始まった頃やった)、私は配食サービス(日に一度)の弁当ば肴(さかな)にして、焼酎のお湯割りで晩酌ばすましてさ、ほろ酔いかげんで扇風機の向きば変えようとしよったら、ありゃーっ、ぞーたんのごと、上体のぐらい傾いてしもうて、左のアームレストから横倒れになってしもうたとよ。今までにも何回かあったけどさ、そん時は家族に助け起こしてもらいよったけん、あんまい深刻に考えちゃおらんやったと。しかしここではだーれもおらん。いくら呼んでも隣の部屋の人にさえ聴こえんらしか。何しろ新築の分厚い窓やっけん密閉性の強かし、テレビの音も高うしとったけんね。
 いーっときは手で床ば突っ張って身体ば支えとったけど、だーんだん頭に血の昇ってきて、生命の危険さえ感じ始めたとよ。そいけん清水の舞台から飛び降りるごたっ気持ちで身体ごと床に倒れこんでさ、そのままフローリングの板張りにゴローンて仰向けに寝転がったと。ただし足はベルトで止めとったけん、ねじれて足首がひっかかったまま変ちくりんな格好でさー。
 こいで何とか一段落と思うたとも束の間、今度はクーラーと扇風機が点けっ放しやったけん、床からしんしんと冷えてきてねー、これじゃあ風邪ひくばいと思うた。倒れた扇風機もそのままじゃ発熱して火事になるかもしれん。そこで手ばめちゃくちゃに伸ばして何とかスイッチば切るのに小一時間かかったやろう。それから電動リフターの鉄柱にぶら下げとったバスタオルと膝掛けもたぐり寄せて、むき出しになっとった腹と首にかけるとにまた小一時間。あいどん、そのままじーっとしとったら尻の褥瘡痕(じょくそうあと)がまた悪化するやろうけん、ときどき左右の肘を床に突っ張って片尻ずつ(気持ちばかい)浮かしたさー(そいでもその後やっぱい悪化して今でも付け替えしよる。両肘も赤く腫(は)れていっときは痛かったー)。
 こきゃんしてあくる朝まで12時間、転がっとった。途中で小便は五回ばっかい垂れ流したいね。ヘルパーさんが来るのは10時半。そいまでとても待てん。幸い隣のおばさんがベランダに出てきた気配ば感じて、ここを先途と「おーい! おーい!」て呼んだぎい、よーよ気づいてくれてねー、救いの女神様に見えたとよ。そして介護支援センターに電話してもろうて、保健婦と職員三人がかりで抱えてベッドに戻してもろうて着替えさせてもろたとよ。やれやれじゃったー。
 それにしてん不思議なこつのある。ほとんど一睡もできん状況の中でさ、一時頃から五時頃までの記憶のなかと。深夜の相変わらずくだらん通販番組をやっとるなーと思うとったら、いつのまにか早朝のワイドショーに変わっとったとよ。その間つん寝とったとやろか? そがん覚えはなかけどなあ……。どっちにしても時間が早く経ってくれて大助かりやった。天のお恵みやったかもしれんね。
 胸のベルトは電動車いすのオプションで付いちゃおったけど、10cm幅もありマジックテープで止めるタイプやったけん、自分一人では着脱できんでほとんど使いをらんやった(あいどん、これを教訓に拾うた犬の散歩紐(ひも)<薄型>を利用して簡易なのば作ったよ)。また私は電話類が嫌いなもんやけん、携帯電話は持っとらんもん。仮に首からぶら下げとったとしても、床に仰向けの体勢でかけるとは難しかったろうねー。藤川さんは「(株)安全センター」の緊急通報システムというとば利用しとるらしかけど、私も何か考えんばならんやろうかにゃー。皆さんもお気をつけてくんしゃい。お次、どなたかまた方言シリーズに挑戦してみらんですか。

佐賀県:T.N.

このページの先頭へもどる  次ページへ進む

line

HOME ホームページ MAIL ご意見ご要望